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審問庁の庁舎というのは、実に気が滅入る建物だ。
羊の毛織物でできた天幕とともに、駱駝に詰め込めるだけのものを持って旅する遊牧民からすれば、地面から引き剥がせない石の建物も、その石に豪華な装飾を施すのも大いなる無駄だと思いたくなる。それでも、聖堂と審問庁舎のどちらがマシかと尋ねられたら、マタルは大して迷わずに聖堂を選ぶ。聖堂には、ある種の祈りがある。自分とは違う価値観であるとは言え、天に向かって手を組み合わせて祈るだけでは足りない思いが込められているのは、マタルにもわかる。
だが審問庁舎は、教王その人の命令によって建設されたにもかかわらず、祈りを連想させるものが何処にもなかった。目を楽しませる装飾も、部屋を光で満たす色硝子の窓もない。穴に硝子を嵌めただけのものが、明かり取りのために並んでいるに過ぎない。素っ気ない石造りの箱は、今にも地面に沈み込みそうなほど重々しかった。
馬を預けて庁舎の門戸をくぐると、途端に、こちらを押しつぶすような圧を感じた。ここに来る機会がそうそう訪れるわけではないけれど、その度に、人間がただ人間であると言うだけで、この敵意にも似た居心地の悪さを感じないことを不思議に思う。
魔女の遺体は、審問庁の地下に安置されているという。
審問官という立場上、ホラスが死んだナドカを見る機会は多い。彼自身は、種によって差がでることのないように細心の注意を払っているけれど、魔女の死が与える影響は、やはり大きい。ホラスの身体から発散される緊張に触れながら、マタルは彼のうしろにぴったりとくっついて、影のように静かに歩いた。
審問庁と、そこに属する者たちは、魔力が籠もっているものを一切使用しない。つまり、最も基本的な魔道具の恩恵にさえあずかれないと言うことだ。一度火を灯せば何年も輝き続ける永夜蝋燭は人間の日常にすっかり溶け込んだ日用品だが、それも使えない。蝋燭の火は頼りないうえにしょっちゅう消えてしまう。そのせいもあって、この建物はいつでも薄暗く、陰気で、辛気くさい。
「まるで石棺だな」
マタルが呟くと、ホラスは小さな笑みを浮かべた。同意はするが、そういうものだと諦めている、ということだろう。
地下室に入るのは初めてだったけれど、こんな建物の地下なのだと考えるだけで気が滅入りそうになる。きっと薄暗くてじめじめした、死臭漂う場所なのだろう。だが、予想はあっさりと裏切られた。
階段を下り、ホラスが目当ての部屋の扉を開けると、まるで昼のような光が溢れ出したので、マタルは思わず目を背けた。
「やあ、サムウェル!」
マタルが初めて聞く声に向かって、ホラスが進み出た。
「テニエス?」
何度か目をしばたかせて眩しい光に慣れると、ホラスと見知らぬ男が握手を交わしているのが見えた。眩い光の中で、男が身に纏った学者の黒衣は、まるでインクの染みのようだ。若い印象を受けたけれど、よくよく見ればホラスよりもだいぶ年かさだった。愛想の良さと、眼鏡の奥でよく動く表情豊かな眉のせいで、実際より若く見えるのかもしれない。茶の混じる金髪は短く切りそろえられていて、清潔そうだった。
「ここであなたに会うとは」ホラスが言った。「検屍はあなたの専門ではないのに」
テニエスは肩をすくめた。「例の件でジャイルズが北に行ってしまっただろう? 卿に是非にと言われてね。この街で検屍が出来るのは僕とウェストンしか残っていないんだよ。まあ少なくとも、死因について思いを巡らせて、報告書を作るくらいは出来るからね」
「人手不足こそ、我ら審問官に与えられた試練ですね」ホラスは言った。「しかし、担当があなたでよかった。別件でお尋ねしたいことがあったんです」
「なんなりと。それにウェストンの報告書では、解読するのに一日余計にかかってしまうだろう?」テニエスは笑った。
「確かに」
会話を続ける二人の肩越しに、マタルは部屋の中を覗き込んだ。
普通の蝋燭しか使えないはずの地下室が明るいのは、天井や壁面を埋め尽くさんばかりに取り付けられた鏡のおかげだった。わずかな傾斜を伴って配置された鏡が、光をあちこちへ反射させることで、乏しい光を最大限に増幅していた。灯りの下には石で出来た長机がある。遺体は、そこに安置されていた。
「やあ、そちらが噂の助手か」テニエスが言い、手を差し出してきた。「はじめまして。オスニエル・テニエスだ。ブライア卿に仕えて……そうだな、人やナドカの……しくみについて研究している」
「マタルです」
異邦人だからといって、優しい言葉に置き換えて説明して貰う必要はないのだと言い返す代わりに、必要最低限の情報だけ渡して気のない握手をした。
テニエスの手は冷たかった。瞳の色が菫色で、なおかつ頭髪が著しく後退していなければ吸血鬼だと思っただろう。血の欲望を制御できるようになるまで生き延びた吸血鬼は、学者という生業に落ち着くことが多い。なにせ長生きだから、心ゆくまで知識を追うことが出来る。まあ、そのせいで常軌を逸してしまう者もいるけれど。
彼の傍にいると、何故か落ち着かない気分にさせられた。テニエスの興味がホラスに向くと、マタルは気づかれないようにそっと、彼の目の届かないところに移動した。
