33 / 59
第七章:再現される光景
33:なかったことにする意味
しおりを挟む
「お嬢ちゃんらの馴れ初めはこんな感じやろ」
中三の次郎君が笑っているのを見て、ほっと肩の力を抜いたわたしに、再びカバさんが声をかけてくる。
「え? 馴れ初めって?」
「次、行くで」
「次って? ちょっと! カバさんってば!」
やることなすこと全て唐突だ。
空間に飛び込むように姿を消すカバさんに、慌てて付いていく。
次は見たことのない場所だった。黄昏時なのか、アスファルトに長い影が落ちている。立派な門構えの家の前で、スラッとした長身の人影が立っていた。次郎君とは違い、緩やかな癖のある髪。少し距離があるけど、目をこらすと一郎さんであることがわかった。でも、今とは何かが違う。
違和感の正体がわからないまま眺めていると、門から続く住宅街の道を誰かが歩いてくる。
見たことのある制服を着た人影。よく考えるとあれは夢の宮学院の中等部の制服なのだろう。
やってくる中三の次郎君は、肩から大きな鞄を斜めがけしていた。
まるでどこかに泊まり込んでいたみたいな大荷物。
「あ、もしかして」
次郎君はようやく家出少年をやめたのかな。わたしの実家から帰って来たのかもしれない。
そこまで考えて、わたしは一郎さんに感じた違和感を理解する。
今より若いのだ。わたしの知っている一郎さんとは、少しだけ違う。
ゆっくりと歩いて来る次郎君も、門に寄りかかるようにして立っている一郎さんに気づいたようだ。ピタリと足が止まる。
しばらく時が止まったように、眺めている世界に動きがなくなった。次郎君が踵を返して逃げ出すのではないかと考えたわたしの気持ちは、杞憂に終わる。
再び次郎君は歩き出した。
まっすぐに迷いのない足取りで、一郎さんに向かって歩いて行く。
「おかえり、次郎」
一郎さんの声は、とても自然だった。
「……ただいま」
次郎君は俯いたまま肩を竦めている。すっと一郎さんが一歩近づいた。
「――気が済んだか」
きっと全てお見通しの一郎さん。次郎君が弾かれたように顔をあげた。
「次郎が受け入れられないなら、俺は別にそれでもかまわない。何も知らなかった頃から、もう一度やり直せばいい。おまえは何も関わらず、普通に生きていくことができる」
「でも、親父は? なんて言ってる?」
「それで構わないって。後継には俺がいるから何も問題はないよ」
何でもないことのように一郎さんは笑っている。次郎君は何も答えない。黄昏が深まり、じわじわと影が伸びていく。長い沈黙の後で次郎君が問いかけた。
「兄貴は怖くないの? 不安に思うことはなかった?」
「俺はこの力に感謝しかない」
「え?」
「俺はおまえと違って、物心ついた時には親父に叩き込まれていたからな。おかげでさほど反発も感じなかった。でも、次郎の場合は説明がいきなりだったよな。……だから、抵抗する気持ちもよくわかる。俺は次郎が戸惑って迷った時には、せめて選ぶ権利があれば良いなと思っていたよ」
「選ぶって、そんなことできるの?」
「そのために、親父もおまえにはギリギリまで打ち明けなかったんだろ」
「俺が受け入れなかったら、どうなるの?」
「……おまえに全て打ち明ける前に戻って、またそこからはじまるだろうな」
「やり直しってこと?」
「そうだな。――この数週間の出来事は、なかったことになる」
ようやく経緯がわかった気がした。わたしが見てきたのは、次郎君が時任家の特殊な役割を知ってからの日々だったんだ。
そりゃ、とつぜん夢につながる異次元の世界や管理局の話を打ちあけられた挙句、関わることを強制されたら、家出もしたくなるだろう。
「この数週間が、なかったことに……」
次郎君がぎゅっと手を拳に握りしめた。
「それは嫌だな」
「え?」
「あやめに忘れられるのは、辛いかも……。俺、覚えとくって言ったし」
「おまえ――」
次郎君の漏らした呟きに、一郎さんが吹き出した。
「何? もしかして初恋の君ができちゃったわけ? ついに? 次郎君に!?」
一郎さんは腹を抱えて大笑いしている。次郎君は顔を真っ赤にして「そういう意味じゃない!」って叫んでいる。
「もしかしてお世話になった家の女の子? あやめちゃんって言うんだ?」
「だから、違うんだって、兄貴!」
さっきまでのしんみりとした雰囲気が嘘のように騒ぐ兄弟。
とても微笑ましいけれど。
二人のやり取りを見ていたわたしまで、次郎君と同じように照れてしまう。
どういうこと? 次郎君の初恋って、もしかしてわたしだった?
