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大蒼洋上 マリシュナ号
客人をマリシュナ号に案内した時のゲラードとフーヴァルは見物だった。彼らは以前にも面識があったらしいが、それにしても派手な驚きようだった。マタルにとっては、フーヴァルがあんな顔をするのを見たのは初めてだった。
それを言うなら、客人の反応も面白かった。
いや、興味深かった、と言うべきか。
「ゲラード殿下!? なぜあなたが──」
そこまで口にした男は、マタルの方を見てそれ以上の言葉を飲み込んだ。ゲラードも、何かを胸の内に押し込めるような表情を浮かべていた。
なるほど。
俺には聞かせられない事情がある──つまり、ワケありってことか。
「まさか、知り合い?」マタルは二人の間に入って、あえてずけずけと尋ねた。
「ああ、そうなんだ」ゲラードは、マタルに向かって頷いた。
客人は言った。
「以前、殿下とフーヴァル・ゴーラム殿に助けて頂いた」
「そうだ。大いに助けてやったな」フーヴァルはフンと鼻を鳴らした。
フーヴァルの、あの険悪な表情は何だろう? マタルはますます興味を惹かれた。
「その後にも何度か会った。僕らは何かと縁がある」ゲラードは言った。「それと……僕はもう殿下じゃないんだ。王家の地位を降りて、今ではゲラード・スカイワードと名乗ってる」
「そうでした」男は言った。「またお目にかかれて光栄です」
「こちらこそ。でも、もうかしこまるのはやめてほしい」ゲラードは笑い、改めてマタルを招いた。「マタル、こちらはホラス・サムウェル殿だ。サムウェル殿、彼はマタル=サーリヤ。さっき見たとおり、凄腕の魔女だ」
「ホラスとお呼びください、殿下──ではなかった。スカイワード殿」
「僕のことも、ゲラードと」
ありがとうございますと頭を下げるホラスの横顔を、マタルはじっと見た。
マタルは、ぼんやりと口にした。「ホラス……サムウェル」
何故だろう。この名前は妙に舌に馴染む。
名前を呼ばれた彼は微笑んだ。その笑みが、幾分寂しげなのはどうしてなのか気に掛かる。
港で彼を見たとき、どこかで会った気がすると思ったのは気のせいではない。ほとんど白髪になりかけた長い髪はボサボサで、顔は無精髭に覆われている。こんな知り合いはいないはずなのに、見つめていると、だんだんと不思議な気分になってくる。何か……むずむずするような……。
「マタル」
フーヴァルに名前を呼ばれて、ハッとした。「なに?」
「お前、自分のツラを見てみろ」
「何が?」
そんなこと言っても、手元に鏡はない。困惑していると、ゲラードが助け船を出してくれた。
「頬のところに、文身が……」
「げっ!」マタルは両手を頬に当てた。
それを見て、フーヴァルは訳知り顔で笑った。
さっきから、ここにいる誰もが何か言いたげな雰囲気を漂わせているけれど、マタルにはさっぱりわけがわからない。フーヴァルの険悪さや、ホラスの寂しげな様子から推測すると……ホラスとゲラードの間に、昔なにかあったのだろう。もしかして、恋人同士だったとか? フーヴァルにしてみれば、当然おもしろくないはずだ。
そういうことなら、まあ、いろいろ納得がいく。自分がホラスに対して抱いている、並々ならぬ興味を別にすれば。
「ホラス、何故カルタニアにいたのか尋ねても構わないだろうか」
すると、ホラスの表情が厳しくなった。
「殿──ゲラード、アドゥオールという魔女を知っていますか」
ゲラードは驚きつつも頷いた。「ああ。彼女からは、いろいろと便宜を図ってもらっている」
「彼女は、あなたの暗殺未遂についての調査をしていた。ご存じですね?」
「もちろん。カルタニアから刺客が放たれていたことも、彼女から聞いた」
ホラスは、安堵したようにため息をついた。「真相を突き止めたのはわたしです。もう何年も、カルタニアに潜入していた」
「あなたが!」ゲラードはしみじみと言った。「これはまた、なんという巡り合わせだろう──」
「おい」フーヴァルが二人の間に割って入った。「お前らはどうか知らねえが、俺は座って酒が飲みたい」
ぶっきらぼうにそう言うと、彼は船尾楼をあがって、食堂の方へ向かって行った。
その後ろ姿を見て、マタルの推測は確信に変わった。
ははあ。やっぱりそういうことだな。
食堂の棚にはろくな酒がないから、船艙に酒を探しに行くとフーヴァルが言った。すると、ホラスがすかさず、彼について行くと言い出した。
おっと……これは直接対決か? それとも宣戦布告?
