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シ=オン
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朝の光は、屋根裏の小さな窓から斜めに射し込み、埃を舞わせていた。
レイ=リーンは古びた毛布にくるまったまま、ぼんやりとその光の粒を目で追う。
胸の内に、昨夜の記憶がじわじわと蘇る。冷たい石畳、荒い手、掠れた甘い声。あの路地裏の情事は、あまりにも鮮烈で——けれど、こうして目を覚ませば、ただの夢だった気もしてしまう。
髪を手ぐしで梳きながら、錆びた鏡に向かう。映るのはいつもの自分だ。唇に指先を触れ、思わず小さく笑ってしまう。夢ならば、それはそれでよかったのかもしれない。どうせ、あんな流れ者の傭兵、二度と顔を合わせることもない。気まぐれな獣みたいな男だった。
「……さ、仕事仕事」
着替えを済ませ、軋む階段を降りると、酒場はまだ人の気配もなく、静まり返っていた。
頭から離れない昨夜を思い返しながら、カウンターへと歩いていき——
「おはよう、花盛りのレイ=リーン」
不意にかけられた声に、レイ=リーンの体は飛び上がった。
カウンター席に、あの男が座っていた。銀糸のような長い髪。昨夜、月光を呑んだあの色艶と寸分違わぬ輝きが、今は陽の光に柔らかく照らされている。ただ、あの蒼緑の瞳は夜の妖艶さを潜め、淡くくすんだ闇を湛えていた。
「あなたっ……」
言葉が喉の奥に引っかかる。
「よく眠れたか?」
微笑む顔は、昨夜の獣のようなものではない。だが、その笑みの奥に、あのときと同じ底の見えない何かが潜んでいるのを感じた。
「ど、どうしてここに……」
レイ=リーンの戸惑いをよそに、男は立ち上がり、すっと距離を詰める。
陽光を背にしたその姿は、昨夜の闇の中とはまた違う形で、肌が粟立つほど艶めいて見えた。
薄く笑みを浮かべたまま、指先がレイ=リーンの顎を軽く掬い上げる。
「あんたに、会いに」
密やかな声に、肌が震える。唇が触れるか触れないかの距離。ふっと掛かる吐息が、昨日の熱を呼び起こす。
「……っ」
レイ=リーンの反応を見て、男は喉を鳴らして笑った。
「酒場の女にしちゃ、ずいぶんと可愛い反応するな」
声は明るい。まるで友人に冗談を言うように。
昨夜の艶やかな獣の顔は消え、陽気な旅人の仮面を被ったかのようだった。
そのとき、酒場の扉が開く音が響いた。
「……レイ=リーン、起きてたか」
入ってきたのは、店主のミ=ドゥだった。
五十を越えた中肉中背の男。灰色がかった髪に、深く刻まれた眉間の皺が気難しい印象を与える。
いつも客の喧騒など意に介さず、淡々と手を動かし続ける職人気質の男だ。
ミ=ドゥは近くの別宅に住んでいるが、朝市に行ってきたのか、肩に下げた袋からは何やら仕入れた品が覗いていた。
レイ=リーンは慌ててフードの男との距離を取る。
「ち、違うの、ミ=ドゥさん、このひと勝手に……!」
訳も分からず言い訳を探していると、ミ=ドゥは男を一瞥し、口を開いた。
「……ああ。そいつが、うちの用心棒をやりたいらしい。傭兵あがりで、賃金はハ=キラの半分でいいって言うしな、雇った」
レイ=リーンは耳を疑った。
「な……うちの、用心棒……?」
フードの男はふっと笑い、手袋を外してレイ=リーンに手を差し出した。
いつの間にかフードを被り、その瞳は影の奥から覗いている。
「シ=オンだ」
名乗ったその手は、昨夜レイ=リーンの肌を熱く撫でた、あの手だ。
掌の荒さ、指先の硬さを、記憶は鮮明に呼び起こす。
視線を逸らそうとしたが、影を湛えた瞳はレイ=リーンを強く捕らえて離さない。
おずおずと指先を差し出せば、シ=オンはその手を掴み、甲にそっとくちづける。
「よろしく、レイ=リーン」
騎士が姫に誓うような、丁寧で優雅な所作。けれど、くちづけの奥から覗く瞳は、昨日の路地裏と同じ、闇の獣のように細まっていた。
その瞳に見つめられ、レイ=リーンの胸はまた高鳴り、背筋に冷たい汗が伝う。
