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6 さよならも告げずに
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6 さよならも告げずに
ヨエルは砦の兵舎で、明日からの旅支度を進めながら考え込んでいた。
兵舎はルドヴィグのロングハウスの地下にあり、団員それぞれの寝床が用意されている。ヨエルのような上級センチネルには個室が与えられていて、寝台に、書き物机に衣装ダンス、そして火鉢と、一通りの家具は揃っている。ひとりになりたい気分の時には扉に鍵をかけることも出来る。ちょうど、今そうしているように。
いま、何者かがヨエルに狙いを定めている。
ヨエルの古巣──〈戦鴉団〉の紋章が刻まれた短剣に、微かに残っていた残留思念は殺意ではない。悪意だった。
オーヴェはヨエルをおびき寄せるための餌だ。だとしたら、まだ生きている可能性はある。
狼の毛皮のマントに、帽子。防水のためのオイルを染みこませた毛織物と毛皮の長靴。背負い袋の中には、干し魚や堅焼きパン、身体を温める蜂蜜酒に、水筒を詰める。
これで、あらかたのものは揃ったはずだ。
ふと、鞄に入れ忘れた小刀が机の上に出しっぱなしになっているのに気付く。数年前にアルから贈られたもので、革で出来た鞘には鴉と雪の文様が彫られていた。アルの手作りなのだろう。やや拙い出来だが、不思議と魅力的なできばえだ。ヨエルはそれを手に取り、使い込まれて滑らかになった鞘の表面を撫でた。
アルと初めて出会ったあの夜、全てが変わった。
〈戦鴉団〉の団長の長子として生きていくことは、さほど難しいことではなかった。親が、周りが何を期待しているのかが明白だったからだ。危険を顧みず死地に赴き、手柄を立てて帰還しさえすれば、認められた。賞賛された。それが正しいことなのだと疑う必要すらなかった。
だがあの夜──〈戦狼団〉の村に急襲をしかけたあの夜、アルヴァルの手を取った瞬間に、頭と心を覆っていた靄が晴れた。
そして、自分の価値観の天地がひっくり返ったような気がした。
周囲には戦禍が広がっている。戦禍──いや、戦ですらない。〈戦狼団〉の戦士たちが出払った隙に仕掛けた強襲で、『戦』などおこりようがなかった。周囲にあったのは悲鳴と、怒号と、むごたらしい死だけだ。
俺が立ててきた手柄とはなんだ? 俺が奪ってきたものは誰のものだ? 俺が仲間だと思ってきた連中は何者だ?
これは、何なんだ?
殺戮だ。
また別の、新たな殺戮へと続いていくだけの、終わりのない地獄だ。
だから、アルを連れて故郷を捨てた。
罪滅ぼしがしたかったわけではない。自分ひとりが罪を償ったところで、どんな意味があるだろう。過去を変えられず、これから起こる全ての殺戮を止められるのでもなければ、罪などという概念すら、無意味な自己満足に過ぎない。
ただ、アルをあの場所で死なせたくなかった。アルを自分と同じものにしたくなかった。それだけだった。
それだけのはずだったのに、いつしか彼に慕われ、彼を頼るようになってしまった。アルヴァルの平和を破壊した張本でありながら。
もう、潮時だ。
アルの霊獣が成熟するまでは見守るつもりでいたが、これ以上、彼から向けられる気持ちを無視してはおけない。だから他の男を伴侶に選んで、ここを出て行くことにした。
リーヌスが欲しているのは、婚姻によって伴侶への移譲が可能になる〈戦鴉団〉団長の継承権だ。二、三年も夫の振りを続ければ、あとはヨエルがどこへ消えたところで気にもしないだろう。
その間に、きっとアルにも良い相手が見つかる。あの若さで、見てくれも良い。霊獣が未熟でも、ガイドとしての素質は十二分にある。きっと幸せになる。
それを心から望めるうちに、ここを離れてしまいたい。
ガイドはセンチネルに依存しない。だがセンチネルは、自分の命綱にも等しいガイドという存在に依存せずにはいられない。ヨエルにも、すでにその兆候が出始めている。
このままここに留まり、アルからの好意を浴びせられ続けたら、いつか自制を失って誓約を結んでしまいかねない。
北方の神々は、時にこの上なく残酷ないたずらをする。
一族の仇を愛させるなんて。
一族を殺させた後で──大切にしたいと思える人間に出会わせるなんて。
ヨエルは深いため息をついて、背負い袋の口紐を縛り、旅仕度を終えた。すると、まるで見計らったかのように、部屋の戸を叩く音がした。
「何だ」
尋ねるが、返事はない。ヨエルはため息をついて戸を開けた。思った通り、そこに立っていたのはアルだった。
ヨエルは腕組みをしてアルを見た。
