完結【日月の歌語りⅢ】 蒼穹と八重波

あかつき雨垂

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 ゲラードが浜辺にたどり着いたとき、一頭のイルカが、浅瀬の先で大きく跳ねた。
 フーヴァルは朝と同じところで座り込んでいたが、顔にはだいぶ血の気が戻ってきていた。
「フ、フーヴァル」洞窟から走ってやって来たせいで、すっかり息が上がっている。「すごい……ものを……見つけた」
 フーヴァルはしばらくの間ゲラードを無視して、さっき見かけたイルカの方を睨んでいた。彼がようやくゲラードを見上げると、その顔に驚きの表情が浮かんだ。
「お前──どうした!」
 その剣幕に気圧されて後ずさりそうになった。「どうしたって……?」
 血の気が戻ったと思ったフーヴァルの顔が、一転、再び蒼白になる。
「自分で気付いてないのか」
「何に?」
 ゲラードは浅瀬に向かって顎をしゃくった。
「そこの水面に、自分のツラを映して見ろ」
 ただならぬ様子に、ゲラードは素直に言うことを聞いた。砂浜に膝をついて、浅瀬に散らばる潮だまりを覗き込んでみて──あっと声をあげた。
「瞳が……」
 水の中から、銀色の目をした自分が見つめ返してきた。
 瞼を引っ張り、あらゆる角度から見直してみても、変わらない。
「これはいったい……」
 瞳に現れる銀色について、確かに、兆候はあった。
 これまでに、フーヴァルを含むマシリュナ号の乗組員たちから、目については何かしら忠告されていたことを忘れてはいない。けれど、気のせいだろうと思っていたのだ。
 何が起こっているのかわからないまま、フーヴァルの傍に戻る。彼は苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。まるで、ゲラードが知らない不愉快な事実を、彼だけは知っているとでも言うように。
 フーヴァルはおもむろに口を開いた。
「お前を攫おうとした人魚が、さっきまでここにいた」
 えっと声を上げて、ゲラードは海の方をふり返った。
「平気か? 何かされたりはしなかった?」
 フーヴァルは険悪な目つきでゲラードを睨んだ。
「俺の心配なんかしてる場合か」
「しかし……」
 フーヴァルは呻きながら身を起こした。
「そいつが言うには、お前は……」一瞬躊躇って、また続ける。「お前は、硲の存在なんだと」
 まったく意味がわからなかったし、その思いは表情にも表れていただろう。フーヴァルは小さく笑って「だよな」と言った。
「とにかく、ここに来ればお前が……何かに目覚めると思ってるらしい」フーヴァルはゲラードを見た。「その話を聞いた矢先に、お前の目がそうなっちまったんだ」
「目覚める……? わからないな。僕は何も──」そこでようやく、手にしていた革鞄の存在を思い出した。「洞窟の中で、これを見つけただけなんだ」
「なんだ、そりゃ」
 そうして、ゲラードは父のことを語った。
 配流先の島にたどり着く前に、人魚に攫われてこの島に来たこと。そこでしばらく暮らしたあと、孤独に耐えかねて自害したらしいことも。それから──
「これを見てくれ」
 ゲラードは、日誌に挟まっていた羊皮紙をフーヴァルに手渡した。
 それを開いて、中身を読んだフーヴァルの顔が強ばる。
「これは……家系図か?」
 ゲラードは頷いた。
 フーヴァルの隣に腰を下ろした。一本の木を模した家系図の枝の先に描かれた林檎の絵と、そこに書かれた頭文字を、そっと指さす。
「一番上に、僕の名前がある──Gとだけ書かれているけれど、これが僕だ」
 そして、その実を幹の方に遡って行くと、E──エメライン、そしてH.M.……ハルヴェイ・モーズリーがある。
「Eの枝を辿っていくと、バーナード三世やその前の王たちの家系に行き当たる」ゲラードは言った。「でも、モーズリーの方は──」
