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第十一章:心はいつでも、矛盾を抱えている
51:兄弟喧嘩の理由
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「世界を元に戻す方法があるっていうことですか?」
「――うん。カバの腹の中にあるモノを、世界に戻せばいい。そうすれば、また世界の復元がはじまる」
「あ……」
カバさんのお腹の中にあるモノ。
瞳子さんの死んでしまう世界。
一郎さんが認めなかった世界。認められない世界。
「普通なら答えは決まってる。恋人一人と世界の全て。どっちを選ぶかなんて」
「次郎君」
「世界が終わったら、恋人も自分も失うんだ。家族も友達も、何もかも。世界が終わるって、そういうことだろ?」
無表情な次郎君の顔。事務的に思えるほど、淡々とした声。
「だから、兄貴は間違えてる。――俺はそう言った。兄貴が間違えるなら、俺が瞳子さんに全部話すって。そしたら、これ」
次郎君は腫れた頬を指さす。
「思い切り殴られた」
次郎君がようやくふっと笑う。無表情が自嘲的な笑みで上書きされる。
「でも殴られて当然だよ。だって俺、すごく残酷なことを言ってる」
「……次郎君」
「兄貴に瞳子さんを諦めろって言ってるのと同じだし、……それに……」
瞳子さんの死を認めること。
たしかに残酷だ。でも、一郎さんだけじゃない。
次郎君にとっても、わたしにとっても、ジュゼットにとっても。
瞳子さんを慕う人には、とても残酷だ。
そして。
「このことを、瞳子さんが知ってしまったら」
次郎君が俯く。
「言えるわけがない……」
瞳子さんは迷わず導くだろう。一郎さんの過ちを正そうとするに違いない。
たとえ自分がこの世界からいなくなってしまうとしても。
一郎さんとの別れがあるとしても。
瞳子さんと語り合った、いつかの恋バナを思い出す。
(私は一郎には幸せになってほしい)
(私はもういいの。世界がすっかり変わってしまって、一郎のことを忘れてしまうぐらいに変わってしまっても)
(あやめちゃん、私は思うの。もし、世界が復元されて全てがなかったことになっても、気持ちは残っているんじゃないかって。結びつく記憶がなくなっていても、心の中にだけは、何かわからないまま、でも宝物のように残っているんじゃないかって)
一郎さんの幸せを願う瞳子さん。
全てを手放すことになっても、彼女は絶対に一郎さんの未来を望むだろう。
頬を冷やすはずのタオルが、いつのまにか次郎君の目元を押さえている。
「……二人の幸せを、願っていないわけじゃない」
次郎君の声が湿っていた。こらえていた気持ちが滲み出すように震えている。
「俺だって、できることなら兄貴の力になりたい」
ぐっと次郎君の目元を抑えるタオルに力がこもる。
「兄貴が俺に進む道を選ばせてくれたように……」
ああ、わかる。わたしもカバさんに見せてもらった。
(――気が済んだか)
家出をした次郎君を迎える一郎さんの声。
(――俺は次郎が戸惑って迷った時には、せめて選ぶ権利があれば良いなと思っていたよ)
弟を労わるお兄ちゃんの声だった。責めることもなく、次郎君の葛藤に寄り添う言葉。
「でも、俺は兄貴を責めることしかできなかった……、兄貴の気持ちを、知っているのに――」
次郎君が泣いている。目元をタオルで押さえたまま。声を殺すようにして。
それでも時折漏れる嗚咽が、わたしにも哀しみを伝染させる。
「次郎君」
彼を抱きしめるように腕を伸ばしながら、こらえきれずに一緒に泣いてしまう。
ボロボロと涙が溢れて、世界が滲む。
一郎さんの中で天秤にかけられた、恋人と世界。
どちらに傾くことが正しいのか。
世界を選ぶべきだと言うのは簡単だ。
でも、何が正しいのかなんて、本当は誰に決められるのだろう。
大切な恋人が、あるいは家族が天秤の片側であったなら、そちら側が傾くことを愚かだと決めつけてしまえるだろうか。
最後の時まで一緒にいたいと願うのは、許されないことだろうか。
瞳子さんとの決別を受け入れられない一郎さんの気持ち。
わたしも次郎君も、痛いほどわかってしまう。
だって、わたしは次郎君の事故がなかったことにされたと知った時、良かったと思った。
それが本来の筋道ではなくても、ずるいことだとしても。
良かったと思ったのだ。
一郎さんが瞳子さんと一緒にいたいと思う気持ちを、責めることなどできない。
責める自分に罪悪感が生まれる。
