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「長く海にいすぎると、そうなる」
眠れなくて、と白状するゲラードを、フーヴァルは笑った。
「どうやら、あの寝棚じゃないと安眠できなくなってしまったみたいだ」ゲラードは困ったように──それでいて、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。「君も、同じ理由で?」
「そんなとこだ」フーヴァルは言い、広縁に設えられた籐の寝椅子の上で身体を伸ばした。「陸じゃ落ち着いて眠れない。ガキの頃からそうだった」
すると、ゲラードは何かを思い出したように背筋を伸ばした。
「そういえば、君の子供の頃の話を聞かせてもらう約束だった」
「そんな約束してねえだろ」
ゲラードは──おそらく彼の中では精一杯の悪党らしさを総動員した笑みを浮かべた。
「酒を奢れば話すと言ったじゃないか」そして、手にした瓶の中身を、フーヴァルの杯になみなみと注いだ「ほら、これで逃げられない」
フーヴァルはやれやれと首を振った。「面白い話を期待してるなら、後悔するぜ」
「面白さなど期待していないよ。ただ──」ゲラードは、言わなかった言葉を誤魔化すために、少しだけ酒に口をつけた。
「ただ?」
彼は観念したように笑った。「君のことを、何も知らないから」
「知ってどうすんだ」
すると彼は、膝に載せた酒瓶の口に両手を重ねて、その上に顎を乗せた。少し考え込んでから、口を開いた。
「僕たちの関係は気晴らしだったと、君は言った」ゆっくりと、慎重に選んだ言葉を、彼は一つずつ並べていった。「僕自身がその関係に甘えておきながら、『気晴らし』という言葉に傷つくのは……あまりに都合が良すぎた」
ゲラードに『気晴らしは嫌だ』と言われたときには、それを拒絶だと思った。だが、そうではなかったのだ。いかにも生真面目な王子様らしい。
「気晴らし以上の何かを分かち合うために、君のことが知りたい」ゲラードは言い、フーヴァルを見た。「もちろん、君が良ければの話だけれど」
フーヴァルは深いため息をついて、ゲラードの手から酒瓶を奪った。そして、中身を勢いよく呷って、自分には必要のない感情──迷い──を飲み下した。
「まったく」やれやれと首を振る。「一発ヤるだけのことを難しく考えすぎるなよ」
「言わせてもらうが、フーヴァル。一発で終わることの方が少ないと思う」
フーヴァルは思わず吹き出した。そうして、二人してしこたま笑い合ってから、ようやく決心をつけて小さなため息をついた。
「せがんでおいて、途中で寝たら承知しねえからな」
最初の記憶は、港にまつわるものだ。
波音、鴎の声、立ちこめる霧の向こうから聞こえてくる船の警鐘。タールと、潮と、腐った魚のにおい。それから、海。
幼い頃から国中を転々としたが、腰を落ち着けるのは決まって港だった。
「いつ沈んでもおかしくないような、オンボロのキャラベル船が俺の家だった」
父親はろくでなしで、家代わりのキャラベルを使って金になることならなんでもやった。密輸団の片棒を担ぐのは日常茶飯事で、頼まれれば何でも運んだし、ダイラ近海のどこへだって船を出した。一つの場所に長くいすぎて、その土地の役人に目をつけられると、またすぐに違う港へ移った。
「俺はいつか縛り首で死ぬってのが口癖だったっけ」フーヴァルは喉の奥で笑った。「でも、結局は肺の病で死んだ」
父親はいつでも何かを呪っていた。国のこと、役人のこと、港の管理官のこと、天気、潮流、周りの人間すべてのことを。何か楽しい話題をしろと強制されても、無理だったのではないだろうか。フーヴァルは幼い頃から、彼の呪詛を聞いて育った。この世はろくでもなくて、人間もろくでもない。そういう奴らから盗むのは罪じゃない。俺たちは虐げられた人間だ。俺たちにはその権利がある……。
フーヴァルには、父のそうした言葉以外に信じるべきものがなかった。
「親父とふたり、片っ端から悪事を働いた。十二になる頃には、大抵の犯罪は経験してたな」フーヴァルは言った。「いつでも片眼を開けたまま眠ってた。半分は目覚めて、もう半分だけで眠るんだ。俺の特技だった」
「そんなことが……?」
フーヴァルは頷いた。
「ガキの頃……眠っているとどこまでも沈んじまうような気がした。寝てる間に呼吸が止まったらどうすりゃいいんだ? とかな。色々考えているうちに、できるようになってたんだ」
とにかく、とフーヴァルは言った。「親父は大抵のものを憎んでたが、俺たちの船と、お袋だけが例外だった」
傍らで、ゲラードがわずかに緊張したのを感じる。
無理もない。母親の話をするということは──自分に半分だけ流れている、ナドカの血の話をするということだ。口さがない噂以上の真実を知っている人間は、片手で数えるほどしかいない。
だが、いま隣にいるのは、自分が王妃の不義の子であることをフーヴァルに打ち明けた男だ。フーヴァルは他人に借りを作ることにも、それを返さずにいることにも良心の呵責は感じない。それなのに、ゲラードが打ち明けた秘密を受け取っておいてそのままというのは、なぜだか居心地が悪かった。
「母上のことを、何か覚えているのか?」ゲラードが控えめに尋ねた。
母上ときたか。参ったね。