「田舎の小領主なんだろ?」フーヴァルが言う。
「そう思ってたんだ。でも、ほら」
 ゲラードの指が、聞き覚えのない何人もの『モーズリー』を遡って行く。が、あるところで、指が止まった。そこに書かれていた名前を見て、フーヴァルは目を疑った。
 
『マウリス』
 
「マウリスって……マウリス明心王ブライトハートか? 嘘だろ?」
 ゲラードは、ゆっくりと首を振った。
「マウリス王には一人だけ世継ぎがいた。けれど彼の死後に命を狙われて、行方をくらましたんだ。それがここにある、メアリという名の娘だ。記録では死んだことになっているけど、そうじゃなかった」ゲラードは、もう一度言った。「そうじゃなかったんだ……」
 フーヴァルは、注意深く家系図を眺めた。「でっちあげじゃないのか。マウリスは人気がある。やつの子孫を騙る連中なんざごまんといるぜ」
「僕も、最初はそう思った。でも、この羊皮紙は公文書に使われるものなんだ。見て」
 ゲラードが羊皮紙をとって空にかざすと、この記録が記された年と日時、そして『ハルヴェイ・モーズリー卿の依頼により作成 デンズウィック王立公文書庁』の文字が浮かび上がった。
「公文書庁の者は、陽神デイナとの誓約によって真実しか記せない。文書は魔法によって保護されていて、作成された履歴も残る。これを破棄するには相当に大がかりな法的処理を踏む必要があるんだ」ゲラードは、紙にそっと手を当てた。「だから、ハロルドはこの文書を抹消できなかった。その代わり、誰の注目も集めず葬り去るために、父に持たせて流罪にしたんだ」
 ゲラードは、遺体の指にはまっていた指輪を、フーヴァルに見せた。そこに刻まれた紋章は、鱗木リンボクの枝を咥えた燕。マウリスは長い王朝の中でただ一人のフォンログ家出身の王だ。
「燕は、フォンログ家の象徴なんだ」
 フーヴァルはようやく納得したようだった。
「じゃあ、お前は……」正しい形容詞を探しているかのように口ごもり、ゲラードに向かって両手を開いた。「お前は、正真正銘の王族じゃねえか」
「そう……なるね」
 ゲラードは力なく笑った。改めて言われると……なぜだろう。なんとも居心地が悪い。
「だが、それとお前の目が銀色になったのと、どういう関係がある?」
「わからない」ゲラードはそう言いながらも、日誌のページを繰っていた。「でも、ここによくわからない記述がある。彼がこの島にきたあとに書かれた──日誌の一番後にある文だ」
 
 日付──不明
 人魚たちは、貴銀しろがねの血が目覚めるまでは島を出ることはできないと言った。偉大なる明心王ブライトハート、さらにその昔から連綿と続く貴銀しろがねうからの血が、わたしにも流れているのだと彼らは言う。
 だが、希望は薄い。
 わたしのエメラインとゲラードが幸せに暮らす様子を思い浮かべて孤独をしのいでいるけれど、これ以上、そう長くはもちそうにない。
 近頃、わたしは暗闇の中に、何かが蠢くのを見る。蟲でもなく、獣でもなく、それは知性を持って、わたしのことを観察しているようだ。
 それよりもっと真に迫った幻を見ることもある。ひとりの男がこちらに向かって歩いてきて、「おーい」と、わたしに声をかけるのだ。それに答えたことも、何度もある。彼に駆け寄り、話をしようとしたことも。だが結局は、それが幻だったことを悟って失望する。
 若い頃のわたしによく似た彼は、一体何者なのだろう? わたしの貧しい想像力が生み出した架空の住人なのか、それとも、この島がわたしにしかける悪戯なのか。あるいは、暗闇の中に踊る幻影の、また別の姿なのか。
 明らかに、わたしは正気を失いつつある。ああ、いったいわたしは誰に向けて、この日誌を書いているのか。
 全ては無意味で、虚しい。
 わたしは──
 
「わたしは、怖ろしい」フーヴァルが最後の一文を読んだ。「気の毒に。孤独で頭がいかれちまったらしいな」
「彼と同じものを、僕も見たんだ」