でも、同時に。
世界がなくなることを肯定することもできない。
心はいつでも、矛盾を抱えている。
「――うん。カバの腹の中にあるモノを、世界に戻せばいい。そうすれば、また世界の復元がはじまる」
「あ……」
カバさんのお腹の中にあるモノ。
瞳子さんの死んでしまう世界。
一郎さんが認めなかった世界。認められない世界。
「普通なら答えは決まってる。恋人一人と世界の全て。どっちを選ぶかなんて」
「次郎君」
「世界が終わったら、恋人も自分も失うんだ。家族も友達も、何もかも。世界が終わるって、そういうことだろ?」
無表情な次郎君の顔。事務的に思えるほど、淡々とした声。
「だから、兄貴は間違えてる。――俺はそう言った。兄貴が間違えるなら、俺が瞳子さんに全部話すって。そしたら、これ」
次郎君は腫れた頬を指さす。
「思い切り殴られた」
次郎君がようやくふっと笑う。無表情が自嘲的な笑みで上書きされる。
「でも殴られて当然だよ。だって俺、すごく残酷なことを言ってる」
「……次郎君」
「兄貴に瞳子さんを諦めろって言ってるのと同じだし、……それに……」
瞳子さんの死を認めること。
たしかに残酷だ。でも、一郎さんだけじゃない。
次郎君にとっても、わたしにとっても、ジュゼットにとっても。
瞳子さんを慕う人には、とても残酷だ。
そして。
「このことを、瞳子さんが知ってしまったら」
次郎君が俯く。
「言えるわけがない……」
瞳子さんは迷わず導くだろう。一郎さんの過ちを正そうとするに違いない。
たとえ自分がこの世界からいなくなってしまうとしても。
一郎さんとの別れがあるとしても。
瞳子さんと語り合った、いつかの恋バナを思い出す。
(私は一郎には幸せになってほしい)
(私はもういいの。世界がすっかり変わってしまって、一郎のことを忘れてしまうぐらいに変わってしまっても)
(あやめちゃん、私は思うの。もし、世界が復元されて全てがなかったことになっても、気持ちは残っているんじゃないかって。結びつく記憶がなくなっていても、心の中にだけは、何かわからないまま、でも宝物のように残っているんじゃないかって)
一郎さんの幸せを願う瞳子さん。
全てを手放すことになっても、彼女は絶対に一郎さんの未来を望むだろう。
頬を冷やすはずのタオルが、いつのまにか次郎君の目元を押さえている。
「……二人の幸せを、願っていないわけじゃない」
次郎君の声が湿っていた。こらえていた気持ちが滲み出すように震えている。
「俺だって、できることなら兄貴の力になりたい」
ぐっと次郎君の目元を抑えるタオルに力がこもる。
「兄貴が俺に進む道を選ばせてくれたように……」
ああ、わかる。わたしもカバさんに見せてもらった。
(――気が済んだか)
家出をした次郎君を迎える一郎さんの声。
(――俺は次郎が戸惑って迷った時には、せめて選ぶ権利があれば良いなと思っていたよ)
弟を労わるお兄ちゃんの声だった。責めることもなく、次郎君の葛藤に寄り添う言葉。
「でも、俺は兄貴を責めることしかできなかった……、兄貴の気持ちを、知っているのに――」
次郎君が泣いている。目元をタオルで押さえたまま。声を殺すようにして。
それでも時折漏れる嗚咽が、わたしにも哀しみを伝染させる。
「次郎君」
彼を抱きしめるように腕を伸ばしながら、こらえきれずに一緒に泣いてしまう。
ボロボロと涙が溢れて、世界が滲む。
一郎さんの中で天秤にかけられた、恋人と世界。
どちらに傾くことが正しいのか。
世界を選ぶべきだと言うのは簡単だ。
でも、何が正しいのかなんて、本当は誰に決められるのだろう。
大切な恋人が、あるいは家族が天秤の片側であったなら、そちら側が傾くことを愚かだと決めつけてしまえるだろうか。
最後の時まで一緒にいたいと願うのは、許されないことだろうか。
瞳子さんとの決別を受け入れられない一郎さんの気持ち。
わたしも次郎君も、痛いほどわかってしまう。
だって、わたしは次郎君の事故がなかったことにされたと知った時、良かったと思った。
それが本来の筋道ではなくても、ずるいことだとしても。
良かったと思ったのだ。
一郎さんが瞳子さんと一緒にいたいと思う気持ちを、責めることなどできない。
責める自分に罪悪感が生まれる。
でも、同時に。
世界がなくなることを肯定することもできない。
心はいつでも、矛盾を抱えている。
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