あいかわらず、ゲラードはどこ吹く風という顔をしている。
緊迫感ある展開に目を瞠りながらも、マタルは、胸の辺りに纏わり付く苛立ちにも気付いていた。
あの二人──というか、三人がどれだけこじれていようと、俺には関係のないことだ。それなのに、なんでこうも気に掛かる? 他人の色恋沙汰に首を突っ込んで楽しむ遊びなど、ルーシャと二人で恋愛話に夢中になっていた十代のころにやりつくしたはずだ。そのあと彼女とは、別の話題について話すようになった。お互い、誰彼となく好き勝手に思いを寄せるようなことはしなくなった。かわりに、特別な一人を振り向かせるために頭を絞った。それが誰だったかは思い出せないけれど。
しばらくすると、ホラスとフーヴァルが両手に酒を持ってきた。
「あんまり飲み過ぎない方がいいんじゃない」
何の気なしにマタルが言うと、ホラスは驚いたような顔をした。それから、元の表情に戻った。
「そうするよ。酒はしばらくぶりだ」
「そいつは結構! 俺は遠慮なく飲むぜ」
フーヴァルはどことなくすっきりとした顔をして、どさりと腰を下ろした。
二人の間で、何らかの決着がついたことは間違いなさそうだ。
「それで」全員が席に座ると、ゲラードが言った。「カルタニアで、あなたは何を?」
「情報を探っていました。あなたの暗殺にも関係していることです」
「僕の暗殺は失敗に終わって……それきりだと思っていた」
ホラスはゲラードに向かって小さく首を振った。「あなたを亡き者にする試みは、さらに大きな企みに繋がっていたようです」
ホラスは言い、杯に注がれたワインを少しだけ飲んだ。
「エヴラルド・モンティーニを知っていますか。光の箭聖堂の枢司卿です」
「なんか聞いたことあるな」フーヴァルが言った。「ちょっと前に噂になってた奴か? 井戸を掘り当てたとか、予言を的中させたとか」
「そう、その男です」ホラスは頷いた。「パルヴァでは──いえ、カルタニアでは、彼の名は知れ渡っています。奇跡を行う男だと。わずか十八歳にして、次期教王に推す声も上がっているほどです」
「その男が、何か?」
ホラスは深く息を吸い込み、短いため息をついた。話しづらいことを話す前にするみたいに。
「あなたを暗殺しようとした金の面の刺客は、古くから伝わる金面兵という暗殺部隊の者です。彼らは光の箭聖堂に所属する神官でありながら、兵士なのです」
「つまり、こいつを殺そうとした暗殺者の親玉が、そのエヴラルドってことか」
ホラスは頷いた。
「まだあります」
場の空気がぴんと張り詰めた。
「エヴラルド・モンティーニの素性について調べたところ、あることがわかりました。彼はカルタニアの人間ではなかった。出身はフェリジアです」
「フェリジア? それじゃまるっきりエドモンの後継じゃねえか」
ホラスは首を横に振った。
「彼の台頭と現教王の意思は、まったく関係がありません」
「じゃあ、何でフェリジアの人間が? カルタニアの連中は、エドモンの次は今度こそ自国の人間を教王にしたがってるんだと思ってたがな」
「ええ、その通りです。しかしエヴラルドは非常に……特異な生い立ちの男なのです」ホラスは言った。「ゲラードはご存じかもしれませんが、カルタニアにはひとつの伝統というか……役割があります。陽神教国のやんごとなき家系から病人を預かり、世界有数の湯治場と名高いパルヴァで療養する、という」
「聞いたことがある。僕の伯父のひとりも、若い頃にカルタニアに行ったはずだ」
「彼は戻りましたか?」
ゲラードは首を振った。「いいや、治療の甲斐なく、亡くなった」
ホラスは頷いた。「やはり、そうですか」
今の会話から、真実をくみ取ったのはフーヴァルだけだった。「湯治ってのは口実だな?」
その場の空気が変わる。
「ええ。実際は体のいい厄介払い──ゲラードの伯父上のように、カルタニアに送られたものは、死刑を宣告されたも同然です」
「本人と周囲の人間には療養と言っておきながら、実際には暗殺される。そういうことか」ゲラードは言った。
ホラスは、ゆっくりと頷いた。「そうです」
彼は、一つ呼吸をしてから続けた。
「クウィリノ・モンティーニ──光の箭聖堂の先代の枢司卿が幼いエヴラルドを引き取り、養子にしました。以前の名前は……エヴラール・ド・コロンベ」
ゲラードが声を上げた。「そんな!」
「コロンベって言や……フェリジア王家の血筋じゃねえのか」
ホラスは頷いた。「ええ。彼は真実、フェリジア王家の血を継いでいます」
「じゃあ、その子も殺されるはずだった?」マタルが言う。「何でそんなことを……」
「エヴラールの父ユベールは、現フェリジア王ジェルヴェの又従兄弟にあたります」
「確かに、ジェルヴェには嫡子がいない」ゲラードが言った。「愛人との間に、ひとりだけ息子がいたが」
「はい。ですからジェルヴェ王が死ねば、継承権はユベールと、彼の子孫に移ることになっていました」
「つまり、エヴラールにか。なるほどな。厄介払いするわけだ」
