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第二章:花嫁の数奇な事情
10:餡パンと香水
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可畏の肩に荷物のように抱えあげられ、賑わう通りまで戻ると馬車が用意されていた。担ぎ上げられたまま葛葉が乗りこむと、馭者台から男が振りかえる。
「可畏様、こちらが頼まれていたものです」
「いきなり呼びつけたのに、すまないな」
馭者が差し出した風呂敷を受けとると、可畏は座席でぐったりとしている葛葉の膝の上におく。
「葛葉。とりあえずそれを食え」
可畏が風呂敷をとくと、餡パンが山のように積み重なっている。酒種と餡のあまい香りを克明にかぎわけて、葛葉は反射的に身を乗りだす。
「これは! 人気のお店の餡パン!」
ふたたび腹の虫が大合唱をはじめそうだったが、可畏の視線を感じて、勢いよく手を伸ばすことを思いとどまる。
「あの、本当にいただいても?」
「おまえ、よだれがすごいことになっているぞ。その飢餓感は夜叉のせいだ。今さら遠慮をするな」
風呂敷から餡パンをひとつ掴むと、可畏が有無を言わせず葛葉の口に突っ込んだ。ふわりと広がった生地の香りとうっとりするような餡のあまさが、一瞬で葛葉の恥じらいやためらいを吹きとばす。
口に突っ込まれた餡パンをあっというまに平らげて、葛葉は素直に感謝した。
「御門様、ありがとうございます!」
「おまえに餓鬼が憑いたのは、私のせいだ。存分に食っておけ」
「はい!」
いともたやすく乙女心を放りだして、葛葉は餡パンを両手で鷲掴みにする。我を忘れてかぶりついた。
「すごく美味しいです!」
「それで復活できそうだな」
可畏が馭者へ「出してくれ」とうながすと、男が葛葉と可畏を交互に見てから、すこし戸惑った顔をした。
「どうした?」
「いえ、可畏様の使役する式鬼が届いた時に、じつは陛下からも勅使の式鬼が参られまして」
「帝から?」
「はい。陛下から可畏様へ、花嫁を伴って至急御所へ参内されるようにと」
「至急? まさか、このまま参れと?」
「おそらく」
葛葉はさらなる急展開に、頬張っていた餡パンは吹きだしそうになる。可畏がちらりと冷ややかな視線をこちらによこした。
「葛葉、今の話を聞いていたか?」
「あの、まさかとは思いますが、花嫁って……」
「おまえ以外に誰がいる」
「む、無理です! わたしが天子様の御前に参るなど!」
「これは帝の命令だ」
「御門様は皇に連なる公爵様ですよね? きっと昨夜の騒動が天子様のお耳に入ったのでは? わたしなんかを花嫁だと紹介したことについて、一門からお咎めがあるのではありませんか?」
「それはない」
「わたしはあると思います! ここは当初の予定通り紅葉様をお連れになった方が良いのでは?」
このまま身寄りもあやしい自分が、帝の前に参内していいはずがない。
葛葉が必死に言い募ると、可畏が笑いとばす。
「帝は稀にみる千里眼だぞ。きっと全てお見通しだ」
「絶対に罰を受けます!」
「何の罰だ。おまえはいちいち悲観的だな」
「だって御門様もご覧になればわかるでしょう! わたしは天子様に拝謁が叶うような支度もできておりません!」
「いきなり呼びつけたのは帝の方だ。そのくらい理解されるだろう」
「いえ、ですが……」
「まぁ、たしかにもっと垢抜けた状態にしてから参内したかったが、勅使があったのなら仕方がない」
可畏が馭者に目配せする。
「このまま御所へ向かってくれ」
「かしこまりました」
うなずいてから馭者が手綱をさばく。ゆっくりと馬車がすすみはじめた。
葛葉が慌てて身を乗りだす。
「待ってください! わたしなどが参内しては、神聖な御所で何が起きるかわかりません。鬼が憑いておりますし、さっきだって俥夫が……」
葛葉は左腕の数珠を撫でながら不安を訴えるが、可畏は平然と笑っている。
「心配するな。夜叉は悪い妖ではない。おまえにとっては飢餓感をもたらす迷惑者だろうが」