†
「では、被害者について聞かせてもらえますか」ホラスは言い、部屋の奥へと進んだ。
テニエスは、遺体の横に置かれた覚え書きを手に取った。
「身元不明の女性だ。年齢は二十歳から三十歳の間。瞳の色は緑。頭髪は茶──」テニエスが遺体に掛けられた白い布を剥ぐと、皓皓とした灯りの下に、青白い裸身が姿を現した。腐臭とは違う、ドブのような悪臭が漂いはじめる。「着ていた服はあちらに拡げてある。濡れていたので、脱がせるために裂いてしまったが」
言葉の通り、長机の隣にある台の上に立派なガウンが広げられていた。裾から胸元までをざっくりと切り裂かれてはいるが、上流階級の既婚女性が着るような上等のものだ。
「彼女を魔女と特定した理由は?」
「これを見てくれ」テニエスは、遺体の右側を持ち上げて身体を横向きにした。「右腿の上にある入れ墨がわかるかい?」
青い五芒星が、三つ刻まれていた。
「なるほど」ホラスは言った。「〈真夜中の集会〉の者か」
「入会の時に、彼女たちはこの入れ墨を施す。仲間の連帯を強めるためにね」
「どこで発見されたんです? 状況は?」
「ダウ川に浮かんだ死体を、渡し船の船頭が発見した。最初に警吏が呼ばれたが、入れ墨を確認した後でこちらに回されてきたんだ」
「ダウ川。それで、この匂いか」ホラスは遺体にかがみ込んだ。「死因は?」
「目立った外傷はないし、毒を飲まされたような痕跡もない。おそらく溺死だろう」
「解剖はしなかったんですね」
テニエスは肩をすくめた。「ああ。必要があると思わなかったからね。ここを汚すと、あとで嫌味を言われるんだ。なるべく外からの確認だけで済ませたいんだよ」
ブライア卿は多くの大事を成し遂げてきたが、テニエスを援助して彼を学者にまでしたことが賢明だったのかについては、判断を差し控えるほかない。たしか、彼の父親は高名な錬金術師だったと聞いている。息子であるテニエスにその素地があったとしても、見出されぬまま今に至っている。ウェストンの報告書は、解読するのに一日余計にかかっても、緻密で道理が通っている。テニエスの報告書には、頭を掻きむしりたくなるほど抜けが多い。自身の研究を優先するあまり、こうした仕事には集中して取り組めないのかもしれないが。
「ふむ」ホラスは遺体の観察を続けた。「肌はきれいだし、魚に食われてもいない。長いあいだ川に浮かんでいたとは考えづらいですね」
「そういえば船頭は、ゲートブリッジの方から重たいものが落ちる音を聞いて、船を近づけたと言っていた」
「なるほど」ホラスは言った。「誰かが、彼女の死体を橋から投げ捨てたと考えるのが妥当じゃないでしょうか。見つかったのは運が良かった。ゲートブリッジから海までは川の流れが速まるし、渡し船の数も少ない。海まで流されていた可能性もある」
「そうか、なるほど」
マタルも遺体にかがみ込み、小さな声で言った。
「手首と足首に痣がある」
彼の言うとおり、赤黒い帯状の痣が浮かび上がっていた。状態から見て、生前ついた痣だろう。
マタルはテニエスがこちらを向いていない隙を見計らって、口の形だけでホラスに告げた。
『彼女だ』
ホラスは目だけで頷いてから、深くため息をついた。
「ナドカ同士の諍いではなさそうですね」
テニエスは冗談めかして眉を上げた。「どうして言い切れるんだい? 縛って殺すのが好きなデーモンもいるかも知れない。それか、魔女とか。もしかしたら妖精の仕業かも」
「デーモンが何かを殺すときは、激情に駆られるか、芸術のつもりで犯行に及ぶことが多いんです」ホラスは言った。「前者なら遺体の損壊はもっと激しい。後者なら、橋の上から投げ捨てるようなことはしないでしょう。妖精は、手足を縛ったりはしない。魔女である可能性は捨てきれないが……どうも違う気がします」
「なるほど」テニエスは言った。「ということは、〈クラン〉の管轄じゃないってことだな。そして、我々の仕事がまた増える」
「ええ。わたしが引き継ぎます」
すると、テニエスはホラスをじっと見つめた。「大丈夫なのか?」
「何故です?」
「君はブライア卿の特命を受けているんだろ? そうでなくても顔色が悪い。ちゃんと休めているんだろうね?」
ホラスは頷いた。「平気ですよ。このくらいで音を上げていたら、審問官は務まらない」
テニエスは恐れ入ったと言いたげに首を振った。
「なら、この報告書は君に渡そう。他にも、現場の警吏が作った報告書もある。読めたものじゃないけどね」
「ありがとうございます」ホラスは言い、遺体を見つめた。「しばらく、ここに残ってもいいですか? 鍵は我々が閉めておくので」
「ああ、構わないよ。遺体はそのままにしておいてくれていい。明日の朝には火葬することになるだろうから」
「そんなに早く?」
テニエスは肩をすくめた。「この悪臭だ、わかるだろう。上は早いとこ片付けてしまいたがってる」
「なるほど、わかりました」
報告書に目を通すホラスを残し、テニエスは地下室を出て行こうとした。
「ああ、テニエス」
彼は、階段の途中で振り向いた。「なんだい?」
「ブライア卿の指示で動いていることを、誰から聞いたんです?」ホラスは、報告書に注いでいた視線を上げて、テニエスを見た。
テニエスは気弱そうな笑みを浮かべた。