「いや。でも、親父から山ほど話を聞いてた。いつか戻ってきてくれると、死ぬ間際まで信じてたっけな……だから、俺たちはずっと港を転々としてたんだ」
だが、彼女は戻っては来なかった。
「いまなら、お袋に何が起こったのか察しはつく。おおかた、どこぞの人間にとっ捕まって、薬漬けにされて、死ぬまで見世物にされたんだろ。よくあるんだ」そして、喉に支えそうになる言葉を、吐き出すように口にした。「いい金になるんだよ」
「そんな……」
わからないじゃないかと言うゲラードの言葉を遮る。
「そう思うことにしたんだ。それ以上最悪なオチってのも、なかなかないだろ」
ゲラードは口をつぐみ、それ以上の慰めは口にしなかった。
「結局、親父の話もどれだけ本当だったのかわからねえ」フーヴァルは、首から提げた金貨を握った。「確かなのは、お袋がこの金貨を俺の手に握らせたまま出ていったってことだけだ」
「その金貨を?」
首から外して、ゲラードの手に乗せてやる。彼は手のひらの上の金貨をしげしげと見つめ、そこに並んだ古代文字に眉をひそめた。
「これは……」
「古代のオティク文字で、『オルノアに汝を迎えん』と書いてある。古い貨幣に刻まれる決まり文句だ」
オルノア──海に沈んだ古代都市にたどり着くことができる種族は、一つだけだ。ゲラードは目を見開いて、フーヴァルを見た。
「お袋の形見といえばこれだけだ。これがあと五枚もありゃ、大砲つきの戦艦が買える」
「ただの伝説かと思っていた」ゲラードは言った。
フーヴァルは肩をすくめた。「ま、場所がわからないんじゃ行きようがねえけどな」
少し躊躇ってから、ゲラードが言った。
「それから、父上は……?」
「ああ……」
親父の肺病のことをを聞きつけた管理官に船を奪われ、父親ごと、目の前で燃やされた。病が、港から街に広まることを恐れたのだ。あのとき、彼にまだ息があったのかどうかもわからない。だが、ひどく惨めな最期だった。それは、父親の呪詛を受け継いだ子供を、さらに頑なにするのに十分すぎる仕打ちだった。
それから長いこと、泥水を啜るような生活をしていたのは覚えている。
溝鼠のように街を追われたフーヴァルにできたのは、また別の港へとさまよい歩くことだけだった。
そんなとき、潜り込んだ街で、聞き覚えのある名前を耳にしたのだ。
「ローレンス・オチエン・ドーソン」名前を一つずつ、はっきりと並べる。「その昔、親父と同じ船に乗っていた。名前だけは何度も聞かされててな。九海いち早い船を駆る伝説の海賊──そして、義賊だった」
縋るような思いで港に向かった。そこには黒山の人だかりができていた。皆の視線の先にあったのは、オチエンの船──ホライゾン号。
「俺の師匠が誰か、聞いただろ」
ゲラードが頷く。
「彼の船に乗りたがる奴はごまんといたから、正面から頼み込んでも無駄だと思った。それで、船が港を出るまで待って……泳いで船に追いついた。そうやって、もう引き返せないほど沖まで出ちまってから甲板によじ登って、無理矢理船員にしてもらったんだ」
ゲラードは笑った。
「船のひとたちは、さぞ驚いただろうね」
「ああ」
その時のことを思い出すと、何度でも笑みが浮かぶ。あまりに薄汚れていたので、船員たちはフーヴァルのことを、何かの魔獣だと思って銛を向けてきたんだった。あの怯えようときたら。
「あの船に乗ろうと決めたのが、いままでで一番の決断だ」フーヴァルは言った。
オチエンはジュワルカの貴族で、魔法使いだった。だが祖国での戦争に負けて、商船で奴隷としてこき使われた。やがて、十分な知識と技術を習得したあとで商船を乗っ取り、ホライゾン号の船長になったのだ。
「俺たちは商船の護衛として雇われたり、仕事がなけりゃ余所の国の商船を襲ったりしてた。奴隷貿易船を見つけちゃ襲って、捕まった連中を解放したり」
「アーナヴとも、そうやって出会ったんだったね」
フーヴァルは頷いた。「ああ。奴を拾ったのは、おれが独り立ちしたあとだったけどな」
ゲラードは頷いた。
「俺は……溶け込むのに時間がかかった。最初のうちは、仲間ともうまくやれなかった。オチエンが俺の親父のことを覚えていたからなにかと融通を利かせてくれたが、そうじゃなかったら追い出されてたはずだ。まあ、俺には素質があったし、船のことも、海のこともよく知ってたからな。とは言え……ジャクィスには敵わなかったが」
「ジャクィス?」
「ホライゾンには、俺と年の近いナドカがいたんだ。ジャクィス・キャトルって男で、オチエンと同じ魔法使いだった。俺らは見習い同士、よくつるんでたんだ」
ジャクィスは、どこぞの領主が妾に生ませた私生児だった。その領主は妾を追い払い、息子だけを手元に置いて、自分が所有する奴隷の管理役に仕立て上げた。やがて家が度重なる借金で没落すると、行き場のないジャクィスは、キャトルという偽名を名乗って船に乗り込んだ。それくらいしか働き口がなかったのだ。ナドカでありながら魔法との付き合い方を学んでこなかった彼は、人間の社会からも、人外社会からも爪弾きにされていた。
そういうところが、自分と似ているような気がした。他の多くの点では相容れなかったのだが、彼とは仲が良かった。親友だったときも、競争相手だったときもあった。大抵は、その二つの間を行き来していた。オチエンに認められるように互いをけしかけ合っていたのだ。
ゲラードはなぜだか嬉しそうに目を細めて、話を聞いていた。
