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先祖代々が記してきた膨大な量の日誌を紐解く限り、サムウェル家は少なくとも八代前から刑吏の家系で、この世の終わりまでそれは変わらないのだろうと思われていた。
ヘンリー・ロイド・サムウェルは、王都デンズウィックのみならずダイラ中に名を馳せた類い希なる首斬り人だった。白茨塔の処刑場でサムウェルが罪人に剣を振るえば、肩から転がり落ちた首は己の死にも気づかぬまま真実を語る──とまで言われた。
彼は、遅くに生まれたひとり息子にしっかりと家業を教え込んだ。
人間の身体にはどのような急所があるか。どこを締め付ければ激痛が走るか。嘘をついている人間がどのように目を動かすか。外れた関節を元に戻すにはどうすればよいか。火傷した肌を治癒させるものと、さらなる苦痛をもたらすものは何か。そして、剣をどのように振るえば、罪人を苦しませることなく首を落とすことが出来るか。
その全てを海綿のように吸収し、ホラス・サムウェルは約束された刑吏になるはずだった。
ところがある日、十五歳のホラスは、審問官になるために神の家に入るつもりだと父に告げたのだった。ヘンリーは落胆した。できの良い息子が父の跡を継がぬと知って、どうして落胆せずにいられよう? だが、内心では喜んでいたはずだと、ホラスは思う。それが千載一遇の好機だということは、ふたりともよくわかっていたから。
犬殺し、屠殺人に墓掘り人。皮剥に煙突掃除人。自由な生まれの民が視界に入れるのさえはばかる、賎民と呼ばれる者たちがいる。ひとたび彼らに手を触れれば、たとえ貴族であっても賎民の境遇に落ちると、法によって定められている者たちだ。中でも最も忌み嫌われるのが首斬り人である。刑吏の家に生まれたものが神職に就くなどということは、まずあり得ない話だ。だからホラスは躊躇わず、それまでに身につけたものを捨てて神の道を歩むことにした。
何故なら、マギーを殺した人間を追うためには、どうしても審問官になる必要があったからだ。罪を犯した人外を裁くのは〈クラン〉の仕事だが、神の道を踏み外した人間を裁くのは審問官の仕事だ。刑吏に人を裁く権限はないが、審問官は神の名の下に、告発から裁判までを一貫して行うことが出来る。教王から与えられた権限により、審問官の捜査を邪魔できる者は──たとえ爵位をもった領主といえども──ほとんど存在しない。ホラスには何としても、その絶対的な力が必要だった。公の場で仇を断罪するためではない。どんな手を使ってでも、あの魔女狩りの黒幕にたどり着くためだ。そこから先の仕事を、法の手に委ねるつもりはなかった。
父は十五年前──ホラスが二十歳のときに逝った。息子の決断が復讐のためのものであると、最後まで知ることはなかった。
執務室に入ると、聖法官セオン・ブライアが、巨大な樫材の机の向こう側で、こちらに背を向けて立っていた。卿の部屋にタペストリーはない。その代わり、窓と暖炉を除いたほぼ全ての壁面には本棚が設えられ、その全てにぎっしりと本や書類が詰まっていた。それでも足りぬと言わんばかりに、係争中の事案に関係する書類が執務机の上に山積みになっている。
卿は窓から外を眺めていた。窓からは、地所の北側の境界と、その向こうを流れる川が見える。海が安定するこの季節は商船の出入りが激しい。船から降ろした──またはこれから積まれる荷物を満載した艀で、夏のノリスリン川はいつにも増して賑わう。
ホラスは卿の背中に向かって深い辞儀をした。すると、ブライア卿が口を開いた。
「彼の言葉は気にするな」
「聞こえていたのですか」
「全て聞こえたとも」ブライアは微笑んだ。「あの扉は、わざと薄くしてあるのだ」
先客──パラディール卿が帰り際に投げつけた『犬殺し』は、刑吏の家の出であるホラスへのあてつけだ。昔から、野犬を殺すのは刑吏の助手の仕事なのだ。
そんな立場の者が審問官になることが出来たのは、目の前にいる彼のおかげだった。マーガレットを殺され、復讐を求めて藻掻いていたホラスに、彼が手を差し伸べてくれたからこそ今の自分がある。
「我々のような立場の者にとって、出自の低さは有能さの証しだよ、ホラス。お前にも何度も教えてきたことだが」
ブライア卿自身も、かつては燈火売りの息子だった。夕暮れに街を練り歩き、民家に燈火用の火種を分け与える仕事だ。当時はまだ、市壁の内側で魔法を使うことが許されていたから、魔女が作った消えない蝋燭に頼らない生活をする家は少数だった。ブライアは父と共に、毎日足から血が流れるほど街中を歩き回って燈火を売ったという。
「はい。気にしておりません」ホラスは言った。「カルタニアはいかがでしたか」
ブライア卿は振り向いた。
「実りある会議……とはいかなかった。釈明に追われたよ」
窓から差し込む夏の光が、彼の顔貌に刻まれた疲労を克明に暴き立てている。出会った当時には一介の上級審問官だった彼が、この国の審問官の長に上り詰めるまでを、ホラスはすぐ傍で見てきた。いま彼は六十歳を超え、老境にさしかかろうとしている。かつてはぴんと伸びていた広い背中も、いつのまにか丸く縮こまっている。死んだ父の面影に、胸が小さく痛んだ。
俗世のひとであったなら、魔女が調合する薬に頼り、老いを先延ばしにすることも出来たかもしれない。だが祭司や教司、あるいは審問官の別を問わず、あらゆる神官は月神の力が籠もったものを使うことをかたく禁じられている。人間の医者が魔女に劣るとは一概には言えないが、ただの薬草と魔法との間には歴然たる効力の差があるのは確かだ。