 フーヴァルは目を丸くした。「何だと?」
「キャトフォードの監獄で、高熱を出して死にかけていたときに」
 ゲラードは、洞窟の壁画についても話した。それが、ゲラードが見たものと酷似していたことも。
「じゃあ、お前はその──貴銀しろがねの血ってやつが自分にも流れてて、そのせいで妙な幻覚を見ると思ってるんだな?」
「ああ。そう思ってる」ゲラードは頷いた。「それに──僕は、彼に会ったと思う」
「何?」
「島で、男の姿を見た」ゲラードの顔は、僅かに青ざめていた。「日記に書かれているだろう? 彼に『おーい』と声をかけたのは、僕なんだ」
 フーヴァルは思い切り眉を顰めた。
「じゃあ、お前と会ったほんの数分後に、こいつは日記を書いて、白骨死体になったってのか?」
「いや……」ゲラードは一瞬迷うような素振そぶりをしてから、言った。「この島では、時間の流れが一定じゃないんじゃないかという気がする。きっと、あの瞬間、過去と未来が繋がったんだ。僕には、そう思える」
 フーヴァルはため息をついた。
「俺はナドカのことにも、人間のことにもたいして興味がないから、よくわからんが……こいつは今まで聞いた中で一番の与太話だと思う」
 反論しかけたゲラードを遮って、彼は続けた。
「だがしかし、だ。俺も確かに、お前の目に銀色の何かを見たし、他の連中から報告も受けた。そいつは決まって、お前が人魚の歌やら、どっかの神の像やらを見た時に現れてる」
 今度はゲラードが目を丸くする番だった。「つまり……」
「つまり、お前には何か、そういう力があるんだ。何かを『見る』力が」
「だから人魚は僕らをここに導いた。自分の出自と向き合って、真実にたどり着かせるために」呟くように、ゲラードは言った。「そして、僕の血が……目覚めた?」
 マウリス王が何かを『見る』力を持っていたかどうか、歴史も、伝承も明かしてはいない。だが、彼はナドカと人間との間に橋をかけようとした王だった。その動機を、彼が持っていたかもしれない不思議な視力と関連付けることは、それほど突拍子もない話だとは思えない。
貴銀しろがねの血が目覚めるまではこの島を出ることはできない。でも、僕は目覚めた──おそらくは、だけど」ゲラードは、沸き起こる期待に目を輝かせた。「僕たちはもう、この島から出られるんじゃないか? 僕がいた洞窟には小舟があったから、君を乗せて外洋までたどり着ければ……」
 すると──驚いたことに、フーヴァルは顔を背けた。
「ああ……そうだな」
 ゲラードは眉をひそめた。「この島を、出たくないのか?」
「いや」いつになく歯切れが悪い。「そりゃ、いつまでもこんなとこにいたくはねえけどよ」
「早く皆のところに戻ろう。きっと探しているし、それに──」
 フーヴァルが、ゲラードを見た。
「それに、さっさと王冠をかぶりにいかなきゃいけない、か?」
 ゲラードはハッとして、口をつぐんだ。それを見て、フーヴァルはフンと鼻を鳴らした。
「その紙きれがありゃ、お前は他の連中の鼻を明かして、誰にも文句を言われずに王座に就ける」
「それは……考えていなかった」
 正気かよ? とフーヴァルは笑った。妙に乾いた、棘のある笑いだった。
「お前は良いさ、稀代のマウリスの血を引いた王なんか、おとぎ話にうってつけだ。刺客に追いかけ回され、海賊を従えて海を渡って暴れ回ったんだから、逃亡劇にも箔がつく」
「何が言いたいんだ?」
 ゲラードは、ふたりの間に膨れ上がる嵐雲のような緊張を感じていた。
「お前と違って、俺には戻る理由はねえってことだよ。少なくとも、お前みたいに立派な理由はな」
「君には仲間がいるじゃないか。それに、僕は王になると決めたわけじゃない」
 ゲラードはゆっくりと言った。
 このまま、彼の言葉に煽られて怒りを表に出せば、嵐は手がつけられないほど大きくなる。それではいけない。
「なぜそんな風に思うのか──」話してくれないか?