「オチエンの存在がとても大きいことは感じていた」彼は言った。「きっと、偉大なひとだったんだろうね」
「偉大……まあ、そうだな」
彼を思い出すときに一緒に心に浮かぶのは、ホライゾン号の純白の帆だ。一杯に風を受けて、美しく膨らんでいる。船は滑るように波間を進み、船首に立つオチエンの顔は誇りと喜びに輝いている。彼はフーヴァルの肩を抱き寄せ、遠くに見える島影や、鯨の群れや、雲が生まれ出ずる海のことを教えてくれた。
「お前はいい船乗りだ」と彼は言い、それを心から信じさせてくれた。
惨めな呪詛と叶わぬ思慕ばかりを聞いて育ったフーヴァルにとっては、彼の言葉の全てが呪文だった。昨日よりもマシな自分になるための。
だが──。
その先のことを話すのだと思った途端、まるで撥条が切れたように、舌が重くなった。
「俺は……」
言いよどむと、気遣わしげにこちらを見ているゲラードと目が合った。
同情されるのはまっぴらだ。さっさと話せ。もう終わったことだろうが。
「俺は、あの女狐と会ったことがあるんだ」
「女狐──もしかして、マルヴィナ・ムーンヴェイル?」
ああ、とフーヴァルは言った。
「俺は……アラニだったことがある。ほんの短い間だけな」
「だが、君はホライゾン号に……」
フーヴァルは深々と息を吐いた。
「俺とジャクィスが操舵を任されるようになった頃だった。俺たちはアルバの西に停泊してて──そこに、コナルって男が訪ねてきた」
「その男が……?」
「そいつはアラニの使いだった。ナドカばかりの海賊の噂を聞きつけて勧誘しにきたらしい」
オチエンは、常にナドカの行く末を危惧していた。矜持を奪われ、誇りを、居場所を奪われ、やがて全てのナドカが人間の奴隷のように生きていくしかない時代がやってくるのではないかということを恐れていた。
おそらくフーヴァルは、ジャクィスに後れをとるのが嫌だったのだ。
俺だって、あんたが望む未来を実現できるのだと言ってやりたかった。見せつけてやりたかった。操舵技術も、潮の読みも、ジャクィスの方が上だ。だが、ジャクィスはナドカの復権になど興味はなかった。だから、『ナドカが自由に生きられる未来のために』というオチエンの理想を、俺がどれだけ大事に思っているのか示すことができたなら──俺がオチエンの一番弟子になれる。
そう思った。
だから、フーヴァルはホライゾン号を飛び出し、アラニに加わることにした。一回分の航海が終わるまでの間だけ。様子を探るだけのつもりだった。乗組員が少しの間船を離れるのは珍しいことじゃない。それらしい演説をぶてるようになって戻れば、きっと、オチエンは前以上に俺を誇りに思ってくれるだろう。
「確かに面白かったよ。連中は緑海の瘴気をどうするか、どうやってナドカが自由に暮らせる国を作るか、そりゃあ真剣になって考えてた。俺も最初は夢中になったし、似たような奴らが大勢いた。まあ、中にはあのムーンヴェイルの色香に誘われてってやつもいただろうが」ため息をつく。「でもな、次第に連中の胸の奥にあるもんが見えてきちまった」
「胸の奥にあるもの?」
フーヴァルは小さく笑い、酒で舌を潤した。「自己憐憫ってやつさ。それと、『持ってる』連中への恨み、辛み、妬み……」
それに気付いた時の失望は大きかった。まるで、何十人もの親父に囲まれているような気がした。呪詛に囚われた者たちの、矮小な世界。オチエンのおかげでようやくそこから逃げてきたのに、また同じところに戻るのかと思うと、心底ゾッとした。
フーヴァルは、記憶を振り払うように身震いした。
「俺は、そういう手合いが大嫌いなんだ。だから一ヶ月と持たずに、さっさと抜けた」
ゲラードはそっと微笑んだ。「君らしい」
そうだろ、とフーヴァルは言った。だが、微笑を返す余裕はなかった。
「港に戻って……皆の帰りを待ってた」
心臓の鼓動が早くなる。その記憶が仕舞われた箱に手を伸ばすのは、いつだってひどい苦痛を伴う。苦痛で以て自分を罰する夜をいくつ重ねても、痛みが和らぐことはなかった。
「そしたら、報せがきた。オチエンが……ホライゾン号の皆が、フェリジアの軍船に沈められて、全員死んじまったってな」
深く息を吸い込む。喉が、胸が、爛れたように痛むが、当然の苦痛だ。
もしあの時、子供じみた嫉妬に唆されてアラニに加わったりしなければ、オチエンやジャクィス、他の皆が死ぬことはなかったかもしれない。少なくとも、何人かは生き延びることができたはずだ。そのための力が、俺にはあったのだから。
目を閉じて、痛みに身を委ねた。
「フーヴァル……」
ゲラードの手が腕に触れる前に、フーヴァルは立ち上がった。そして、残った酒を飲み干して、焼けるような感覚が喉を下ってゆくに任せた。
「それから俺は死に物狂いで金をかき集めて、自分の船を手に入れた。次から次へ、もっと良い船に乗り換えて、船員を集めて、また金を奪って……」
繰り返しを表すように、右手の指をくるくると回す。おどけた仕草で、この空間に立ちこめる同情の空気を追いやってしまいたかった。
「オチエンには息子がいて、まだほんのガキの頃に奴隷として売られてた。オチエンは息子を取り返すために、海賊まがいのことをやってたんだ。だから、代わりに俺がオグウェノを買い取って、自由にした」
ゲラードの目には、うっすら涙が浮かんでいた。