ブライアは小さなため息をつきながら、張りぐるみの椅子に腰掛けた。
「ご無事にお戻りになって、なによりです」
とは言え、体調が万全なようにはとても見えなかった。卿が審問庁の廊下を歩けば、聖法官に叙任されたばかりの十年前と同じように、皆が頭を下げる。だが、恭しく見えるその影で、誰もが絨毯に重々しく沈み込む杖の先や、生彩を欠くようになった足取りを盗み見ているのだ。卿は老いて、今回の会議がそれに拍車をかけたのは明らかだった。
「叱責に次ぐ叱責だ」ブライアは言った。「ナドカに国土を与えたとして、我らが国王陛下を破門にすべきだという話まで出ている」
二年前の春に起こった〈アラニの叛乱〉によって、ある大きな呪いが解かれた。その呪いとは、ダイラの西、緑海に散らばる群島を覆っていた死の瘴気である。
ことの起こりは神話の時代。神々の座を追放された月神は、自らを保護したエイル国王の、ある望みを叶えてやることにした。それは、『我が子を決して死なぬ身にし、何人も彼の王国を侵略出来ぬようにして欲しい』という願いだった。
月神は彼の願いを叶えるべく、王の息子エダルトを吸血鬼に変え、エイルと隣国イムラヴを覆い尽くす死の瘴気をもたらした。結果、決して死なぬ身となったエダルトは長い年月の内に〈災禍〉と呼ばれる怪物に成り果て、瘴気に覆われた緑海には何人たりとも近づくことが出来なくなった。
一昨年、〈アラニ〉という叛乱勢力が、エダルトを正当なエイル王とすべく動き出した。彼の戴冠を以て呪いを打ち破り、エイルにナドカの国をつくることを目論んだのだ。
結局、エダルトが倒されたことにより呪いは解かれた。果たして、緑海の瘴気は晴れ、エイルとイムラヴは千年ぶりにこの世に姿を現した。そして、いまはその国を、ヴェルギルという吸血鬼が治めている。彼こそ、月神の呪いを招いた張本人であるシルリク王その人だ。
そしていま、ハロルド王は全ての陽神教国からの非難に晒されている。総面積にしてダイラの約半分ほどもある国土を惜しげもなくナドカに与えるとは、愚の骨頂だと。
怒りはもっともだとホラスも思う。是非はどうあれ、軽率だった。
「あの女狐の尻尾を、あと少しでも早くつかめていたら」卿は重々しくため息をつき、わずかに椅子に沈みこんだ。
伯爵位まで与えられたマルヴィナ・ムーンヴェイルという魔術師が、国王の寵愛を受けていたのは周知の事実だ。当の魔術師は、例の叛乱に巻き込まれて死んだ。叛乱の指導者はガランティスと呼ばれる魔術師で、その正体も消息も不明……ということになっている。
実際には、マルヴィナこそがガランティスの真の姿だった。彼女はナドカの国を作り上げるという目的を果たすために、国王に取り入っていたのだ。だが、その事実を知る者は少ない。国王の愛人が叛乱の指導者で、しかもナドカであったという事実が明るみに出れば、その混乱が及ぼす影響は国内に留まらないからだ。
「あの女は、国王の耳にナドカと人間の分断を囁き続けた。その結果、王は壁を築き、連中の怒りに火を注いで叛乱に駆り立てた……他でもないあの女が指揮を執る叛乱に、だ」
ホラスは長いことガランティス──もといマルヴィナを追っていた。調査はブライア本人の命を受けて内密に行われた。国王の愛人に疑いをかけていることが王本人に伝わりでもすれば、不興を買うのは必須だからだ。だが、あと少しというところで、女は〈クラン〉に処刑され、叛乱にまつわる真実も葬られた。関係していたと思われる者たちへの取り調べも行われたが、苦し紛れに絞り出された証言のいずれも、ガランティスとマルヴィナが同一人物だと証明するだけの根拠はなかった。
「申し訳ありません」ホラスは言った。「強引にでも事を進めるべきでした」
「よいのだ、ホラス」ブライアはゆっくりとした手の一振りで謝罪を脇に追いやった。「いまとなっては、あの女の名を口に出すことさえ、王はお許しにならぬ」
領土を手放すという王の決断が、マルヴィナの魔術の影響下にあったことには疑いの余地がない。おそらく、彼女は国王に契約を結ばせたのだろう。それを反故にすれば、重要ななにかが失われる類いの契約だ。たとえば、命のような。魔術師の常套手段だ。
「死んだ愛人への手向けとしては、ずいぶんと高価な代償を払うことになったな」
ブライアは深々とため息をつき、窓の外に目を向けた。
「なんとかして、この巨大な船の舵をとろうと思ったこともあった──神がお力添えくださると信じて」気弱な言葉とともに、卿の表情が翳る。「数百年の歴史が……忠臣らの尽力が、たったひとりの女に狂わされるとは、皮肉なものだな」
『危険な女に踊らされた、たったひとりの男の欲に』とも言える。ホラスは思ったが、胸の奥で握りつぶした。
「神は正しき者を助けて下さいます」ホラスは言った。「会議では、他にどのような話を? まさか、本当に一国の王を破門にはしますまい」
「神よ、かくあれかし」卿の声は暗かった。「しばらくは、あのナドカの国については様子をみるということで意見が一致した。どの国でも、厄介払いしたいナドカを抱えているのは同じだからな。体のいい流刑地とでも言うべきか──災い転じて、ということもあるかもしれぬ」
「それは……」
ホラスは口ごもった。エイルの王となった男とは面識がある。信頼よりもむしろ、警戒すべきだと判断する材料の方が多い。