「良いとか悪いとかの問題ではなく、私なんかが参内しては不吉です」
「問題ない。私がついている」
「ですが」
「何度も言わせるな、おまえの状況は理解している。おそらく帝も」
「天子様が!?」
可畏は葛葉に視線をよこして頷いた。
「私はこの急な呼び出しで少しわかった気がしている。おまえの存在はずっと隠されていた。この私にもだ。倉橋侯爵の力だけで、そんなことは不可能だ。きっと帝が噛んでいるに違いない」
馬車ががたがたと揺れる。食堂や牛鍋屋の暖簾が、葛葉の視界の端をながれていく。通りは着流しの男性や、着物の女性が徒歩で行き交い賑わっていた。
可畏と葛葉の乗った馬車を、決められた路線にそって走る鉄道馬車が追い越していく。葛葉は昨日までの日常が、どこかへ置き去りにされているような気がした。
寄宿舎で寝起きして、特務科で学ぶだけだった平穏な日々。
可畏と出会ってから、葛葉の触れる世界が明らかに変わりはじめている。
「でも、わたしは天子様とお会いしたことはありませんが」
「帝はおまえのことを把握していたはずだ。おまえは羅刹の花嫁だからな」
「あの、その羅刹の花嫁って、いったい何でしょうか?」
特別な存在のように語られているが、葛葉には本当にそれが自分のことなのかわからない。
可畏はふっと自嘲的な吐息をついた。
「すぐにわかる」
彼はそのまま座席の背面に身をあずけて目を閉じた。それ以上は語ってくれそうもない。葛葉も黙って、最後の餡パンをかじる。
馬車の進路が変更される気配はなかった。
どうやら御所への参内は避けられないようだ。
葛葉がなるようになると開きおなった気持ちで往来の喧騒に耳を傾けていると、風向きにのってふんわりと爽やかな香りが舞った。
(あ、この香り……)
焚きしめる香とは違う、とても瑞々しく広がる心地の良い匂い。
(もしかして、異国の香水?)
葛葉の脳裏に、彼の懐に身を寄せていた一瞬がよみがえる。あの時は意識する余裕がなかったが、思い出すと何とも言えない恥じらいが込みあげてきた。
香りに紐付いてしまった記憶。
葛葉は恥ずかしさをふり払うように、勢いよく餡パンを頬張った。
「可畏様、こちらが頼まれていたものです」
「いきなり呼びつけたのに、すまないな」
馭者が差し出した風呂敷を受けとると、可畏は座席でぐったりとしている葛葉の膝の上におく。
「葛葉。とりあえずそれを食え」
可畏が風呂敷をとくと、餡パンが山のように積み重なっている。酒種と餡のあまい香りを克明にかぎわけて、葛葉は反射的に身を乗りだす。
「これは! 人気のお店の餡パン!」
ふたたび腹の虫が大合唱をはじめそうだったが、可畏の視線を感じて、勢いよく手を伸ばすことを思いとどまる。
「あの、本当にいただいても?」
「おまえ、よだれがすごいことになっているぞ。その飢餓感は夜叉のせいだ。今さら遠慮をするな」
風呂敷から餡パンをひとつ掴むと、可畏が有無を言わせず葛葉の口に突っ込んだ。ふわりと広がった生地の香りとうっとりするような餡のあまさが、一瞬で葛葉の恥じらいやためらいを吹きとばす。
口に突っ込まれた餡パンをあっというまに平らげて、葛葉は素直に感謝した。
「御門様、ありがとうございます!」
「おまえに餓鬼が憑いたのは、私のせいだ。存分に食っておけ」
「はい!」
いともたやすく乙女心を放りだして、葛葉は餡パンを両手で鷲掴みにする。我を忘れてかぶりついた。
「すごく美味しいです!」
「それで復活できそうだな」
可畏が馭者へ「出してくれ」とうながすと、男が葛葉と可畏を交互に見てから、すこし戸惑った顔をした。
「どうした?」
「いえ、可畏様の使役する式鬼が届いた時に、じつは陛下からも勅使の式鬼が参られまして」
「帝から?」
「はい。陛下から可畏様へ、花嫁を伴って至急御所へ参内されるようにと」
「至急? まさか、このまま参れと?」
「おそらく」
葛葉はさらなる急展開に、頬張っていた餡パンは吹きだしそうになる。可畏がちらりと冷ややかな視線をこちらによこした。
