シンメトリーの翼 〜天帝異聞奇譚〜

長月京子

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第四話 闇の在処(ありか)

一章:五 闇の地:闇呪(あんじゅ)

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 突如、の坩堝(るつぼ)に現れた漆黒の鬼柱きばしらは、天界に更なる恐れをもたらしたようだった。彼の身の回りを世話するために使わされていた者達も、恐怖に耐え切れなかったのだろう。黄帝の勅命として与えられたあんでの役割を放棄して、蜘蛛の子を散らすように姿を消した。 

 屋敷はこれまでになく閑散としている筈だが、常に接触を拒もうとする人の輪を失ったところで、彼にとっては身辺が変わったとも思えない。 
 それよりも受け入れた守護――麒一きいち麟華りんかの存在が、彼の周りを著しく変えた。甲斐甲斐しく世話を焼き、嬉しそうに自分の周りで騒ぐのだ。殊に麟華の振る舞いは、物静かな日々を過ごしてきた彼にはやかまし過ぎる程である。 

主上しゅじょう、ご覧になってください。今度は庭に花が咲きました。主上の力でこの地も蘇っていくのですわ」 

 麟華の甲高い声が、彼の居室に響き渡っている。彼は苦笑しながら簀子縁すのこえんに歩み出て、中庭から架けられた反橋そりばしから、続く中島の光景を眺めた。たしかに坩堝るつぼ鬼柱きばしらを上げるようになってから、段々と荒廃の一途を辿っていた闇の地に変化が起きている。 

 完全に発揮されていないと云われる天帝てんてい加護かごも、淀み肥大していたを払うことによって、どうやらこの地にも届くようになったのだろう。 

 寝殿の表を飾る前栽が若葉をつけ、緑が芽吹くようになった庭。 
 けれど明るい新緑を眺めても、彼の心に巣食うかげが晴れることはなかった。裏腹に沈んでいく思いがわだかまっている。 

 どんなにこの世に貢献しても、それは罪滅ぼしのようなものなのだ。 
 わざわいとしてこの世に有る自分。 
 天帝てんてい加護かごがうまく立ち行かない原因も、本当は自分に端を発しているのかもしれない。自分がこの世に生まれたことが、世界の全てを狂わせていく。 
 生まれたことが禍。生かされていることが罪。それ以外の何ものでもないのだと。 

「――太子様」 

 耳に残る甘い声が、彼の住まう寝殿に続く渡殿つりどのから響く。彼が弾かれたように顔を向けると、宵衣しようまとった美しい先守さきもりがするすると裾を滑らせながら、屋敷を渡ってくるところだった。 
 いつもは嬉しい訪問も、今日に限っては後ろめたさで素直に喜べない。坩堝るつぼに現れた鬼柱きばしらを見て、現れた彼女は全てを悟っている筈だった。 

華艶かえん美女びじょ」 

 呼びかけたまま立ち尽くしていると、彼女はふうわりと微笑む。この世のものとは思えぬほど艶やかな仕草で、彼の前に歩み寄った。彼女が動くたびに甘い香りが辺りに漂う。 

 最高位の先守さきもり。その美貌は圧倒的で見るものを魅了する。 
 どんな状況にあっても優しげな振る舞い、慈愛に満ちた言葉、美しい声、顔貌かおかたち。彼にとっては全てが、手の届かない憧れとして在った。 

「屋敷に人の姿が見えません。いかがなされたのですか」 

 何かを責める素振りもなく、華艶かえんは微笑んだまま寝殿から続く屋敷を眺める。おそらく全てを承知の上で尋ねているのだろう。 

「私にはもう必要ありませんので、暇を与えました。陛下にもそのようにお伝えください」 

 逃げ去った者達の心境が判らないわけでもない。職務放棄であると訴える気にはなれなかった。華艶は眼差まなざしに憂いを含ませて小さく呟く。 

「しばらくお会いしない内に、随分大人になられたようです。かしこまりました、陛下にはそのようにお伝えいたしましょう。その気遣い、優しさがどうして人々には届かぬのでしょうか」 

「無理もありません。私は――」 

 彼は言葉に詰まる。彼女が与えてくれた封印を外してしまったのは自分なのだ。 
 言い訳はできない。華艶は全てを知りながらも、決して責めることはないだろう。けれど、どんなふうに伝えるべきか逡巡していると、まるで他愛ないことを訊くように甘い声が尋ねた。 

「私が贈った無名の剣は、ついに折れてしまったのですか」 

「折れたわけでは……」 

 彼は一呼吸ついてから素直に打ち明けた。 

「折れたわけではありません。ずっと私の大切な護りでした。けれど、失ってしまったのです」 

 それは事実だった。朔夜さくや輪廻りんねに気を取られて気付かなかったが、この手から取り落としてからの、剣の行方が追えない。朔夜さくやとともに滅びてしまったのか、あるいは高くそらを目指す鬼(き)の黒柱に呑み込まれてしまったのか。不明だった。 