「国民を譲り渡すのとおなじでは? エイルに国力をつけさせることになりませんか?」
するとブライアは、射貫くような目でホラスを見た。
「短剣は鋭く研いでおくものだ」彼は言った。「重要なのは、その柄を誰が握るか……ということだよ、ホラス」
神に仕える立場の者が権力の頂に近づけば近づくほど、清濁入り交じる奔流に身をさらすことになるのは世の習いなのかもしれない。この仕事に就いてからというもの、ホラスは数多くの神官と出会ってきた。権力の座にあるものたちの大半が、私欲にまみれた、尊敬には値しない人間であることも知っている。だが、ブライアが政を語るときに現われる懊悩の表情は本物だった。本心から国を憂えていなければ、そんな表情は浮かばない。
「エイルが……戦の切り札になるとお考えなのですか」
「どうであろうな」卿は虚空を見つめたまま言った。「それを、これから見極めねばなるまい」
窓の外を燕が横切り、鋭い影が部屋の中を撫でて消えた。それがきっかけであったように、ブライアは息を吸い込み、声色を変えた。
「お前を呼んだ理由を、まだ話していなかったな」
ホラスは背筋を伸ばした。「はい」
「いま取り組んでいる仕事は?」
ホラスは一瞬だけ目を閉じて、記憶を整列させた。
「不死の秘薬と称して偽薬を売っていた詐欺師の取り調べ、市外の魔法使いが所有している酒井戸を巡る訴訟と、市内で多発している失踪事件についての調査に着手しています」
「わたしが留守にしている間に、〈燈火警団〉の出動はあったか?」
「二度ほどありました。〈アラニ〉の残党が市外の酒場で暴れたので。しかし、ここ二日ほどは静かなものです。連中の大部分が北に向けて発ったのでしょう」
ブライアは満足そうに頷いた。「忙しくしているな。よいことだ」
ホラスは軽く辞儀をした。
「あのアシュモール人の助手は、まだお前が面倒を見ているのか?」
ホラスは嫌な緊張感に強ばりそうになる肩を、無理矢理緩めた。この部屋でマタルのことが話題にのぼる機会はそうそう訪れない。
マタルはホラスが私的に雇った助手ということになっている。アシュモールの文化に詳しい者はこの国には多くないし、そもそも、男でありながら魔女でもあるマタルは、アシュモールの習慣に照らしても異例の存在だ。よもや彼を魔女だと疑う者はいないだろう。ホラスは動揺を押し殺して、さりげなく答えた。
「はい。よく働いてくれます」
「結構。というのも、頼みたい仕事があるのだ。しかし、新たに正式な助手をつける余裕がない」
ここのところ、〈アラニ〉の残党が、北部の旧アルバ領に潜む人間の叛乱勢力と手を組んだという噂が囁かれていた。多くの審問官が、その調査のために駆り出されている。ホラスも、自分の部下のほとんどをそちらに向かわせた。
「助手が必要な仕事ということでしょうか」
「そうだ。わたしの旧い知り合いが窮地に陥ってな。娘が失踪したそうだ」
「市内で多発している失踪事件との関連があると?」
デンズウィックでは、今月に入って六人もの子供が姿を消していた。いずれも職人や町人の娘で、人間も、ナドカもいる。「わたしがこの事件の調査の担当です。間もなく〈クラン〉との共同捜査も開始される予定ですが──」
「いや、それとは事情が違う」ブライアは首を振った。「父親の話では、娘が居なくなった理由に心当たりがあるというのだ」
単なる家出に、審問官が関わる理由はひとつしかない。「もしやその娘は──」
「そうだ。魔女であった疑いがある。そのせいで家を出たのだと、父親は考えているのだよ」ブライアは重々しく頷いた。「内密に、だが素早く調査を進めて欲しいそうだ」
「依頼人の名前を伺っても?」
「ニコラス・ホーウッド卿。父親のエドワルドに次ぐ、ニューバーランド公だ。行方をくらました娘の名前は、エミリアという」
ホラスは後頭部を殴られたような気がした。
ニコラス・ホーウッド。
つい数日前に判明したばかりの、次の標的の名だ。まさか、それをこの部屋で耳にすることになろうとは。
「ニューバーランド公のことは、陛下も大いに頼りにしておられる。ニコラスは王港長官であり……エミリア嬢の姉は、ゲラード殿下の婚約者だ」
それは初耳だった。「第四王子が、貴族の娘と?」
王族の結婚は、他国や他地方の貴族との間で行われるのが普通だ。王族にとって結婚とは、互いが互いを人質として、同盟を強固にするための契約なのだ。それが、国内のいち貴族と結ばれるのは……王からよほどの功績を認められたということだ。
「誰にも漏らしてはならんぞ。内々に進められている話だ」
ホラスは深く頷いた。「はい」
「竜が我が国を狙っておる」ブライアの口調は、またどんよりとした調子に戻った。「まるで、それが世の習いであるかのようにな」
フェリジアとヴァスタリアが陽神教の旗印を背に、この国を飲み込む時を待ち構えている。国王が破門されれば、ダイラが積み上げてきた外交努力は無に帰し、後ろ盾もないまま海上で孤立する。大陸の国々は、最初の一矢を放つのに露ほどの躊躇もしないだろう。
ダイラの勢力で太刀打ちできるのか、誰にもわからない。だからこそ、鋭い短剣が必要なのだ。
エイルとの同盟が成るとしたら、それは短剣になりうる。戦艦を有する港を取り仕切る王港長官──その役目を歴任してきたホーウッド家と王家の結婚もまた、別の短剣となるのだろう。
「フェリジアの王女との婚約が破棄されていないのが、唯一の救いだな」
