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囚われの蝶々
Chap.2 Sec.7
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「続きをお望みでございましたら、お部屋の鍵を——今宵は、掛けずに」
屋敷への到着と同時に、最後に囁かれた言葉。
脳裏にこびりついた誘惑の声が、ベッドに入ったはずのわたしの体を起こして、ドアの前へと誘っていた。
鍵は、差し込んだまま。施錠された状態のドアを、じっと見つめている。
開錠するべきではない。分かっている。分かっているのに——指だけで長く弄ばれた体は、奥からしたたる欲のせいで、彼の優しい声の残響に囚われている。
(違うのよ、あれは演技なのよ)
〈優しいルネ〉は幻想だと、自分に強く言い聞かせてみるが……どうしても振り払えない。共に過ごした時間は長く、思い出は多すぎる。——恋しい。優しくわたしを見つめる淡い色の眼が、恋しくてたまらない。
——でも、もし今、あの〈優しいルネ〉に抱かれたら。
きっと、堕ちてしまう。
「……しっかりしなさい」
自分に向けて、強く唱えた。
鼓舞してくれるひとは、もういない。
ここで錠を外してしまえば、彼を受け入れることになる。
ルネはスペアキーを持っているのだから、本当は施錠に意味などない。つまり開錠は、わたしの意思で、今の彼を迎え入れることを意味する。わたしを大切に思ってくれていた彼ではなく、偽物の〈優しいルネ〉を。
——そんなこと、あってはならない。欲望と恋しさに負けてしまうなど、堕落と同じだ。気高さを失ったら、わたしはわたしじゃなくなる。記憶に残る、彼への無垢な想いも——殺すことになる。
深く息を吸って、吐き出した。
静寂に通る決意の音が、体に残る熱を冷ましていく。
ドアから、目を離そうとした。
離すつもりだった。
意志は強いはずだった——が、
かた、と。
静謐を壊すような、かすかな音が耳に届き。見つめていたドアの、ドアノブが。王様の整えられた片髭のような、それが、わずかだけ動いた。
見た目には、ほとんど変わらない。爪の先ほどだけ下がったドアノブは、施錠のための金具に引っかかり、止まったが——ほどなくして戻った。
厚すぎるドアは、彼の気配を伝えてくれない。いま向かい立つのが、恐ろしい目つきの悪魔なのか、それとも優しい瞳の天使なのか。どちらであっても、ひとではない。恋焦がれたひとではない。
——でも、そこにいるのに——そう思った瞬間、居ても立っても居られず、鍵を回していた。しかし、ドアは開かれない。待っても開かれないドアを、みずからの手で押し開けた。ドアの前に彼は居らず、廊下に足を踏み出して左右に目を回すと、少し先に彼の姿を見つけた。
「ルネっ……」
名を呼ぶと、まるで分かっていたみたいに、彼はゆるりと振り返った。
感情の見えない微笑で、わたしと視線を重ねて、
「——お嬢様、ご用でございますか?」
巡回の使用人みたいな、ありふれたセリフ。突き放すようにも、促すようにも感じられた。
「……わたし……眠れなく、て……」
「……子守唄に、ピアノでもお弾きいたしましょうか?」
提案は、偽りだ。
いくら防音といえども、ピアノの音がまったく響かないなんてことはない。両親が不在でもないのに、こんな時間に演奏してくれるはずがない。
——だから、これは。
部屋に招き入れる気なのかどうか、わたしに、問いかけている。
「……どういたしましょう?」
尋ねる瞳は、穏やかにわたしを見つめている。
よく知る色で、恋しい想いをくすぐる、優しいまなざし。
この世のどんな誘惑よりも、わたしを捕らえて離さない。——けれども、
——お嬢様、凛と咲く花のように、気高く生きられますよう。
恋心の残骸が、胸を刺す。
無意識に近い動きで、唇が答えていた。
「……いいえ、要らないわ。……もう一度、ベッドに入ってみるから。……おやすみなさい」
ゆれる意志を、支えてくれるのは——思い出のひと。
そのひとと同じ顔で、向かいの青年は少しだけ目を細めた。睨んだわけではなく、どこか眩しげに。