「卿本人からさ。君は彼の自慢の種だから、皆に見習わせたいんだろう」
ホラスは苦い笑みを浮かべて首を振った。「なら、逆効果ですね」
「その通り」テニエスは言った。「長生きしたければ、卿のお気に入りにだけはなるなって、いい教訓だよ」
「おやすみなさい、テニエス」
「ああ。少しは休めよ。サムウェル」
†
扉が閉まり、足音が遠ざかってゆくのに耳を澄ませる。地下室が静寂に包まれたところで、マタルはようやく口を開いた。
「エリザベスが言っていた特徴とぴったり一致する。彼女がオフィーだ!」
ホラスは深いため息をついた。
「どこかで殺害されて、川に遺棄されたんだろう」遺体の手を取って、そっと持ち上げる。「縛られたことによる圧迫痕──それも、幅の広いベルトのようなものだ。爪の間に汚れはないし、抵抗して受けた傷もない」
「矯正院だよ、ホラス。間違いない」マタルは言った。「椅子に縛り付けられて、何かを飲まされたんだ」
ホラスは報告書を置き、腕を組んだ。長椅子に寄りかかり、遺体をじっと見つめる。
「胃の中身まで調べたわけではないようだな」ホラスは言った。
「まさか、ここで彼女の腹を切り開くつもりか?」
ホラスはマタルを見た。その目で、冗談を言っているのではないと思い知らされる。
「何を飲まされたのかわかるかも知れない。明日の朝には火葬されてしまうのだから、やるなら今しかない」
「そんなことする必要ないだろ、俺がいる」
ホラスは眉を顰めた。「ここで死霊術を使うのか?」
マタルは頷いた。「鍵を閉めれば、誰も入ってこない。どうやら、ここは魔術除けもされてないみたいだし」
「だめだ。危険すぎる」ホラスは手をこまねいて唸った。「死んでから時間も経っている」
「ホラス」マタルはホラスの腕を掴んだ。「俺は、エリザベスと約束したんだ」
ホラスの表情が強ばるのを見て、思わず俯いてしまう。
「わかってる。簡単に約束すべきじゃないって教えは忘れてない。でも、これは魔女同士の問題なんだ。助け合わなくちゃならない。そういうものなんだ」
「マタル」ホラスは静かに言った。「『魔女』と言うものの中に、無理矢理自分を押し込める必要はないんだぞ」
その言葉に、マタルは反射的に身を引いた。
「今の侮辱は……聞かなかったことにする」
「すまない」ホラスは目をそらした。「だが、お前のことが心配なんだ」
マタルは石の長机に手をついて、オフィーの死に顔を見つめた。
「やらせてくれ。ほんの欠片でも拾えたら、解決の糸口になる。そうだろ?」
長いため息を、背中で聞く。それから、彼は言った。
「わかった。責任は俺が持つ」
「了解」
封鐶に伸ばした手を、ホラスがそっと掴んだ。振り向くと、彼の真剣な眼差しにぶつかった。
「危なくなったら、すぐにやめさせるぞ」
マタルはニヤリと笑った。
「俺を誰だと思ってるんだ?」
封鐶を外せば、いつもと変わらぬ昂揚と、えも言われぬ万能感に満たされるものと思っていた。
だが今夜は、封鐶を外した瞬間に、肉体の内側で目覚めた何かの存在に、本能的な恐怖を抱いた。
意識の最も深いところで、何かがほくそ笑む。抜け穴を見つけた囚人のように。
しまったと思った時には、遅かった。
それは獲物を狙う獣のように、こちらの恐れを嗅ぎつけた。力が、ほんの一瞬の隙を突いて、蜷局を解き、皮膚の裏側や喉元すれすれにまで膨れ上がる。
肌の上にあらわれる魔神憑きの証しは、九重薔薇の文身であるはずだ。それが、今夜は違っていた。渦を巻く黒煙、あるいは、嵐雲を思わせるおどろおどろしい文様が、肌を埋め尽くしている。規則性も秩序もない混沌が、この身体を奪おうとしていた。
おさまれ。
マタルは背を丸め、必死で念じた。
おさまれ!
吾はサーリヤの血の者! 地に注ぐ水
巫の祖は マナールの末裔よ……!
俺はマナールの子孫だ。アシュモールの魔女という魔女の中で、最も古い血筋を受け継ぐ、サーリヤ族の魔神憑きだ。そう簡単に、この身体を明け渡してやるものか。
オフィーリア 汝 奥津城にありて
吾 甦らせんその声を!
この身に巣くうものが、不満げに低く唸っている。今にも腹を食い破って外に出たがっている。並の魔女なら、最初の一瞬で敗北していただろう。
だが、俺は並の魔女じゃない。
「俺の言うことを、聞け!」
すると、黒雲は徐々におさまり、びくびくと震え、捻れながら、細く優美な茨の枝に変わっていった。
勝った。これで大丈夫だ。
呼吸を落ち着かせてから、オフィーの口から漂い出る白い煙に指を伸ばす。左手の指でそれを手繰ると、微かながら手応えを感じた。マタルがホラスに向かって頷くと、彼はオフィーにかがみ込み、質問をはじめた。
「誰が、お前を殺した?」
すると、オフィーの口からゾッとするような声が漏れた。
それは言葉だったのだろうか。あるいは、声にならない唸り声だったのか。ざらつく喘鳴とうめき声の中間のような音が、何かを答えたということだけ、辛うじてわかった。
「もう一度」ホラスは冷静に命じた。
「あ……お、う」
ホラスの顎が強ばる。「もう一度だ」
「たい……おう」そして、オフィーはようやく、聞き取れる言葉を発した。「たいよう」
「太陽が、お前を殺したのか?」
「あー……」同意の音だ。「たいよ、やかれた」
太陽に、焼かれた?
