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真実が終わりを告げる
Chap.6 Sec.5
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書斎に戻ったルネを待っていたのはゲランだった。
主人の机より一回り小さな机に向かって、名義変更のための書類を粛々と手掛けていたが、ルネの入室に腰を上げた。
「お嬢……彼女の様子はいかがでしたでしょうか?」
「取り立てて何も。今は素直に食事を取っているでしょうね」
「ああ、お食事を召されるよう、ルネ様が仰ってくださったのですね?」
安堵の表情を浮かべて問うたゲランに、ルネは何も返さなかった。
机に着き、書類を確認して署名のための新しい名を綴っていく。ルネも名前として残るが、ファーストネームは実父の名を継いだルロワとなる。正統な血を誇示するための、個人を示すというよりは家を示すためのもの。
名前などはどうでもいい。ただ、そんなどうでもいいことを、彼女は悩みに悩んで熱を出していたな……と。ルネの脳裏に遠い記憶が浮かんだ。
「……ゲランさん」
「はい、なんでございましょう?」
「——あなた、遺書をまだ持っているでしょう?」
ぴくり。ゲランの目許が引きつったのを、ルネは見ていない。書類に目を走らせながら、淡々と言葉のみ送った。
「自分が処分する、と言ってくれましたが……その様子だと処分していませんね。出してもらえませんか?」
ルネの指示に、ゲランは緩慢な動作で懐の隠しポケットから封筒を取り出した。主人の机に置くことなく握りしめていると、ルネが目を上げて笑った。
「ああ、本当に持っていましたか」
「……ルネ様、差し出口と存じますが……これは、お嬢様にお見せするべきかと……」
「あなたが、俺に物を言える立場ですか?」
笑顔に隠された怒りが、ゲランの罪悪感を刺した。
長く仕えた主人を犠牲にして、自分ひとり何も失うことなく存えた事実は重い。
ゲランは、入れ替わりを知っていた。
ゲランは革命以前よりこの屋敷に仕えている。妾とその子を頻繁に招いていた昔の当主は、当時の使用人のなかで最年少だったゲランに見張りを言いつけていた。
正妻の子が妾の子に悪さをしたら、報告するように。
しかし、それは杞憂にすぎなかった。彼らはとても——仲がよかったから。
親の思惑がなければ、二人はうまくやれていたのではないか。
入れ替わりなど起こらず、彼らの子である彼と彼女は、なんの障害もなく結ばれたのではないか——?
そんな未来は仮定でしかなく、本来のかたちであったなら目の前の彼らは生まれなかったかも知れない。
それでも、その思いが、ゲランの胸の罪悪感を制して口を開かせた。
「遺書を……お見せするべきでございます。このままでは疑いが霽れません……貴方様に怨みの矛先が向かいます。それでは、あまりに……」
「『貴方の父君は、残る貴方を見捨てて妻と共に逝くことを願った』——そう伝えろと?」
薄い影のような眼が、微笑みの唇の上で鋭くゲランを睨め上げた。
その迫力に、ゲランの記憶から亡霊が重なる。ルネと初めて顔を合わせたときの既視感を、克明に思い出した。
眼が——うりふたつ。
脈々と受け継がれる血には、父親の呪いが色濃く表出している。
まるで父の魂が憑依したかのように、ルネの微笑みは恐ろしく変化した。
「あの父親は娘をなんだと思っていたんだろうな? 妻のことしか頭になかったのか? あれだけ娘を心配していたというのに……すべて見せかけだったのか」
「……いいえ、お嬢様のことも、大切に思われておりました……」
「ならその遺書はなんだ? つらつらとした罪の告白と、妻のことしか書いていない。命をもってして罪を償い、妻と共に——望みはそれだけだ。遺される娘には一言も触れていない。それを……彼女に突きつけて何になる?」
「……貴方様への疑いは消えます」
「代わりに絶望を与えるのか。ただでさえ女に生まれたと引け目がある彼女へ、君は父の意識のなかに一欠片もなかったらしいと……そう告げることが、彼女をどう追い詰めるかも分からないのに?」
「…………しかし、」
「疑われても構わない。俺への疑念で生きる執着が湧くなら、疑わせておけばいい」
言葉を続けられなくなったゲランは、封筒を要求するルネの手に、ためらいながらも差し出した。
受け取ったルネは、机上のオイルランプにひらりとかざす。熱を逃がすためガラス上部は空いている。高温を帯びた封筒の先が黒く焦げ……火のついたそれを、空になっていたグラスへと無造作に差し入れた。炭色に崩れ落ちる残骸が、グラスに残っていたわずかな水を黒く染めた。
見つめるゲランは、何もできない。
ルネは書類に目を戻して、動けないゲランへと言葉を掛けた。
「世間の様子を見て、ほとぼりが冷めたら解放すればいい。それか——それよりも早く、権力のある王子が救ってくれるかも知れないな。彼なら外相の父に付随して国外にもたびたび出ている。国外に伝の多い人間だから……誰の目も届かない場所へと攫ってくれるだろう」