「そうですね」
だがそのために、ブライアはこの私邸を明け渡すことになる。
「王のなされようは……」
「それ以上言うな、ホラス。必要なことだとわかっているはずだ」ブライアは鋭い眼差しを向けた。「なに、陛下もしばらくすればわたしの忠義を思い出されるだろうよ。今は痛い言葉をお耳に入れたいご気分ではないのだ」
「はい」そうであればいいが、とホラスは思った。「ひとつ伺ってもよろしいでしょうか」
卿は両手を組んで、ホラスを見つめた。「よかろう」
「なぜわたしをお選びになったのです?」
すると、ブライアは頬の深い皺をいっそう深めて微笑んだ。
「一番の腕利きを向かわせると約束した」
光栄に思うべきだという思いと、後ろめたさとで冷や汗が出そうになる。表情をかくすために、ホラスは深々と頭を下げた。
「勿体ないお言葉です。お役に立てるよう尽力いたします」
「お前がはじめてわたしの前に現れたときのことを覚えているよ、ホラス」
ブライアは懐かしむように言った。椅子に深くもたれ、眼差しを窓の外に向ける。
「審問官にしてくれるまで放さないと、馬に乗ったわたしに纏わり付いてきたのだったな。馬に蹴られて死んでもおかしくはなかった」ブライアはホラスを見て、優しげな──そして、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。「見込みがあると思ったものだ。いま思えば、あれもまた神の思し召しだったのだろうよ」
「感謝してもしきれません」ホラスは言った。「あなたはわたしに──文字通り光を与えて下さった」
ブライアは満足げにうなずき、右手の人差し指と中指を宙に掲げた。
「我々が、民心の燈火とならねば」
「はい」
ホラスが恭しく頭を下げると、彼は指をまっすぐにおろした。デイナの祝福を授けるための聖なる印だ。
「汝の上に日輪の恩寵が降り注がんことを」そして、彼は言った。「では、行け。よい報告を待っている」
審問庁の執務室で留守中に溜まった仕事を片付けて、ようやく帰宅の途につく。
オールド・ゲートと呼ばれる市門から外に出て、ごちゃごちゃとした通りを馬でくぐり抜けると、ノリスリン川の支流であるダウ川にぶつかる。その川沿いを遡るように歩いて、腐った肉と小便が混ざり合ったような臭いが漂い始めると、そこが屠肉通り──ホラスの家がある通りだ。
においの源は川沿いに立ち並ぶなめし革工房や屠殺場だ。魔法が刻まれた石柱から常に清浄な風が吹くおかげで、悪臭はだいぶ弱まっているものの、ここに初めて足を踏み入れた者は鼻に皺を寄せるし、馬も落ちつかなげに尾を立てる。
ホラスの家は、通りの突き当たりにある、小さな厩とちょっとした広さの庭を備えた二階建ての邸宅だ。一介の審問官には贅沢な住まいだが、元は父の家で──ということはつまり、代々続く刑吏の家だった。刑吏は市壁の外、血や死を扱う他の賎民と一緒にブッチャーズ通りに住むよう定められているが、稼ぎは一般的な自由民よりも多い。父の跡を継がなかったホラスに代わって刑吏の仕事を引き継いだ甥のアンドリューは、通りの反対側に、これもまた立派な新居を構えている。
通りに人気はなく、職人たちが皮をなめすのに使う大鍋も火から下ろされ、冷え切っている。閉じられたよろい窓の隙間から、蝋燭の灯りと共に団らんの声が漏れてきていた。
厩をあずかるジョシュにリジンの手綱を任せて家に入ると、女中のマーサが、マタルが書斎にいることを教えてくれた。
最初の方こそマタルのことを警戒していた彼女だったが、今では甲斐甲斐しく面倒をみてくれている。一度など「マタル様がいらっしゃらないと、この家は本当に寂しく感じますわね」と面と向かって言われたこともある。三十過ぎた独り身の男の暮らしが華やかになるはずがないのは当然ではないかと思ったが、ホラス自身も、マタルが不在にしているときには、この街や家をどこか虚ろだと感じるようになっていた。
当のマタルは、二階にある書斎の窓辺に置かれた椅子に横向きに腰掛けて、本を読んでいた。二十二歳の彼は、出会ったときとは比べようもないほど見事に成長した。それでもホラスの目には、大人びた顔に浮かぶ夢中の表情に、誰の助けも借りずに共通語の物語を読破しようとしていた幼い頃の面影が蘇る。
「遅かったな」本から目を上げずに、マタルは言った。
彼は市場で手に入れたらしい三文小説を読んでいた。市壁の中で魔法の使用が禁じられてからというもの、こうした小説の発行部数は目に見えて減り、価格は高騰している。それまで魔法仕掛けで動いていた印刷機を、人の手で回さねばならなくなったせいだ。だがマタルはそれでも、新しい物語を手に入れるための金を惜しまなかった。
「じじいは何だって?」
ホラスは外套を脱ぎながら、マタルに厳しい目を向けようとした。
「じじいじゃない。セオン・ブライア卿だ」一音ずつはっきりと口にする。「行方不明者の捜索を託された」
すると、マタルは本から顔を上げ、椅子に正しく座り直した。「例の連続失踪事件なら、もとからあなたの担当だろ?」
「いや、それとは別だ。行方不明になった貴族の娘の行方を捜す」
「行方不明になった貴族の娘? 俺たちはいつから警吏に鞍替えしたんだっけ」
「被害者は、魔女だったらしい」
マタルは濃い眉を顰めた。「それなら、〈クラン〉に頼めばいいんじゃないのか」
「そうなんだが……色々込み入っているんだ」ホラスはため息をついた。「食事の後で話そう。今日は大変な一日だった」