「君は……とても立派な人だ」彼は言った。「オチエンと同じくらい、偉大な船乗りだと思う」
「よせ」
その否定は、照れ隠しの振りをするには早すぎた。そこにははっきりと、罪の意識がにじみ出てしまっていた。フーヴァルは表情を和らげ、もう一度言った。
「よせよ。そういう世辞は。身体がかゆくなっちまう」
「心からそう思っている」ゲラードは、フーヴァルを見つめたまま言った。
「ハッ」
フーヴァルは大きい声で笑って、彼に背を向けた。ゲラードにつられて目頭に滲みそうになるものを、万が一にも見られたくはなかった。
「話してくれてありがとう、フーヴァル」
ゲラードが隣に来て、フーヴァルの肩に手を置こうとした。
「だから、そういうのはよせって!」フーヴァルはその手を振り払い、噛みつくように言った。「気晴らしは嫌だと言ったり、昔話をせがんだり、挙げ句の果てに慰めようとしたり、いったい何のつもりだ?」
ゲラードは困惑していた。
そうだろう、俺だってそうだ。
「傷つけてしまったのなら、心から謝る」ゲラードはいつものように、殴りたくなるほど真摯だった。「君のことが知りたいと思ったんだ。僕は君を──尊敬しているから」
「尊敬だと? ハ! 捨てた相手とヤりたいときには、『気晴らし』じゃなくてそういう言葉を使うってわけか?」
すると、ゲラードの目の中でなにかが閃いた。滅多に目にすることがない、彼の怒りが。
「そんなことは考えていない」聞いたことがないほど低い声だった。「それに、僕を捨てたのは君だろ」
「そうか? 俺はあのとき尋ねたよな。俺と一緒に逃げるかって」あの時の屈辱が、今まで感じた以上の勢いで燃え上がり、胸を焼く。「それを、お前は笑い飛ばしたんだ! 忘れたとは言わせねえ!」
わかっている。どちらがどちらを捨てたとか、あれはそういうものではなかった。燃え尽きることが決まっていたものが、ただ燃え尽きただけだ。
「他にどう言えば良かった!?」ゲラードはほとんど叫んでいた。「自分の使命から逃げて、君に縋って、君の愛人として船に乗れば、君は僕を──」
見つめ合ったまま、時間だけが音もなく、ふたりの間を流れ去ってゆく。
荒い息をつきながら、ゲラードが言った。
「君は、そんな……惨めな存在を、受け入れることができたのか?」どさりと音を立てて椅子に座り込み、乱れた髪を掻き上げる。「君の情けに縋るのは……君の誇りを冒涜することだ。僕には……」ゲラードの声が、わずかに揺らいだ。「僕にはできなかった。どうしても」
その姿を見下ろしながら、フーヴァルもまた同じことを考えていた。
関係を続けることが本当に不可能だったわけではない。方法はいくらでもあった。あの裏道や、隠し通路や、寂れた物置部屋を捨てたのは、ゲラードの誠実さを穢すことが、彼への冒涜になると思ったからだ。
だが、いま、ようやくわかった。
あの日の彼に、彼の決断に、本当はずっと腹を立てていたのだ。どうしようもないことだとわかってはいても。
「誰もが戦えるわけじゃない」フーヴァルが言った。「それが、お前の持論だよな」
ゲラードは弾かれたように顔を上げ、何かを言い返そうとした。
だが、認めるほかない。
そうだろ。
ゲラードの目が苦痛に歪む。やがてあの諦念が、彼の顔を翳らせた。
「酒が切れちまった」フーヴァルは舌打ちをした。「デカい方の寝台を使え。今夜はもう戻らねえ」
部屋を出て、階段を降り、酒場の客が投げて寄越す下卑た当てこすりを受け流しながら、店を出る。勝ち負けのない言い争いほど不愉快なものはないのに、ゲラードとはいつも、そんな言い争いをしている気がした。
思わず本音をさらけ出してしまったという意味では……今夜は、フーヴァルの負けかもしれない。あの怒りは、自分の過去を打ち明けたことの揺り戻しだったのかと思うと、敗北感はいっそう強くなる。
オチエンやジャクィス……皆に対して抱いている罪悪感を直視する度に落ち着きを失うようでは、偉大な船乗りへの道のりは遠い。
「誰もが戦えるわけじゃない、だと……?」
だが、俺は違う。俺はいつだって戦える。
腹帯から下げた物入れに、身に覚えのない重みを感じて、手を突っ込んで見る。そこには、さっき土産にするつもりで買った果物が入っていた。それを掴んで、路地に投げ捨てる。
こんなもので気を惹こうだなんて、どれだけ浮かれていたんだか。
ふと、耳飾りの事を思い出して、それも捨ててしまおうかと考える。だが、やめた。捨てるには惜しい。どうせなら酒代に変えてやる。
とびきり薄汚れていて、とびきり荒んだ店を見つけようと、フーヴァルは通りを歩いた。目をぎらつかせた〈鮫喰らい〉を見るものはみな、道を譲った。中には挑むような視線を投げて来るものもいる。喧嘩は大歓迎だ。だが、こっちがいちゃもんをつけるのを待っているような奴では話にならない。徹底的にたたきのめすなら、もっと狂った奴が良い。
その時、肩を掴まれた。とっさに拳を引いて振り向き──
「おいおいおい! ちょっと待ってくださいって!」
フーヴァルは拳を下げた。「バウワー?」
経験豊富なマリシュナ号の操舵手は、船長が荒れてる原因をどうやってか察したようで、今の反応については何も言わなかった。
「ちょっと一緒に来てくれませんか。ずっと探してたんです」
「どうした。何かあったのか?」
すると、バウワーは声をひそめて言った。
「見つけたんですよ! 〈嵐の民〉の生き残り!」