「お前は、グロウェル矯正院に囚われていたのか」
「あー」もう一度、同意。
「そこで、何を飲まされた?」
「たいよう」虚ろな声で、オフィーは言った。「たいよ……う」
口から漂い出る煙が、喉に引っかかる。まずいと思った瞬間、オフィーの身体がビクンと跳ねた。
「たい、いたいよう」虚から響くような声。それは紛れもなく嗚咽の響きだった。「いたいよう、エリザベス、いたい、いたい、いたい。いたい、いたい……」
オフィーの口から、黒煙が立ち上りはじめる。
まずい!
緊張と恐怖と焦燥が血管を駆け巡り、冷や汗がドッと滲む。
冥府の門を開けすぎたのだ。このままでは、向こう側から、彼女が還ってきてしまう。
ホラスが叫んだ。「マタル! いますぐ中止しろ!」
「愛してる、ベッシー、エリザベス、愛してるって伝えて、あの子に伝えて……」
オフィーリアの言葉が、徐々にはっきりと聞き取れるようになる。駄目だ。これ以上は危険すぎる。
「汝の役は終えり! いまぞ奥津城へ──」
オフィーリアの手が伸びてきて、マタルの首を掴んだ。
「マタル!!」
大丈夫だと、手振りだけでホラスに告げる。麻縄のように首を締め付けるオフィーの指の隙間から、なんとか空気を吸い込む。
「奥津城へ去ね、オフィーリア!」
マタルは勢いよく黒煙を吹き散らした。
すると、絹を裂くような悲鳴と共に、彼女は消えた。今度こそ間違いなく、死の世界への境界線を越えた。
「終わった」息を吸い込んで、もう一度言った。「終わった」
危なかった。
マタルは座り込み、震える手で封鐶をはめ直した。何度かしくじったあとでようやく、鐶がカチリとはまった。
深く息をつく。息は冷たく、全身にびっしょりと汗をかいていた。皮膚の下で、まだ文身が蠢いている気がする。
「危険だと言っただろう」
顔を上げると、ホラスが傍らにしゃがみこんでいた。表情はかたく、怒っているようでも、悲しんでいるようでもある。
「なんの、これしき」
「冗談じゃない」
めったに出さない厳しい声だ。だが、それに居住まいを正す気力さえ、マタルには残っていなかった。
「今のは何だ? いつものお前じゃなかった」
マタルは口を開き、おぼつかない舌で精一杯の嘘を紡いだ。
「便秘ぎみだったせいかも」
ホラスはがっくりと項垂れ、ため息をついた。「マタル……」
「彼女の中には、月の力がほとんど残ってなかった。俺の死霊術は、相手の中にある魔力を燃やして力にするんだ。ほんとなら、人間が持ってる程度のわずかな量でも上手くいく。だけど……」マタルは唾を飲み込んだ。「彼女が魔女なら、こんな風に失敗するのはおかしい」
「つまり、魔力が消えていると言うことか。跡形もなく」
マタルは頷いた。「ふつうの生き物なら、まずありえない」
「文身がいつもと違っていたのも、そのせいか?」
マタルは首をかしげて、天井を見上げた。そんな仕草でごまかせるとは思っていなかったけれど、ホラスは追求を諦めてくれた。
「しばらく、あの術を使うのはなしだ」
「わかったよ」
それから、ホラスは考え込んだ。
「やはり……胃の腑を開いてみることにする」
今度は、マタルが項垂れる番だった。「結局、役に立たなかったな」
「そんなことはない」
ホラスは言い、仕着せの上着を脱ぐと、マタルの肩にかけた。そんなふうにされてようやく、まだ震えがおさまっていなかったことに気づいた。
マタルは上着の前をかき合わせた。あたたかくて、いいにおいがする。ホラスの匂いだ。
ホラスは安心させるようにマタルの肩を叩くと、長机に戻ってシャツの腕をまくり、解剖用の道具を長机の上に並べはじめた。マタルは、その様子をじっと見つめた。
「あなたに出来ないことなんかあるのかな」
ホラスは肩をすくめた。「泳ぐのは下手だし、船も嫌いだ。ひどく酔ってしまう」
「ほんとに?」マタルは呟いた。「知らなかった。七年も一緒にいるのに」
「だろうな。お前以外は知らない」
ホラスは言い、細い小刀を手に取った。束の間の喜びは、あっというまに消え失せた。
「俺は、その……報告書でも読んでようかな」
「ああ。無理するな」ホラスは言った。「血を見るのは苦手だろう」
マタルはあっけにとられて目をしばたいた。
「なんで……?」
一度も教えたことはなかったのに。
あっけにとられていると、ホラスは小さく笑った。
「七年だぞ。見ていればわかる」彼は言った。「出来ればそこで、俺が言う内容を書き留めてくれないか。報告書は後で読めばいい」
アシュモール人はめったに礼を言わない。けれど、いま素直に感謝の気持ちを表すのは正しいことだと思った。
「ありがとう、ホラス」
「どういたしまして」ホラスが言った。「よし。はじめるぞ」
結局、見ていなくても音だけで充分心臓に悪かった。吐き気をなんとか飲み下しながら、身体を拓いてゆくホラスの言葉を紙に書き付けるべく、携帯用の筆記具を準備した。魔道具を使えないので、いつもインク壺と小さな羽根ペンを持ち歩いているのだ。だが、書くべきことは……ほとんどなかった。腹腔を拓いた瞬間、ホラスが呆然と呟いた。
「なんということだ……」
「どうした?」羊皮紙を凝視したまま尋ねる。
「クソ」