ヘンリー・ロイド・サムウェルは、王都デンズウィックのみならずダイラ中に名を馳せた類い希なる首斬り人だった。白茨塔の処刑場でサムウェルが罪人に剣を振るえば、肩から転がり落ちた首は己の死にも気づかぬまま真実を語る──とまで言われた。
彼は、遅くに生まれたひとり息子にしっかりと家業を教え込んだ。
人間の身体にはどのような急所があるか。どこを締め付ければ激痛が走るか。嘘をついている人間がどのように目を動かすか。外れた関節を元に戻すにはどうすればよいか。火傷した肌を治癒させるものと、さらなる苦痛をもたらすものは何か。そして、剣をどのように振るえば、罪人を苦しませることなく首を落とすことが出来るか。
その全てを海綿のように吸収し、ホラス・サムウェルは約束された刑吏になるはずだった。
ところがある日、十五歳のホラスは、審問官になるために神の家に入るつもりだと父に告げたのだった。ヘンリーは落胆した。できの良い息子が父の跡を継がぬと知って、どうして落胆せずにいられよう? だが、内心では喜んでいたはずだと、ホラスは思う。それが千載一遇の好機だということは、ふたりともよくわかっていたから。
犬殺し、屠殺人に墓掘り人。皮剥に煙突掃除人。自由な生まれの民が視界に入れるのさえはばかる、賎民と呼ばれる者たちがいる。ひとたび彼らに手を触れれば、たとえ貴族であっても賎民の境遇に落ちると、法によって定められている者たちだ。中でも最も忌み嫌われるのが首斬り人である。刑吏の家に生まれたものが神職に就くなどということは、まずあり得ない話だ。だからホラスは躊躇わず、それまでに身につけたものを捨てて神の道を歩むことにした。
何故なら、マギーを殺した人間を追うためには、どうしても審問官になる必要があったからだ。罪を犯した人外を裁くのは〈クラン〉の仕事だが、神の道を踏み外した人間を裁くのは審問官の仕事だ。刑吏に人を裁く権限はないが、審問官は神の名の下に、告発から裁判までを一貫して行うことが出来る。教王から与えられた権限により、審問官の捜査を邪魔できる者は──たとえ爵位をもった領主といえども──ほとんど存在しない。ホラスには何としても、その絶対的な力が必要だった。公の場で仇を断罪するためではない。どんな手を使ってでも、あの魔女狩りの黒幕にたどり着くためだ。そこから先の仕事を、法の手に委ねるつもりはなかった。
父は十五年前──ホラスが二十歳のときに逝った。息子の決断が復讐のためのものであると、最後まで知ることはなかった。
執務室に入ると、聖法官セオン・ブライアが、巨大な樫材の机の向こう側で、こちらに背を向けて立っていた。卿の部屋にタペストリーはない。その代わり、窓と暖炉を除いたほぼ全ての壁面には本棚が設えられ、その全てにぎっしりと本や書類が詰まっていた。それでも足りぬと言わんばかりに、係争中の事案に関係する書類が執務机の上に山積みになっている。
卿は窓から外を眺めていた。窓からは、地所の北側の境界と、その向こうを流れる川が見える。海が安定するこの季節は商船の出入りが激しい。船から降ろした──またはこれから積まれる荷物を満載した艀で、夏のノリスリン川はいつにも増して賑わう。
ホラスは卿の背中に向かって深い辞儀をした。すると、ブライア卿が口を開いた。
「彼の言葉は気にするな」
「聞こえていたのですか」
「全て聞こえたとも」ブライアは微笑んだ。「あの扉は、わざと薄くしてあるのだ」
先客──パラディール卿が帰り際に投げつけた『犬殺し』は、刑吏の家の出であるホラスへのあてつけだ。昔から、野犬を殺すのは刑吏の助手の仕事なのだ。
そんな立場の者が審問官になることが出来たのは、目の前にいる彼のおかげだった。マーガレットを殺され、復讐を求めて藻掻いていたホラスに、彼が手を差し伸べてくれたからこそ今の自分がある。
「我々のような立場の者にとって、出自の低さは有能さの証しだよ、ホラス。お前にも何度も教えてきたことだが」
ブライア卿自身も、かつては燈火売りの息子だった。夕暮れに街を練り歩き、民家に燈火用の火種を分け与える仕事だ。当時はまだ、市壁の内側で魔法を使うことが許されていたから、魔女が作った消えない蝋燭に頼らない生活をする家は少数だった。ブライアは父と共に、毎日足から血が流れるほど街中を歩き回って燈火を売ったという。
「はい。気にしておりません」ホラスは言った。「カルタニアはいかがでしたか」
ブライア卿は振り向いた。
「実りある会議……とはいかなかった。釈明に追われたよ」
窓から差し込む夏の光が、彼の顔貌に刻まれた疲労を克明に暴き立てている。出会った当時には一介の上級審問官だった彼が、この国の審問官の長に上り詰めるまでを、ホラスはすぐ傍で見てきた。いま彼は六十歳を超え、老境にさしかかろうとしている。かつてはぴんと伸びていた広い背中も、いつのまにか丸く縮こまっている。死んだ父の面影に、胸が小さく痛んだ。
俗世のひとであったなら、魔女が調合する薬に頼り、老いを先延ばしにすることも出来たかもしれない。だが祭司や教司、あるいは審問官の別を問わず、あらゆる神官は月神の力が籠もったものを使うことをかたく禁じられている。人間の医者が魔女に劣るとは一概には言えないが、ただの薬草と魔法との間には歴然たる効力の差があるのは確かだ。
ブライアは小さなため息をつきながら、張りぐるみの椅子に腰掛けた。