「ユベールの家系が絶えたことで、継承権はジェルヴェの息子に移りました」
食堂の中は、重い沈黙に包まれた。
いつの間にか、船は潮に乗ったようだ。波が変わって、揺れが大きくなる。
ホラスが、再び口を開いた。
「ハミシュという少年を知っていますね。一度お会いになったはずです」
「リコヴの依り代の? たしか、マリシュナには二度乗せたな」
マタルもその少年のことは知っていた。直接会ったことはないけれど──確か、アシュタハが蘇る前に……何か……何かがあって……。
目眩がしそうになって、マタルは頭を抑えた。
「マタル? 大丈夫か?」
ゲラードが言い、マタルの背中に手を当ててくれた。
「だ、大丈夫。なんともない」
なんともなくはなかった。いままで普通に歩いていたはずなのに、いきなり足の下に大きな穴があいてしまったみたいな感覚だった。ひどく気分が悪い。けれど、なんとか押しとどめた。
顔を上げると、ホラスがじっとこちらを見ていた。灰色の瞳。それが、まるで励ますようにマタルを見つめている。どういうわけだか、それで少しだけ気分がマシになった。
「もう、平気だ」マタルは言った。「そのハミシュって奴が、どうしたの?」
「エヴラルドとハミシュ──いえ、フェリジアの呼び方ではエヴラールとジェムスと言いますが──彼らは、実の兄弟……双子なのです」
フーヴァルが口笛を吹いた。
ゲラードは言った。
「リコヴの依り代と、カルタニアの次期教王が、双子……?」
ホラスは頷いた。
「エヴラールはハミシュと瓜二つです。記録には、兄のジェムス──ハミシュの方は、移送中の事故により死亡したと記されていました。ですがわたしは、彼がダイラにまで逃げのびたのだと考えて──いえ、確信しています」
「普通のガキには無理でも、神が力を貸せば、そういうことだってあり得るだろうな」フーヴァルが言った。
ホラスは頷いた。「わたしも、そう思います。これにはリコヴが関わっている」
そして彼は、深く息を吸い込み、吐き出した。
「教会に追われて港に来る前、わたしはエヴラルドの行動を監視していました。彼は自室にこもり、なにやら……呪術めいたことをしていました。鏡を覗いて、その中の何者かに話しかけているのです。取り憑かれているようでもありました」
ホラスは、耳の後ろを探ると、そこに隠してあった小さなものを取り出した。
「金の蜂?」
マタルは目を疑った。「それ……!」
諜報に用いられる蟲の魔道具。マタルの友人ルーシャが作ったものに間違いない。あれはめったに出回らないもののはずなのに。
ホラスがマタルを見て、頷く。「昔、デンズウィックで入手したものだ」
「そ、そう……」
落ち着け。
あの魔道具を持っているからって、彼がルーシャと顔見知りとはかぎらない。あれを手に入れる方法はいくつかあるし……なんと言っても、彼は魔女の間者なのだ。きわどい品物が勢揃いする泥棒大市に馴染みがあってもおかしくない。
それなのに、何かが心に引っかかっている。
「魔道具か」フーヴァルが感心したように言った。「こんなに質がいいのは初めて見た。一財産しただろ」
「この魔道具は二つで一つだから、二財産ほど」ホラスは小さく笑って頷いた。「見聞きしている事柄を二匹の虫の間で共有するための道具です。しかし、声だけなら記憶できます」
ホラスはゲラードに尋ねた。「お聞きになりますか」
「ええ、ぜひ」
ホラスは、蜂を長卓の中央に置いた。そして背中をトントンと叩き「記憶を開け」と言った。
すると、蜂は金属の羽根を震わせ、ブーンと唸るような音を立て始めた。その音は次第に一つにより合わさり──ついには、何者かの声を形作った。
声は、ところどころ不明瞭だった。けれどぼんやりとした音を聞いただけでも、この会話の異常さは理解できた。
マタルが驚いたのは、話が貴銀の族の部分に至ったときだ。
『貴銀の子よ──お前こそ、このカルタニアの地を総べるにふさわしい。お前はこの世に神を迎え入れた者たちの、正当なる後継者なのだ』
その時、文字通り、ゲラードの目の色が変わった。彼が見えざるものを見るときに現れる、眩いばかりの銀色に。彼はこの音声の中に、何かを見出したのだ。
ホラスは息を呑んだが、声を上げて彼の邪魔をするようなことはなかった。
慎重な人だ、とマタルは思った。こういう修羅場をくぐり抜けるのは、これが初めてではないのだろう。蜂から聞こえる言葉にももちろん注意を払ってはいたけれど、マタルはどうしても、ホラスという男から目を離せなかった。
すべてを聞き終わると、ゲラードの目も元に戻った。
ホラスが、間合いを窺いつつ言った。
「この儀式を行っているとき、彼の目も銀色に光っていました。あなたのように」
ゲラードは頷いた。
「僕の命が狙われた理由が、これではっきりしたように思う」ゲラードは言った。「僕は彼らの会話に出てきた、貴銀の族のひとりだ。貴銀の族は精霊を見出し、それに力を与えることができる。このエヴラールもそうなんだろう」