「長く海にいすぎると、そうなる」
眠れなくて、と白状するゲラードを、フーヴァルは笑った。
「どうやら、あの寝棚じゃないと安眠できなくなってしまったみたいだ」ゲラードは困ったように──それでいて、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。「君も、同じ理由で?」
「そんなとこだ」フーヴァルは言い、広縁に設えられた籐の寝椅子の上で身体を伸ばした。「陸じゃ落ち着いて眠れない。ガキの頃からそうだった」
すると、ゲラードは何かを思い出したように背筋を伸ばした。
「そういえば、君の子供の頃の話を聞かせてもらう約束だった」
「そんな約束してねえだろ」
ゲラードは──おそらく彼の中では精一杯の悪党らしさを総動員した笑みを浮かべた。
「酒を奢れば話すと言ったじゃないか」そして、手にした瓶の中身を、フーヴァルの杯になみなみと注いだ「ほら、これで逃げられない」
フーヴァルはやれやれと首を振った。「面白い話を期待してるなら、後悔するぜ」
「面白さなど期待していないよ。ただ──」ゲラードは、言わなかった言葉を誤魔化すために、少しだけ酒に口をつけた。
「ただ?」
彼は観念したように笑った。「君のことを、何も知らないから」
「知ってどうすんだ」
すると彼は、膝に載せた酒瓶の口に両手を重ねて、その上に顎を乗せた。少し考え込んでから、口を開いた。
「僕たちの関係は気晴らしだったと、君は言った」ゆっくりと、慎重に選んだ言葉を、彼は一つずつ並べていった。「僕自身がその関係に甘えておきながら、『気晴らし』という言葉に傷つくのは……あまりに都合が良すぎた」
ゲラードに『気晴らしは嫌だ』と言われたときには、それを拒絶だと思った。だが、そうではなかったのだ。いかにも生真面目な王子様らしい。
「気晴らし以上の何かを分かち合うために、君のことが知りたい」ゲラードは言い、フーヴァルを見た。「もちろん、君が良ければの話だけれど」
フーヴァルは深いため息をついて、ゲラードの手から酒瓶を奪った。そして、中身を勢いよく呷って、自分には必要のない感情──迷い──を飲み下した。
「まったく」やれやれと首を振る。「一発ヤるだけのことを難しく考えすぎるなよ」
「言わせてもらうが、フーヴァル。一発で終わることの方が少ないと思う」
フーヴァルは思わず吹き出した。そうして、二人してしこたま笑い合ってから、ようやく決心をつけて小さなため息をついた。
「せがんでおいて、途中で寝たら承知しねえからな」
最初の記憶は、港にまつわるものだ。
波音、鴎の声、立ちこめる霧の向こうから聞こえてくる船の警鐘。タールと、潮と、腐った魚のにおい。それから、海。
幼い頃から国中を転々としたが、腰を落ち着けるのは決まって港だった。
「いつ沈んでもおかしくないような、オンボロのキャラベル船が俺の家だった」
父親はろくでなしで、家代わりのキャラベルを使って金になることならなんでもやった。密輸団の片棒を担ぐのは日常茶飯事で、頼まれれば何でも運んだし、ダイラ近海のどこへだって船を出した。一つの場所に長くいすぎて、その土地の役人に目をつけられると、またすぐに違う港へ移った。
「俺はいつか縛り首で死ぬってのが口癖だったっけ」フーヴァルは喉の奥で笑った。「でも、結局は肺の病で死んだ」
父親はいつでも何かを呪っていた。国のこと、役人のこと、港の管理官のこと、天気、潮流、周りの人間すべてのことを。何か楽しい話題をしろと強制されても、無理だったのではないだろうか。フーヴァルは幼い頃から、彼の呪詛を聞いて育った。この世はろくでもなくて、人間もろくでもない。そういう奴らから盗むのは罪じゃない。俺たちは虐げられた人間だ。俺たちにはその権利がある……。
フーヴァルには、父のそうした言葉以外に信じるべきものがなかった。
「親父とふたり、片っ端から悪事を働いた。十二になる頃には、大抵の犯罪は経験してたな」フーヴァルは言った。「いつでも片眼を開けたまま眠ってた。半分は目覚めて、もう半分だけで眠るんだ。俺の特技だった」
「そんなことが……?」
フーヴァルは頷いた。
「ガキの頃……眠っているとどこまでも沈んじまうような気がした。寝てる間に呼吸が止まったらどうすりゃいいんだ? とかな。色々考えているうちに、できるようになってたんだ」
とにかく、とフーヴァルは言った。「親父は大抵のものを憎んでたが、俺たちの船と、お袋だけが例外だった」
傍らで、ゲラードがわずかに緊張したのを感じる。
無理もない。母親の話をするということは──自分に半分だけ流れている、ナドカの血の話をするということだ。口さがない噂以上の真実を知っている人間は、片手で数えるほどしかいない。
だが、いま隣にいるのは、自分が王妃の不義の子であることをフーヴァルに打ち明けた男だ。フーヴァルは他人に借りを作ることにも、それを返さずにいることにも良心の呵責は感じない。それなのに、ゲラードが打ち明けた秘密を受け取っておいてそのままというのは、なぜだか居心地が悪かった。
「母上のことを、何か覚えているのか?」ゲラードが控えめに尋ねた。
母上ときたか。参ったね。
「いや。でも、親父から山ほど話を聞いてた。いつか戻ってきてくれると、死ぬ間際まで信じてたっけな……だから、俺たちはずっと港を転々としてたんだ」