「ご無事にお戻りになって、なによりです」
とは言え、体調が万全なようにはとても見えなかった。卿が審問庁の廊下を歩けば、聖法官に叙任されたばかりの十年前と同じように、皆が頭を下げる。だが、恭しく見えるその影で、誰もが絨毯に重々しく沈み込む杖の先や、生彩を欠くようになった足取りを盗み見ているのだ。卿は老いて、今回の会議がそれに拍車をかけたのは明らかだった。
「叱責に次ぐ叱責だ」ブライアは言った。「ナドカに国土を与えたとして、我らが国王陛下を破門にすべきだという話まで出ている」
二年前の春に起こった〈アラニの叛乱〉によって、ある大きな呪いが解かれた。その呪いとは、ダイラの西、緑海に散らばる群島を覆っていた死の瘴気である。
ことの起こりは神話の時代。神々の座を追放された月神は、自らを保護したエイル国王の、ある望みを叶えてやることにした。それは、『我が子を決して死なぬ身にし、何人も彼の王国を侵略出来ぬようにして欲しい』という願いだった。
月神は彼の願いを叶えるべく、王の息子エダルトを吸血鬼に変え、エイルと隣国イムラヴを覆い尽くす死の瘴気をもたらした。結果、決して死なぬ身となったエダルトは長い年月の内に〈災禍〉と呼ばれる怪物に成り果て、瘴気に覆われた緑海には何人たりとも近づくことが出来なくなった。
一昨年、〈アラニ〉という叛乱勢力が、エダルトを正当なエイル王とすべく動き出した。彼の戴冠を以て呪いを打ち破り、エイルにナドカの国をつくることを目論んだのだ。
結局、エダルトが倒されたことにより呪いは解かれた。果たして、緑海の瘴気は晴れ、エイルとイムラヴは千年ぶりにこの世に姿を現した。そして、いまはその国を、ヴェルギルという吸血鬼が治めている。彼こそ、月神の呪いを招いた張本人であるシルリク王その人だ。
そしていま、ハロルド王は全ての陽神教国からの非難に晒されている。総面積にしてダイラの約半分ほどもある国土を惜しげもなくナドカに与えるとは、愚の骨頂だと。
怒りはもっともだとホラスも思う。是非はどうあれ、軽率だった。
「あの女狐の尻尾を、あと少しでも早くつかめていたら」卿は重々しくため息をつき、わずかに椅子に沈みこんだ。
伯爵位まで与えられたマルヴィナ・ムーンヴェイルという魔術師が、国王の寵愛を受けていたのは周知の事実だ。当の魔術師は、例の叛乱に巻き込まれて死んだ。叛乱の指導者はガランティスと呼ばれる魔術師で、その正体も消息も不明……ということになっている。
実際には、マルヴィナこそがガランティスの真の姿だった。彼女はナドカの国を作り上げるという目的を果たすために、国王に取り入っていたのだ。だが、その事実を知る者は少ない。国王の愛人が叛乱の指導者で、しかもナドカであったという事実が明るみに出れば、その混乱が及ぼす影響は国内に留まらないからだ。
「あの女は、国王の耳にナドカと人間の分断を囁き続けた。その結果、王は壁を築き、連中の怒りに火を注いで叛乱に駆り立てた……他でもないあの女が指揮を執る叛乱に、だ」
ホラスは長いことガランティス──もといマルヴィナを追っていた。調査はブライア本人の命を受けて内密に行われた。国王の愛人に疑いをかけていることが王本人に伝わりでもすれば、不興を買うのは必須だからだ。だが、あと少しというところで、女は〈クラン〉に処刑され、叛乱にまつわる真実も葬られた。関係していたと思われる者たちへの取り調べも行われたが、苦し紛れに絞り出された証言のいずれも、ガランティスとマルヴィナが同一人物だと証明するだけの根拠はなかった。
「申し訳ありません」ホラスは言った。「強引にでも事を進めるべきでした」
「よいのだ、ホラス」ブライアはゆっくりとした手の一振りで謝罪を脇に追いやった。「いまとなっては、あの女の名を口に出すことさえ、王はお許しにならぬ」
領土を手放すという王の決断が、マルヴィナの魔術の影響下にあったことには疑いの余地がない。おそらく、彼女は国王に契約を結ばせたのだろう。それを反故にすれば、重要ななにかが失われる類いの契約だ。たとえば、命のような。魔術師の常套手段だ。
「死んだ愛人への手向けとしては、ずいぶんと高価な代償を払うことになったな」
ブライアは深々とため息をつき、窓の外に目を向けた。
「なんとかして、この巨大な船の舵をとろうと思ったこともあった──神がお力添えくださると信じて」気弱な言葉とともに、卿の表情が翳る。「数百年の歴史が……忠臣らの尽力が、たったひとりの女に狂わされるとは、皮肉なものだな」
『危険な女に踊らされた、たったひとりの男の欲に』とも言える。ホラスは思ったが、胸の奥で握りつぶした。
「神は正しき者を助けて下さいます」ホラスは言った。「会議では、他にどのような話を? まさか、本当に一国の王を破門にはしますまい」
「神よ、かくあれかし」卿の声は暗かった。「しばらくは、あのナドカの国については様子をみるということで意見が一致した。どの国でも、厄介払いしたいナドカを抱えているのは同じだからな。体のいい流刑地とでも言うべきか──災い転じて、ということもあるかもしれぬ」
「それは……」
ホラスは口ごもった。エイルの王となった男とは面識がある。信頼よりもむしろ、警戒すべきだと判断する材料の方が多い。
「国民を譲り渡すのとおなじでは? エイルに国力をつけさせることになりませんか?」
するとブライアは、射貫くような目でホラスを見た。