いや、でもこれはカバさんの作ったイタズラの世界かもしれないし。黄昏の空を背景に、ふよふよと浮遊している場違いなピンクが視界を横切る。
わたしは手を伸ばしてカバさんを捕まえた。
「カバさんはいったいわたしに何を見せたかったわけ? 何のイタズラ?」
「なんでやねん。イタズラってなんやねん。わしはお嬢ちゃんにジローの思い出したことを教えたっただけやで。善意の行いをイタズラって、ひどいやんか」
「だって、次郎君が思い出したって――、わたしの記憶にはないよ? 何もピンとこないし」
「そりゃ、なかったことにされてるからな」
「なかったことって、何のために?」
この経緯をなかったことにして、いったい何の意味があるのだろう。
次郎君は夢につながる異次元や管理局のことを知っている。だから、受け入れずにやり直したって事もないだろう。
そもそもわたしと次郎君は、結局は大学で知り合ってしまうわけだし。
中学時代のわたしと次郎君の出会いをなかったことにする意味がわからない。
「何のためかって、そんなん知らんし。イチローに聞いたらええやんか」
「一郎さんに?」
「これだけ世界を変更するには、それなりに理由があるやろな」
カバさんの縫い付けられた顔が、ニタニタと笑みを浮かべた。まるで何かを面白がっているように見えてしまう。
「それなりの理由って……」
言いかけて、わたしは一つの憶測を思い描いてしまう。
「あ……」
ギクリと心が凍った。
繰り返し夢に見る、真夏の光景。夢に現れる次郎君のそっくりさん。
彼はカバさんの見せてくれた次郎君と良く似ている。
わたしに繋がっている世界の断片。
「まさか」
なかったことにされた経緯。
繰り返し見る夢。鉄骨の落下事故。
「もしかして……」
一郎さんが、過去をなかったことにするだけの理由。
「そんな――」
次郎君は一郎さんの弟だ。あの事故をなかったことにしようと考えても、何の不思議もない。
弟を救うために? あの後、次郎君のそっくりさんはどうなってしまったの?
片腕を失ってしまった? それとも――。
ゾッと背筋を悪寒が走った。
最悪の予感が全身をこわばらせる。
過去を変更して、全てをなかったことにする理由。
愕然と立ち尽くすわたしの肩を、カバさんが短い前足でポンポンと叩く。
「そろそろ戻ろか、お嬢ちゃん」
中三の次郎君が笑っているのを見て、ほっと肩の力を抜いたわたしに、再びカバさんが声をかけてくる。
「え? 馴れ初めって?」
「次、行くで」
「次って? ちょっと! カバさんってば!」
やることなすこと全て唐突だ。
空間に飛び込むように姿を消すカバさんに、慌てて付いていく。
次は見たことのない場所だった。黄昏時なのか、アスファルトに長い影が落ちている。立派な門構えの家の前で、スラッとした長身の人影が立っていた。次郎君とは違い、緩やかな癖のある髪。少し距離があるけど、目をこらすと一郎さんであることがわかった。でも、今とは何かが違う。
違和感の正体がわからないまま眺めていると、門から続く住宅街の道を誰かが歩いてくる。
見たことのある制服を着た人影。よく考えるとあれは夢の宮学院の中等部の制服なのだろう。
やってくる中三の次郎君は、肩から大きな鞄を斜めがけしていた。
まるでどこかに泊まり込んでいたみたいな大荷物。
「あ、もしかして」
次郎君はようやく家出少年をやめたのかな。わたしの実家から帰って来たのかもしれない。
そこまで考えて、わたしは一郎さんに感じた違和感を理解する。
今より若いのだ。わたしの知っている一郎さんとは、少しだけ違う。
ゆっくりと歩いて来る次郎君も、門に寄りかかるようにして立っている一郎さんに気づいたようだ。ピタリと足が止まる。
しばらく時が止まったように、眺めている世界に動きがなくなった。次郎君が踵を返して逃げ出すのではないかと考えたわたしの気持ちは、杞憂に終わる。
再び次郎君は歩き出した。
まっすぐに迷いのない足取りで、一郎さんに向かって歩いて行く。
「おかえり、次郎」
一郎さんの声は、とても自然だった。
「……ただいま」
次郎君は俯いたまま肩を竦めている。すっと一郎さんが一歩近づいた。
「――気が済んだか」
きっと全てお見通しの一郎さん。次郎君が弾かれたように顔をあげた。
「次郎が受け入れられないなら、俺は別にそれでもかまわない。何も知らなかった頃から、もう一度やり直せばいい。おまえは何も関わらず、普通に生きていくことができる」
「でも、親父は? なんて言ってる?」
「それで構わないって。後継には俺がいるから何も問題はないよ」
何でもないことのように一郎さんは笑っている。次郎君は何も答えない。黄昏が深まり、じわじわと影が伸びていく。長い沈黙の後で次郎君が問いかけた。
「兄貴は怖くないの? 不安に思うことはなかった?」
「俺はこの力に感謝しかない」
「え?」
「俺はおまえと違って、物心ついた時には親父に叩き込まれていたからな。おかげでさほど反発も感じなかった。でも、次郎の場合は説明がいきなりだったよな。……だから、抵抗する気持ちもよくわかる。俺は次郎が戸惑って迷った時には、せめて選ぶ権利があれば良いなと思っていたよ」
「選ぶって、そんなことできるの?」
