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第五章:次元エラーの重なり
21:新たな次元エラー
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「錯覚?」
消えてしまった金魚。見間違いだろうか。
はじめから、そんなものはいなかったのかもしれない。
「あやめ」
じっとグラスを見つめていると、次郎君に声をかけられる。
「あ、えと、次郎君は、今の見えました?」
「うん。見たよ、あやめの錯覚じゃない」
彼の声には、さっきまでは感じなかった張り詰めた調子があった。
「次元エラーかもしれない」
「金魚が?」
次郎君がうなずく。ただならぬ出来事が起きてしまった。そっと辺りの様子を伺ってみるけれど、幸い他に気がついた人はいないようだ。わたしは食べかけのワッフルを強引に口へとねじ込む。ほのぼのと三人でランチを楽しんでいる場合じゃない。
「大学へ戻った方がよくないですか?」
「うん、ごめん。あやめ」
「大丈夫です。もう買い出しも終わっているし」
次郎君が本格的に寝入ってしまったジュゼットを抱き上げた。カフェはお昼時が近づいて少しずつ混み合ってきている。でも、金魚以外には何事もない。
「次元エラーって、そんなに頻繁に起きるんですか?」
だとしたら一郎さんや次郎君の負担は考えていたより重いのかもしれない。
「ううん、そんなに頻発することじゃないよ」
次郎君の横顔が心配そうに通りの人波を見ていた。
「エラーが重なるなんて、体験したことない」
「ジュゼットと金魚ですか?」
「そう」
この世界の法則を破って現れるもの。次元エラー。それが重なって起きている。
にわか仕込みのわたしには、エラーの重複がどれほど特異なことなのかわからないけれど、次郎君にはよほどのことなのだろうか。
お会計を済ませてカフェを出ても、世界は何も変わっていない。私たちの危惧をあざ笑うように、いつも通りに見える。
「とにかく兄貴に相談かな。金魚はすぐに消えたみたいだけど。もしかすると、兄貴なら管理局から何か示唆されているかもしれないし……」
「一郎さんに?」
「うん。俺よりもずっと管理局に関わっているみたいだから」
「そうなんですね」
管理局にも、優先順位のようなものがあるのかな。
そういえば一郎さんは今朝、すこし嫌な夢を見たと言っていたけど、関係があるのかもしれない。
次郎君がジュゼットを抱いたまま、大学へと戻るために通りをあるき始める。わたしも遅れないように隣に並んだ。
お化け屋敷の準備を進めている友達に血糊の材料を届けて、わたしはすぐに要塞へ向かった。友達には悪いけど、助手の体験学習で午後から用事があると嘘をついて、学院祭の準備からはそのまま離脱。
すこし不安そうに見えた次郎君の横顔が気になって仕方ない。
猛烈な勢いで要塞へ戻ると、エレベーターの前で次郎君に追いついた。
「あやめ? 学院祭の準備は?」
「体験学習ですることがあるって言って、抜けてきました。金魚のことが気になったので」
「そっか。次元エラーはあやめにも他人事じゃなかったね」
「はい」
ジュゼットは次郎君の腕に抱えられながら、むにゃむにゃと気持ち良さそうに眠っている。まだ目覚める気配はない。近場とはいえわりと歩き回ったし、ジュゼットには刺激の連続だったようだから、無理もないか。お人形さんのように可愛い寝顔。エレベーターの中で、白いほっぺたをふにふにと指でつついてしまう。
一郎さん専用――というか、時任家の別宅とも言えるフロアにつくと、次郎君はリビングルームへ入る前にジュゼットの部屋へ寄って、彼女をベッドまで運んだ。
(……そういえば)
リビングルームでは、瞳子さんと一郎さんが二人きりのはず。突然入っていっても大丈夫だろうかという下世話な心配をするわたしを置き去りに、次郎君は何の合図もなく扉を開く。
「ただいま」
わたしは一呼吸遅れて顔を出す。
「ただいま戻りました」
室内を見て、取り越し苦労だったかとそっと息をつく。大きなソファセットで、およそ恋人同士とは思えない距離感で、二人が座っている。いつもの光景だけど、ちょっと残念だ。
「おかえりさない」
「おかえり。えらく早かったな」
二人に迎えられながら、わたしと次郎君もリビングルームへ入る。テレビボードの横の棚には、今朝ジュゼットが連れて行くとだだをこねていたピンクのカバのぬいぐるみが鎮座していた。彼女が起きたら、また小さな腕に抱きしめられるのかなと思いつつ、ソファに座る。
「兄貴、実はーー」
早速、カフェでの出来事を話そうとする次郎君が、不自然に声をのみこんだ。ん? と思ってわたしは次郎君の視線の先を見る。
「わ!?」
思わず声が出た。
一郎さんの端正なお顔に不似合いな痣ができている。よく見ると少し左頬が腫れているような。
「どうしたの? 兄貴、その顔」
「凶暴な彼女に殴られました」
「え?」