「短剣は鋭く研いでおくものだ」彼は言った。「重要なのは、その柄を誰が握るか……ということだよ、ホラス」
神に仕える立場の者が権力の頂に近づけば近づくほど、清濁入り交じる奔流に身をさらすことになるのは世の習いなのかもしれない。この仕事に就いてからというもの、ホラスは数多くの神官と出会ってきた。権力の座にあるものたちの大半が、私欲にまみれた、尊敬には値しない人間であることも知っている。だが、ブライアが政を語るときに現われる懊悩の表情は本物だった。本心から国を憂えていなければ、そんな表情は浮かばない。
「エイルが……戦の切り札になるとお考えなのですか」
「どうであろうな」卿は虚空を見つめたまま言った。「それを、これから見極めねばなるまい」
窓の外を燕が横切り、鋭い影が部屋の中を撫でて消えた。それがきっかけであったように、ブライアは息を吸い込み、声色を変えた。
「お前を呼んだ理由を、まだ話していなかったな」
ホラスは背筋を伸ばした。「はい」
「いま取り組んでいる仕事は?」
ホラスは一瞬だけ目を閉じて、記憶を整列させた。
「不死の秘薬と称して偽薬を売っていた詐欺師の取り調べ、市外の魔法使いが所有している酒井戸を巡る訴訟と、市内で多発している失踪事件についての調査に着手しています」
「わたしが留守にしている間に、〈燈火警団〉の出動はあったか?」
「二度ほどありました。〈アラニ〉の残党が市外の酒場で暴れたので。しかし、ここ二日ほどは静かなものです。連中の大部分が北に向けて発ったのでしょう」
ブライアは満足そうに頷いた。「忙しくしているな。よいことだ」
ホラスは軽く辞儀をした。
「あのアシュモール人の助手は、まだお前が面倒を見ているのか?」
ホラスは嫌な緊張感に強ばりそうになる肩を、無理矢理緩めた。この部屋でマタルのことが話題にのぼる機会はそうそう訪れない。
マタルはホラスが私的に雇った助手ということになっている。アシュモールの文化に詳しい者はこの国には多くないし、そもそも、男でありながら魔女でもあるマタルは、アシュモールの習慣に照らしても異例の存在だ。よもや彼を魔女だと疑う者はいないだろう。ホラスは動揺を押し殺して、さりげなく答えた。
「はい。よく働いてくれます」
「結構。というのも、頼みたい仕事があるのだ。しかし、新たに正式な助手をつける余裕がない」
ここのところ、〈アラニ〉の残党が、北部の旧アルバ領に潜む人間の叛乱勢力と手を組んだという噂が囁かれていた。多くの審問官が、その調査のために駆り出されている。ホラスも、自分の部下のほとんどをそちらに向かわせた。
「助手が必要な仕事ということでしょうか」
「そうだ。わたしの旧い知り合いが窮地に陥ってな。娘が失踪したそうだ」
「市内で多発している失踪事件との関連があると?」
デンズウィックでは、今月に入って六人もの子供が姿を消していた。いずれも職人や町人の娘で、人間も、ナドカもいる。「わたしがこの事件の調査の担当です。間もなく〈クラン〉との共同捜査も開始される予定ですが──」
「いや、それとは事情が違う」ブライアは首を振った。「父親の話では、娘が居なくなった理由に心当たりがあるというのだ」
単なる家出に、審問官が関わる理由はひとつしかない。「もしやその娘は──」
「そうだ。魔女であった疑いがある。そのせいで家を出たのだと、父親は考えているのだよ」ブライアは重々しく頷いた。「内密に、だが素早く調査を進めて欲しいそうだ」
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「ニコラス・ホーウッド卿。父親のエドワルドに次ぐ、ニューバーランド公だ。行方をくらました娘の名前は、エミリアという」
ホラスは後頭部を殴られたような気がした。
ニコラス・ホーウッド。
つい数日前に判明したばかりの、次の標的の名だ。まさか、それをこの部屋で耳にすることになろうとは。
「ニューバーランド公のことは、陛下も大いに頼りにしておられる。ニコラスは王港長官であり……エミリア嬢の姉は、ゲラード殿下の婚約者だ」
それは初耳だった。「第四王子が、貴族の娘と?」
王族の結婚は、他国や他地方の貴族との間で行われるのが普通だ。王族にとって結婚とは、互いが互いを人質として、同盟を強固にするための契約なのだ。それが、国内のいち貴族と結ばれるのは……王からよほどの功績を認められたということだ。
「誰にも漏らしてはならんぞ。内々に進められている話だ」
ホラスは深く頷いた。「はい」
「竜が我が国を狙っておる」ブライアの口調は、またどんよりとした調子に戻った。「まるで、それが世の習いであるかのようにな」
フェリジアとヴァスタリアが陽神教の旗印を背に、この国を飲み込む時を待ち構えている。国王が破門されれば、ダイラが積み上げてきた外交努力は無に帰し、後ろ盾もないまま海上で孤立する。大陸の国々は、最初の一矢を放つのに露ほどの躊躇もしないだろう。
ダイラの勢力で太刀打ちできるのか、誰にもわからない。だからこそ、鋭い短剣が必要なのだ。
エイルとの同盟が成るとしたら、それは短剣になりうる。戦艦を有する港を取り仕切る王港長官──その役目を歴任してきたホーウッド家と王家の結婚もまた、別の短剣となるのだろう。
「フェリジアの王女との婚約が破棄されていないのが、唯一の救いだな」
「そうですね」
だがそのために、ブライアはこの私邸を明け渡すことになる。
「王のなされようは……」