だが、彼女は戻っては来なかった。
「いまなら、お袋に何が起こったのか察しはつく。おおかた、どこぞの人間にとっ捕まって、薬漬けにされて、死ぬまで見世物にされたんだろ。よくあるんだ」そして、喉に支えそうになる言葉を、吐き出すように口にした。「いい金になるんだよ」
「そんな……」
わからないじゃないかと言うゲラードの言葉を遮る。
「そう思うことにしたんだ。それ以上最悪なオチってのも、なかなかないだろ」
ゲラードは口をつぐみ、それ以上の慰めは口にしなかった。
「結局、親父の話もどれだけ本当だったのかわからねえ」フーヴァルは、首から提げた金貨を握った。「確かなのは、お袋がこの金貨を俺の手に握らせたまま出ていったってことだけだ」
「その金貨を?」
首から外して、ゲラードの手に乗せてやる。彼は手のひらの上の金貨をしげしげと見つめ、そこに並んだ古代文字に眉をひそめた。
「これは……」
「古代のオティク文字で、『オルノアに汝を迎えん』と書いてある。古い貨幣に刻まれる決まり文句だ」
オルノア──海に沈んだ古代都市にたどり着くことができる種族は、一つだけだ。ゲラードは目を見開いて、フーヴァルを見た。
「お袋の形見といえばこれだけだ。これがあと五枚もありゃ、大砲つきの戦艦が買える」
「ただの伝説かと思っていた」ゲラードは言った。
フーヴァルは肩をすくめた。「ま、場所がわからないんじゃ行きようがねえけどな」
少し躊躇ってから、ゲラードが言った。
「それから、父上は……?」
「ああ……」
親父の肺病のことをを聞きつけた管理官に船を奪われ、父親ごと、目の前で燃やされた。病が、港から街に広まることを恐れたのだ。あのとき、彼にまだ息があったのかどうかもわからない。だが、ひどく惨めな最期だった。それは、父親の呪詛を受け継いだ子供を、さらに頑なにするのに十分すぎる仕打ちだった。
それから長いこと、泥水を啜るような生活をしていたのは覚えている。
溝鼠のように街を追われたフーヴァルにできたのは、また別の港へとさまよい歩くことだけだった。
そんなとき、潜り込んだ街で、聞き覚えのある名前を耳にしたのだ。
「ローレンス・オチエン・ドーソン」名前を一つずつ、はっきりと並べる。「その昔、親父と同じ船に乗っていた。名前だけは何度も聞かされててな。九海いち早い船を駆る伝説の海賊──そして、義賊だった」
縋るような思いで港に向かった。そこには黒山の人だかりができていた。皆の視線の先にあったのは、オチエンの船──ホライゾン号。
「俺の師匠が誰か、聞いただろ」
ゲラードが頷く。
「彼の船に乗りたがる奴はごまんといたから、正面から頼み込んでも無駄だと思った。それで、船が港を出るまで待って……泳いで船に追いついた。そうやって、もう引き返せないほど沖まで出ちまってから甲板によじ登って、無理矢理船員にしてもらったんだ」
ゲラードは笑った。
「船のひとたちは、さぞ驚いただろうね」
「ああ」
その時のことを思い出すと、何度でも笑みが浮かぶ。あまりに薄汚れていたので、船員たちはフーヴァルのことを、何かの魔獣だと思って銛を向けてきたんだった。あの怯えようときたら。
「あの船に乗ろうと決めたのが、いままでで一番の決断だ」フーヴァルは言った。
オチエンはジュワルカの貴族で、魔法使いだった。だが祖国での戦争に負けて、商船で奴隷としてこき使われた。やがて、十分な知識と技術を習得したあとで商船を乗っ取り、ホライゾン号の船長になったのだ。
「俺たちは商船の護衛として雇われたり、仕事がなけりゃ余所の国の商船を襲ったりしてた。奴隷貿易船を見つけちゃ襲って、捕まった連中を解放したり」
「アーナヴとも、そうやって出会ったんだったね」
フーヴァルは頷いた。「ああ。奴を拾ったのは、おれが独り立ちしたあとだったけどな」
ゲラードは頷いた。
「俺は……溶け込むのに時間がかかった。最初のうちは、仲間ともうまくやれなかった。オチエンが俺の親父のことを覚えていたからなにかと融通を利かせてくれたが、そうじゃなかったら追い出されてたはずだ。まあ、俺には素質があったし、船のことも、海のこともよく知ってたからな。とは言え……ジャクィスには敵わなかったが」
「ジャクィス?」
「ホライゾンには、俺と年の近いナドカがいたんだ。ジャクィス・キャトルって男で、オチエンと同じ魔法使いだった。俺らは見習い同士、よくつるんでたんだ」
ジャクィスは、どこぞの領主が妾に生ませた私生児だった。その領主は妾を追い払い、息子だけを手元に置いて、自分が所有する奴隷の管理役に仕立て上げた。やがて家が度重なる借金で没落すると、行き場のないジャクィスは、キャトルという偽名を名乗って船に乗り込んだ。それくらいしか働き口がなかったのだ。ナドカでありながら魔法との付き合い方を学んでこなかった彼は、人間の社会からも、人外社会からも爪弾きにされていた。
そういうところが、自分と似ているような気がした。他の多くの点では相容れなかったのだが、彼とは仲が良かった。親友だったときも、競争相手だったときもあった。大抵は、その二つの間を行き来していた。オチエンに認められるように互いをけしかけ合っていたのだ。
ゲラードはなぜだか嬉しそうに目を細めて、話を聞いていた。
「オチエンの存在がとても大きいことは感じていた」彼は言った。「きっと、偉大なひとだったんだろうね」
