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第九章:辻褄の合わない断片
43:苦しい嘘と優しい嘘
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「イチローはそんなこともわからないんですの?」
「う、うーん。それは、わかっているとは思うよ」
幼い目線からの声に、次郎君は真面目に答える。律儀だなと微笑ましい気持ちになりながら、わたしは自分で入れたロイヤルミルクティーに口をつけた。温度が飲み頃になっている。
ミルクの柔らかな味と、甘さのある爽やかな香り。瞳子さんの入れてくれたものには及ばないけれど、ずずっと一口すすると優しい味がして美味しかった。
ジュゼットもココアに口をつけて、左手にカバさん、右手にマグカップを持ったまま、次郎君の方を向いて不思議そうに少し顔を傾けた。
「嘘は良くないとわかっているのに、嘘をつくんですの? それなら悪い人ですわ」
まっすぐな言葉だった。たしかに意図的に嘘をつくことは、人を騙すことにもつながる。ジュゼットがきちんとした教育を受けている公爵令嬢なのだと、改めて思い出した。
「そうだね。もし、兄貴が本当に嘘をついているなら、何か悪いことを考えているのかもしれない」
「イチローが?」
ジュゼットの大きな眼が、驚いたようにさらに大きくなった。
「それはおかしいですわ。わたくしはイチローが悪い人だとは思いませんもの」
きっぱりとした口調だった。一郎さんが悪人であるという印象は、ジュゼットにはないみたいだ。次郎君の言ったことをどう考えたら良いのかと、カバさんを抱く腕にぎゅっと力を込めて、戸惑った顔をしている。
「でも」
ジュゼットは思い出したように続けた。
「そういえばトーコも嘘つきですわ」
「瞳子さんが?」
どうしてそう思ったのだろう。驚いたわたしに目を向けて、ジュゼットは頷く。
「だってイチローのことが好きなのに、いつも好きじゃないって言います」
「それは大人の事情というものがあって」と言いかけたけど、ジュゼットには難しい話だ。心の中だけにとどめて、どんな風に説明するのがふさわしいかと考える。
「だけど、トーコも悪い人ではありません」
ジュゼットが、幼い顔にどこか大人びた色をにじませる。元世界のことを思い出して、毅然とした令嬢の顔が現れたのかもしれない。
「わたくしの母様は、嘘には二つあると教えてくれました」
「二つ?」
「はい。苦しい嘘と、優しい嘘です。母様のお話を聞いていた時は、わたくしにはよくわかりませんでした。嘘は嘘です。でも、もしかするとイチローとトーコのつく嘘は、優しい嘘なのかもしれません」
「優しい嘘……」
ジュゼットのお母さんは素敵な貴婦人なのだろうな。もし彼女がお母さん似なら、絶世の美女であることは間違いない。ビスクドールのような肌と、きらめく豪奢な金髪。整った顔。優美な仕草で、幼いジュゼットの頭を撫でる白い手。
女神のように美しい女性を思い描いてしまう。
母親として娘に伝えようとしていた二つの嘘。わたしにもわかるような気がした。
「苦しい嘘は人を苦しめる。だけど、優しい嘘は人の気持ちを守ることがあるって。そう教えてもらいました」
「うん。ジュゼットのお母さんの言っていることは、正しいよ」
次郎君の声が優しい。
一郎さんがなぜ嘘をつくのか、その意味を考えたのかもしれない。
苦しい嘘なのか、優しい嘘なのか。
「もし兄貴が嘘をついているのなら、何を守ろうとしているんだろう」
次郎君の何気ない呟き。いま答えを求めていたわけではないだろう。
でも。
「瞳子さん、じゃないですか?」
どうしてだろう。口から自然に出てしまった。一郎さんが守ろうとしているもの。
瞳子さんが両親を亡くした頃も、一郎さんは管理局の掟を破って彼女の心を守ったと聞いた。
一郎さんを好きだと言った時の、瞳子さんのはにかむような笑顔。
そして。
フロアランプの淡い光に照らされた、一郎さんの横顔が脳裏をよぎる。
(結婚は一つのかたちだけど、俺は今の状態でも十分幸せだよ)
胸が温かくなった言葉を思い出す。
(――だって、彼女は傍にいる)
あの時はとても素敵な気分になったけれど、今は。
今はそんな気持ちにはなれない。
もし、一郎さんが頑なに秘めていることがあるのなら。
瞳子さんが傍にいるだけで幸せ。
それ以上は何も望まないと言いたげな、端正な横顔。
嫌な予感が、胸に淀んだ水たまりを作る。深いところから、暗く濁った湧水がにじみ出して、小さな水たまりは波紋を描きながらどんどん広がった。やがて不安の泉となって、心を浸す。