「そのために、親父もおまえにはギリギリまで打ち明けなかったんだろ」
「俺が受け入れなかったら、どうなるの?」
「……おまえに全て打ち明ける前に戻って、またそこからはじまるだろうな」
「やり直しってこと?」
「そうだな。――この数週間の出来事は、なかったことになる」
ようやく経緯がわかった気がした。わたしが見てきたのは、次郎君が時任家の特殊な役割を知ってからの日々だったんだ。
そりゃ、とつぜん夢につながる異次元の世界や管理局の話を打ちあけられた挙句、関わることを強制されたら、家出もしたくなるだろう。
「この数週間が、なかったことに……」
次郎君がぎゅっと手を拳に握りしめた。
「それは嫌だな」
「え?」
「あやめに忘れられるのは、辛いかも……。俺、覚えとくって言ったし」
「おまえ――」
次郎君の漏らした呟きに、一郎さんが吹き出した。
「何? もしかして初恋の君ができちゃったわけ? ついに? 次郎君に!?」
一郎さんは腹を抱えて大笑いしている。次郎君は顔を真っ赤にして「そういう意味じゃない!」って叫んでいる。
「もしかしてお世話になった家の女の子? あやめちゃんって言うんだ?」
「だから、違うんだって、兄貴!」
さっきまでのしんみりとした雰囲気が嘘のように騒ぐ兄弟。
とても微笑ましいけれど。
二人のやり取りを見ていたわたしまで、次郎君と同じように照れてしまう。
どういうこと? 次郎君の初恋って、もしかしてわたしだった?
いや、でもこれはカバさんの作ったイタズラの世界かもしれないし。黄昏の空を背景に、ふよふよと浮遊している場違いなピンクが視界を横切る。
わたしは手を伸ばしてカバさんを捕まえた。
「カバさんはいったいわたしに何を見せたかったわけ? 何のイタズラ?」
「なんでやねん。イタズラってなんやねん。わしはお嬢ちゃんにジローの思い出したことを教えたっただけやで。善意の行いをイタズラって、ひどいやんか」
「だって、次郎君が思い出したって――、わたしの記憶にはないよ? 何もピンとこないし」
「そりゃ、なかったことにされてるからな」
「なかったことって、何のために?」
この経緯をなかったことにして、いったい何の意味があるのだろう。
次郎君は夢につながる異次元や管理局のことを知っている。だから、受け入れずにやり直したって事もないだろう。
そもそもわたしと次郎君は、結局は大学で知り合ってしまうわけだし。
中学時代のわたしと次郎君の出会いをなかったことにする意味がわからない。
「何のためかって、そんなん知らんし。イチローに聞いたらええやんか」
「一郎さんに?」
「これだけ世界を変更するには、それなりに理由があるやろな」
カバさんの縫い付けられた顔が、ニタニタと笑みを浮かべた。まるで何かを面白がっているように見えてしまう。
「それなりの理由って……」
言いかけて、わたしは一つの憶測を思い描いてしまう。
「あ……」
ギクリと心が凍った。
繰り返し夢に見る、真夏の光景。夢に現れる次郎君のそっくりさん。
彼はカバさんの見せてくれた次郎君と良く似ている。
わたしに繋がっている世界の断片。
「まさか」
なかったことにされた経緯。
繰り返し見る夢。鉄骨の落下事故。
「もしかして……」
一郎さんが、過去をなかったことにするだけの理由。
「そんな――」
次郎君は一郎さんの弟だ。あの事故をなかったことにしようと考えても、何の不思議もない。
弟を救うために? あの後、次郎君のそっくりさんはどうなってしまったの?
片腕を失ってしまった? それとも――。
ゾッと背筋を悪寒が走った。
最悪の予感が全身をこわばらせる。
過去を変更して、全てをなかったことにする理由。
愕然と立ち尽くすわたしの肩を、カバさんが短い前足でポンポンと叩く。
「そろそろ戻ろか、お嬢ちゃん」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
Husband's secret (夫の秘密)
設楽理沙
ライト文芸
果たして・・
秘密などあったのだろうか!
むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ
10秒~30秒?
何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。
❦ イラストはAI生成画像 自作
『愛が揺れるお嬢さん妻』- かわいいひと - 〇
設楽理沙
ライト文芸
♡~好きになった人はクールビューティーなお医者様~♡
やさしくなくて、そっけなくて。なのに時々やさしくて♡
――――― まただ、胸が締め付けられるような・・
そうか、この気持ちは恋しいってことなんだ ―――――
ヤブ医者で不愛想なアイッは年下のクールビューティー。
絶対仲良くなんてなれないって思っていたのに、
遠く遠く、限りなく遠い人だったのに、
わたしにだけ意地悪で・・なのに、
気がつけば、一番近くにいたYO。
幸せあふれる瞬間・・いつもそばで感じていたい
◇ ◇ ◇ ◇
💛画像はAI生成画像 自作
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる