~短編集~恋する唇

秋野 林檎 

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行儀の良い唇(中編)

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今日の彼女は…おかしかった。
ぼんやりとして、なにか考えているようで、俺はPCのキーボードを叩きながら…キッチンに立つ彼女の後姿を見ていたが、白い項の小さな黒子が眼に入り、俺は慌てて眼を逸らした。

背が低いから、何を着ても似合わないの…と言って、なかなか一緒に外を歩いてくれない人。
キスをする直前…ぎゅっと眼を瞑り、唇を一文字にして…
まるで…来るなら来い!と戦いを挑むような緊張感を出す人。

可笑しくて…可愛くて…年上だとは思えず、それが堪らなく、愛おしくて…
ずっと一緒にいたいと思うようになったのは…ごく自然な事だった。

甘えるように…彼女の手料理をねだり
甘えて欲しくて…余裕などないのに、余裕があるような微笑みを浮かべて、彼女の話を聞いた。
その度に、真っ赤になったり、青くなったりする彼女は表情豊かで、時折年下のような気さえする。

だが…それは彼女の一端。

彼女は、俺を包むように受け入れてくれる。
それは大人の女性の豊かな愛を感じさせ…
俺の子供染みたわがままを…あの小さな体で抱きしめ、許し、そして愛してくれる。

敵わない…
…彼女は俺の遥か先を行く人。

大企業の研究室にいる彼女、大学も超一流で、俺とは全然違う。
5つも年下の学生の俺と大企業の研究室にいる彼女
どう見ても…俺が彼女の横に立つ男としては…見劣りする。

…その距離はどんどんと広がってゆく。

早く彼女の横に立てる男になりたいと俺は…焦った。
早くしないと…彼女が…彼女にふさわしい男に連れ去られていく。
俺は…怯え、焦る気持ちが…時折爆発し、あの小さくて、柔らかい体を離したくなくて、俺に縋って【抱いて】と言わせたくて、毎晩…狂ったように抱いた事もある。


ガキだ…。

俺は…彼女を抱く度に、幸せと、自分の子供染みた独占欲に悩まされていた。


*****

「3日前…店にいた?…」
いつもと違って、とげのある言葉を吐く彼女に…俺は聞いた。

3日前…ゼミのメンバーと入った店で、昼食をとった日だった。
傍らの子が、妙にベタベタしてきて…
『私…一人暮らしは始めてなんですが、料理は得意なんです。特に…オムライスが…』
と、上目遣いに見てきて、うんざりしていた。

一人暮らしで料理が得意…良かったね。でも…だからなんだよ。
オムライス…悪いけど、それほど好きじゃない。
俺が好きなのは、結衣が作る料理すべて。あんたの料理じゃない。

そんな俺の眼を何を勘違いしたのか、俺の唇に指を伸ばしてきた…俺は顔を少しずらし

『俺の唇に触んなよ。』

周りが一気冷え込んだのは解かったが、この手の女は、はっきり言ってやったほうがいい。
俺は右手で唇を拭い、大きく溜め息をついたときだった、視線を感じ…右の眼の端に映る人を見た。

カップルがいた。
ポール・スミスのスーツを着た30代の男性と
…黒い髪を緩く上げた女性がいた。

黒い髪と白い項…その項にある小さな黒子
彼女だと思った。彼女の後姿だと…

似合いのカップルだった。
落ち着いた男の雰囲気と…清楚でありながらも色気を感じる女は…
ドラマのワンシーンのようにも、思えるくらいだ。

見たくなかった…いや彼女じゃないと思いたかった、思わなければ…俺は壊れそうだった。
だから…忘れようとした。あれは見間違いと言い聞かせていた。

だが…俺に向かって…
【お行儀が悪い】と言って、俺からの視線を避ける彼女に…
俺のやる事が、ガキだと言いたいかのように聞こえ…それはあの男と比べられているように思えてしまい…

「3日前…店にいた?…」…と聞いてしまった。

どこの店と言ってもいないのに、彼女の顔が青褪めゆく様子に…やっぱり…と唇を噛んだ。

あの男なら、側に立つことを許すの?…大人だから

やっぱり俺ではふさわしくないって思っている?…お行儀の悪いガキだから

将来を預ける相手には…俺はやっぱり役不足なのか…

俺だって、結衣より年上で、落ち着いた男になりたかったよ。
仕事もしてて、すぐに結婚しようと言えるだけの経済力と自信があれば…俺だって…
結衣に愛しているから、結婚しようと言いたいよ。

だけど、しょうがないじゃないか!
結衣より…年下なんだから…学生なんだから…しょうがないじゃないか!

苦しかった。
自分が年下である事が…
自分がまだ学生である事が…

「結衣!!」

腕の中に囲い込んだ彼女が…俺を見上げ…なにかを言おうとした。
言わせたくなかった【さよなら】と言われたら…もう終わりだ。

なにも言わせないように、彼女の唇を…俺の唇で覆った。
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