「何か言いたいことがありそうな顔だな」
アルの息から酒のにおいがした。だが、泥酔しているという程でもない。それなのに、アルの目は妙に据わっていた。どんよりとして、危うげだ。
「入るか? 立ち話で済む話じゃ無さそうだ」
アルはこくりと頷いて、部屋の中に入った。彼は、机の上に用意された旅の荷物にすぐに気付いた。
「明日発つのか?」
「ああ」
一緒に行きたい、と言いたいのだろう。アルの口がうっすらと開いた。だがヨエルの予想に反して、アルは何も言わなかった。その代わり、彼は部屋の長椅子に腰掛け、深いため息をついた。
「じゃあ、出る前にもう一度だけ浄化させてくれ」
いつもなら、そんな必要はないと断る場面だったけれど、今夜のアルの様子はいつもと違いすぎる。
隣に腰掛け、「大丈夫か」と世話を焼きたい。
だが、そうやってアルと自分を甘やかしてきたからこそ、こんな苦境に陥っているのだ。
「……わかった。頼む」
ヨエルはアルの前に立ち、両手を差し出した。
アルがその両手をとって、うやうやしく額づける。精神の表層近くを漂っていたノイズは、たちどころに消えた。
「ありがとう」
礼を言って、手を引き抜こうとする。ところが、アルはヨエルの手を放さなかった。それどころか手首を強く握って、さらに浄化の手を伸ばしてきた。
「アル! お前……!」
アルが顔を上げる。酒のせいで据わっているのかと思っていた空ろな目に、強い光が宿っていた。眼差しに射すくめられ、ヨエルは一瞬、手を振りほどくのを忘れた。
アルにとっては、その一瞬で充分だった。
視界が白く塗りつぶされ、意識が遠のく。精神世界に引きずり込まれる。自分の精神なのに、アルに主導権を握られている。『一緒に見ろ、目をそらすな』と命じられている。あと少し反応が遅れていたら、精神を守る盾さえ破られていたかも知れない。
ヨエルは思い切り身を捩り、アルとの接触を解いた。
「何のつもりだ!」
拒絶反応が身の内で膨れ上がると同時に、部屋の梁にとまっていたスニョルの輪郭がぼやける。ヨエルの動揺に反応したスニョルが、ヨエルに力を与えるために一体化しようとしているのだ。
いや、だめだ。アルの前で獣の性に身を任せるわけにはいかない。
気持ちを落ち着かせてから、ヨエルは長く深いため息をついた。
「もう一度聞く、なんのつもりだ?」
アルは、激怒するヨエルを目の当たりにしても、少しも動揺していなかった。彼は、静かにこう言った。
「〈戦鴉団〉のこと、なんで黙ってたんだよ」
腹に破壊槌をぶち込まれたかのように、一瞬、息ができなくなる。
「なんで……」
「俺の村を襲ったって……俺、全然知らなかった」
「お前、それを誰から──」と言いかけて、尋ねるまでも無かったことに気づく。
「リーヌスか」
死ぬまで守り通そうとした秘密が──好きでもない男と結婚してまで守ろうとした秘密が、あっさりと明かされてしまった。無力感がどっと押し寄せて、ヨエルはテーブルに寄りかかった。
アルは長椅子に座ったまま、あいかわらずまっすぐにヨエルを見ている。目が合って、ヨエルは息を呑んだ。アルの目の中には。親の敵に向けた憎悪の炎が燃えているはずだと思っていたのに……そこにはただ、馬鹿がつくほど一途で強情な輝きがあるだけだった。
その目に見つめられると、いくらでも心を砕いてやりたくなる。彼がもっと良い人生を歩めるように。
そう。だから、心を砕くのだ。今。アルヴァルを、ヨエルという枷から解放するために。
「言わなかったのは──」
お前に憎まれたくなかったから。
「話したところで、意味など無いからだ」
「意味がない……?」
アルは信頼していた相手にいきなり頬を叩かれたような顔をしている。見ていられなくて、ヨエルは目を背けた。
「お前が一人でも生きていけるようにすることが、俺が自分に課した使命だった。俺には能力も経験もある。俺の過去がお前の自立を助けるならいくらでも話しただろうが……」
声が掠れそうになるのを、意志の力で堪えた。
「俺が過去に誰を殺したかを話したところで、お前の霊獣が成熟するとは思えん」
しばらく、沈黙が流れた。長椅子が軋む音がして、アルが立ち上がったのがわかった。
「そうじゃない。俺はそんなことを言いたいんじゃないんだよ、ヨエル」
アルがヨエルの手を取り、向き合わせる。
「俺は、ヨエルが何に苦しんでるのか知りたかったんだ。一緒に解決していきたいんだ」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
恩人だと思っていた男が一族の仇だと知って、復讐を望むならまだしも『一緒に解決したい』だと?