ホラスが今日二度目の悪態をついた。めずらしく、聖印を切ることさえ忘れている。
「なんだよ? なにがあった?」
「ないんだ」ホラスは、死人のような声で言った。「胃がない。腹の中が、ひどく爛れて……燃え尽きている」
その場に嘔吐するまえに、マタルはあわてて書類を脇にどけた。
羊の毛織物でできた天幕とともに、駱駝に詰め込めるだけのものを持って旅する遊牧民からすれば、地面から引き剥がせない石の建物も、その石に豪華な装飾を施すのも大いなる無駄だと思いたくなる。それでも、聖堂と審問庁舎のどちらがマシかと尋ねられたら、マタルは大して迷わずに聖堂を選ぶ。聖堂には、ある種の祈りがある。自分とは違う価値観であるとは言え、天に向かって手を組み合わせて祈るだけでは足りない思いが込められているのは、マタルにもわかる。
だが審問庁舎は、教王その人の命令によって建設されたにもかかわらず、祈りを連想させるものが何処にもなかった。目を楽しませる装飾も、部屋を光で満たす色硝子の窓もない。穴に硝子を嵌めただけのものが、明かり取りのために並んでいるに過ぎない。素っ気ない石造りの箱は、今にも地面に沈み込みそうなほど重々しかった。
馬を預けて庁舎の門戸をくぐると、途端に、こちらを押しつぶすような圧を感じた。ここに来る機会がそうそう訪れるわけではないけれど、その度に、人間がただ人間であると言うだけで、この敵意にも似た居心地の悪さを感じないことを不思議に思う。
魔女の遺体は、審問庁の地下に安置されているという。
審問官という立場上、ホラスが死んだナドカを見る機会は多い。彼自身は、種によって差がでることのないように細心の注意を払っているけれど、魔女の死が与える影響は、やはり大きい。ホラスの身体から発散される緊張に触れながら、マタルは彼のうしろにぴったりとくっついて、影のように静かに歩いた。
審問庁と、そこに属する者たちは、魔力が籠もっているものを一切使用しない。つまり、最も基本的な魔道具の恩恵にさえあずかれないと言うことだ。一度火を灯せば何年も輝き続ける永夜蝋燭は人間の日常にすっかり溶け込んだ日用品だが、それも使えない。蝋燭の火は頼りないうえにしょっちゅう消えてしまう。そのせいもあって、この建物はいつでも薄暗く、陰気で、辛気くさい。
「まるで石棺だな」
マタルが呟くと、ホラスは小さな笑みを浮かべた。同意はするが、そういうものだと諦めている、ということだろう。
地下室に入るのは初めてだったけれど、こんな建物の地下なのだと考えるだけで気が滅入りそうになる。きっと薄暗くてじめじめした、死臭漂う場所なのだろう。だが、予想はあっさりと裏切られた。
階段を下り、ホラスが目当ての部屋の扉を開けると、まるで昼のような光が溢れ出したので、マタルは思わず目を背けた。
「やあ、サムウェル!」
マタルが初めて聞く声に向かって、ホラスが進み出た。
「テニエス?」
何度か目をしばたかせて眩しい光に慣れると、ホラスと見知らぬ男が握手を交わしているのが見えた。眩い光の中で、男が身に纏った学者の黒衣は、まるでインクの染みのようだ。若い印象を受けたけれど、よくよく見ればホラスよりもだいぶ年かさだった。愛想の良さと、眼鏡の奥でよく動く表情豊かな眉のせいで、実際より若く見えるのかもしれない。茶の混じる金髪は短く切りそろえられていて、清潔そうだった。
「ここであなたに会うとは」ホラスが言った。「検屍はあなたの専門ではないのに」
テニエスは肩をすくめた。「例の件でジャイルズが北に行ってしまっただろう? 卿に是非にと言われてね。この街で検屍が出来るのは僕とウェストンしか残っていないんだよ。まあ少なくとも、死因について思いを巡らせて、報告書を作るくらいは出来るからね」
「人手不足こそ、我ら審問官に与えられた試練ですね」ホラスは言った。「しかし、担当があなたでよかった。別件でお尋ねしたいことがあったんです」
「なんなりと。それにウェストンの報告書では、解読するのに一日余計にかかってしまうだろう?」テニエスは笑った。
「確かに」
会話を続ける二人の肩越しに、マタルは部屋の中を覗き込んだ。
普通の蝋燭しか使えないはずの地下室が明るいのは、天井や壁面を埋め尽くさんばかりに取り付けられた鏡のおかげだった。わずかな傾斜を伴って配置された鏡が、光をあちこちへ反射させることで、乏しい光を最大限に増幅していた。灯りの下には石で出来た長机がある。遺体は、そこに安置されていた。
「やあ、そちらが噂の助手か」テニエスが言い、手を差し出してきた。「はじめまして。オスニエル・テニエスだ。ブライア卿に仕えて……そうだな、人やナドカの……しくみについて研究している」
「マタルです」
異邦人だからといって、優しい言葉に置き換えて説明して貰う必要はないのだと言い返す代わりに、必要最低限の情報だけ渡して気のない握手をした。
テニエスの手は冷たかった。瞳の色が菫色で、なおかつ頭髪が著しく後退していなければ吸血鬼だと思っただろう。血の欲望を制御できるようになるまで生き延びた吸血鬼は、学者という生業に落ち着くことが多い。なにせ長生きだから、心ゆくまで知識を追うことが出来る。まあ、そのせいで常軌を逸してしまう者もいるけれど。