「——おやすみなさいませ、お嬢様」
慈しむようなその声は、どこまでが演技なのか。
すべてが、夢のような夜だった。
屋敷への到着と同時に、最後に囁かれた言葉。
脳裏にこびりついた誘惑の声が、ベッドに入ったはずのわたしの体を起こして、ドアの前へと誘っていた。
鍵は、差し込んだまま。施錠された状態のドアを、じっと見つめている。
開錠するべきではない。分かっている。分かっているのに——指だけで長く弄ばれた体は、奥からしたたる欲のせいで、彼の優しい声の残響に囚われている。
(違うのよ、あれは演技なのよ)
〈優しいルネ〉は幻想だと、自分に強く言い聞かせてみるが……どうしても振り払えない。共に過ごした時間は長く、思い出は多すぎる。——恋しい。優しくわたしを見つめる淡い色の眼が、恋しくてたまらない。
——でも、もし今、あの〈優しいルネ〉に抱かれたら。
きっと、堕ちてしまう。
「……しっかりしなさい」
自分に向けて、強く唱えた。
鼓舞してくれるひとは、もういない。
ここで錠を外してしまえば、彼を受け入れることになる。
ルネはスペアキーを持っているのだから、本当は施錠に意味などない。つまり開錠は、わたしの意思で、今の彼を迎え入れることを意味する。わたしを大切に思ってくれていた彼ではなく、偽物の〈優しいルネ〉を。
——そんなこと、あってはならない。欲望と恋しさに負けてしまうなど、堕落と同じだ。気高さを失ったら、わたしはわたしじゃなくなる。記憶に残る、彼への無垢な想いも——殺すことになる。
深く息を吸って、吐き出した。
静寂に通る決意の音が、体に残る熱を冷ましていく。
ドアから、目を離そうとした。
離すつもりだった。
意志は強いはずだった——が、
かた、と。
静謐を壊すような、かすかな音が耳に届き。見つめていたドアの、ドアノブが。王様の整えられた片髭のような、それが、わずかだけ動いた。
見た目には、ほとんど変わらない。爪の先ほどだけ下がったドアノブは、施錠のための金具に引っかかり、止まったが——ほどなくして戻った。
厚すぎるドアは、彼の気配を伝えてくれない。いま向かい立つのが、恐ろしい目つきの悪魔なのか、それとも優しい瞳の天使なのか。どちらであっても、ひとではない。恋焦がれたひとではない。
——でも、そこにいるのに——そう思った瞬間、居ても立っても居られず、鍵を回していた。しかし、ドアは開かれない。待っても開かれないドアを、みずからの手で押し開けた。ドアの前に彼は居らず、廊下に足を踏み出して左右に目を回すと、少し先に彼の姿を見つけた。
「ルネっ……」
名を呼ぶと、まるで分かっていたみたいに、彼はゆるりと振り返った。
感情の見えない微笑で、わたしと視線を重ねて、
「——お嬢様、ご用でございますか?」
巡回の使用人みたいな、ありふれたセリフ。突き放すようにも、促すようにも感じられた。
「……わたし……眠れなく、て……」
「……子守唄に、ピアノでもお弾きいたしましょうか?」
提案は、偽りだ。
いくら防音といえども、ピアノの音がまったく響かないなんてことはない。両親が不在でもないのに、こんな時間に演奏してくれるはずがない。
——だから、これは。
部屋に招き入れる気なのかどうか、わたしに、問いかけている。
「……どういたしましょう?」
尋ねる瞳は、穏やかにわたしを見つめている。
よく知る色で、恋しい想いをくすぐる、優しいまなざし。
この世のどんな誘惑よりも、わたしを捕らえて離さない。——けれども、
——お嬢様、凛と咲く花のように、気高く生きられますよう。
恋心の残骸が、胸を刺す。
無意識に近い動きで、唇が答えていた。
「……いいえ、要らないわ。……もう一度、ベッドに入ってみるから。……おやすみなさい」
ゆれる意志を、支えてくれるのは——思い出のひと。
そのひとと同じ顔で、向かいの青年は少しだけ目を細めた。睨んだわけではなく、どこか眩しげに。
「——おやすみなさいませ、お嬢様」
慈しむようなその声は、どこまでが演技なのか。
すべてが、夢のような夜だった。
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