「何を……言ってるんだ……」
冷静さを装うことが出来ない。濡れた砂の上に立っているように、足下さえおぼつかない。
「ヨエルが昔、〈戦鴉団〉だったことも、俺の村を滅ぼしたことも、俺にとっては全部過去のことなんだ」
そう言ってしまってから、ヨエルは短い贖罪の祈りを呟いた。
「俺は、俺と出会ってからのヨエルしか知らない。俺が知ってるヨエルは、優しくて高潔だった。どれだけ突き放そうとしたって、ヨエルが過去を悔いてるのはわかるよ。痛いほどわかる。だから……だから俺は──」
理解が追いつかなくて、心臓が激しく鼓動していた。
こんなにあっさりと、重すぎる罪を水に流せる人間が、この世に居るものか。北方人にとっての復讐とは、流された分の血を相手にも流させることだ。それを果たさないのは恥ずべきことで……。
──ああ、でも、そうだな。
アルヴァル、お前はそういう奴じゃない。お前は優しさしか知らない。そういう男になれば良いと思いながら、彼を導いてきたのだ。
だからこれは、喜ぶべきことなんだ。
「よくわかったよ、アルヴァル」
ヨエルはアルに向き合い、真正面からその目を見て──突き飛ばした。
「うわ!」
アルは蹈鞴を踏みながらよろめき、ベッドの上に尻餅をついて倒れる。ヨエルはシャツを脱ぎ捨てながらアルの膝の上に跨がり、アルの肩をベッドに押さえつけた。
「ヨ、ヨエル!?」
「これが最後の授業だ、アルヴァル」
ヨエルは言い、アルの服を両手で掴んで、センチネルの力に任せて引きちぎった。
「ちょっ、待てよヨエル──!」
アルの腰のベルトを引き抜き、ズボンを緩める。暴れるアルを押さえつけながら手を突っ込み、有無を言わさずそれを掴んだ。
「やめろって、ヨエル! 俺、こんなことはしたくない!」
アルはアルの髪を掴んで、わからせるように力を込めた。
「お前の希望などどうでもいい。これは授業だと言っただろ」
脅すような声で囁く。
抵抗しては居ても、アルの若い肉体は刺激に敏感だった。手の中で揉みしだき、敏感な場所を擦れば、すぐさま反応して血を孕む。
「っ、あ……!」
ヨエルは自分のズボンをずらし、ベッド脇の小さな棚から軟膏を手に取った。アルを押さえつけたまま片手で蓋を開け、中身をとって尻に塗り込む。
アルは、自分の身体が己を裏切る様に傷つき、混乱している。何より、ヨエルの行動に衝撃を受けていた。言葉らしい言葉も出てこない。それでも、彼のものは堅く屹立していた。今のヨエルにとっては、それ以上に重要なことはない。
「上位のセンチネルを本気でガイドするというのは、こういうことだ」
ヨエルはアルのものをあてがい、ゆっくりと腰を沈めた。
ガイドがセンチネルを浄化する、最も強力で効果的な方法は、まぐわうことだ。普通の人間なら、これは愛の行為──欲望と情熱の行為になり得た。だが、センチネルとガイドにとっては、これは癒やす行為であり、同時に暴き、さらけ出す行為でもある。
アルの呼吸が速くなる。泣き出しそうに顔が歪み、目が潤む。
「どうした、アル」
息が上がりかけているし、血の巡りが早い。微かに喘ぎながら、ヨエルは言った。
「お前だって……これを望んでいたんだろうが」
他人に身体を赦すのは久々だった。アルと同じようにヨエルの身体も、主の意図を裏切って昂ぶっている。
腰を揺らすと、アルは呻いて歯を食いしばった。
「ヨエル……違う。俺は──」
「文句しか出てこないなら、その口を閉じろ」
ヨエルは笑い混じりに言い、口づけでアルヴァルの口を塞いだ。
「……っ、ん!」
夢見がちなアルのことだ、初恋の相手との仲らいについて、さぞかし夢のある状況を思い描いていただろう。
もしも自分が、別の過去を生きた、別の人間だったなら──そんな夢に身を委ねたかも知れない。だが、そうした甘さを全て打ち砕いてしまわなければ、これは終わらない。
それは、ヨエルが己に課すべき最後の使命だった。
頑なな唇を舌でこじ開ける。そう力を込める必要もなかった。アルが喘いで出来た隙間に舌をねじ込むと、彼はそれを受け入れ、舌を絡ませてきた。ぎこちない舌を唆し、翻弄してから唇を放す。
ヨエルはフンと笑った。
「少しくらい楽しんでおけ。俺たちのような奴らにだけ赦された特権だ」
アルは悔しげに唸って、上半身を起すと、ヨエルの腰を掴んだ。そして、ヨエルの身体を掴まえたまま、思い切り突き上げた。
「……っ!」
びりびりと、快感の痺れが四肢を駆け巡る。ほんの一瞬、意識が解けて、甘い戦慄に身を任せてしまいそうになる。
だが、堪えた。
一度堪えても、アルの抽挿は止まない。身体を貫く律動はひたむきで、アル自身の欲望を追求しながら、ヨエルへの想いも同じくらいこもっている。
心から申し訳ないと思う。こんな交わりなど望んでいなかっただろうに。それでも、こうでもしなければアルはヨエルを手放せない。
──そうじゃない。これ以上の欺瞞は無意味だ。
ここまで手ひどく彼を踏みにじらなければ、ヨエルがアルを手放せないのだ。