彼の傍にいると、何故か落ち着かない気分にさせられた。テニエスの興味がホラスに向くと、マタルは気づかれないようにそっと、彼の目の届かないところに移動した。
†
「では、被害者について聞かせてもらえますか」ホラスは言い、部屋の奥へと進んだ。
テニエスは、遺体の横に置かれた覚え書きを手に取った。
「身元不明の女性だ。年齢は二十歳から三十歳の間。瞳の色は緑。頭髪は茶──」テニエスが遺体に掛けられた白い布を剥ぐと、皓皓とした灯りの下に、青白い裸身が姿を現した。腐臭とは違う、ドブのような悪臭が漂いはじめる。「着ていた服はあちらに拡げてある。濡れていたので、脱がせるために裂いてしまったが」
言葉の通り、長机の隣にある台の上に立派なガウンが広げられていた。裾から胸元までをざっくりと切り裂かれてはいるが、上流階級の既婚女性が着るような上等のものだ。
「彼女を魔女と特定した理由は?」
「これを見てくれ」テニエスは、遺体の右側を持ち上げて身体を横向きにした。「右腿の上にある入れ墨がわかるかい?」
青い五芒星が、三つ刻まれていた。
「なるほど」ホラスは言った。「〈真夜中の集会〉の者か」
「入会の時に、彼女たちはこの入れ墨を施す。仲間の連帯を強めるためにね」
「どこで発見されたんです? 状況は?」
「ダウ川に浮かんだ死体を、渡し船の船頭が発見した。最初に警吏が呼ばれたが、入れ墨を確認した後でこちらに回されてきたんだ」
「ダウ川。それで、この匂いか」ホラスは遺体にかがみ込んだ。「死因は?」
「目立った外傷はないし、毒を飲まされたような痕跡もない。おそらく溺死だろう」
「解剖はしなかったんですね」
テニエスは肩をすくめた。「ああ。必要があると思わなかったからね。ここを汚すと、あとで嫌味を言われるんだ。なるべく外からの確認だけで済ませたいんだよ」
ブライア卿は多くの大事を成し遂げてきたが、テニエスを援助して彼を学者にまでしたことが賢明だったのかについては、判断を差し控えるほかない。たしか、彼の父親は高名な錬金術師だったと聞いている。息子であるテニエスにその素地があったとしても、見出されぬまま今に至っている。ウェストンの報告書は、解読するのに一日余計にかかっても、緻密で道理が通っている。テニエスの報告書には、頭を掻きむしりたくなるほど抜けが多い。自身の研究を優先するあまり、こうした仕事には集中して取り組めないのかもしれないが。
「ふむ」ホラスは遺体の観察を続けた。「肌はきれいだし、魚に食われてもいない。長いあいだ川に浮かんでいたとは考えづらいですね」
「そういえば船頭は、ゲートブリッジの方から重たいものが落ちる音を聞いて、船を近づけたと言っていた」
「なるほど」ホラスは言った。「誰かが、彼女の死体を橋から投げ捨てたと考えるのが妥当じゃないでしょうか。見つかったのは運が良かった。ゲートブリッジから海までは川の流れが速まるし、渡し船の数も少ない。海まで流されていた可能性もある」
「そうか、なるほど」
マタルも遺体にかがみ込み、小さな声で言った。
「手首と足首に痣がある」
彼の言うとおり、赤黒い帯状の痣が浮かび上がっていた。状態から見て、生前ついた痣だろう。
マタルはテニエスがこちらを向いていない隙を見計らって、口の形だけでホラスに告げた。
『彼女だ』
ホラスは目だけで頷いてから、深くため息をついた。
「ナドカ同士の諍いではなさそうですね」
テニエスは冗談めかして眉を上げた。「どうして言い切れるんだい? 縛って殺すのが好きなデーモンもいるかも知れない。それか、魔女とか。もしかしたら妖精の仕業かも」
「デーモンが何かを殺すときは、激情に駆られるか、芸術のつもりで犯行に及ぶことが多いんです」ホラスは言った。「前者なら遺体の損壊はもっと激しい。後者なら、橋の上から投げ捨てるようなことはしないでしょう。妖精は、手足を縛ったりはしない。魔女である可能性は捨てきれないが……どうも違う気がします」
「なるほど」テニエスは言った。「ということは、〈クラン〉の管轄じゃないってことだな。そして、我々の仕事がまた増える」
「ええ。わたしが引き継ぎます」
すると、テニエスはホラスをじっと見つめた。「大丈夫なのか?」
「何故です?」
「君はブライア卿の特命を受けているんだろ? そうでなくても顔色が悪い。ちゃんと休めているんだろうね?」
ホラスは頷いた。「平気ですよ。このくらいで音を上げていたら、審問官は務まらない」
テニエスは恐れ入ったと言いたげに首を振った。
「なら、この報告書は君に渡そう。他にも、現場の警吏が作った報告書もある。読めたものじゃないけどね」
「ありがとうございます」ホラスは言い、遺体を見つめた。「しばらく、ここに残ってもいいですか? 鍵は我々が閉めておくので」
「ああ、構わないよ。遺体はそのままにしておいてくれていい。明日の朝には火葬することになるだろうから」
「そんなに早く?」
テニエスは肩をすくめた。「この悪臭だ、わかるだろう。上は早いとこ片付けてしまいたがってる」
「なるほど、わかりました」
報告書に目を通すホラスを残し、テニエスは地下室を出て行こうとした。
