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第六章:カウントダウンを刻む世界
29:狂いだす世界
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次郎君は戻ってくるという一郎さんの言葉を信じて、わたしは学院祭の手伝いに戻ることにした。こんな時は独りで考え込んでしまうより、友達とわいわい騒いでいる方が気が紛れる。
お化け屋敷の準備に加わり、仲の良い友人を見つけてすぐにその輪に入った。
「あやめ、課題は終わったの? 体験学習は順調?」
脚立にまたがり、壁を覆うように張り巡らせた大きな黒布を抑えていると、同じように布の端を支えている友達の里香が労ってくれる。
わたしとしてはただのラッキーだけど、事情を知らない学生の間では、体験学習は地獄だという噂が広がっている。じつは羨望からの嫉妬が生まれないように、一郎さんが情報を操作しているのだ。
たしかに著名な時任教授とお近づきになれる機会を羨む学生は出てきそうである。
余計な軋轢を避けるために、あらかじめ体験学習は過酷であると云う印象操作がされている。おかげ様でわたしは大学内で労わられるばかりだった。
少し後ろめたい気もするけれど、記憶が復元していく衝撃はたしかに過酷だった。
そう言い訳をしながら、わたしは体験学習が地獄の日々であるというシナリオを守っている。
「大変ではあるけど、今のところ、なんとかなっているみたい」
「そっか。でも、なんかテンション低くなってない? 大丈夫?」
里香が眉根を寄せて、しげしげとわたしを観察している。もしかして次郎君を案じる気持ちが、顔に出てしまっているんだろうか。気遣いさせるのも心苦しいので、笑ってみせた。
「そうかな? 自分ではいつも通りだけど……」
「ほんとに? 何か手伝えることがあったら言ってよね」
「うん。ありがとう」
次郎君とお付き合いを始めたことも、当然打ち明けたりはできない。とりあえず体験学習の課題疲れという印象を演じておこう。
「学祭の準備も無理しなくていいんだよ?」
「あ、うん。でも息抜きになるし」
里香は「ならいいんだけど」と笑う。
「あやめは大変かもしれないけどさ。憧れの時任先輩とも関われるチャンスだと思って頑張るしかないね」
「うん! じつはそれをちょっと心の支えにしてる」
仲良くしている友達は、わたしが入学当初から次郎君に憧れていることを知っている。気遣われるばかりなのも心苦しいので、ここぞとばかりに調子を合わせて笑った。
その時。
「きゃあ!」と悲鳴が響く。
驚いて目を向けると、血のりを手にしていた友達が、尻もちをついていた。勢いでこぼれた血糊が、あたりに偽物の血だまりを作っている。お化け屋敷の準備とはいえ、血糊まみれになった友達の様子は、充分にホラーだった。
わたしは黒い布から手を離して、タオルを手にとるとすぐに友達に駆け寄った。
「園子、大丈夫?」
「もう! びっくした!」
友人の園子は大きく肩を上下させる。
「え?」
「血糊の中に目玉が浮いてたんだよ! もう! 誰のいたずら? 模型君のパーツ?」
園子はぶちまけた血糊の中に目玉を探す。わたしもタオルでこぼれた血糊を拭きながら床の上を見た。集まってきた友達も、床を拭きながら探してくれる。
でも、目玉らしきものは転がっていない。
模型君を見ると、両目とも揃っている。
「あれ? ごめん、見間違いかな?」
園子は血糊だらけになった服のまま、戸惑っている。ぶちまけたものを綺麗にする友達に「ごめん」と謝りながら、首をかしげていた。
床が綺麗になると、園子は片づけを手伝ってくれた友達に感謝しながら、着替えるために更衣室へ向かう。
(勘違いであんなに驚くかな)
目玉は見つからない。それらしき物も見当たらない。
見間違いだったらしいと納得する友達に同調しながらも、わたしは落ち着かない。
カフェでみた赤い金魚のことを思い出す。
園子の見たものが、次元エラーでないと言い切れるだろうか。
嫌な予感をぬぐえず、教室の中をじっくりと見まわしてしまう。これといって不審なことは起きていないけど。
(そんなに頻繁にお目にかかることでもないか)
ホッと肩の力を抜いた時、背後で声があがる。
「わぁ!」
「うお!?」
血糊を拭きとったタオルや雑巾をまとめてバケツに突っ込み、手洗い場までもっていこうとしていた二人組の男子の声だった。振り返って、わたしも自分の目を疑った。
「!?」
開かれた教室の向こう側に広がる、似つかわしくない光景。
絶句するわたし達の耳に、くぇくぇくぇっ、げっげっげ、と不似合いな動物の鳴き声が聞こえる。
ゲコゲコゲコ、ぐぇぐぇぐぇっ。