ゲラードは両手を組み、それをぎゅっと握った。
「だからこそ、彼は己の神に対抗するものを生み出させないために、僕を消そうとしたんだ──金面兵に命じて」
「己に、対抗する神」ホラスは呟いた。「では、いままさに……?」
「ああ」ゲラードは重々しく言った。「このエヴラールという者は……カルタニアで新たな神を育てているのだと思う」
「ダイラで降ろせばいいんだな?」
ホラスはフーヴァルに頷いた。「そうしてくれると、ありがたい」
「お安いご用だ。多く見積もって五日後には着く」フーヴァルはそう言いながら、ホラスをじろじろと見た。「船酔いは本当に治ったんだろうな」
「その節は、悪いことをした」ホラスは言った。「もう迷惑はかけない。約束する」
どうだか、とぼやき、フーヴァルは船尾楼甲板へと向かって行った。
マタルはまだ、ホラスを見つめていた。彼の近くに居ると、どういうわけだか、自分の中の何かが安定するのがわかる。一体、彼の何がそうさせるのだろう? 好みの相手とみるや、後先考えず飛びついてしまうのは魔女の習い性ではあるけれど、それにしても、今までどんな美丈夫をみかけても興味をそそられなかった自分が、どうしてこんな──すり切れた男に、こうもこだわってしまうのか。
くたびれ、薄汚れているけれど、いい男であることは確かだ。少し年を食っている。見たところ、四十の中頃か、後半か……まあ、枯れているのでなければ問題はない。
そういえば、以前にもルーシャとこんな話をしたような気が──。
「う、わ」
まただ。またしても、ひどい目眩。
マタルは船の縁にしがみついて、不意に襲いかかってきた不快感が通り過ぎるのを待った。
「大丈夫か?」
顔を上げると、ホラスが心配そうな顔でこちらを見下ろしていた。途端に、目眩がおさまる。
「もう……大丈夫」マタルは言った。
距離の近さに、何故だかひどくどぎまぎしてしまう。ホラスの目を見返す事ができず、マタルは船の舷縁を撫でた。
もしかして俺、舷縁を撫でてるのか? 意味もなく? 勘弁してくれ。いい年して、気になる男の前で十代の男の子みたいにもじもじするなんて。
「ええと……そうだ、あなたを船室に案内するようにって言われてたんだった」マタルはわざとらしく手を叩いた。「ついてきて」
部屋には余裕があった。ゲラードはフーヴァルと寝床を共有しているし、マタルは棺桶のような船室よりも、檣楼や甲板の上で、風を感じながら寝るのが性に合っていた。
「最初は俺のために用意された部屋だったんだけど、荷物もないし、ほとんど使っていないから」
ばつが悪くて、ホラスの方を見られない。マタルは、大して積もっていない埃を机から払ったり、片付けをする振りをしたりして、間を持たせようとした。机の上に置きっぱなしの手鏡を持ち上げたとき、自分自身と目が合った。なぜだか、まるで別人のように見えてドキリとした。
「よく、そんな風になるのか?」
「え?」
「さっきの、目眩のようなことが」
マタルは手鏡を棚に仕舞って、首を振った。「いや、ちょっと前から。でも平気だ」
ホラスはなおも心配そうにマタルを見つめていた。平気だという言葉を、少しも信じていない。この男は、会ったばかりのマタルのことを心の底から心配しているようだ。彼の関心を浴びることを、煩わしく感じてもおかしくないはずなのに……嬉しかった。
再び目をそらして、机の上に腰掛ける。
「優しいんだな」マタルは、観念したように言った。「元神官だから? きっと、誰にでもそうなんだろ」
「いいや」
一瞬たりとも迷わずに答えが返ってきたので、マタルは驚いてホラスを見た。彼は寝棚に腰掛け、マタルにじっと視線を注いでいた。
「誰にでも優しいわけじゃない。だが、君は俺を助けてくれた恩人だ」
ああ、そういうこと。命の恩人だからだ。好意なんか無い。だよな。わかってる。
胸の中で膨らんだつぼみが、瞬く間に枯れる。
何故だか、ひどく懐かしい。俺は長いこと、こういうやりとりのなかで生きてきた気がする。期待して、萎んで、また期待して。
「俺、やっぱり、あなたを知っている気がするよ」マタルは言った。「初めて会った気がしないんだ」
ホラスは一瞬、迷うような表情を見せた。そして言った。
「余計なお世話だとは思うが……そういうことを、あまり気軽に口にするのはやめたほうがいい」
そんな言葉を返されると思っていなかったので、マタルは思わず立ちあがっていた。
「気軽に言ったわけじゃ──」
「何気ない言動に好意があると勘違いするのはその男が愚かなせいだが……それでも、この世には愚か者が多い」ホラスの言葉は厳しかったけれど、眼差しは相変わらず優しかった。
「はいはい、わかったよ」マタルはくるりと目を回した。「子供扱いするなってば」
──あれ?
今の言葉……前にも言ったことがある。
うっすらと思い浮かぶのは、宿屋の部屋──いや、それとも砂漠?