「ああ、テニエス」
彼は、階段の途中で振り向いた。「なんだい?」
「ブライア卿の指示で動いていることを、誰から聞いたんです?」ホラスは、報告書に注いでいた視線を上げて、テニエスを見た。
テニエスは気弱そうな笑みを浮かべた。
「卿本人からさ。君は彼の自慢の種だから、皆に見習わせたいんだろう」
ホラスは苦い笑みを浮かべて首を振った。「なら、逆効果ですね」
「その通り」テニエスは言った。「長生きしたければ、卿のお気に入りにだけはなるなって、いい教訓だよ」
「おやすみなさい、テニエス」
「ああ。少しは休めよ。サムウェル」
†
扉が閉まり、足音が遠ざかってゆくのに耳を澄ませる。地下室が静寂に包まれたところで、マタルはようやく口を開いた。
「エリザベスが言っていた特徴とぴったり一致する。彼女がオフィーだ!」
ホラスは深いため息をついた。
「どこかで殺害されて、川に遺棄されたんだろう」遺体の手を取って、そっと持ち上げる。「縛られたことによる圧迫痕──それも、幅の広いベルトのようなものだ。爪の間に汚れはないし、抵抗して受けた傷もない」
「矯正院だよ、ホラス。間違いない」マタルは言った。「椅子に縛り付けられて、何かを飲まされたんだ」
ホラスは報告書を置き、腕を組んだ。長椅子に寄りかかり、遺体をじっと見つめる。
「胃の中身まで調べたわけではないようだな」ホラスは言った。
「まさか、ここで彼女の腹を切り開くつもりか?」
ホラスはマタルを見た。その目で、冗談を言っているのではないと思い知らされる。
「何を飲まされたのかわかるかも知れない。明日の朝には火葬されてしまうのだから、やるなら今しかない」
「そんなことする必要ないだろ、俺がいる」
ホラスは眉を顰めた。「ここで死霊術を使うのか?」
マタルは頷いた。「鍵を閉めれば、誰も入ってこない。どうやら、ここは魔術除けもされてないみたいだし」
「だめだ。危険すぎる」ホラスは手をこまねいて唸った。「死んでから時間も経っている」
「ホラス」マタルはホラスの腕を掴んだ。「俺は、エリザベスと約束したんだ」
ホラスの表情が強ばるのを見て、思わず俯いてしまう。
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「マタル」ホラスは静かに言った。「『魔女』と言うものの中に、無理矢理自分を押し込める必要はないんだぞ」
その言葉に、マタルは反射的に身を引いた。
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「すまない」ホラスは目をそらした。「だが、お前のことが心配なんだ」
マタルは石の長机に手をついて、オフィーの死に顔を見つめた。
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マタルはニヤリと笑った。
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おさまれ。
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おさまれ!
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オフィーリア 汝 奥津城にありて
吾 甦らせんその声を!
この身に巣くうものが、不満げに低く唸っている。今にも腹を食い破って外に出たがっている。並の魔女なら、最初の一瞬で敗北していただろう。
だが、俺は並の魔女じゃない。
「俺の言うことを、聞け!」
すると、黒雲は徐々におさまり、びくびくと震え、捻れながら、細く優美な茨の枝に変わっていった。
勝った。これで大丈夫だ。
呼吸を落ち着かせてから、オフィーの口から漂い出る白い煙に指を伸ばす。左手の指でそれを手繰ると、微かながら手応えを感じた。マタルがホラスに向かって頷くと、彼はオフィーにかがみ込み、質問をはじめた。
「誰が、お前を殺した?」
すると、オフィーの口からゾッとするような声が漏れた。
それは言葉だったのだろうか。あるいは、声にならない唸り声だったのか。ざらつく喘鳴とうめき声の中間のような音が、何かを答えたということだけ、辛うじてわかった。
「もう一度」ホラスは冷静に命じた。
「あ……お、う」
ホラスの顎が強ばる。「もう一度だ」
「たい……おう」そして、オフィーはようやく、聞き取れる言葉を発した。「たいよう」
「太陽が、お前を殺したのか?」
「あー……」同意の音だ。「たいよ、やかれた」
太陽に、焼かれた?
「お前は、グロウェル矯正院に囚われていたのか」
「あー」もう一度、同意。
「そこで、何を飲まされた?」
「たいよう」虚ろな声で、オフィーは言った。「たいよ……う」
口から漂い出る煙が、喉に引っかかる。まずいと思った瞬間、オフィーの身体がビクンと跳ねた。
「たい、いたいよう」虚から響くような声。それは紛れもなく嗚咽の響きだった。「いたいよう、エリザベス、いたい、いたい、いたい。いたい、いたい……」
オフィーの口から、黒煙が立ち上りはじめる。
まずい!