口に出すのが憚れるような憶測にたどり着いて、わたしの心がひどく揺れた。
とても、不安定に。
ゆらゆらと、忙しなく動く水面のように。
「う、うーん。それは、わかっているとは思うよ」
幼い目線からの声に、次郎君は真面目に答える。律儀だなと微笑ましい気持ちになりながら、わたしは自分で入れたロイヤルミルクティーに口をつけた。温度が飲み頃になっている。
ミルクの柔らかな味と、甘さのある爽やかな香り。瞳子さんの入れてくれたものには及ばないけれど、ずずっと一口すすると優しい味がして美味しかった。
ジュゼットもココアに口をつけて、左手にカバさん、右手にマグカップを持ったまま、次郎君の方を向いて不思議そうに少し顔を傾けた。
「嘘は良くないとわかっているのに、嘘をつくんですの? それなら悪い人ですわ」
まっすぐな言葉だった。たしかに意図的に嘘をつくことは、人を騙すことにもつながる。ジュゼットがきちんとした教育を受けている公爵令嬢なのだと、改めて思い出した。
「そうだね。もし、兄貴が本当に嘘をついているなら、何か悪いことを考えているのかもしれない」
「イチローが?」
ジュゼットの大きな眼が、驚いたようにさらに大きくなった。
「それはおかしいですわ。わたくしはイチローが悪い人だとは思いませんもの」
きっぱりとした口調だった。一郎さんが悪人であるという印象は、ジュゼットにはないみたいだ。次郎君の言ったことをどう考えたら良いのかと、カバさんを抱く腕にぎゅっと力を込めて、戸惑った顔をしている。
「でも」
ジュゼットは思い出したように続けた。
「そういえばトーコも嘘つきですわ」
「瞳子さんが?」
どうしてそう思ったのだろう。驚いたわたしに目を向けて、ジュゼットは頷く。
「だってイチローのことが好きなのに、いつも好きじゃないって言います」
「それは大人の事情というものがあって」と言いかけたけど、ジュゼットには難しい話だ。心の中だけにとどめて、どんな風に説明するのがふさわしいかと考える。
「だけど、トーコも悪い人ではありません」
ジュゼットが、幼い顔にどこか大人びた色をにじませる。元世界のことを思い出して、毅然とした令嬢の顔が現れたのかもしれない。
「わたくしの母様は、嘘には二つあると教えてくれました」
「二つ?」
「はい。苦しい嘘と、優しい嘘です。母様のお話を聞いていた時は、わたくしにはよくわかりませんでした。嘘は嘘です。でも、もしかするとイチローとトーコのつく嘘は、優しい嘘なのかもしれません」
「優しい嘘……」
ジュゼットのお母さんは素敵な貴婦人なのだろうな。もし彼女がお母さん似なら、絶世の美女であることは間違いない。ビスクドールのような肌と、きらめく豪奢な金髪。整った顔。優美な仕草で、幼いジュゼットの頭を撫でる白い手。
女神のように美しい女性を思い描いてしまう。
母親として娘に伝えようとしていた二つの嘘。わたしにもわかるような気がした。
「苦しい嘘は人を苦しめる。だけど、優しい嘘は人の気持ちを守ることがあるって。そう教えてもらいました」
「うん。ジュゼットのお母さんの言っていることは、正しいよ」
次郎君の声が優しい。
一郎さんがなぜ嘘をつくのか、その意味を考えたのかもしれない。
苦しい嘘なのか、優しい嘘なのか。
「もし兄貴が嘘をついているのなら、何を守ろうとしているんだろう」
次郎君の何気ない呟き。いま答えを求めていたわけではないだろう。
でも。
「瞳子さん、じゃないですか?」
どうしてだろう。口から自然に出てしまった。一郎さんが守ろうとしているもの。
瞳子さんが両親を亡くした頃も、一郎さんは管理局の掟を破って彼女の心を守ったと聞いた。
一郎さんを好きだと言った時の、瞳子さんのはにかむような笑顔。
そして。
フロアランプの淡い光に照らされた、一郎さんの横顔が脳裏をよぎる。
(結婚は一つのかたちだけど、俺は今の状態でも十分幸せだよ)
胸が温かくなった言葉を思い出す。
(――だって、彼女は傍にいる)
あの時はとても素敵な気分になったけれど、今は。
今はそんな気持ちにはなれない。
もし、一郎さんが頑なに秘めていることがあるのなら。
瞳子さんが傍にいるだけで幸せ。
それ以上は何も望まないと言いたげな、端正な横顔。
嫌な予感が、胸に淀んだ水たまりを作る。深いところから、暗く濁った湧水がにじみ出して、小さな水たまりは波紋を描きながらどんどん広がった。やがて不安の泉となって、心を浸す。
口に出すのが憚れるような憶測にたどり着いて、わたしの心がひどく揺れた。
とても、不安定に。
ゆらゆらと、忙しなく動く水面のように。
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