胸が苦しい。それを吐き出せば楽になれるのに、息が詰まって……。
再び、怖ろしい勢いで世界が揺れ、回転しはじめる。呼吸が速くなり、心臓の鼓動は危険なほど強く、激しい。目の前が真っ暗になって、自分が座っているのか、立っているのかさえもわからなくなって──。
「マタル!」
気付くと、ホラスの腕の中に居た。
「マタル! しっかりしろ!」
「ああ」マタルは、無意識のうちに呟いていた。「ああ、これだ……」
理由はわからないし、言葉で説明するなんてこともできない。でも、納得した。彼の匂いと、温もりと、力強い腕の中に自分がいる──これこそが正しいのだと。
目眩は消え去っていた。
マタルは、ホラスの顔を見つめた。まるで、温かな太陽を包み込む曇り空のような──灰色の瞳を。
「俺、あなたを知ってる」今度は迷わなかった。「あなたも、俺のことを知ってる。そうでしょ?」
ホラスは、うっすらと口を開けたまま、躊躇っていた。
「俺は……」
その時、警鐘が鳴った。
けたたましく鳴り渡る鐘の音は、戦闘開始の合図だった。
大蒼洋上 マリシュナ号
客人をマリシュナ号に案内した時のゲラードとフーヴァルは見物だった。彼らは以前にも面識があったらしいが、それにしても派手な驚きようだった。マタルにとっては、フーヴァルがあんな顔をするのを見たのは初めてだった。
それを言うなら、客人の反応も面白かった。
いや、興味深かった、と言うべきか。
「ゲラード殿下!? なぜあなたが──」
そこまで口にした男は、マタルの方を見てそれ以上の言葉を飲み込んだ。ゲラードも、何かを胸の内に押し込めるような表情を浮かべていた。
なるほど。
俺には聞かせられない事情がある──つまり、ワケありってことか。
「まさか、知り合い?」マタルは二人の間に入って、あえてずけずけと尋ねた。
「ああ、そうなんだ」ゲラードは、マタルに向かって頷いた。
客人は言った。
「以前、殿下とフーヴァル・ゴーラム殿に助けて頂いた」
「そうだ。大いに助けてやったな」フーヴァルはフンと鼻を鳴らした。
フーヴァルの、あの険悪な表情は何だろう? マタルはますます興味を惹かれた。
「その後にも何度か会った。僕らは何かと縁がある」ゲラードは言った。「それと……僕はもう殿下じゃないんだ。王家の地位を降りて、今ではゲラード・スカイワードと名乗ってる」
「そうでした」男は言った。「またお目にかかれて光栄です」
「こちらこそ。でも、もうかしこまるのはやめてほしい」ゲラードは笑い、改めてマタルを招いた。「マタル、こちらはホラス・サムウェル殿だ。サムウェル殿、彼はマタル=サーリヤ。さっき見たとおり、凄腕の魔女だ」
「ホラスとお呼びください、殿下──ではなかった。スカイワード殿」
「僕のことも、ゲラードと」
ありがとうございますと頭を下げるホラスの横顔を、マタルはじっと見た。
マタルは、ぼんやりと口にした。「ホラス……サムウェル」
何故だろう。この名前は妙に舌に馴染む。
名前を呼ばれた彼は微笑んだ。その笑みが、幾分寂しげなのはどうしてなのか気に掛かる。
港で彼を見たとき、どこかで会った気がすると思ったのは気のせいではない。ほとんど白髪になりかけた長い髪はボサボサで、顔は無精髭に覆われている。こんな知り合いはいないはずなのに、見つめていると、だんだんと不思議な気分になってくる。何か……むずむずするような……。
「マタル」
フーヴァルに名前を呼ばれて、ハッとした。「なに?」
「お前、自分のツラを見てみろ」
「何が?」
そんなこと言っても、手元に鏡はない。困惑していると、ゲラードが助け船を出してくれた。
「頬のところに、文身が……」
「げっ!」マタルは両手を頬に当てた。
それを見て、フーヴァルは訳知り顔で笑った。
さっきから、ここにいる誰もが何か言いたげな雰囲気を漂わせているけれど、マタルにはさっぱりわけがわからない。フーヴァルの険悪さや、ホラスの寂しげな様子から推測すると……ホラスとゲラードの間に、昔なにかあったのだろう。もしかして、恋人同士だったとか? フーヴァルにしてみれば、当然おもしろくないはずだ。
そういうことなら、まあ、いろいろ納得がいく。自分がホラスに対して抱いている、並々ならぬ興味を別にすれば。
「ホラス、何故カルタニアにいたのか尋ねても構わないだろうか」
すると、ホラスの表情が厳しくなった。
「殿──ゲラード、アドゥオールという魔女を知っていますか」
ゲラードは驚きつつも頷いた。「ああ。彼女からは、いろいろと便宜を図ってもらっている」
「彼女は、あなたの暗殺未遂についての調査をしていた。ご存じですね?」
「もちろん。カルタニアから刺客が放たれていたことも、彼女から聞いた」
ホラスは、安堵したようにため息をついた。「真相を突き止めたのはわたしです。もう何年も、カルタニアに潜入していた」
「あなたが!」ゲラードはしみじみと言った。「これはまた、なんという巡り合わせだろう──」
「おい」フーヴァルが二人の間に割って入った。「お前らはどうか知らねえが、俺は座って酒が飲みたい」
ぶっきらぼうにそう言うと、彼は船尾楼をあがって、食堂の方へ向かって行った。
その後ろ姿を見て、マタルの推測は確信に変わった。
ははあ。やっぱりそういうことだな。
食堂の棚にはろくな酒がないから、船艙に酒を探しに行くとフーヴァルが言った。すると、ホラスがすかさず、彼について行くと言い出した。
おっと……これは直接対決か? それとも宣戦布告?