「偉大……まあ、そうだな」
彼を思い出すときに一緒に心に浮かぶのは、ホライゾン号の純白の帆だ。一杯に風を受けて、美しく膨らんでいる。船は滑るように波間を進み、船首に立つオチエンの顔は誇りと喜びに輝いている。彼はフーヴァルの肩を抱き寄せ、遠くに見える島影や、鯨の群れや、雲が生まれ出ずる海のことを教えてくれた。
「お前はいい船乗りだ」と彼は言い、それを心から信じさせてくれた。
惨めな呪詛と叶わぬ思慕ばかりを聞いて育ったフーヴァルにとっては、彼の言葉の全てが呪文だった。昨日よりもマシな自分になるための。
だが──。
その先のことを話すのだと思った途端、まるで撥条が切れたように、舌が重くなった。
「俺は……」
言いよどむと、気遣わしげにこちらを見ているゲラードと目が合った。
同情されるのはまっぴらだ。さっさと話せ。もう終わったことだろうが。
「俺は、あの女狐と会ったことがあるんだ」
「女狐──もしかして、マルヴィナ・ムーンヴェイル?」
ああ、とフーヴァルは言った。
「俺は……アラニだったことがある。ほんの短い間だけな」
「だが、君はホライゾン号に……」
フーヴァルは深々と息を吐いた。
「俺とジャクィスが操舵を任されるようになった頃だった。俺たちはアルバの西に停泊してて──そこに、コナルって男が訪ねてきた」
「その男が……?」
「そいつはアラニの使いだった。ナドカばかりの海賊の噂を聞きつけて勧誘しにきたらしい」
オチエンは、常にナドカの行く末を危惧していた。矜持を奪われ、誇りを、居場所を奪われ、やがて全てのナドカが人間の奴隷のように生きていくしかない時代がやってくるのではないかということを恐れていた。
おそらくフーヴァルは、ジャクィスに後れをとるのが嫌だったのだ。
俺だって、あんたが望む未来を実現できるのだと言ってやりたかった。見せつけてやりたかった。操舵技術も、潮の読みも、ジャクィスの方が上だ。だが、ジャクィスはナドカの復権になど興味はなかった。だから、『ナドカが自由に生きられる未来のために』というオチエンの理想を、俺がどれだけ大事に思っているのか示すことができたなら──俺がオチエンの一番弟子になれる。
そう思った。
だから、フーヴァルはホライゾン号を飛び出し、アラニに加わることにした。一回分の航海が終わるまでの間だけ。様子を探るだけのつもりだった。乗組員が少しの間船を離れるのは珍しいことじゃない。それらしい演説をぶてるようになって戻れば、きっと、オチエンは前以上に俺を誇りに思ってくれるだろう。
「確かに面白かったよ。連中は緑海の瘴気をどうするか、どうやってナドカが自由に暮らせる国を作るか、そりゃあ真剣になって考えてた。俺も最初は夢中になったし、似たような奴らが大勢いた。まあ、中にはあのムーンヴェイルの色香に誘われてってやつもいただろうが」ため息をつく。「でもな、次第に連中の胸の奥にあるもんが見えてきちまった」
「胸の奥にあるもの?」
フーヴァルは小さく笑い、酒で舌を潤した。「自己憐憫ってやつさ。それと、『持ってる』連中への恨み、辛み、妬み……」
それに気付いた時の失望は大きかった。まるで、何十人もの親父に囲まれているような気がした。呪詛に囚われた者たちの、矮小な世界。オチエンのおかげでようやくそこから逃げてきたのに、また同じところに戻るのかと思うと、心底ゾッとした。
フーヴァルは、記憶を振り払うように身震いした。
「俺は、そういう手合いが大嫌いなんだ。だから一ヶ月と持たずに、さっさと抜けた」
ゲラードはそっと微笑んだ。「君らしい」
そうだろ、とフーヴァルは言った。だが、微笑を返す余裕はなかった。
「港に戻って……皆の帰りを待ってた」
心臓の鼓動が早くなる。その記憶が仕舞われた箱に手を伸ばすのは、いつだってひどい苦痛を伴う。苦痛で以て自分を罰する夜をいくつ重ねても、痛みが和らぐことはなかった。
「そしたら、報せがきた。オチエンが……ホライゾン号の皆が、フェリジアの軍船に沈められて、全員死んじまったってな」
深く息を吸い込む。喉が、胸が、爛れたように痛むが、当然の苦痛だ。
もしあの時、子供じみた嫉妬に唆されてアラニに加わったりしなければ、オチエンやジャクィス、他の皆が死ぬことはなかったかもしれない。少なくとも、何人かは生き延びることができたはずだ。そのための力が、俺にはあったのだから。
目を閉じて、痛みに身を委ねた。
「フーヴァル……」
ゲラードの手が腕に触れる前に、フーヴァルは立ち上がった。そして、残った酒を飲み干して、焼けるような感覚が喉を下ってゆくに任せた。
「それから俺は死に物狂いで金をかき集めて、自分の船を手に入れた。次から次へ、もっと良い船に乗り換えて、船員を集めて、また金を奪って……」
繰り返しを表すように、右手の指をくるくると回す。おどけた仕草で、この空間に立ちこめる同情の空気を追いやってしまいたかった。
「オチエンには息子がいて、まだほんのガキの頃に奴隷として売られてた。オチエンは息子を取り返すために、海賊まがいのことをやってたんだ。だから、代わりに俺がオグウェノを買い取って、自由にした」
ゲラードの目には、うっすら涙が浮かんでいた。
「君は……とても立派な人だ」彼は言った。「オチエンと同じくらい、偉大な船乗りだと思う」
「よせ」