「正当防衛でしょ!」
瞳子さんが憮然とした顔で訴える。正当防衛。まさか一郎さん、本当に強行手段に出ちゃったのかな。わたしはすぐに思い至ったけど、次郎君は唖然と二人を見比べている。
消えてしまった金魚。見間違いだろうか。
はじめから、そんなものはいなかったのかもしれない。
「あやめ」
じっとグラスを見つめていると、次郎君に声をかけられる。
「あ、えと、次郎君は、今の見えました?」
「うん。見たよ、あやめの錯覚じゃない」
彼の声には、さっきまでは感じなかった張り詰めた調子があった。
「次元エラーかもしれない」
「金魚が?」
次郎君がうなずく。ただならぬ出来事が起きてしまった。そっと辺りの様子を伺ってみるけれど、幸い他に気がついた人はいないようだ。わたしは食べかけのワッフルを強引に口へとねじ込む。ほのぼのと三人でランチを楽しんでいる場合じゃない。
「大学へ戻った方がよくないですか?」
「うん、ごめん。あやめ」
「大丈夫です。もう買い出しも終わっているし」
次郎君が本格的に寝入ってしまったジュゼットを抱き上げた。カフェはお昼時が近づいて少しずつ混み合ってきている。でも、金魚以外には何事もない。
「次元エラーって、そんなに頻繁に起きるんですか?」
だとしたら一郎さんや次郎君の負担は考えていたより重いのかもしれない。
「ううん、そんなに頻発することじゃないよ」
次郎君の横顔が心配そうに通りの人波を見ていた。
「エラーが重なるなんて、体験したことない」
「ジュゼットと金魚ですか?」
「そう」
この世界の法則を破って現れるもの。次元エラー。それが重なって起きている。
にわか仕込みのわたしには、エラーの重複がどれほど特異なことなのかわからないけれど、次郎君にはよほどのことなのだろうか。
お会計を済ませてカフェを出ても、世界は何も変わっていない。私たちの危惧をあざ笑うように、いつも通りに見える。
「とにかく兄貴に相談かな。金魚はすぐに消えたみたいだけど。もしかすると、兄貴なら管理局から何か示唆されているかもしれないし……」
「一郎さんに?」
「うん。俺よりもずっと管理局に関わっているみたいだから」
「そうなんですね」
管理局にも、優先順位のようなものがあるのかな。
そういえば一郎さんは今朝、すこし嫌な夢を見たと言っていたけど、関係があるのかもしれない。
次郎君がジュゼットを抱いたまま、大学へと戻るために通りをあるき始める。わたしも遅れないように隣に並んだ。
お化け屋敷の準備を進めている友達に血糊の材料を届けて、わたしはすぐに要塞へ向かった。友達には悪いけど、助手の体験学習で午後から用事があると嘘をついて、学院祭の準備からはそのまま離脱。
すこし不安そうに見えた次郎君の横顔が気になって仕方ない。
猛烈な勢いで要塞へ戻ると、エレベーターの前で次郎君に追いついた。
「あやめ? 学院祭の準備は?」
「体験学習ですることがあるって言って、抜けてきました。金魚のことが気になったので」
「そっか。次元エラーはあやめにも他人事じゃなかったね」
「はい」
ジュゼットは次郎君の腕に抱えられながら、むにゃむにゃと気持ち良さそうに眠っている。まだ目覚める気配はない。近場とはいえわりと歩き回ったし、ジュゼットには刺激の連続だったようだから、無理もないか。お人形さんのように可愛い寝顔。エレベーターの中で、白いほっぺたをふにふにと指でつついてしまう。
一郎さん専用――というか、時任家の別宅とも言えるフロアにつくと、次郎君はリビングルームへ入る前にジュゼットの部屋へ寄って、彼女をベッドまで運んだ。
(……そういえば)
リビングルームでは、瞳子さんと一郎さんが二人きりのはず。突然入っていっても大丈夫だろうかという下世話な心配をするわたしを置き去りに、次郎君は何の合図もなく扉を開く。
「ただいま」
わたしは一呼吸遅れて顔を出す。
「ただいま戻りました」
室内を見て、取り越し苦労だったかとそっと息をつく。大きなソファセットで、およそ恋人同士とは思えない距離感で、二人が座っている。いつもの光景だけど、ちょっと残念だ。
「おかえりさない」
「おかえり。えらく早かったな」
二人に迎えられながら、わたしと次郎君もリビングルームへ入る。テレビボードの横の棚には、今朝ジュゼットが連れて行くとだだをこねていたピンクのカバのぬいぐるみが鎮座していた。彼女が起きたら、また小さな腕に抱きしめられるのかなと思いつつ、ソファに座る。
「兄貴、実はーー」
早速、カフェでの出来事を話そうとする次郎君が、不自然に声をのみこんだ。ん? と思ってわたしは次郎君の視線の先を見る。
「わ!?」
思わず声が出た。
一郎さんの端正なお顔に不似合いな痣ができている。よく見ると少し左頬が腫れているような。
「どうしたの? 兄貴、その顔」
「凶暴な彼女に殴られました」
「え?」
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