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第十一章:心はいつでも、矛盾を抱えている
50:七年前の本当の犠牲者
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深夜になってベッドに入ってみたものの、わたしは全く眠れなかった。
スマホで時間つぶしをしてみようと画面を見てみるけれど、こんな時に限って電波が悪いのかつながらない。何度か電源を落として試してみるけれど、結果は同じだった。
ため息をつきながら、スマホをベッドサイドに置くと、コンコンと扉をノックされた。
「あやめ、起きてる?」
「次郎君!」
わたしはすぐにベッドから飛び降りて部屋の扉を開けた。こんな状況でなければ、深夜に次郎君がやってくることに色んな邪推をするけれど、もちろんそんな余裕はない。
「ごめん。こんな時間に」
「どうしたんですか? その顔」
端正なお顔が少し腫れている。向かって右側の眼の下あたりから頬にかけて。唇も少し切れているみたい。
「兄貴に殴られた」
「ええ!?」
一郎さんが? いつも穏やかで兄弟喧嘩で手を出すような人には見えないのに。
だからこそ、わたしは胸に重苦しいものが充満するのを感じた。
一郎さんが次郎君に手を出す理由。
「冷やした方が良いですよ! 次郎君は座っていてください」
次郎君に何を聞くべきなのか。どんな言葉をかけるべきなのか。
わからないまま、わたしはキッチンで深さのあるお皿に氷水を作り、タオルを抱えて再び部屋に戻った。
次郎君は必要最小限の家具しかない殺風景な室内で、ベッドの傍らにある白い椅子にかけていた。
「とにかく、これで」
せっかくの男前が台無しとまでは言わないけど、痛々しい。わたしが氷水で冷やしたタオルを差し出すと、次郎君は受け取って頬に当てる。
わたしは寝台に腰掛けて、覚悟を決めた。
「どうして一郎さんに殴られたんですか?」
知りたくないことを辿るための道につながっていく予感。次郎君は目を伏せたまま、困ったように笑った。
「うん。――おまえに何がわかる?って。 はじめてだな、こんなにまともに兄貴に殴られたのは……」
次郎君はふうっと深く息をつく。
「俺の想像は当たってた。カバは嘘をついていなかったんだ。もう駄目かもしれない」
「え?」
「この世界はもう大部分が壊れてしまっている。この世界だけじゃないな、全部」
「全部って?」
「俺たちのいる世界以外も全て。高次元の世界も、ジュゼットのいた元世界も全部、もう壊れてしまっているんだ。管理局では世界が終わるまでのカウントダウンが始まってる」
世界が終わるまでのカウントダウン?
「どうして、そんなことに?」
「今はあのカバが兄貴に協力して、何とかこの世界の原型を留めるように奔走しているみたいだ。あの奇妙な動画はカバのいたずらじゃなくて、壊れていく世界の兆候だった」
「カバさんのイタズラじゃなくて、世界が壊れる兆候……」
事情がうまくのみ込めない。違う。のみ込みたくなくて、わたしは亡羊と繰り返す。
「カバの言っていたことは正しかった。発端は兄貴にある」
「一郎さんに……」
認めたくない事実がこの先に迫っている。わたしは息を呑んだ。衝撃に備えるかのように肩に力が入ってしまう。
「カバの腹の中の世界を、俺も見たんだ」
ジュゼットの見た悪夢。
一郎さんが認めなかった過去。
「七年前、鉄骨の落下事故で亡くなったのは、瞳子さんだった」
目の前が真っ暗になる。ぞっと血の気が引いた。
「あの夏の海が、兄貴と瞳子さんの最後の想い出だった」
次郎君はこみ上げる感情を殺しているのか、淡々と、平坦な声でここに至るまでの事情を説明してくれた。
瞳子さんを失った一郎さん。傷心の彼に、カバさんが見せた偽りの希望。
瞳子さんを死なせないために、一郎さんは何度も過去をやり直す。
けれど、結末は変わらない。次郎君まで失い、もっと悲惨な世界になることもあった。
そして、瞳子さんは必ず死んでしまう。
世界は変えられない。
無駄を悟った一郎さんに、カバさんはさらなる希望を与える。
希望。世界を終わりへと導く代償を伴った、最悪の希望。
瞳子さんの死を取り除いた世界。
カバさんのお腹の中に切り取られた世界の断片。
世界にぽっかりと空いた穴。塞ぐことも、復元することもできないブラックホールのようなものだ。
真っ黒な深淵。
カバさんに喰われて欠けた世界は、そこから崩壊をはじめる。
はじめは緩やかに。
だんだんと波紋を広げるように加速を伴って。
世界は壊れていく。
止める術もなく。
瞳子さんが生きる世界と引き換えに、全てが失われてしまう。
「……一郎さんは、それでいいんですか?」
何とか言葉を絞り出すまでに、少し時間がかかった。
「だって、一郎さんは知らなかったんですよね? 瞳子さんの生きる世界が、世界の終わりになるって」
次郎君は無表情だった。頬に当てていたタオルが温くなっていたのか、氷水に浸してから固く絞り、再び頬に当てる。お皿の中で浮かぶ氷は、いまにも溶けてなくなりそうに小さくなっていた。
「兄貴もはじめは知らなかった。でも、もう気づいていたよ」
感情の見えない顔で、次郎君がわたしを見る。
「兄貴は、瞳子さんが傍にいるなら、世界が終わってもかまわない。そう言った」
