次元境界管理人 〜いつか夢の果てで会いましょう〜

長月京子

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第七章:再現される光景

33:なかったことにする意味

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「お嬢ちゃんらの馴れ初めはこんな感じやろ」

 中三の次郎君が笑っているのを見て、ほっと肩の力を抜いたわたしに、再びカバさんが声をかけてくる。

「え? 馴れ初めって?」

「次、行くで」

「次って? ちょっと! カバさんってば!」

 やることなすこと全て唐突だ。
 空間に飛び込むように姿を消すカバさんに、慌てて付いていく。

 次は見たことのない場所だった。黄昏時なのか、アスファルトに長い影が落ちている。立派な門構えの家の前で、スラッとした長身の人影が立っていた。次郎君とは違い、緩やかな癖のある髪。少し距離があるけど、目をこらすと一郎さんであることがわかった。でも、今とは何かが違う。

 違和感の正体がわからないまま眺めていると、門から続く住宅街の道を誰かが歩いてくる。
 見たことのある制服を着た人影。よく考えるとあれは夢の宮学院の中等部の制服なのだろう。

 やってくる中三の次郎君は、肩から大きな鞄を斜めがけしていた。
 まるでどこかに泊まり込んでいたみたいな大荷物。

「あ、もしかして」

 次郎君はようやく家出少年をやめたのかな。わたしの実家から帰って来たのかもしれない。

 そこまで考えて、わたしは一郎さんに感じた違和感を理解する。
 今より若いのだ。わたしの知っている一郎さんとは、少しだけ違う。

 ゆっくりと歩いて来る次郎君も、門に寄りかかるようにして立っている一郎さんに気づいたようだ。ピタリと足が止まる。

 しばらく時が止まったように、眺めている世界に動きがなくなった。次郎君が踵を返して逃げ出すのではないかと考えたわたしの気持ちは、杞憂に終わる。

 再び次郎君は歩き出した。
 まっすぐに迷いのない足取りで、一郎さんに向かって歩いて行く。

「おかえり、次郎」

 一郎さんの声は、とても自然だった。

「……ただいま」

 次郎君は俯いたまま肩を竦めている。すっと一郎さんが一歩近づいた。

「――気が済んだか」

 きっと全てお見通しの一郎さん。次郎君が弾かれたように顔をあげた。

「次郎が受け入れられないなら、俺は別にそれでもかまわない。何も知らなかった頃から、もう一度やり直せばいい。おまえは何も関わらず、普通に生きていくことができる」

「でも、親父は? なんて言ってる?」

「それで構わないって。後継には俺がいるから何も問題はないよ」

 何でもないことのように一郎さんは笑っている。次郎君は何も答えない。黄昏が深まり、じわじわと影が伸びていく。長い沈黙の後で次郎君が問いかけた。

「兄貴は怖くないの? 不安に思うことはなかった?」

「俺はこの力に感謝しかない」

「え?」

「俺はおまえと違って、物心ついた時には親父に叩き込まれていたからな。おかげでさほど反発も感じなかった。でも、次郎の場合は説明がいきなりだったよな。……だから、抵抗する気持ちもよくわかる。俺は次郎が戸惑って迷った時には、せめて選ぶ権利があれば良いなと思っていたよ」

「選ぶって、そんなことできるの?」

「そのために、親父もおまえにはギリギリまで打ち明けなかったんだろ」

「俺が受け入れなかったら、どうなるの?」

「……おまえに全て打ち明ける前に戻って、またそこからはじまるだろうな」

「やり直しってこと?」

「そうだな。――この数週間の出来事は、なかったことになる」

 ようやく経緯がわかった気がした。わたしが見てきたのは、次郎君が時任家の特殊な役割を知ってからの日々だったんだ。

 そりゃ、とつぜん夢につながる異次元の世界や管理局の話を打ちあけられた挙句、関わることを強制されたら、家出もしたくなるだろう。

「この数週間が、なかったことに……」

 次郎君がぎゅっと手を拳に握りしめた。

「それは嫌だな」

「え?」

「あやめに忘れられるのは、辛いかも……。俺、覚えとくって言ったし」

「おまえ――」

 次郎君の漏らした呟きに、一郎さんが吹き出した。

「何? もしかして初恋の君ができちゃったわけ? ついに? 次郎君に!?」

 一郎さんは腹を抱えて大笑いしている。次郎君は顔を真っ赤にして「そういう意味じゃない!」って叫んでいる。

「もしかしてお世話になった家の女の子? あやめちゃんって言うんだ?」

「だから、違うんだって、兄貴!」

 さっきまでのしんみりとした雰囲気が嘘のように騒ぐ兄弟。
 とても微笑ましいけれど。
 二人のやり取りを見ていたわたしまで、次郎君と同じように照れてしまう。

 どういうこと? 次郎君の初恋って、もしかしてわたしだった?

 いや、でもこれはカバさんの作ったイタズラの世界かもしれないし。黄昏の空を背景に、ふよふよと浮遊している場違いなピンクが視界を横切る。
 わたしは手を伸ばしてカバさんを捕まえた。

「カバさんはいったいわたしに何を見せたかったわけ? 何のイタズラ?」

「なんでやねん。イタズラってなんやねん。わしはお嬢ちゃんにジローの思い出したことを教えたっただけやで。善意の行いをイタズラって、ひどいやんか」

「だって、次郎君が思い出したって――、わたしの記憶にはないよ? 何もピンとこないし」

「そりゃ、なかったことにされてるからな」

「なかったことって、何のために?」

 この経緯をなかったことにして、いったい何の意味があるのだろう。
 次郎君は夢につながる異次元や管理局のことを知っている。だから、受け入れずにやり直したって事もないだろう。
 そもそもわたしと次郎君は、結局は大学で知り合ってしまうわけだし。
 中学時代のわたしと次郎君の出会いをなかったことにする意味がわからない。

「何のためかって、そんなん知らんし。イチローに聞いたらええやんか」

「一郎さんに?」

「これだけ世界を変更するには、それなりに理由があるやろな」

 カバさんの縫い付けられた顔が、ニタニタと笑みを浮かべた。まるで何かを面白がっているように見えてしまう。

「それなりの理由って……」

 言いかけて、わたしは一つの憶測を思い描いてしまう。

「あ……」

 ギクリと心が凍った。
 繰り返し夢に見る、真夏の光景。夢に現れる次郎君のそっくりさん。

 彼はカバさんの見せてくれた次郎君と良く似ている。
 わたしに繋がっている世界の断片。

「まさか」

 なかったことにされた経緯。
 繰り返し見る夢。鉄骨の落下事故。

「もしかして……」

 一郎さんが、過去をなかったことにするだけの理由。

「そんな――」

 次郎君は一郎さんの弟だ。あの事故をなかったことにしようと考えても、何の不思議もない。
 弟を救うために? あの後、次郎君のそっくりさんはどうなってしまったの? 

 片腕を失ってしまった? それとも――。

 ゾッと背筋を悪寒が走った。
 最悪の予感が全身をこわばらせる。

 過去を変更して、全てをなかったことにする理由。
 愕然と立ち尽くすわたしの肩を、カバさんが短い前足でポンポンと叩く。

「そろそろ戻ろか、お嬢ちゃん」
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