「せっかくあなたが与えてくれたのに、――申し訳ありません」 

 自分はわざわいとして恐慌を引き起こすみちを歩み始めてしまったのだ。詫びる言葉もない。この上もなく最悪な選択。華艶は無言でこちらを見つめていたが、口元の微笑みを絶やすことはなかった。何があろうとも、彼女は恐れることもなく向きあってくれる。 

 先守さきもりの最高位。歴代を振り返っても、その力は稀有けうな存在だという。彼女には全てが視えているのだろうか。だからこそ、自分を恐れる必要がないのかもしれない。 

「あなたが謝ることなど何一つありません。わたくしが役不足な剣を贈ってしまったのでしょう」 

 責めることもなく、叱ることもなく、華艶は大したことではないと言いたげに事実を受け入れる。動揺も狼狽もない。優しげな言葉と微笑みだけが返される。 
 やはり全てを察しているのだろう。そして、今更責めてもどうしようもないのだと、憤った処で取り返しがつかないのだと悟っているのかもしれない。 

「申し訳ありません」 

 彼は重ねて告げる。それしか言葉が見つけられなかったのだ。華艶は珍しく困ったように笑って、口元をゆったりと袖で覆う。吐息を漏らしたのがわかった。 

「太子様、あなたが罪悪に囚われることはないのです。剣を失うには、それ相応の理由があったのでしょう。あなたがその優しいお心を以って成したことを、誰が責められましょうか」 

 意気消沈している気配が、華艶には伝わってしまうのだろうか。彼女は言葉を重ねて慰めてくれるが、どんな労わりも胸に巣食った絶望的な呵責を拭うには至らない。 

 寝殿が静寂に包まれる。いつの間にか、はしゃいでいた麟華りんかの声が聞こえない。穏やかに傍に在った麒一きいちの姿も見えなくなっていた。彼は心細さを感じて、華艶に悟られぬようにそっと辺りに視線を漂わせた。寝殿から渡殿で結ばれた対屋たいのやに姿を見つけて安堵する。西対にしのたいには麟華、東対ひがしのたいには麒一が在った。共に対屋たいのやの廊に立ち、こちらを窺っているようだ。 

 麒一と麟華。守護――霊獣、黒麒麟くろきりん。 

 彼は人が守護を持つということを考える。それは大きな力を手に入れるということに等しい。彼らを受け入れたことは、自身がと成り果てることではない。霊獣を護りとして持つことが、この世の平穏を覆す一因として恐れられるのかもしれない。 

 いつかこの力を以って、自分は黄帝の敵となり、あるいはこの世の禍となるのだろうか。想像もつかないが、守護を携える今、その一歩を踏み出したことは間違いがない。 
 彼は顔をあげて、もう一度真っ直ぐに華艶を見た。彼女はゆるりと首を傾ける。 

「いかがなさいましたか」 

「人々が私のことを何と呼んでいるのか知っていますか」 

 華艶かえんは美しい顔を傾けたままこちらを見つめて、そっと視線を伏せた。知っているとは言いたくないのだろう。けれど、彼女が知らないわけがない。彼はためらわずに続けた。 

「人々は私のことを、――闇呪あんじゅと。そう呼んでいるようです。私には相応しい愛称です。華艶の美女、これからはあなたにもそう呼んでいただきたいのです」 

 華艶は哀しそうにこちらを見つめている。 

「そのようなくらき名を受け入れるというのですか」 

 艶やかな紫紺の眼差しが、いつもより潤んで見えた。慈悲深い彼女にとっては、受け入れがたいのかもしれない。彼が自嘲的に笑うと、華艶は小さく「わかりました」と答えた。彼女はするりと宵衣しようの裾を滑らせて、さらに彼に歩み寄る。 

「運命を嘆いておられるのですか」 

 突然言い当てられて、彼は顔を背けようとしたができなかった。華艶の白い両手が、彼の頬を包みこむように伸ばされる。ふわりと甘さが強く香った。 

「お独りで在ることが、寂しいのですか」 

「そんなことは……」 

 寂しくはない。自分はもう独りではない。胸に朔夜さくやの思いがある限り、守護を得てその優しさに応えようとする限り、決して独りだとは思わない。 
 ただ哀しいのだ。この世に生かされていることが、――哀しい。 

闇呪あんじゅきみ。あなたはお独りではありません。ここに、この華艶がおります」 

 朔夜さくやとは違う声で、彼女は自分を引き寄せる。 
 朔夜よりも強く自分に触れて、美しい顔と慈愛に満ちた声で抱きしめてくれる。 

わたくしがあなたの母となり姉となり、そして友となり、孤独を癒す恋人ともなりましょう。どうか、あなたが望むままに」 

「――華艶」 

 枯れ果て尽きたと思っていた涙が、再び溢れ出た。 
 決して寂しいわけではない。自分のために残された思いがある限り、独りであるとは思わない。 

 ただ、ここに在ることが苦しい。 

 華艶の慈愛をっても、胸に巣食った絶望は癒されない。救いにはならない。 
 わかっていても、彼は差し出された手を拒めるほど強くはなかった。行き場のない哀しみをどうすることも出来ないまま、与えられた慈悲に腕を伸ばし、縋った。
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