出来ることなら、汗ばむ髪をそっと梳いて、頭を抱き寄せ、彼の名前を呼び、優しいだけの交わりの中で果てたい。
それは、決して叶えてはならない夢だ。
アルが動きを早める。限界が近いのだろう。
「あ……っ、そうだ。それでいい……」
腹の底にいつでもこびりついていたノイズが剥がれ、泡立ちながら消えてゆく。
「中に放て……それで、ノイズは消える……!」
「いちいち、指図、するな……ああ!」
アルが呻き、ヨエルを強く抱きすくめた。
堪えていた息をついて、アルの身体が大きく震える。極限まで張り詰めた肉体が緩み、そして──ヨエルの中に、あたたかいものが溢れた。
胸の奥、頭の底に溜まっていた、真っ黒な油のようなノイズがじわりと解ける。寝ても覚めても精神を強ばらせる澱み……永遠にこの感覚と付き合っていくのだと思っていたのに、それはあまりにもあっけなく、ヨエルを捨てて消えていった。
荒い息をつきながらも、何か、師らしい言葉をかけなくてはと思う。
「よくやった、アル……。これで十分だ」
「まだだ」
ヨエルの言葉に異を唱え、アルは震える手でヨエルに触れた。交わりに全てを任せるのではなく、彼がこれまでに学んだ精一杯を尽くして、浄化をしようとしている。
彼の目は、まだヨエルを諦めていない。
「ああ、そうだな」
そうなるだろうとわかっていた。
「なら、全部その目で確かめろ!」
だから、ヨエルも精神を解き放った。自分の全てをさらけ出すために。
極光に埋め尽くされた夜空。燃えさかる戦場。泣きじゃくる子供の声。こんな夜、命は他の何よりも軽くなる。もちろん、自分の命も含めてだ
何百羽もの鴉が金切り声を上げて、辺りを飛び回っている。その中心に、ヨエルが居る。
崩れた家の前にアルヴァルが立っている。家の下敷きになった家族が、そこから這い出てくるのを待っている。だが、もう手遅れだ。
ヨエルがアルヴァルを抱き上げる。その瞬間、血の霧のように視界を覆っていた闘争本能は消え、無感覚の鎧が解け落ちる。辺りの様子が、まざまざと見えるようになる。
周囲にあるのは『燃えさかる戦場』などではない。虐殺の現場だ。家々を飲み込んだ炎は伸び上がりながら踊り狂い、火の粉を具した熱風が吹き荒れていた。悲鳴。怒号。命乞いの声は湿った音に飲み込まれて途絶える。そこかしこに散らばる死体はどれもひどく傷つけられ、中には陵辱されたものもある。地面は血で泥濘み、人体の内側に収まっているべきあらゆるものが散乱している。聞こえるのは悲鳴よりも笑い声の方が大きかった。誰もが笑っている。人間も、鴉も。生ける者も死した者も。こんな地獄の光景の中で、誰もが。
そして気付くと、ヨエル自身も笑っていた。
幼いアルヴァルがそれを見ていた。悪鬼を見るような眼差しで。彼は手を振りほどき、剣と斧とが林立する地獄に向かって駆けてゆく。彼は傷つき、血を流し、猛り狂って……やがて、ヨエルと同じものになる。アルヴァルと出会う前のヨエルのような、心のない怪物に。
ヨエルは、アルがその全てを見たのを感じた。ヨエルが感じている恐怖を感じて、同じ絶望と、罪の意識を感じたはずだ。だから静かに、自分の心の中からアルを押しだし、精神の盾を再び掲げて、全てを締め出した。
精神世界から意識を戻し、抱擁を解く。アルのものが自分の中から抜けると、つながっていた場所から、まだあたたかい精液が垂れた。拭う気にもなれず、疲れ果てた身体を投げ出すように長椅子に腰掛けた。
「ヨエル……」
肉体と精神の交わりに疲弊したアルは、ベッドの上で、ぜえぜえと息をつきながらヨエルを見つめていた。
「心の中に……俺がいた」
ヨエルはため息をついた。
「そうだ」
アルは長いこと躊躇っていた。けれど、意を決したように拳を握り、こう尋ねてきた。
「……俺のせいで苦しんでいるのか?」
ひび割れた声で、アルがさらに続けた。
「俺は……ヨエルにとって『呪い』なのか?」
ヨエルは目を閉じ、小さな祈りを捧げた。
──ああ、神々よ。
これは天啓だ。いまこそ別れを告げろと、神々が差し向けてくれた機会なのだ。
だから、ヨエルは言った。
「そうだ」
アルの目が潤み、揺れて、粉々にひび割れてゆく。
ヨエルは言った。
「自分の罪滅ぼしのために、お前を拾った。立派に成長した。俺の償いは終わりだ。だから──」
口をつぐみ、ほんの一瞬だけ待ってみる。
今、ここに天から雷が降ってきて、全てを焼き滅ぼしてくれはしないかと。
だが、そんな贅沢は赦されなかった。
「だから、もう……俺を解放してくれ」
アルの目から涙が、鼻から赤い血が流れた。
浄化で無理をしたせいで、どこかの血管が切れたのだろう。彼はさらに数秒持ちこたえたけれど、堪えきれずに気を失って、仰向けにベッドに倒れ込んだ。
ヨエルは手当をする者を探しに部屋を出た。
それからルドヴィグと話をして、オーヴェの件が片付いたら、来年を待たずにリーヌスの元に身を寄せると告げた。