——貴方はそれでよろしいのですか。
そう問うことすら、できなかった。
主人の机より一回り小さな机に向かって、名義変更のための書類を粛々と手掛けていたが、ルネの入室に腰を上げた。
「お嬢……彼女の様子はいかがでしたでしょうか?」
「取り立てて何も。今は素直に食事を取っているでしょうね」
「ああ、お食事を召されるよう、ルネ様が仰ってくださったのですね?」
安堵の表情を浮かべて問うたゲランに、ルネは何も返さなかった。
机に着き、書類を確認して署名のための新しい名を綴っていく。ルネも名前として残るが、ファーストネームは実父の名を継いだルロワとなる。正統な血を誇示するための、個人を示すというよりは家を示すためのもの。
名前などはどうでもいい。ただ、そんなどうでもいいことを、彼女は悩みに悩んで熱を出していたな……と。ルネの脳裏に遠い記憶が浮かんだ。
「……ゲランさん」
「はい、なんでございましょう?」
「——あなた、遺書をまだ持っているでしょう?」
ぴくり。ゲランの目許が引きつったのを、ルネは見ていない。書類に目を走らせながら、淡々と言葉のみ送った。
「自分が処分する、と言ってくれましたが……その様子だと処分していませんね。出してもらえませんか?」
ルネの指示に、ゲランは緩慢な動作で懐の隠しポケットから封筒を取り出した。主人の机に置くことなく握りしめていると、ルネが目を上げて笑った。
「ああ、本当に持っていましたか」
「……ルネ様、差し出口と存じますが……これは、お嬢様にお見せするべきかと……」
「あなたが、俺に物を言える立場ですか?」
笑顔に隠された怒りが、ゲランの罪悪感を刺した。
長く仕えた主人を犠牲にして、自分ひとり何も失うことなく存えた事実は重い。
ゲランは、入れ替わりを知っていた。
ゲランは革命以前よりこの屋敷に仕えている。妾とその子を頻繁に招いていた昔の当主は、当時の使用人のなかで最年少だったゲランに見張りを言いつけていた。
正妻の子が妾の子に悪さをしたら、報告するように。
しかし、それは杞憂にすぎなかった。彼らはとても——仲がよかったから。
親の思惑がなければ、二人はうまくやれていたのではないか。
入れ替わりなど起こらず、彼らの子である彼と彼女は、なんの障害もなく結ばれたのではないか——?
そんな未来は仮定でしかなく、本来のかたちであったなら目の前の彼らは生まれなかったかも知れない。
それでも、その思いが、ゲランの胸の罪悪感を制して口を開かせた。
「遺書を……お見せするべきでございます。このままでは疑いが霽れません……貴方様に怨みの矛先が向かいます。それでは、あまりに……」
「『貴方の父君は、残る貴方を見捨てて妻と共に逝くことを願った』——そう伝えろと?」
薄い影のような眼が、微笑みの唇の上で鋭くゲランを睨め上げた。
その迫力に、ゲランの記憶から亡霊が重なる。ルネと初めて顔を合わせたときの既視感を、克明に思い出した。
眼が——うりふたつ。
脈々と受け継がれる血には、父親の呪いが色濃く表出している。
まるで父の魂が憑依したかのように、ルネの微笑みは恐ろしく変化した。
「あの父親は娘をなんだと思っていたんだろうな? 妻のことしか頭になかったのか? あれだけ娘を心配していたというのに……すべて見せかけだったのか」
「……いいえ、お嬢様のことも、大切に思われておりました……」
「ならその遺書はなんだ? つらつらとした罪の告白と、妻のことしか書いていない。命をもってして罪を償い、妻と共に——望みはそれだけだ。遺される娘には一言も触れていない。それを……彼女に突きつけて何になる?」
「……貴方様への疑いは消えます」
「代わりに絶望を与えるのか。ただでさえ女に生まれたと引け目がある彼女へ、君は父の意識のなかに一欠片もなかったらしいと……そう告げることが、彼女をどう追い詰めるかも分からないのに?」
「…………しかし、」
「疑われても構わない。俺への疑念で生きる執着が湧くなら、疑わせておけばいい」
言葉を続けられなくなったゲランは、封筒を要求するルネの手に、ためらいながらも差し出した。
受け取ったルネは、机上のオイルランプにひらりとかざす。熱を逃がすためガラス上部は空いている。高温を帯びた封筒の先が黒く焦げ……火のついたそれを、空になっていたグラスへと無造作に差し入れた。炭色に崩れ落ちる残骸が、グラスに残っていたわずかな水を黒く染めた。
見つめるゲランは、何もできない。
ルネは書類に目を戻して、動けないゲランへと言葉を掛けた。
「世間の様子を見て、ほとぼりが冷めたら解放すればいい。それか——それよりも早く、権力のある王子が救ってくれるかも知れないな。彼なら外相の父に付随して国外にもたびたび出ている。国外に伝の多い人間だから……誰の目も届かない場所へと攫ってくれるだろう」
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