「葛葉、今の話を聞いていたか?」
「あの、まさかとは思いますが、花嫁って……」
「おまえ以外に誰がいる」
「む、無理です! わたしが天子様の御前に参るなど!」
「これは帝の命令だ」
「御門様は皇に連なる公爵様ですよね? きっと昨夜の騒動が天子様のお耳に入ったのでは? わたしなんかを花嫁だと紹介したことについて、一門からお咎めがあるのではありませんか?」
「それはない」
「わたしはあると思います! ここは当初の予定通り紅葉様をお連れになった方が良いのでは?」
このまま身寄りもあやしい自分が、帝の前に参内していいはずがない。
葛葉が必死に言い募ると、可畏が笑いとばす。
「帝は稀にみる千里眼だぞ。きっと全てお見通しだ」
「絶対に罰を受けます!」
「何の罰だ。おまえはいちいち悲観的だな」
「だって御門様もご覧になればわかるでしょう! わたしは天子様に拝謁が叶うような支度もできておりません!」
「いきなり呼びつけたのは帝の方だ。そのくらい理解されるだろう」
「いえ、ですが……」
「まぁ、たしかにもっと垢抜けた状態にしてから参内したかったが、勅使があったのなら仕方がない」
可畏が馭者に目配せする。
「このまま御所へ向かってくれ」
「かしこまりました」
うなずいてから馭者が手綱をさばく。ゆっくりと馬車がすすみはじめた。
葛葉が慌てて身を乗りだす。
「待ってください! わたしなどが参内しては、神聖な御所で何が起きるかわかりません。鬼が憑いておりますし、さっきだって俥夫が……」
葛葉は左腕の数珠を撫でながら不安を訴えるが、可畏は平然と笑っている。
「心配するな。夜叉は悪い妖ではない。おまえにとっては飢餓感をもたらす迷惑者だろうが」
「良いとか悪いとかの問題ではなく、私なんかが参内しては不吉です」
「問題ない。私がついている」
「ですが」
「何度も言わせるな、おまえの状況は理解している。おそらく帝も」
「天子様が!?」
可畏は葛葉に視線をよこして頷いた。
「私はこの急な呼び出しで少しわかった気がしている。おまえの存在はずっと隠されていた。この私にもだ。倉橋侯爵の力だけで、そんなことは不可能だ。きっと帝が噛んでいるに違いない」
馬車ががたがたと揺れる。食堂や牛鍋屋の暖簾が、葛葉の視界の端をながれていく。通りは着流しの男性や、着物の女性が徒歩で行き交い賑わっていた。
可畏と葛葉の乗った馬車を、決められた路線にそって走る鉄道馬車が追い越していく。葛葉は昨日までの日常が、どこかへ置き去りにされているような気がした。
寄宿舎で寝起きして、特務科で学ぶだけだった平穏な日々。
可畏と出会ってから、葛葉の触れる世界が明らかに変わりはじめている。
「でも、わたしは天子様とお会いしたことはありませんが」
「帝はおまえのことを把握していたはずだ。おまえは羅刹の花嫁だからな」
「あの、その羅刹の花嫁って、いったい何でしょうか?」
特別な存在のように語られているが、葛葉には本当にそれが自分のことなのかわからない。
可畏はふっと自嘲的な吐息をついた。
「すぐにわかる」
彼はそのまま座席の背面に身をあずけて目を閉じた。それ以上は語ってくれそうもない。葛葉も黙って、最後の餡パンをかじる。
馬車の進路が変更される気配はなかった。
どうやら御所への参内は避けられないようだ。
葛葉がなるようになると開きおなった気持ちで往来の喧騒に耳を傾けていると、風向きにのってふんわりと爽やかな香りが舞った。
(あ、この香り……)
焚きしめる香とは違う、とても瑞々しく広がる心地の良い匂い。
(もしかして、異国の香水?)
葛葉の脳裏に、彼の懐に身を寄せていた一瞬がよみがえる。あの時は意識する余裕がなかったが、思い出すと何とも言えない恥じらいが込みあげてきた。
香りに紐付いてしまった記憶。
葛葉は恥ずかしさをふり払うように、勢いよく餡パンを頬張った。
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