リーヌスとの婚姻の証明書にもサインを済ませた。リーヌスは喜んでいた。それはそうだろう。結婚すれば配偶者として、ヨエルが拒んだ〈戦鴉団〉の団長の座の継承権を得ることになる。リーヌスは早速、イングネスに戻って婚儀の仕度を調えると言い、すぐにレイクホルを発った。
リーヌスとの日々にしばらく耐え忍んだら、その後は……どこか野垂れ死ぬのにちょうど良さそうな場所を探すことにしよう。
身支度を終え、話をつけるべきところに話をつけてしまうと、〈塔〉の召使いに旅の荷物を運び出し、馬の仕度をしてくれるよう頼んだ。それから、残った私物は全て処分するように、とも。
雪が降りしきる夜の闇に足を踏み出す前、最後に一度だけ、アルの顔を見て行こうかと考える。幼い頃、アルが悪夢を見ずに眠れているか、何度も確認した夜のように。
ヨエルは首を振って、そんな考えを手放した。
俺には、さよならを告げる資格もない。
今夜を最後に、ここには戻らない。
戻ることは出来ない。もう二度と。
ヨエルは砦の兵舎で、明日からの旅支度を進めながら考え込んでいた。
兵舎はルドヴィグのロングハウスの地下にあり、団員それぞれの寝床が用意されている。ヨエルのような上級センチネルには個室が与えられていて、寝台に、書き物机に衣装ダンス、そして火鉢と、一通りの家具は揃っている。ひとりになりたい気分の時には扉に鍵をかけることも出来る。ちょうど、今そうしているように。
いま、何者かがヨエルに狙いを定めている。
ヨエルの古巣──〈戦鴉団〉の紋章が刻まれた短剣に、微かに残っていた残留思念は殺意ではない。悪意だった。
オーヴェはヨエルをおびき寄せるための餌だ。だとしたら、まだ生きている可能性はある。
狼の毛皮のマントに、帽子。防水のためのオイルを染みこませた毛織物と毛皮の長靴。背負い袋の中には、干し魚や堅焼きパン、身体を温める蜂蜜酒に、水筒を詰める。
これで、あらかたのものは揃ったはずだ。
ふと、鞄に入れ忘れた小刀が机の上に出しっぱなしになっているのに気付く。数年前にアルから贈られたもので、革で出来た鞘には鴉と雪の文様が彫られていた。アルの手作りなのだろう。やや拙い出来だが、不思議と魅力的なできばえだ。ヨエルはそれを手に取り、使い込まれて滑らかになった鞘の表面を撫でた。
アルと初めて出会ったあの夜、全てが変わった。
〈戦鴉団〉の団長の長子として生きていくことは、さほど難しいことではなかった。親が、周りが何を期待しているのかが明白だったからだ。危険を顧みず死地に赴き、手柄を立てて帰還しさえすれば、認められた。賞賛された。それが正しいことなのだと疑う必要すらなかった。
だがあの夜──〈戦狼団〉の村に急襲をしかけたあの夜、アルヴァルの手を取った瞬間に、頭と心を覆っていた靄が晴れた。
そして、自分の価値観の天地がひっくり返ったような気がした。
周囲には戦禍が広がっている。戦禍──いや、戦ですらない。〈戦狼団〉の戦士たちが出払った隙に仕掛けた強襲で、『戦』などおこりようがなかった。周囲にあったのは悲鳴と、怒号と、むごたらしい死だけだ。
俺が立ててきた手柄とはなんだ? 俺が奪ってきたものは誰のものだ? 俺が仲間だと思ってきた連中は何者だ?
これは、何なんだ?
殺戮だ。
また別の、新たな殺戮へと続いていくだけの、終わりのない地獄だ。
だから、アルを連れて故郷を捨てた。
罪滅ぼしがしたかったわけではない。自分ひとりが罪を償ったところで、どんな意味があるだろう。過去を変えられず、これから起こる全ての殺戮を止められるのでもなければ、罪などという概念すら、無意味な自己満足に過ぎない。
ただ、アルをあの場所で死なせたくなかった。アルを自分と同じものにしたくなかった。それだけだった。
それだけのはずだったのに、いつしか彼に慕われ、彼を頼るようになってしまった。アルヴァルの平和を破壊した張本でありながら。
もう、潮時だ。
アルの霊獣が成熟するまでは見守るつもりでいたが、これ以上、彼から向けられる気持ちを無視してはおけない。だから他の男を伴侶に選んで、ここを出て行くことにした。
リーヌスが欲しているのは、婚姻によって伴侶への移譲が可能になる〈戦鴉団〉団長の継承権だ。二、三年も夫の振りを続ければ、あとはヨエルがどこへ消えたところで気にもしないだろう。
その間に、きっとアルにも良い相手が見つかる。あの若さで、見てくれも良い。霊獣が未熟でも、ガイドとしての素質は十二分にある。きっと幸せになる。
それを心から望めるうちに、ここを離れてしまいたい。
ガイドはセンチネルに依存しない。だがセンチネルは、自分の命綱にも等しいガイドという存在に依存せずにはいられない。ヨエルにも、すでにその兆候が出始めている。
このままここに留まり、アルからの好意を浴びせられ続けたら、いつか自制を失って誓約を結んでしまいかねない。
北方の神々は、時にこの上なく残酷ないたずらをする。
一族の仇を愛させるなんて。
一族を殺させた後で──大切にしたいと思える人間に出会わせるなんて。