あいかわらず、ゲラードはどこ吹く風という顔をしている。
緊迫感ある展開に目を瞠りながらも、マタルは、胸の辺りに纏わり付く苛立ちにも気付いていた。
あの二人──というか、三人がどれだけこじれていようと、俺には関係のないことだ。それなのに、なんでこうも気に掛かる? 他人の色恋沙汰に首を突っ込んで楽しむ遊びなど、ルーシャと二人で恋愛話に夢中になっていた十代のころにやりつくしたはずだ。そのあと彼女とは、別の話題について話すようになった。お互い、誰彼となく好き勝手に思いを寄せるようなことはしなくなった。かわりに、特別な一人を振り向かせるために頭を絞った。それが誰だったかは思い出せないけれど。
しばらくすると、ホラスとフーヴァルが両手に酒を持ってきた。
「あんまり飲み過ぎない方がいいんじゃない」
何の気なしにマタルが言うと、ホラスは驚いたような顔をした。それから、元の表情に戻った。
「そうするよ。酒はしばらくぶりだ」
「そいつは結構! 俺は遠慮なく飲むぜ」
フーヴァルはどことなくすっきりとした顔をして、どさりと腰を下ろした。
二人の間で、何らかの決着がついたことは間違いなさそうだ。
「それで」全員が席に座ると、ゲラードが言った。「カルタニアで、あなたは何を?」
「情報を探っていました。あなたの暗殺にも関係していることです」
「僕の暗殺は失敗に終わって……それきりだと思っていた」
ホラスはゲラードに向かって小さく首を振った。「あなたを亡き者にする試みは、さらに大きな企みに繋がっていたようです」
ホラスは言い、杯に注がれたワインを少しだけ飲んだ。
「エヴラルド・モンティーニを知っていますか。光の箭聖堂の枢司卿です」
「なんか聞いたことあるな」フーヴァルが言った。「ちょっと前に噂になってた奴か? 井戸を掘り当てたとか、予言を的中させたとか」
「そう、その男です」ホラスは頷いた。「パルヴァでは──いえ、カルタニアでは、彼の名は知れ渡っています。奇跡を行う男だと。わずか十八歳にして、次期教王に推す声も上がっているほどです」
「その男が、何か?」
ホラスは深く息を吸い込み、短いため息をついた。話しづらいことを話す前にするみたいに。
「あなたを暗殺しようとした金の面の刺客は、古くから伝わる金面兵という暗殺部隊の者です。彼らは光の箭聖堂に所属する神官でありながら、兵士なのです」
「つまり、こいつを殺そうとした暗殺者の親玉が、そのエヴラルドってことか」
ホラスは頷いた。
「まだあります」
場の空気がぴんと張り詰めた。
「エヴラルド・モンティーニの素性について調べたところ、あることがわかりました。彼はカルタニアの人間ではなかった。出身はフェリジアです」
「フェリジア? それじゃまるっきりエドモンの後継じゃねえか」
ホラスは首を横に振った。
「彼の台頭と現教王の意思は、まったく関係がありません」
「じゃあ、何でフェリジアの人間が? カルタニアの連中は、エドモンの次は今度こそ自国の人間を教王にしたがってるんだと思ってたがな」
「ええ、その通りです。しかしエヴラルドは非常に……特異な生い立ちの男なのです」ホラスは言った。「ゲラードはご存じかもしれませんが、カルタニアにはひとつの伝統というか……役割があります。陽神教国のやんごとなき家系から病人を預かり、世界有数の湯治場と名高いパルヴァで療養する、という」
「聞いたことがある。僕の伯父のひとりも、若い頃にカルタニアに行ったはずだ」
「彼は戻りましたか?」
ゲラードは首を振った。「いいや、治療の甲斐なく、亡くなった」
ホラスは頷いた。「やはり、そうですか」
今の会話から、真実をくみ取ったのはフーヴァルだけだった。「湯治ってのは口実だな?」
その場の空気が変わる。
「ええ。実際は体のいい厄介払い──ゲラードの伯父上のように、カルタニアに送られたものは、死刑を宣告されたも同然です」
「本人と周囲の人間には療養と言っておきながら、実際には暗殺される。そういうことか」ゲラードは言った。
ホラスは、ゆっくりと頷いた。「そうです」
彼は、一つ呼吸をしてから続けた。
「クウィリノ・モンティーニ──光の箭聖堂の先代の枢司卿が幼いエヴラルドを引き取り、養子にしました。以前の名前は……エヴラール・ド・コロンベ」
ゲラードが声を上げた。「そんな!」
「コロンベって言や……フェリジア王家の血筋じゃねえのか」
ホラスは頷いた。「ええ。彼は真実、フェリジア王家の血を継いでいます」
「じゃあ、その子も殺されるはずだった?」マタルが言う。「何でそんなことを……」
「エヴラールの父ユベールは、現フェリジア王ジェルヴェの又従兄弟にあたります」
「確かに、ジェルヴェには嫡子がいない」ゲラードが言った。「愛人との間に、ひとりだけ息子がいたが」
「はい。ですからジェルヴェ王が死ねば、継承権はユベールと、彼の子孫に移ることになっていました」
「つまり、エヴラールにか。なるほどな。厄介払いするわけだ」
「ユベールの家系が絶えたことで、継承権はジェルヴェの息子に移りました」
食堂の中は、重い沈黙に包まれた。
いつの間にか、船は潮に乗ったようだ。波が変わって、揺れが大きくなる。
ホラスが、再び口を開いた。
「ハミシュという少年を知っていますね。一度お会いになったはずです」
「リコヴの依り代の? たしか、マリシュナには二度乗せたな」
