虎狩りと鴨撃ちの輪舞(ロンド) ~奈佐原高校チェス同好会~

奈倉柊

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第一部  白:佐々木航太  黒:鷺沢悠  20xx年9月x日

2:白の好戦的な展開を、黒が受け入れる(2.f4 exf4)

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 大宮が僕に、口説いて来いよ、と言った時、僕はちょっと動揺した。
 単なる勧誘の意味なのは解っている。それでも、口説く、というワードチョイスはどうしても別の意味を想像させた。
 鷺沢を口説く。
 それも今日、あのまずい手を見られた直後に。
 チェス部は無理だよ、と、まったく残念そうに聞こえない声で言った奴を。
 あの、金色の目をした奴を。
 あれはまるで、人形の目に嵌め込まれた色ガラスみたいだった。
 舐めたら蜂蜜の味がしそうだった。
 いやいや、他人の目を見て舐めたいと思ったらそれはだいぶアレだ。
 でも僕はもう絡め捕られたように、あれから鷺沢のことばかり考えている。

 あんたのこんなミス、と鷺沢は言った。つまり鷺沢は(嬉しいことに)僕のチェスの実力は把握してるけど、(残念なことに)僕の名前は知らないわけだ。
 ちなみに僕らが座り込んでいる廊下は、吹奏楽部の面々が窓を開け放って外に向かって音出しをする、まさにその廊下だ。僕らのすぐ両サイドで色んな楽器が思い思いに練習する、というか廊下に吹奏楽部がずらっと並んでいるその列が、僕らの座り込んでいるところだけ途切れる、と言ったほうが正しい(大丈夫、僕らは死んでも空気は読まないから)。
 僕が鷺沢の名前を知ったのは、チェス部で廊下試合をやり始めて数週間が経った頃だ。
 確か新緑のきれいな五月だった。ニキとスピードチェスブリッツをやってた僕のすぐ後ろで鷺沢がクラリネットを吹いた、その音を初めて聴いた時のこと。
 低音からゆっくりと上昇していく丁寧なロングトーン。
 珍しいくらい安定した、深みと艶のある音色。
 一瞬で惹きつけられて、そのまま一気に持って行かれた。
 何の曲でもない。ただの音出しだ。だけど半音上がるごとに色彩が変わるような、もう既に耳から聞こえるのじゃなく身体に直接吹き込まれてくるような、そんな音だった。
「航太?」
 ニキに名前を呼ばれてはっとした。
「え? あ、何だっけ」
「いやお前、今どこ行ってた?」
 ちょっと異世界に転生してた、と答えて僕はニキの方に顔を寄せた。「それより後ろのクラリネット、誰か知ってる?」
 ニキは盤上から目だけ上げて僕の後ろを見て、あれがクラリネットかどうかは知らないけど、お前の後ろにいんのはさぎさわだね、と言った。
「さぎさわ?」
「同じクラスの奴だけど、どうかした?」
「いや、すごい巧い。高校生レベルじゃないっていうか」
「そんなのよく解るね」
 小中、僕もやってたから。全然下手だったけどクラリネットの音が好きで、プロの演奏とかかなり聴いてたから。
「リード、何使ってんだろ」
「へ?」
「いや何でもない。それより続き、ってクロック動いてんじゃん!」
 つまり僕は対局時計チェスクロックを止めるのも忘れてクラリネットのロングトーンに聴き入っていたわけで。
 僕がクロックを止めていないということはつまり僕の持ち時間が減り続けているわけで、ニキは代わりに止めてくれるなんて親切なことは当然していなくて、つまり、僕の持ち時間が減っていくのを喜んで待っていた。
 残り四秒。
 投了するギブアップ、と僕が言うと、了解、とニキは応えて今さらクロックを止め、僕に向かって余裕のチェシャ猫スマイルを浮かべた。