その否定は、照れ隠しの振りをするには早すぎた。そこにははっきりと、罪の意識がにじみ出てしまっていた。フーヴァルは表情を和らげ、もう一度言った。
「よせよ。そういう世辞は。身体がかゆくなっちまう」
「心からそう思っている」ゲラードは、フーヴァルを見つめたまま言った。
「ハッ」
フーヴァルは大きい声で笑って、彼に背を向けた。ゲラードにつられて目頭に滲みそうになるものを、万が一にも見られたくはなかった。
「話してくれてありがとう、フーヴァル」
ゲラードが隣に来て、フーヴァルの肩に手を置こうとした。
「だから、そういうのはよせって!」フーヴァルはその手を振り払い、噛みつくように言った。「気晴らしは嫌だと言ったり、昔話をせがんだり、挙げ句の果てに慰めようとしたり、いったい何のつもりだ?」
ゲラードは困惑していた。
そうだろう、俺だってそうだ。
「傷つけてしまったのなら、心から謝る」ゲラードはいつものように、殴りたくなるほど真摯だった。「君のことが知りたいと思ったんだ。僕は君を──尊敬しているから」
「尊敬だと? ハ! 捨てた相手とヤりたいときには、『気晴らし』じゃなくてそういう言葉を使うってわけか?」
すると、ゲラードの目の中でなにかが閃いた。滅多に目にすることがない、彼の怒りが。
「そんなことは考えていない」聞いたことがないほど低い声だった。「それに、僕を捨てたのは君だろ」
「そうか? 俺はあのとき尋ねたよな。俺と一緒に逃げるかって」あの時の屈辱が、今まで感じた以上の勢いで燃え上がり、胸を焼く。「それを、お前は笑い飛ばしたんだ! 忘れたとは言わせねえ!」
わかっている。どちらがどちらを捨てたとか、あれはそういうものではなかった。燃え尽きることが決まっていたものが、ただ燃え尽きただけだ。
「他にどう言えば良かった!?」ゲラードはほとんど叫んでいた。「自分の使命から逃げて、君に縋って、君の愛人として船に乗れば、君は僕を──」
見つめ合ったまま、時間だけが音もなく、ふたりの間を流れ去ってゆく。
荒い息をつきながら、ゲラードが言った。
「君は、そんな……惨めな存在を、受け入れることができたのか?」どさりと音を立てて椅子に座り込み、乱れた髪を掻き上げる。「君の情けに縋るのは……君の誇りを冒涜することだ。僕には……」ゲラードの声が、わずかに揺らいだ。「僕にはできなかった。どうしても」
その姿を見下ろしながら、フーヴァルもまた同じことを考えていた。
関係を続けることが本当に不可能だったわけではない。方法はいくらでもあった。あの裏道や、隠し通路や、寂れた物置部屋を捨てたのは、ゲラードの誠実さを穢すことが、彼への冒涜になると思ったからだ。
だが、いま、ようやくわかった。
あの日の彼に、彼の決断に、本当はずっと腹を立てていたのだ。どうしようもないことだとわかってはいても。
「誰もが戦えるわけじゃない」フーヴァルが言った。「それが、お前の持論だよな」
ゲラードは弾かれたように顔を上げ、何かを言い返そうとした。
だが、認めるほかない。
そうだろ。
ゲラードの目が苦痛に歪む。やがてあの諦念が、彼の顔を翳らせた。
「酒が切れちまった」フーヴァルは舌打ちをした。「デカい方の寝台を使え。今夜はもう戻らねえ」
部屋を出て、階段を降り、酒場の客が投げて寄越す下卑た当てこすりを受け流しながら、店を出る。勝ち負けのない言い争いほど不愉快なものはないのに、ゲラードとはいつも、そんな言い争いをしている気がした。
思わず本音をさらけ出してしまったという意味では……今夜は、フーヴァルの負けかもしれない。あの怒りは、自分の過去を打ち明けたことの揺り戻しだったのかと思うと、敗北感はいっそう強くなる。
オチエンやジャクィス……皆に対して抱いている罪悪感を直視する度に落ち着きを失うようでは、偉大な船乗りへの道のりは遠い。
「誰もが戦えるわけじゃない、だと……?」
だが、俺は違う。俺はいつだって戦える。
腹帯から下げた物入れに、身に覚えのない重みを感じて、手を突っ込んで見る。そこには、さっき土産にするつもりで買った果物が入っていた。それを掴んで、路地に投げ捨てる。
こんなもので気を惹こうだなんて、どれだけ浮かれていたんだか。
ふと、耳飾りの事を思い出して、それも捨ててしまおうかと考える。だが、やめた。捨てるには惜しい。どうせなら酒代に変えてやる。
とびきり薄汚れていて、とびきり荒んだ店を見つけようと、フーヴァルは通りを歩いた。目をぎらつかせた〈鮫喰らい〉を見るものはみな、道を譲った。中には挑むような視線を投げて来るものもいる。喧嘩は大歓迎だ。だが、こっちがいちゃもんをつけるのを待っているような奴では話にならない。徹底的にたたきのめすなら、もっと狂った奴が良い。
その時、肩を掴まれた。とっさに拳を引いて振り向き──
「おいおいおい! ちょっと待ってくださいって!」
フーヴァルは拳を下げた。「バウワー?」
経験豊富なマリシュナ号の操舵手は、船長が荒れてる原因をどうやってか察したようで、今の反応については何も言わなかった。
「ちょっと一緒に来てくれませんか。ずっと探してたんです」
「どうした。何かあったのか?」
すると、バウワーは声をひそめて言った。
「見つけたんですよ! 〈嵐の民〉の生き残り!」
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