教室の向こう側に続くのはジャングルだった。
思考がまとまらない。予想外の展開に、誰も身動きできない。
ガサガサと覆い茂った葉陰から何かが飛び出してくる。
「うわっ!」
「きゃっ!」
咄嗟に戸口にいた友達が扉を閉めた。不似合いな鳴き声が遮断されて、お化け屋敷を再現しつつある教室内に、不気味な沈黙が満ちる。
「……何かのどっきり?」
わたしも友達と同じ感想だ。
一瞬の出来事だったけれど、教室の向こう側がジャングルだなんてあり得ない。
何だったんだろう、今のジャングルは。
ハリボテ感のないリアルさが脳裏に刻まれている。
まるで異世界への扉みたいだった。
「みんな、見たよな」
「うん」
誰ともなく、教室の扉を見つめてしまう。戸口にいる男子が、大きく深呼吸をしてから再び扉に手をかける。
「開けるの? 危なくない?」
「何か入ってくるかも」
不安の声があがったけれど、戸口にいる男子は苦笑する。
「でも、どのみち、ここからしか帰れないだろ」
奥の扉はお化け屋敷の設定で封鎖が完了していた。窓もベニヤ板と布で覆いつくしている。開けられないことはないけれど、どこから出ても、外は同じようにジャングルが続いているのかもしれない。
「もう一度、開けてみるぞ」
勢いよく扉が開かれた。
「あれ?」
誰ともなくそんな声が出る。
見慣れた廊下が続いている。みんなが戸口に駆け寄って外を見るけれど、いつもどおりの校舎だった。何も変わっていない。
「え? 錯覚?」
隣で里香が目をぱちくりとさせている。
さっきのジャングルはどこにも見当たらない。
「プロジェクションマッピングみたいな仕掛けとか?」
壁面映像だとしても、この距離感であのリアリティはすごすぎるし、そんな装置も見当たらない。
「俺、スマホで動画とっておけばよかった!」
男子が言うけれど、わたしは跡形もなく消えたことにホッとする。もし次元エラーだったら、世間に拡散されることは避けたいはず。
リアルなジャングル。
どうなっているのだろう。混乱していた友達が、教室を出たり入ったりしてたしかめている。わたしも辺りをたしかめてみた。
扉の開閉を繰り返しても、出入りをしても、もう何も起こらない。
「何だったんだろう?」
みんなは怖いとか不思議とか言いつつも、落ち着きを取り戻し始めている。
それでも、さすがにこのまま準備を続けるわけにはいかない。嘘みたいな体験だけど、みんなで大学側に事情を話して、今日の学院祭の準備は解散になった。
(一郎さんや次郎君にも報せておかなくちゃ)
お茶でもして帰ろうという友達の誘いを断って、わたしは要塞へと戻ることにした。
お化け屋敷の準備に加わり、仲の良い友人を見つけてすぐにその輪に入った。
「あやめ、課題は終わったの? 体験学習は順調?」
脚立にまたがり、壁を覆うように張り巡らせた大きな黒布を抑えていると、同じように布の端を支えている友達の里香が労ってくれる。
わたしとしてはただのラッキーだけど、事情を知らない学生の間では、体験学習は地獄だという噂が広がっている。じつは羨望からの嫉妬が生まれないように、一郎さんが情報を操作しているのだ。
たしかに著名な時任教授とお近づきになれる機会を羨む学生は出てきそうである。
余計な軋轢を避けるために、あらかじめ体験学習は過酷であると云う印象操作がされている。おかげ様でわたしは大学内で労わられるばかりだった。
少し後ろめたい気もするけれど、記憶が復元していく衝撃はたしかに過酷だった。
そう言い訳をしながら、わたしは体験学習が地獄の日々であるというシナリオを守っている。
「大変ではあるけど、今のところ、なんとかなっているみたい」
「そっか。でも、なんかテンション低くなってない? 大丈夫?」
里香が眉根を寄せて、しげしげとわたしを観察している。もしかして次郎君を案じる気持ちが、顔に出てしまっているんだろうか。気遣いさせるのも心苦しいので、笑ってみせた。
「そうかな? 自分ではいつも通りだけど……」
「ほんとに? 何か手伝えることがあったら言ってよね」
「うん。ありがとう」
次郎君とお付き合いを始めたことも、当然打ち明けたりはできない。とりあえず体験学習の課題疲れという印象を演じておこう。
「学祭の準備も無理しなくていいんだよ?」
「あ、うん。でも息抜きになるし」
里香は「ならいいんだけど」と笑う。
「あやめは大変かもしれないけどさ。憧れの時任先輩とも関われるチャンスだと思って頑張るしかないね」
「うん! じつはそれをちょっと心の支えにしてる」
仲良くしている友達は、わたしが入学当初から次郎君に憧れていることを知っている。気遣われるばかりなのも心苦しいので、ここぞとばかりに調子を合わせて笑った。
その時。