ヨエルは深いため息をついて、背負い袋の口紐を縛り、旅仕度を終えた。すると、まるで見計らったかのように、部屋の戸を叩く音がした。
「何だ」
尋ねるが、返事はない。ヨエルはため息をついて戸を開けた。思った通り、そこに立っていたのはアルだった。
ヨエルは腕組みをしてアルを見た。
「何か言いたいことがありそうな顔だな」
アルの息から酒のにおいがした。だが、泥酔しているという程でもない。それなのに、アルの目は妙に据わっていた。どんよりとして、危うげだ。
「入るか? 立ち話で済む話じゃ無さそうだ」
アルはこくりと頷いて、部屋の中に入った。彼は、机の上に用意された旅の荷物にすぐに気付いた。
「明日発つのか?」
「ああ」
一緒に行きたい、と言いたいのだろう。アルの口がうっすらと開いた。だがヨエルの予想に反して、アルは何も言わなかった。その代わり、彼は部屋の長椅子に腰掛け、深いため息をついた。
「じゃあ、出る前にもう一度だけ浄化させてくれ」
いつもなら、そんな必要はないと断る場面だったけれど、今夜のアルの様子はいつもと違いすぎる。
隣に腰掛け、「大丈夫か」と世話を焼きたい。
だが、そうやってアルと自分を甘やかしてきたからこそ、こんな苦境に陥っているのだ。
「……わかった。頼む」
ヨエルはアルの前に立ち、両手を差し出した。
アルがその両手をとって、うやうやしく額づける。精神の表層近くを漂っていたノイズは、たちどころに消えた。
「ありがとう」
礼を言って、手を引き抜こうとする。ところが、アルはヨエルの手を放さなかった。それどころか手首を強く握って、さらに浄化の手を伸ばしてきた。
「アル! お前……!」
アルが顔を上げる。酒のせいで据わっているのかと思っていた空ろな目に、強い光が宿っていた。眼差しに射すくめられ、ヨエルは一瞬、手を振りほどくのを忘れた。
アルにとっては、その一瞬で充分だった。
視界が白く塗りつぶされ、意識が遠のく。精神世界に引きずり込まれる。自分の精神なのに、アルに主導権を握られている。『一緒に見ろ、目をそらすな』と命じられている。あと少し反応が遅れていたら、精神を守る盾さえ破られていたかも知れない。
ヨエルは思い切り身を捩り、アルとの接触を解いた。
「何のつもりだ!」
拒絶反応が身の内で膨れ上がると同時に、部屋の梁にとまっていたスニョルの輪郭がぼやける。ヨエルの動揺に反応したスニョルが、ヨエルに力を与えるために一体化しようとしているのだ。
いや、だめだ。アルの前で獣の性に身を任せるわけにはいかない。
気持ちを落ち着かせてから、ヨエルは長く深いため息をついた。
「もう一度聞く、なんのつもりだ?」
アルは、激怒するヨエルを目の当たりにしても、少しも動揺していなかった。彼は、静かにこう言った。
「〈戦鴉団〉のこと、なんで黙ってたんだよ」
腹に破壊槌をぶち込まれたかのように、一瞬、息ができなくなる。
「なんで……」
「俺の村を襲ったって……俺、全然知らなかった」
「お前、それを誰から──」と言いかけて、尋ねるまでも無かったことに気づく。
「リーヌスか」
死ぬまで守り通そうとした秘密が──好きでもない男と結婚してまで守ろうとした秘密が、あっさりと明かされてしまった。無力感がどっと押し寄せて、ヨエルはテーブルに寄りかかった。
アルは長椅子に座ったまま、あいかわらずまっすぐにヨエルを見ている。目が合って、ヨエルは息を呑んだ。アルの目の中には。親の敵に向けた憎悪の炎が燃えているはずだと思っていたのに……そこにはただ、馬鹿がつくほど一途で強情な輝きがあるだけだった。
その目に見つめられると、いくらでも心を砕いてやりたくなる。彼がもっと良い人生を歩めるように。
そう。だから、心を砕くのだ。今。アルヴァルを、ヨエルという枷から解放するために。
「言わなかったのは──」
お前に憎まれたくなかったから。
「話したところで、意味など無いからだ」
「意味がない……?」
アルは信頼していた相手にいきなり頬を叩かれたような顔をしている。見ていられなくて、ヨエルは目を背けた。
「お前が一人でも生きていけるようにすることが、俺が自分に課した使命だった。俺には能力も経験もある。俺の過去がお前の自立を助けるならいくらでも話しただろうが……」
声が掠れそうになるのを、意志の力で堪えた。
「俺が過去に誰を殺したかを話したところで、お前の霊獣が成熟するとは思えん」
しばらく、沈黙が流れた。長椅子が軋む音がして、アルが立ち上がったのがわかった。
「そうじゃない。俺はそんなことを言いたいんじゃないんだよ、ヨエル」
アルがヨエルの手を取り、向き合わせる。
「俺は、ヨエルが何に苦しんでるのか知りたかったんだ。一緒に解決していきたいんだ」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
恩人だと思っていた男が一族の仇だと知って、復讐を望むならまだしも『一緒に解決したい』だと?