緊張と恐怖と焦燥が血管を駆け巡り、冷や汗がドッと滲む。
冥府の門を開けすぎたのだ。このままでは、向こう側から、彼女が還ってきてしまう。
ホラスが叫んだ。「マタル! いますぐ中止しろ!」
「愛してる、ベッシー、エリザベス、愛してるって伝えて、あの子に伝えて……」
オフィーリアの言葉が、徐々にはっきりと聞き取れるようになる。駄目だ。これ以上は危険すぎる。
「汝の役は終えり! いまぞ奥津城へ──」
オフィーリアの手が伸びてきて、マタルの首を掴んだ。
「マタル!!」
大丈夫だと、手振りだけでホラスに告げる。麻縄のように首を締め付けるオフィーの指の隙間から、なんとか空気を吸い込む。
「奥津城へ去ね、オフィーリア!」
マタルは勢いよく黒煙を吹き散らした。
すると、絹を裂くような悲鳴と共に、彼女は消えた。今度こそ間違いなく、死の世界への境界線を越えた。
「終わった」息を吸い込んで、もう一度言った。「終わった」
危なかった。
マタルは座り込み、震える手で封鐶をはめ直した。何度かしくじったあとでようやく、鐶がカチリとはまった。
深く息をつく。息は冷たく、全身にびっしょりと汗をかいていた。皮膚の下で、まだ文身が蠢いている気がする。
「危険だと言っただろう」
顔を上げると、ホラスが傍らにしゃがみこんでいた。表情はかたく、怒っているようでも、悲しんでいるようでもある。
「なんの、これしき」
「冗談じゃない」
めったに出さない厳しい声だ。だが、それに居住まいを正す気力さえ、マタルには残っていなかった。
「今のは何だ? いつものお前じゃなかった」
マタルは口を開き、おぼつかない舌で精一杯の嘘を紡いだ。
「便秘ぎみだったせいかも」
ホラスはがっくりと項垂れ、ため息をついた。「マタル……」
「彼女の中には、月の力がほとんど残ってなかった。俺の死霊術は、相手の中にある魔力を燃やして力にするんだ。ほんとなら、人間が持ってる程度のわずかな量でも上手くいく。だけど……」マタルは唾を飲み込んだ。「彼女が魔女なら、こんな風に失敗するのはおかしい」
「つまり、魔力が消えていると言うことか。跡形もなく」
マタルは頷いた。「ふつうの生き物なら、まずありえない」
「文身がいつもと違っていたのも、そのせいか?」
マタルは首をかしげて、天井を見上げた。そんな仕草でごまかせるとは思っていなかったけれど、ホラスは追求を諦めてくれた。
「しばらく、あの術を使うのはなしだ」
「わかったよ」
それから、ホラスは考え込んだ。
「やはり……胃の腑を開いてみることにする」
今度は、マタルが項垂れる番だった。「結局、役に立たなかったな」
「そんなことはない」
ホラスは言い、仕着せの上着を脱ぐと、マタルの肩にかけた。そんなふうにされてようやく、まだ震えがおさまっていなかったことに気づいた。
マタルは上着の前をかき合わせた。あたたかくて、いいにおいがする。ホラスの匂いだ。
ホラスは安心させるようにマタルの肩を叩くと、長机に戻ってシャツの腕をまくり、解剖用の道具を長机の上に並べはじめた。マタルは、その様子をじっと見つめた。
「あなたに出来ないことなんかあるのかな」
ホラスは肩をすくめた。「泳ぐのは下手だし、船も嫌いだ。ひどく酔ってしまう」
「ほんとに?」マタルは呟いた。「知らなかった。七年も一緒にいるのに」
「だろうな。お前以外は知らない」
ホラスは言い、細い小刀を手に取った。束の間の喜びは、あっというまに消え失せた。
「俺は、その……報告書でも読んでようかな」
「ああ。無理するな」ホラスは言った。「血を見るのは苦手だろう」
マタルはあっけにとられて目をしばたいた。
「なんで……?」
一度も教えたことはなかったのに。
あっけにとられていると、ホラスは小さく笑った。
「七年だぞ。見ていればわかる」彼は言った。「出来ればそこで、俺が言う内容を書き留めてくれないか。報告書は後で読めばいい」
アシュモール人はめったに礼を言わない。けれど、いま素直に感謝の気持ちを表すのは正しいことだと思った。
「ありがとう、ホラス」
「どういたしまして」ホラスが言った。「よし。はじめるぞ」
結局、見ていなくても音だけで充分心臓に悪かった。吐き気をなんとか飲み下しながら、身体を拓いてゆくホラスの言葉を紙に書き付けるべく、携帯用の筆記具を準備した。魔道具を使えないので、いつもインク壺と小さな羽根ペンを持ち歩いているのだ。だが、書くべきことは……ほとんどなかった。腹腔を拓いた瞬間、ホラスが呆然と呟いた。
「なんということだ……」
「どうした?」羊皮紙を凝視したまま尋ねる。
「クソ」
ホラスが今日二度目の悪態をついた。めずらしく、聖印を切ることさえ忘れている。
「なんだよ? なにがあった?」
「ないんだ」ホラスは、死人のような声で言った。「胃がない。腹の中が、ひどく爛れて……燃え尽きている」
その場に嘔吐するまえに、マタルはあわてて書類を脇にどけた。
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