「それ以上言うな、ホラス。必要なことだとわかっているはずだ」ブライアは鋭い眼差しを向けた。「なに、陛下もしばらくすればわたしの忠義を思い出されるだろうよ。今は痛い言葉をお耳に入れたいご気分ではないのだ」
「はい」そうであればいいが、とホラスは思った。「ひとつ伺ってもよろしいでしょうか」
卿は両手を組んで、ホラスを見つめた。「よかろう」
「なぜわたしをお選びになったのです?」
すると、ブライアは頬の深い皺をいっそう深めて微笑んだ。
「一番の腕利きを向かわせると約束した」
光栄に思うべきだという思いと、後ろめたさとで冷や汗が出そうになる。表情をかくすために、ホラスは深々と頭を下げた。
「勿体ないお言葉です。お役に立てるよう尽力いたします」
「お前がはじめてわたしの前に現れたときのことを覚えているよ、ホラス」
ブライアは懐かしむように言った。椅子に深くもたれ、眼差しを窓の外に向ける。
「審問官にしてくれるまで放さないと、馬に乗ったわたしに纏わり付いてきたのだったな。馬に蹴られて死んでもおかしくはなかった」ブライアはホラスを見て、優しげな──そして、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。「見込みがあると思ったものだ。いま思えば、あれもまた神の思し召しだったのだろうよ」
「感謝してもしきれません」ホラスは言った。「あなたはわたしに──文字通り光を与えて下さった」
ブライアは満足げにうなずき、右手の人差し指と中指を宙に掲げた。
「我々が、民心の燈火とならねば」
「はい」
ホラスが恭しく頭を下げると、彼は指をまっすぐにおろした。デイナの祝福を授けるための聖なる印だ。
「汝の上に日輪の恩寵が降り注がんことを」そして、彼は言った。「では、行け。よい報告を待っている」
審問庁の執務室で留守中に溜まった仕事を片付けて、ようやく帰宅の途につく。
オールド・ゲートと呼ばれる市門から外に出て、ごちゃごちゃとした通りを馬でくぐり抜けると、ノリスリン川の支流であるダウ川にぶつかる。その川沿いを遡るように歩いて、腐った肉と小便が混ざり合ったような臭いが漂い始めると、そこが屠肉通り──ホラスの家がある通りだ。
においの源は川沿いに立ち並ぶなめし革工房や屠殺場だ。魔法が刻まれた石柱から常に清浄な風が吹くおかげで、悪臭はだいぶ弱まっているものの、ここに初めて足を踏み入れた者は鼻に皺を寄せるし、馬も落ちつかなげに尾を立てる。
ホラスの家は、通りの突き当たりにある、小さな厩とちょっとした広さの庭を備えた二階建ての邸宅だ。一介の審問官には贅沢な住まいだが、元は父の家で──ということはつまり、代々続く刑吏の家だった。刑吏は市壁の外、血や死を扱う他の賎民と一緒にブッチャーズ通りに住むよう定められているが、稼ぎは一般的な自由民よりも多い。父の跡を継がなかったホラスに代わって刑吏の仕事を引き継いだ甥のアンドリューは、通りの反対側に、これもまた立派な新居を構えている。
通りに人気はなく、職人たちが皮をなめすのに使う大鍋も火から下ろされ、冷え切っている。閉じられたよろい窓の隙間から、蝋燭の灯りと共に団らんの声が漏れてきていた。
厩をあずかるジョシュにリジンの手綱を任せて家に入ると、女中のマーサが、マタルが書斎にいることを教えてくれた。
最初の方こそマタルのことを警戒していた彼女だったが、今では甲斐甲斐しく面倒をみてくれている。一度など「マタル様がいらっしゃらないと、この家は本当に寂しく感じますわね」と面と向かって言われたこともある。三十過ぎた独り身の男の暮らしが華やかになるはずがないのは当然ではないかと思ったが、ホラス自身も、マタルが不在にしているときには、この街や家をどこか虚ろだと感じるようになっていた。
当のマタルは、二階にある書斎の窓辺に置かれた椅子に横向きに腰掛けて、本を読んでいた。二十二歳の彼は、出会ったときとは比べようもないほど見事に成長した。それでもホラスの目には、大人びた顔に浮かぶ夢中の表情に、誰の助けも借りずに共通語の物語を読破しようとしていた幼い頃の面影が蘇る。
「遅かったな」本から目を上げずに、マタルは言った。
彼は市場で手に入れたらしい三文小説を読んでいた。市壁の中で魔法の使用が禁じられてからというもの、こうした小説の発行部数は目に見えて減り、価格は高騰している。それまで魔法仕掛けで動いていた印刷機を、人の手で回さねばならなくなったせいだ。だがマタルはそれでも、新しい物語を手に入れるための金を惜しまなかった。
「じじいは何だって?」
ホラスは外套を脱ぎながら、マタルに厳しい目を向けようとした。
「じじいじゃない。セオン・ブライア卿だ」一音ずつはっきりと口にする。「行方不明者の捜索を託された」
すると、マタルは本から顔を上げ、椅子に正しく座り直した。「例の連続失踪事件なら、もとからあなたの担当だろ?」
「いや、それとは別だ。行方不明になった貴族の娘の行方を捜す」
「行方不明になった貴族の娘? 俺たちはいつから警吏に鞍替えしたんだっけ」
「被害者は、魔女だったらしい」
マタルは濃い眉を顰めた。「それなら、〈クラン〉に頼めばいいんじゃないのか」
「そうなんだが……色々込み入っているんだ」ホラスはため息をついた。「食事の後で話そう。今日は大変な一日だった」
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