 初めて鷺沢と会話をしたその翌日から、僕は昼休みに時々(さすがに毎日ではない)ニキのクラスに通うようになった。
 当然、鷺沢目当てだ。
 さすがに毎日ではない、というのは自分のクラスに友達いない奴だと思われそうだったからで、僕の自制心の働きでは全然ない。
 とは言っても口説くとか勧誘するとかじゃなくて、ニキとハンデ戦をやりながら時々、眺めるだけ(勧誘のための作戦会議だと大宮には言ってある。信じた目つきじゃなかったけど、大宮の目つきはそもそも何ひとつ信じない目つきだから気にしない)。
 鷺沢はいつも、生徒会長タイプの頭良さそうな奴とセットで行動してるっぽかった。
 と言ってもあまり喋らないし、まったく笑わない。
 でも、あの柔らかそうな赤褐色の髪が好きだ。
 口説いて来い、と大宮が言ったその一言のせいで、僕のそれまでの興味は既にして、単なる興味ではなくなっていた。
 最初がクラリネットで、次がチェス。
 それから少し空気を含んだ繊細な声とか。
 榛色の物憂げな眼差しとか。
 珊瑚色の柔らかそうな唇とか。
 無理なことは知ってる。鷺沢のスクールライフは明らかに部活メインだ。
 チェス指せる奴を同好会に誘って断られた理由が部活なんだから、恋愛に誘ったって結果は同じと言うか、もっと無理だろう。チェス部は無理だよ、って言うよりきついトーンで、それは無理だよ、と言われて終了。
 そういうことを考えていたら、いつの間にか盤上に残っているのはキングとポーンだけになっていた(僕はそういう、退屈なのに気が抜けない終盤戦エンドゲームが苦手だ)。
 鷺沢は例の生徒会長っぽい奴と二人で教室の隅で喋ってて、けど斜め下から視線が動いてない。会長が話しかけてる言葉に時々、床の一点を見つめたまま小さく首を振っている。「あの鷺沢と一緒にいる奴って、どういう奴」
「鮎川凛久りく。クソ面白くもない優等生」
 ニキの反応が明らかにネガティブ。
「親がどっかの音大の教授かなんかで、だからつるんでんじゃないの。元は別のグループにいたのに、最近ずっと二人でくっついてんね」
「あいつも吹部?」
「や、違う、と思うけど」
 ふうん。面白くない。
 と思ったら、急に鷺沢が目を泳がせて、それで僕を見つけた。というか僕と目が合った。
 驚いたことに鷺沢は会長に一言二言なんか言って、会長がちょっと待てよ、とか言ってるのを無視してまっすぐ僕らの方に歩いてきた。
「また何かやらかしたの」
 机の上の盤面をちらっと見るなり、無表情に冷めた声で鷺沢は言った。
「あ、いや、これはクイーン落ちのハンデ戦だし、こいつ今日ぜんぜん集中してなかったから。普段は俺なんか敵になんないくらい指せるんだよ、航太は」
 何故かニキが慌てて言い訳する。
「それは知ってるけど。コータ?」
「あ、こいつ佐々木航太っての。2組の。良かったらちょっとやってみる?」
 ニキが呑気にそう提案するのを聞いた瞬間、背中に電流が走った。
 だって、やりたい。鷺沢と。
 鷺沢となら、絶対いいゲームができる。
 いやそれは、と断りかけた鷺沢に、ニキが言った。
「チェスやるより鮎川と喋ってる方がいい?」
 その途端、鷺沢の視線がすっと斜め下に逃げた。
「休みあと十五分だし、早指しでどう?」
 そう言ってみると鷺沢は斜め下に逃げたまま、早指しはできない、と答えた。
 やっぱり指せる奴だ(早指しやると深く考えないクセがつくっていう説あるから)。
「じゃあそのうち、あらためて?」
 百七十パーセント断られると思いながら言ってみたら鷺沢は、来週月曜の夜七時で良かったら、と妙に具体的な日時を指定してきた。
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