二度と会うことはないと思った男は、甘く危うい艶を纏って、レイ=リーンの日常の中へと入り込んできた。
レイ=リーンは古びた毛布にくるまったまま、ぼんやりとその光の粒を目で追う。
胸の内に、昨夜の記憶がじわじわと蘇る。冷たい石畳、荒い手、掠れた甘い声。あの路地裏の情事は、あまりにも鮮烈で——けれど、こうして目を覚ませば、ただの夢だった気もしてしまう。
髪を手ぐしで梳きながら、錆びた鏡に向かう。映るのはいつもの自分だ。唇に指先を触れ、思わず小さく笑ってしまう。夢ならば、それはそれでよかったのかもしれない。どうせ、あんな流れ者の傭兵、二度と顔を合わせることもない。気まぐれな獣みたいな男だった。
「……さ、仕事仕事」
着替えを済ませ、軋む階段を降りると、酒場はまだ人の気配もなく、静まり返っていた。
頭から離れない昨夜を思い返しながら、カウンターへと歩いていき——
「おはよう、花盛りのレイ=リーン」
不意にかけられた声に、レイ=リーンの体は飛び上がった。
カウンター席に、あの男が座っていた。銀糸のような長い髪。昨夜、月光を呑んだあの色艶と寸分違わぬ輝きが、今は陽の光に柔らかく照らされている。ただ、あの蒼緑の瞳は夜の妖艶さを潜め、淡くくすんだ闇を湛えていた。
「あなたっ……」
言葉が喉の奥に引っかかる。
「よく眠れたか?」
微笑む顔は、昨夜の獣のようなものではない。だが、その笑みの奥に、あのときと同じ底の見えない何かが潜んでいるのを感じた。
「ど、どうしてここに……」
レイ=リーンの戸惑いをよそに、男は立ち上がり、すっと距離を詰める。
陽光を背にしたその姿は、昨夜の闇の中とはまた違う形で、肌が粟立つほど艶めいて見えた。
薄く笑みを浮かべたまま、指先がレイ=リーンの顎を軽く掬い上げる。
「あんたに、会いに」
密やかな声に、肌が震える。唇が触れるか触れないかの距離。ふっと掛かる吐息が、昨日の熱を呼び起こす。
「……っ」
レイ=リーンの反応を見て、男は喉を鳴らして笑った。
「酒場の女にしちゃ、ずいぶんと可愛い反応するな」
声は明るい。まるで友人に冗談を言うように。
昨夜の艶やかな獣の顔は消え、陽気な旅人の仮面を被ったかのようだった。
そのとき、酒場の扉が開く音が響いた。
「……レイ=リーン、起きてたか」
入ってきたのは、店主のミ=ドゥだった。
五十を越えた中肉中背の男。灰色がかった髪に、深く刻まれた眉間の皺が気難しい印象を与える。
いつも客の喧騒など意に介さず、淡々と手を動かし続ける職人気質の男だ。
ミ=ドゥは近くの別宅に住んでいるが、朝市に行ってきたのか、肩に下げた袋からは何やら仕入れた品が覗いていた。
レイ=リーンは慌ててフードの男との距離を取る。
「ち、違うの、ミ=ドゥさん、このひと勝手に……!」
訳も分からず言い訳を探していると、ミ=ドゥは男を一瞥し、口を開いた。
「……ああ。そいつが、うちの用心棒をやりたいらしい。傭兵あがりで、賃金はハ=キラの半分でいいって言うしな、雇った」
レイ=リーンは耳を疑った。
「な……うちの、用心棒……?」
フードの男はふっと笑い、手袋を外してレイ=リーンに手を差し出した。
いつの間にかフードを被り、その瞳は影の奥から覗いている。
「シ=オンだ」
名乗ったその手は、昨夜レイ=リーンの肌を熱く撫でた、あの手だ。
掌の荒さ、指先の硬さを、記憶は鮮明に呼び起こす。
視線を逸らそうとしたが、影を湛えた瞳はレイ=リーンを強く捕らえて離さない。
おずおずと指先を差し出せば、シ=オンはその手を掴み、甲にそっとくちづける。
「よろしく、レイ=リーン」
騎士が姫に誓うような、丁寧で優雅な所作。けれど、くちづけの奥から覗く瞳は、昨日の路地裏と同じ、闇の獣のように細まっていた。
その瞳に見つめられ、レイ=リーンの胸はまた高鳴り、背筋に冷たい汗が伝う。
二度と会うことはないと思った男は、甘く危うい艶を纏って、レイ=リーンの日常の中へと入り込んできた。
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