「それは、――もう、手遅れだからですか? 世界が壊れるのは止められないんですか」
「……ううん。まだ、手遅れじゃないよ」
「え?」
意外な答えだった。手遅れじゃないということは――。
スマホで時間つぶしをしてみようと画面を見てみるけれど、こんな時に限って電波が悪いのかつながらない。何度か電源を落として試してみるけれど、結果は同じだった。
ため息をつきながら、スマホをベッドサイドに置くと、コンコンと扉をノックされた。
「あやめ、起きてる?」
「次郎君!」
わたしはすぐにベッドから飛び降りて部屋の扉を開けた。こんな状況でなければ、深夜に次郎君がやってくることに色んな邪推をするけれど、もちろんそんな余裕はない。
「ごめん。こんな時間に」
「どうしたんですか? その顔」
端正なお顔が少し腫れている。向かって右側の眼の下あたりから頬にかけて。唇も少し切れているみたい。
「兄貴に殴られた」
「ええ!?」
一郎さんが? いつも穏やかで兄弟喧嘩で手を出すような人には見えないのに。
だからこそ、わたしは胸に重苦しいものが充満するのを感じた。
一郎さんが次郎君に手を出す理由。
「冷やした方が良いですよ! 次郎君は座っていてください」
次郎君に何を聞くべきなのか。どんな言葉をかけるべきなのか。
わからないまま、わたしはキッチンで深さのあるお皿に氷水を作り、タオルを抱えて再び部屋に戻った。
次郎君は必要最小限の家具しかない殺風景な室内で、ベッドの傍らにある白い椅子にかけていた。
「とにかく、これで」
せっかくの男前が台無しとまでは言わないけど、痛々しい。わたしが氷水で冷やしたタオルを差し出すと、次郎君は受け取って頬に当てる。
わたしは寝台に腰掛けて、覚悟を決めた。
「どうして一郎さんに殴られたんですか?」
知りたくないことを辿るための道につながっていく予感。次郎君は目を伏せたまま、困ったように笑った。
「うん。――おまえに何がわかる?って。 はじめてだな、こんなにまともに兄貴に殴られたのは……」
次郎君はふうっと深く息をつく。
「俺の想像は当たってた。カバは嘘をついていなかったんだ。もう駄目かもしれない」
「え?」
「この世界はもう大部分が壊れてしまっている。この世界だけじゃないな、全部」
「全部って?」
「俺たちのいる世界以外も全て。高次元の世界も、ジュゼットのいた元世界も全部、もう壊れてしまっているんだ。管理局では世界が終わるまでのカウントダウンが始まってる」
世界が終わるまでのカウントダウン?
「どうして、そんなことに?」
「今はあのカバが兄貴に協力して、何とかこの世界の原型を留めるように奔走しているみたいだ。あの奇妙な動画はカバのいたずらじゃなくて、壊れていく世界の兆候だった」
「カバさんのイタズラじゃなくて、世界が壊れる兆候……」
事情がうまくのみ込めない。違う。のみ込みたくなくて、わたしは亡羊と繰り返す。
「カバの言っていたことは正しかった。発端は兄貴にある」
「一郎さんに……」
認めたくない事実がこの先に迫っている。わたしは息を呑んだ。衝撃に備えるかのように肩に力が入ってしまう。
「カバの腹の中の世界を、俺も見たんだ」
ジュゼットの見た悪夢。
一郎さんが認めなかった過去。
「七年前、鉄骨の落下事故で亡くなったのは、瞳子さんだった」
目の前が真っ暗になる。ぞっと血の気が引いた。
「あの夏の海が、兄貴と瞳子さんの最後の想い出だった」
次郎君はこみ上げる感情を殺しているのか、淡々と、平坦な声でここに至るまでの事情を説明してくれた。
瞳子さんを失った一郎さん。傷心の彼に、カバさんが見せた偽りの希望。
瞳子さんを死なせないために、一郎さんは何度も過去をやり直す。
けれど、結末は変わらない。次郎君まで失い、もっと悲惨な世界になることもあった。
そして、瞳子さんは必ず死んでしまう。
世界は変えられない。
無駄を悟った一郎さんに、カバさんはさらなる希望を与える。
希望。世界を終わりへと導く代償を伴った、最悪の希望。
瞳子さんの死を取り除いた世界。
カバさんのお腹の中に切り取られた世界の断片。
世界にぽっかりと空いた穴。塞ぐことも、復元することもできないブラックホールのようなものだ。
真っ黒な深淵。
カバさんに喰われて欠けた世界は、そこから崩壊をはじめる。
はじめは緩やかに。
だんだんと波紋を広げるように加速を伴って。
世界は壊れていく。
止める術もなく。
瞳子さんが生きる世界と引き換えに、全てが失われてしまう。
「……一郎さんは、それでいいんですか?」
何とか言葉を絞り出すまでに、少し時間がかかった。
「だって、一郎さんは知らなかったんですよね? 瞳子さんの生きる世界が、世界の終わりになるって」
次郎君は無表情だった。頬に当てていたタオルが温くなっていたのか、氷水に浸してから固く絞り、再び頬に当てる。お皿の中で浮かぶ氷は、いまにも溶けてなくなりそうに小さくなっていた。
「兄貴もはじめは知らなかった。でも、もう気づいていたよ」
感情の見えない顔で、次郎君がわたしを見る。
「兄貴は、瞳子さんが傍にいるなら、世界が終わってもかまわない。そう言った」
「それは、――もう、手遅れだからですか? 世界が壊れるのは止められないんですか」
「……ううん。まだ、手遅れじゃないよ」
「え?」
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