マタルもその少年のことは知っていた。直接会ったことはないけれど──確か、アシュタハが蘇る前に……何か……何かがあって……。
目眩がしそうになって、マタルは頭を抑えた。
「マタル? 大丈夫か?」
ゲラードが言い、マタルの背中に手を当ててくれた。
「だ、大丈夫。なんともない」
なんともなくはなかった。いままで普通に歩いていたはずなのに、いきなり足の下に大きな穴があいてしまったみたいな感覚だった。ひどく気分が悪い。けれど、なんとか押しとどめた。
顔を上げると、ホラスがじっとこちらを見ていた。灰色の瞳。それが、まるで励ますようにマタルを見つめている。どういうわけだか、それで少しだけ気分がマシになった。
「もう、平気だ」マタルは言った。「そのハミシュって奴が、どうしたの?」
「エヴラルドとハミシュ──いえ、フェリジアの呼び方ではエヴラールとジェムスと言いますが──彼らは、実の兄弟……双子なのです」
フーヴァルが口笛を吹いた。
ゲラードは言った。
「リコヴの依り代と、カルタニアの次期教王が、双子……?」
ホラスは頷いた。
「エヴラールはハミシュと瓜二つです。記録には、兄のジェムス──ハミシュの方は、移送中の事故により死亡したと記されていました。ですがわたしは、彼がダイラにまで逃げのびたのだと考えて──いえ、確信しています」
「普通のガキには無理でも、神が力を貸せば、そういうことだってあり得るだろうな」フーヴァルが言った。
ホラスは頷いた。「わたしも、そう思います。これにはリコヴが関わっている」
そして彼は、深く息を吸い込み、吐き出した。
「教会に追われて港に来る前、わたしはエヴラルドの行動を監視していました。彼は自室にこもり、なにやら……呪術めいたことをしていました。鏡を覗いて、その中の何者かに話しかけているのです。取り憑かれているようでもありました」
ホラスは、耳の後ろを探ると、そこに隠してあった小さなものを取り出した。
「金の蜂?」
マタルは目を疑った。「それ……!」
諜報に用いられる蟲の魔道具。マタルの友人ルーシャが作ったものに間違いない。あれはめったに出回らないもののはずなのに。
ホラスがマタルを見て、頷く。「昔、デンズウィックで入手したものだ」
「そ、そう……」
落ち着け。
あの魔道具を持っているからって、彼がルーシャと顔見知りとはかぎらない。あれを手に入れる方法はいくつかあるし……なんと言っても、彼は魔女の間者なのだ。きわどい品物が勢揃いする泥棒大市に馴染みがあってもおかしくない。
それなのに、何かが心に引っかかっている。
「魔道具か」フーヴァルが感心したように言った。「こんなに質がいいのは初めて見た。一財産しただろ」
「この魔道具は二つで一つだから、二財産ほど」ホラスは小さく笑って頷いた。「見聞きしている事柄を二匹の虫の間で共有するための道具です。しかし、声だけなら記憶できます」
ホラスはゲラードに尋ねた。「お聞きになりますか」
「ええ、ぜひ」
ホラスは、蜂を長卓の中央に置いた。そして背中をトントンと叩き「記憶を開け」と言った。
すると、蜂は金属の羽根を震わせ、ブーンと唸るような音を立て始めた。その音は次第に一つにより合わさり──ついには、何者かの声を形作った。
声は、ところどころ不明瞭だった。けれどぼんやりとした音を聞いただけでも、この会話の異常さは理解できた。
マタルが驚いたのは、話が貴銀の族の部分に至ったときだ。
『貴銀の子よ──お前こそ、このカルタニアの地を総べるにふさわしい。お前はこの世に神を迎え入れた者たちの、正当なる後継者なのだ』
その時、文字通り、ゲラードの目の色が変わった。彼が見えざるものを見るときに現れる、眩いばかりの銀色に。彼はこの音声の中に、何かを見出したのだ。
ホラスは息を呑んだが、声を上げて彼の邪魔をするようなことはなかった。
慎重な人だ、とマタルは思った。こういう修羅場をくぐり抜けるのは、これが初めてではないのだろう。蜂から聞こえる言葉にももちろん注意を払ってはいたけれど、マタルはどうしても、ホラスという男から目を離せなかった。
すべてを聞き終わると、ゲラードの目も元に戻った。
ホラスが、間合いを窺いつつ言った。
「この儀式を行っているとき、彼の目も銀色に光っていました。あなたのように」
ゲラードは頷いた。
「僕の命が狙われた理由が、これではっきりしたように思う」ゲラードは言った。「僕は彼らの会話に出てきた、貴銀の族のひとりだ。貴銀の族は精霊を見出し、それに力を与えることができる。このエヴラールもそうなんだろう」
ゲラードは両手を組み、それをぎゅっと握った。
「だからこそ、彼は己の神に対抗するものを生み出させないために、僕を消そうとしたんだ──金面兵に命じて」
「己に、対抗する神」ホラスは呟いた。「では、いままさに……?」
「ああ」ゲラードは重々しく言った。「このエヴラールという者は……カルタニアで新たな神を育てているのだと思う」
「ダイラで降ろせばいいんだな?」
ホラスはフーヴァルに頷いた。「そうしてくれると、ありがたい」
「お安いご用だ。多く見積もって五日後には着く」フーヴァルはそう言いながら、ホラスをじろじろと見た。「船酔いは本当に治ったんだろうな」
「その節は、悪いことをした」ホラスは言った。「もう迷惑はかけない。約束する」