「何を……言ってるんだ……」
冷静さを装うことが出来ない。濡れた砂の上に立っているように、足下さえおぼつかない。
「ヨエルが昔、〈戦鴉団〉だったことも、俺の村を滅ぼしたことも、俺にとっては全部過去のことなんだ」
そう言ってしまってから、ヨエルは短い贖罪の祈りを呟いた。
「俺は、俺と出会ってからのヨエルしか知らない。俺が知ってるヨエルは、優しくて高潔だった。どれだけ突き放そうとしたって、ヨエルが過去を悔いてるのはわかるよ。痛いほどわかる。だから……だから俺は──」
理解が追いつかなくて、心臓が激しく鼓動していた。
こんなにあっさりと、重すぎる罪を水に流せる人間が、この世に居るものか。北方人にとっての復讐とは、流された分の血を相手にも流させることだ。それを果たさないのは恥ずべきことで……。
──ああ、でも、そうだな。
アルヴァル、お前はそういう奴じゃない。お前は優しさしか知らない。そういう男になれば良いと思いながら、彼を導いてきたのだ。
だからこれは、喜ぶべきことなんだ。
「よくわかったよ、アルヴァル」
ヨエルはアルに向き合い、真正面からその目を見て──突き飛ばした。
「うわ!」
アルは蹈鞴を踏みながらよろめき、ベッドの上に尻餅をついて倒れる。ヨエルはシャツを脱ぎ捨てながらアルの膝の上に跨がり、アルの肩をベッドに押さえつけた。
「ヨ、ヨエル!?」
「これが最後の授業だ、アルヴァル」
ヨエルは言い、アルの服を両手で掴んで、センチネルの力に任せて引きちぎった。
「ちょっ、待てよヨエル──!」
アルの腰のベルトを引き抜き、ズボンを緩める。暴れるアルを押さえつけながら手を突っ込み、有無を言わさずそれを掴んだ。
「やめろって、ヨエル! 俺、こんなことはしたくない!」
アルはアルの髪を掴んで、わからせるように力を込めた。
「お前の希望などどうでもいい。これは授業だと言っただろ」
脅すような声で囁く。
抵抗しては居ても、アルの若い肉体は刺激に敏感だった。手の中で揉みしだき、敏感な場所を擦れば、すぐさま反応して血を孕む。
「っ、あ……!」
ヨエルは自分のズボンをずらし、ベッド脇の小さな棚から軟膏を手に取った。アルを押さえつけたまま片手で蓋を開け、中身をとって尻に塗り込む。
アルは、自分の身体が己を裏切る様に傷つき、混乱している。何より、ヨエルの行動に衝撃を受けていた。言葉らしい言葉も出てこない。それでも、彼のものは堅く屹立していた。今のヨエルにとっては、それ以上に重要なことはない。
「上位のセンチネルを本気でガイドするというのは、こういうことだ」
ヨエルはアルのものをあてがい、ゆっくりと腰を沈めた。
ガイドがセンチネルを浄化する、最も強力で効果的な方法は、まぐわうことだ。普通の人間なら、これは愛の行為──欲望と情熱の行為になり得た。だが、センチネルとガイドにとっては、これは癒やす行為であり、同時に暴き、さらけ出す行為でもある。
アルの呼吸が速くなる。泣き出しそうに顔が歪み、目が潤む。
「どうした、アル」
息が上がりかけているし、血の巡りが早い。微かに喘ぎながら、ヨエルは言った。
「お前だって……これを望んでいたんだろうが」
他人に身体を赦すのは久々だった。アルと同じようにヨエルの身体も、主の意図を裏切って昂ぶっている。
腰を揺らすと、アルは呻いて歯を食いしばった。
「ヨエル……違う。俺は──」
「文句しか出てこないなら、その口を閉じろ」
ヨエルは笑い混じりに言い、口づけでアルヴァルの口を塞いだ。
「……っ、ん!」
夢見がちなアルのことだ、初恋の相手との仲らいについて、さぞかし夢のある状況を思い描いていただろう。
もしも自分が、別の過去を生きた、別の人間だったなら──そんな夢に身を委ねたかも知れない。だが、そうした甘さを全て打ち砕いてしまわなければ、これは終わらない。
それは、ヨエルが己に課すべき最後の使命だった。
頑なな唇を舌でこじ開ける。そう力を込める必要もなかった。アルが喘いで出来た隙間に舌をねじ込むと、彼はそれを受け入れ、舌を絡ませてきた。ぎこちない舌を唆し、翻弄してから唇を放す。
ヨエルはフンと笑った。
「少しくらい楽しんでおけ。俺たちのような奴らにだけ赦された特権だ」
アルは悔しげに唸って、上半身を起すと、ヨエルの腰を掴んだ。そして、ヨエルの身体を掴まえたまま、思い切り突き上げた。
「……っ!」
びりびりと、快感の痺れが四肢を駆け巡る。ほんの一瞬、意識が解けて、甘い戦慄に身を任せてしまいそうになる。
だが、堪えた。
一度堪えても、アルの抽挿は止まない。身体を貫く律動はひたむきで、アル自身の欲望を追求しながら、ヨエルへの想いも同じくらいこもっている。
心から申し訳ないと思う。こんな交わりなど望んでいなかっただろうに。それでも、こうでもしなければアルはヨエルを手放せない。
──そうじゃない。これ以上の欺瞞は無意味だ。
ここまで手ひどく彼を踏みにじらなければ、ヨエルがアルを手放せないのだ。
出来ることなら、汗ばむ髪をそっと梳いて、頭を抱き寄せ、彼の名前を呼び、優しいだけの交わりの中で果てたい。
それは、決して叶えてはならない夢だ。
アルが動きを早める。限界が近いのだろう。
「あ……っ、そうだ。それでいい……」
腹の底にいつでもこびりついていたノイズが剥がれ、泡立ちながら消えてゆく。
「中に放て……それで、ノイズは消える……!」
「いちいち、指図、するな……ああ!」
アルが呻き、ヨエルを強く抱きすくめた。