「きゃあ!」と悲鳴が響く。
驚いて目を向けると、血のりを手にしていた友達が、尻もちをついていた。勢いでこぼれた血糊が、あたりに偽物の血だまりを作っている。お化け屋敷の準備とはいえ、血糊まみれになった友達の様子は、充分にホラーだった。
わたしは黒い布から手を離して、タオルを手にとるとすぐに友達に駆け寄った。
「園子、大丈夫?」
「もう! びっくした!」
友人の園子は大きく肩を上下させる。
「え?」
「血糊の中に目玉が浮いてたんだよ! もう! 誰のいたずら? 模型君のパーツ?」
園子はぶちまけた血糊の中に目玉を探す。わたしもタオルでこぼれた血糊を拭きながら床の上を見た。集まってきた友達も、床を拭きながら探してくれる。
でも、目玉らしきものは転がっていない。
模型君を見ると、両目とも揃っている。
「あれ? ごめん、見間違いかな?」
園子は血糊だらけになった服のまま、戸惑っている。ぶちまけたものを綺麗にする友達に「ごめん」と謝りながら、首をかしげていた。
床が綺麗になると、園子は片づけを手伝ってくれた友達に感謝しながら、着替えるために更衣室へ向かう。
(勘違いであんなに驚くかな)
目玉は見つからない。それらしき物も見当たらない。
見間違いだったらしいと納得する友達に同調しながらも、わたしは落ち着かない。
カフェでみた赤い金魚のことを思い出す。
園子の見たものが、次元エラーでないと言い切れるだろうか。
嫌な予感をぬぐえず、教室の中をじっくりと見まわしてしまう。これといって不審なことは起きていないけど。
(そんなに頻繁にお目にかかることでもないか)
ホッと肩の力を抜いた時、背後で声があがる。
「わぁ!」
「うお!?」
血糊を拭きとったタオルや雑巾をまとめてバケツに突っ込み、手洗い場までもっていこうとしていた二人組の男子の声だった。振り返って、わたしも自分の目を疑った。
「!?」
開かれた教室の向こう側に広がる、似つかわしくない光景。
絶句するわたし達の耳に、くぇくぇくぇっ、げっげっげ、と不似合いな動物の鳴き声が聞こえる。
ゲコゲコゲコ、ぐぇぐぇぐぇっ。
教室の向こう側に続くのはジャングルだった。
思考がまとまらない。予想外の展開に、誰も身動きできない。
ガサガサと覆い茂った葉陰から何かが飛び出してくる。
「うわっ!」
「きゃっ!」
咄嗟に戸口にいた友達が扉を閉めた。不似合いな鳴き声が遮断されて、お化け屋敷を再現しつつある教室内に、不気味な沈黙が満ちる。
「……何かのどっきり?」
わたしも友達と同じ感想だ。
一瞬の出来事だったけれど、教室の向こう側がジャングルだなんてあり得ない。
何だったんだろう、今のジャングルは。
ハリボテ感のないリアルさが脳裏に刻まれている。
まるで異世界への扉みたいだった。
「みんな、見たよな」
「うん」
誰ともなく、教室の扉を見つめてしまう。戸口にいる男子が、大きく深呼吸をしてから再び扉に手をかける。
「開けるの? 危なくない?」
「何か入ってくるかも」
不安の声があがったけれど、戸口にいる男子は苦笑する。
「でも、どのみち、ここからしか帰れないだろ」
奥の扉はお化け屋敷の設定で封鎖が完了していた。窓もベニヤ板と布で覆いつくしている。開けられないことはないけれど、どこから出ても、外は同じようにジャングルが続いているのかもしれない。
「もう一度、開けてみるぞ」
勢いよく扉が開かれた。
「あれ?」
誰ともなくそんな声が出る。
見慣れた廊下が続いている。みんなが戸口に駆け寄って外を見るけれど、いつもどおりの校舎だった。何も変わっていない。
「え? 錯覚?」
隣で里香が目をぱちくりとさせている。
さっきのジャングルはどこにも見当たらない。
「プロジェクションマッピングみたいな仕掛けとか?」
壁面映像だとしても、この距離感であのリアリティはすごすぎるし、そんな装置も見当たらない。
「俺、スマホで動画とっておけばよかった!」
男子が言うけれど、わたしは跡形もなく消えたことにホッとする。もし次元エラーだったら、世間に拡散されることは避けたいはず。
リアルなジャングル。
どうなっているのだろう。混乱していた友達が、教室を出たり入ったりしてたしかめている。わたしも辺りをたしかめてみた。
扉の開閉を繰り返しても、出入りをしても、もう何も起こらない。
「何だったんだろう?」
みんなは怖いとか不思議とか言いつつも、落ち着きを取り戻し始めている。
それでも、さすがにこのまま準備を続けるわけにはいかない。嘘みたいな体験だけど、みんなで大学側に事情を話して、今日の学院祭の準備は解散になった。
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