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嘘の始まりを教えて
Chap.1 Sec.5
しおりを挟む気もそぞろに夜の舞踏会へと参加した。
巻かれた薄いコルセットが、胃を押し付けるように体に負担をかけるせいで、集中して考えることができない。毎度のことだが、主催者から勧められるままに男性の手を取って、いつものように音楽に合わせドレスの裾を揺らしていた。
子孫について話すわりには、わたしの父はなぜか婚姻を強く推してこないため、相手を強制されるようなことは、まだない。しかし、わたしの持つ貴族としての価値に惹かれるのか、周囲からは、しばしば婚姻相手として求められることがあった。
人前であれば、付き合いで会話くらいはする。テラスで二人きりになりかけたときは、逃げ出してしまったが……表立って「好きなひとがいるから無理よ!」などと子供じみたことは言っていない。
知らない令息と、表面的にでも親しくできない理由のひとつが——ルネが付き添いだから。
ほかの令嬢と違って、舞踏会のわたしの付き添いは男性のルネがしている。なぜ目付けがルネで成り立っているのか。それは、ルネが〈黄金のろば〉の出身だから。そんな理由で認められているらしい。
それについて詳しく父に聞いたことはない。ルネから「立派な使用人となるための寄宿学校——と思ってくださいませ」そんなふうに説明を受けている。令嬢が通う修道院の寄宿学校と同じで、そこの出身であれば、絶大な信頼があると解釈している。
——つまり、わたしのダンスの相手は、ルネの采配なのだ。主催者や周囲からの声掛けに応えて、ルネが認めた者が宛てがわれている。
この事実が、いつも胸を締めつける。
コルセットの圧迫も相まって食欲はなくなり、踊るときですら泣きそうになった。
(ルネは、わたしがこのひとと結ばれることを望んでるの——?)
握られた手は、違和感しか生まない。
長らくダンスのパートナーとして重ねてきた彼の長い指先と違って、見知らぬひとの指はわたしの肌には馴染まない。体に回された手も、密着する胴も、ひどくよそよそしい。
——こんな相手に、いつか身を捧げるために、わたしは純潔を守っているのか。
悲しみのなかに、昏い絶望を覚える。
舞踏会について友人と語り合うとき、「ロマンティックな恋がしたいわ!」と熱く話す友人たちを後目に、わたしはいつも、すでに始まっている悲劇の恋を憂いている。
舞踏会でも、ダンスの相手に彼を重ねては、小さな裏切りに胸を痛めていた。
ただ、今日ばかりは。
悲しみを嘆くよりも、彼の秘密をどう探ろうか——思案することのほうに、頭のほとんどが使われていたから。
無意識なダンスは普段よりもスムーズで、優雅に見えていたらしい。帰りの馬車で、彼にそう指摘された。
「お嬢様も、ようやく舞踏会に慣れてきたということでございましょうか」
斜め前で、唇を曲げてみせる彼の顔をうかがう。地下室で見た冷たい色はわずかもなく、見間違いだったと思えてくる。
「……ルネさんに褒めてもらえるなんて、光栄だわ」
彼の立場が高くなってからは、人前できちんと敬称をつけている。気が抜けて昔のようにルネと呼んでしまうことも多いけれど、外ではありえない。わたしは〈ルネ〉は名前のつもりで長年を過ごしてきたのだけど……周囲は家名だとでも思っているに違いない。誰も彼の名前など確かめないから、ルネが家名としてまかり通っている。
考えることが多すぎて、ぎこちない返しをしたわたしに、彼は肩をすくめるような仕草をした。
「おや? 私は常日頃から、お嬢様をお褒めしているつもりでございますが」
そのセリフには、咎める意味で小さく上目遣いを返す。
「ルネさんが褒めるときは、わたしが言い負かされたり、嘘に失敗したり……恥ずかしいときだわ」
「お嬢様は素直でいらっしゃいますからね」
「ばか正直と言っているように聞こえる……」
「正直は美徳でございます」
「……そうかしら」
「ええ。——私は、素直なお嬢様をお慕いしております」
花がほころぶみたいに、ふわりと微笑む。
グレーの目を細め、口角を持ち上げて、優しく——愛しげに。
ギリシャ神話のヒュラスのごとく、見た者を一瞬で魅入らせてしまうような。
この笑顔が、いつか別の女性のものになってしまうならば——閉じこめてしまいたい思いに駆られる。父が隠す宝石のように。稞石のまま、誰かを飾るジュエリーとなる前に。
「……ありがとう」
恥ずかしさと、その下にゆらめく複雑な想い。
すべてを呑み込んで、短い言葉だけを返した。
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