堪えていた息をついて、アルの身体が大きく震える。極限まで張り詰めた肉体が緩み、そして──ヨエルの中に、あたたかいものが溢れた。
胸の奥、頭の底に溜まっていた、真っ黒な油のようなノイズがじわりと解ける。寝ても覚めても精神を強ばらせる澱み……永遠にこの感覚と付き合っていくのだと思っていたのに、それはあまりにもあっけなく、ヨエルを捨てて消えていった。
荒い息をつきながらも、何か、師らしい言葉をかけなくてはと思う。
「よくやった、アル……。これで十分だ」
「まだだ」
ヨエルの言葉に異を唱え、アルは震える手でヨエルに触れた。交わりに全てを任せるのではなく、彼がこれまでに学んだ精一杯を尽くして、浄化をしようとしている。
彼の目は、まだヨエルを諦めていない。
「ああ、そうだな」
そうなるだろうとわかっていた。
「なら、全部その目で確かめろ!」
だから、ヨエルも精神を解き放った。自分の全てをさらけ出すために。
極光に埋め尽くされた夜空。燃えさかる戦場。泣きじゃくる子供の声。こんな夜、命は他の何よりも軽くなる。もちろん、自分の命も含めてだ
何百羽もの鴉が金切り声を上げて、辺りを飛び回っている。その中心に、ヨエルが居る。
崩れた家の前にアルヴァルが立っている。家の下敷きになった家族が、そこから這い出てくるのを待っている。だが、もう手遅れだ。
ヨエルがアルヴァルを抱き上げる。その瞬間、血の霧のように視界を覆っていた闘争本能は消え、無感覚の鎧が解け落ちる。辺りの様子が、まざまざと見えるようになる。
周囲にあるのは『燃えさかる戦場』などではない。虐殺の現場だ。家々を飲み込んだ炎は伸び上がりながら踊り狂い、火の粉を具した熱風が吹き荒れていた。悲鳴。怒号。命乞いの声は湿った音に飲み込まれて途絶える。そこかしこに散らばる死体はどれもひどく傷つけられ、中には陵辱されたものもある。地面は血で泥濘み、人体の内側に収まっているべきあらゆるものが散乱している。聞こえるのは悲鳴よりも笑い声の方が大きかった。誰もが笑っている。人間も、鴉も。生ける者も死した者も。こんな地獄の光景の中で、誰もが。
そして気付くと、ヨエル自身も笑っていた。
幼いアルヴァルがそれを見ていた。悪鬼を見るような眼差しで。彼は手を振りほどき、剣と斧とが林立する地獄に向かって駆けてゆく。彼は傷つき、血を流し、猛り狂って……やがて、ヨエルと同じものになる。アルヴァルと出会う前のヨエルのような、心のない怪物に。
ヨエルは、アルがその全てを見たのを感じた。ヨエルが感じている恐怖を感じて、同じ絶望と、罪の意識を感じたはずだ。だから静かに、自分の心の中からアルを押しだし、精神の盾を再び掲げて、全てを締め出した。
精神世界から意識を戻し、抱擁を解く。アルのものが自分の中から抜けると、つながっていた場所から、まだあたたかい精液が垂れた。拭う気にもなれず、疲れ果てた身体を投げ出すように長椅子に腰掛けた。
「ヨエル……」
肉体と精神の交わりに疲弊したアルは、ベッドの上で、ぜえぜえと息をつきながらヨエルを見つめていた。
「心の中に……俺がいた」
ヨエルはため息をついた。
「そうだ」
アルは長いこと躊躇っていた。けれど、意を決したように拳を握り、こう尋ねてきた。
「……俺のせいで苦しんでいるのか?」
ひび割れた声で、アルがさらに続けた。
「俺は……ヨエルにとって『呪い』なのか?」
ヨエルは目を閉じ、小さな祈りを捧げた。
──ああ、神々よ。
これは天啓だ。いまこそ別れを告げろと、神々が差し向けてくれた機会なのだ。
だから、ヨエルは言った。
「そうだ」
アルの目が潤み、揺れて、粉々にひび割れてゆく。
ヨエルは言った。
「自分の罪滅ぼしのために、お前を拾った。立派に成長した。俺の償いは終わりだ。だから──」
口をつぐみ、ほんの一瞬だけ待ってみる。
今、ここに天から雷が降ってきて、全てを焼き滅ぼしてくれはしないかと。
だが、そんな贅沢は赦されなかった。
「だから、もう……俺を解放してくれ」
アルの目から涙が、鼻から赤い血が流れた。
浄化で無理をしたせいで、どこかの血管が切れたのだろう。彼はさらに数秒持ちこたえたけれど、堪えきれずに気を失って、仰向けにベッドに倒れ込んだ。
ヨエルは手当をする者を探しに部屋を出た。
それからルドヴィグと話をして、オーヴェの件が片付いたら、来年を待たずにリーヌスの元に身を寄せると告げた。
リーヌスとの婚姻の証明書にもサインを済ませた。リーヌスは喜んでいた。それはそうだろう。結婚すれば配偶者として、ヨエルが拒んだ〈戦鴉団〉の団長の座の継承権を得ることになる。リーヌスは早速、イングネスに戻って婚儀の仕度を調えると言い、すぐにレイクホルを発った。
リーヌスとの日々にしばらく耐え忍んだら、その後は……どこか野垂れ死ぬのにちょうど良さそうな場所を探すことにしよう。
身支度を終え、話をつけるべきところに話をつけてしまうと、〈塔〉の召使いに旅の荷物を運び出し、馬の仕度をしてくれるよう頼んだ。それから、残った私物は全て処分するように、とも。
雪が降りしきる夜の闇に足を踏み出す前、最後に一度だけ、アルの顔を見て行こうかと考える。幼い頃、アルが悪夢を見ずに眠れているか、何度も確認した夜のように。
ヨエルは首を振って、そんな考えを手放した。
俺には、さよならを告げる資格もない。
今夜を最後に、ここには戻らない。
戻ることは出来ない。もう二度と。
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