どうだか、とぼやき、フーヴァルは船尾楼甲板へと向かって行った。
マタルはまだ、ホラスを見つめていた。彼の近くに居ると、どういうわけだか、自分の中の何かが安定するのがわかる。一体、彼の何がそうさせるのだろう? 好みの相手とみるや、後先考えず飛びついてしまうのは魔女の習い性ではあるけれど、それにしても、今までどんな美丈夫をみかけても興味をそそられなかった自分が、どうしてこんな──すり切れた男に、こうもこだわってしまうのか。
くたびれ、薄汚れているけれど、いい男であることは確かだ。少し年を食っている。見たところ、四十の中頃か、後半か……まあ、枯れているのでなければ問題はない。
そういえば、以前にもルーシャとこんな話をしたような気が──。
「う、わ」
まただ。またしても、ひどい目眩。
マタルは船の縁にしがみついて、不意に襲いかかってきた不快感が通り過ぎるのを待った。
「大丈夫か?」
顔を上げると、ホラスが心配そうな顔でこちらを見下ろしていた。途端に、目眩がおさまる。
「もう……大丈夫」マタルは言った。
距離の近さに、何故だかひどくどぎまぎしてしまう。ホラスの目を見返す事ができず、マタルは船の舷縁を撫でた。
もしかして俺、舷縁を撫でてるのか? 意味もなく? 勘弁してくれ。いい年して、気になる男の前で十代の男の子みたいにもじもじするなんて。
「ええと……そうだ、あなたを船室に案内するようにって言われてたんだった」マタルはわざとらしく手を叩いた。「ついてきて」
部屋には余裕があった。ゲラードはフーヴァルと寝床を共有しているし、マタルは棺桶のような船室よりも、檣楼や甲板の上で、風を感じながら寝るのが性に合っていた。
「最初は俺のために用意された部屋だったんだけど、荷物もないし、ほとんど使っていないから」
ばつが悪くて、ホラスの方を見られない。マタルは、大して積もっていない埃を机から払ったり、片付けをする振りをしたりして、間を持たせようとした。机の上に置きっぱなしの手鏡を持ち上げたとき、自分自身と目が合った。なぜだか、まるで別人のように見えてドキリとした。
「よく、そんな風になるのか?」
「え?」
「さっきの、目眩のようなことが」
マタルは手鏡を棚に仕舞って、首を振った。「いや、ちょっと前から。でも平気だ」
ホラスはなおも心配そうにマタルを見つめていた。平気だという言葉を、少しも信じていない。この男は、会ったばかりのマタルのことを心の底から心配しているようだ。彼の関心を浴びることを、煩わしく感じてもおかしくないはずなのに……嬉しかった。
再び目をそらして、机の上に腰掛ける。
「優しいんだな」マタルは、観念したように言った。「元神官だから? きっと、誰にでもそうなんだろ」
「いいや」
一瞬たりとも迷わずに答えが返ってきたので、マタルは驚いてホラスを見た。彼は寝棚に腰掛け、マタルにじっと視線を注いでいた。
「誰にでも優しいわけじゃない。だが、君は俺を助けてくれた恩人だ」
ああ、そういうこと。命の恩人だからだ。好意なんか無い。だよな。わかってる。
胸の中で膨らんだつぼみが、瞬く間に枯れる。
何故だか、ひどく懐かしい。俺は長いこと、こういうやりとりのなかで生きてきた気がする。期待して、萎んで、また期待して。
「俺、やっぱり、あなたを知っている気がするよ」マタルは言った。「初めて会った気がしないんだ」
ホラスは一瞬、迷うような表情を見せた。そして言った。
「余計なお世話だとは思うが……そういうことを、あまり気軽に口にするのはやめたほうがいい」
そんな言葉を返されると思っていなかったので、マタルは思わず立ちあがっていた。
「気軽に言ったわけじゃ──」
「何気ない言動に好意があると勘違いするのはその男が愚かなせいだが……それでも、この世には愚か者が多い」ホラスの言葉は厳しかったけれど、眼差しは相変わらず優しかった。
「はいはい、わかったよ」マタルはくるりと目を回した。「子供扱いするなってば」
──あれ?
今の言葉……前にも言ったことがある。
うっすらと思い浮かぶのは、宿屋の部屋──いや、それとも砂漠?
胸が苦しい。それを吐き出せば楽になれるのに、息が詰まって……。
再び、怖ろしい勢いで世界が揺れ、回転しはじめる。呼吸が速くなり、心臓の鼓動は危険なほど強く、激しい。目の前が真っ暗になって、自分が座っているのか、立っているのかさえもわからなくなって──。
「マタル!」
気付くと、ホラスの腕の中に居た。
「マタル! しっかりしろ!」
「ああ」マタルは、無意識のうちに呟いていた。「ああ、これだ……」
理由はわからないし、言葉で説明するなんてこともできない。でも、納得した。彼の匂いと、温もりと、力強い腕の中に自分がいる──これこそが正しいのだと。
目眩は消え去っていた。
マタルは、ホラスの顔を見つめた。まるで、温かな太陽を包み込む曇り空のような──灰色の瞳を。
「俺、あなたを知ってる」今度は迷わなかった。「あなたも、俺のことを知ってる。そうでしょ?」
ホラスは、うっすらと口を開けたまま、躊躇っていた。
「俺は……」
その時、警鐘が鳴った。
けたたましく鳴り渡る鐘の音は、戦闘開始の合図だった。
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