 いや、駄目だ。こういうなだめるような口調こそ、彼の神経を逆なでしてしまう。
「僕がここから出ていきたいのは、君をマリシュナの皆の元に還してやりたいからだ。そして、できることなら僕も、彼らのところに戻りたい。でも、君がそれを望まないというのなら、別の方法を考えるしかない。どちらにせよ」ゲラードは、フーヴァルの隣に腰掛けた。「話してくれなければ」
 フーヴァルも、理屈では理解しているのだ。一瞬のぞかせた怒りを脇に押しやって、彼は深くため息をついた。
「あいつらは、俺がいない方がうまくやっていける」
「どうして? 君は彼らの船長じゃないか」
 フーヴァルは黙り込んだ。そうして、長い、長い時間が経ったように思えた頃、彼は再び、口を開いた。
「俺は、自分の居場所を壊しちまう」
 短い、けれど、重たい言葉だった。
 彼がどれほど苦労してその言葉を口に出したのか、ゲラードにはわかる気がした。
「ホライゾン号のことを言っているのか?」
 フーヴァルは頷いた。
「そもそも、アラニなんかに興味を持ったのは、つまらん見栄を張るためだった。オチエンはナドカが自由に生きられる世界を求めていて……俺は、もともと、そういうもんにはたいして興味がなかった。オチエンさえいれば、他がどうなったって気にしなかったからな」フーヴァルは、訥々と語った。「だが、船乗りとして一番優秀なのはジャクィスだった。俺はいつでも二番目だ。ジャクィスを追い抜くためには、オチエンと同じ理想が必要だと思った。それで、何の断りもいれずに船を抜けて──」
 声が掠れて、萎む。
 頭の中に響く声に耳を傾けるように、彼は黙り込み、俯いた。
「俺は陸から逃げて、ホライゾンからも、アラニからも逃げた。マリシュナからも逃げたと思われてるだろうし、エイルの連中だってそう思うだろう。だが、それが俺なんだ」フーヴァルは笑った。空虚な声だった。「だから、別に……急いで戻らなくたっていい。もうあそこに、俺の居場所はねえよ」
 ゲラードは、そっと手を伸ばした。
 フーヴァルの頬を両手で包み、自分に向けさせる。
「それは、誰の言葉?」
 フーヴァルは狼狽えたように目を泳がせた。
「あの時、嵐の海で」ゲラードは言った。「君は何かに囚われていた。もしかしてそれが、君の心に毒を注いだんじゃないのか?」
 フーヴァルは目を伏せた。「毒が薬になることだってあるだろ」
「でも、これは違う」ゲラードは半ば強引に、フーヴァルの視線を引き戻した。
 彼の表情には怒りが表れていた。だが、目の中には、危うげな恐怖の影がある。
「迷いがある奴は、船長じゃいられない」フーヴァルが言った。「親父の言葉だ。いつもそう言って、俺に強くなれと言った。でも、親父は何一つ守れずに死んでった。親父は駄目だ。親父のやり方じゃどこにも行けない」
 その思いは、幼い頃からずっと、彼の中に隠れていたのだろう。起伏のない声で語られているのに、痛々しいほどはっきりと感情が染みついていた。
「だがオチエンは、親父が言った通りの男だったんだ」フーヴァルは言った。
 彼の師は、父親以上に父親だった。実の父にどんな感情を抱いていたとしても、義理堅いフーヴァルは認めないだろう。けれど、そうなのだ。彼にとってはオチエンこそが父親だった。
「オチエンは俺のせいで死んだ」フーヴァルの声が揺らぐ。「俺が逃げたせいで」
「君のせいじゃない」ゲラードは断固とした声で言った。
「なんでお前にわかるんだ!?」フーヴァルはゲラードの手を振りほどいた。「オチエンはずっと、俺のことを話してた。アールがここにいれば、アールがいてくれたらってな! 一番大事なやつが死にかけてた時に、俺は不機嫌なガキみたいに陸をうろついて、どうやってオチエンに言い訳しようか考えてたんだ!」
 フーヴァルは立ち上がり、浅瀬に向かって歩き出した。だが、潮だまりの柔らかな砂に足を取られて、海までは届かないところで膝を折った。
「俺がいれば、絶対にオチエンを死なせなかった」
 ゲラードは彼に追いつき、その背中に向かって言った。
「ああ。わかってる」
 そして、彼の隣に、再び腰を下ろした。
「君は、もう一度失うことを恐れているんだね」
 こちらを向いたフーヴァルの目が、苦痛と後悔にひび割れている。
 彼はもう、『恐れ』という言葉を否定しなかった。
「大丈夫だ」ゲラードは言った。「マリシュナの皆を鍛えたのは君だ。彼らはそう簡単に失われたりしない。それにエイルのひとびとも、君を大事に思っているからこそ、君を信じて航海に送り出したんだろう」
 確信を、声に込める必要はなかった。その言葉を形作っていたものこそ、混じりけ無しの確信だったのだから。
 フーヴァルの瞳が、滲んで、揺れる。
「なんで俺を慰める?」彼の声はざらついていた。「餞別代わりに優しくしてやろうってのか。俺をまた捨てる前に」
「フーヴァル」ゲラードは首を振った。「そうじゃない」
 どう言い表せばいいのだろう。
 初めて彼の姿を見た瞬間に、心を貫いた想いのことを。
 それは予感と言えるかもしれない。あるいは、天啓と言えるのかもしれない。彼は何度もゲラードの予想を裏切り、ゲラードはその度に彼の新たな一面を知った。けれど、それが彼への想いを損なうことはなかった。ただ前よりもいっそう、心を奪われるだけで。
「僕は、君を信じてるんだ」ゲラードは言った。「君の支えになりたい。強くあらねばならない君が、重荷を預けることができる存在になりたい。君が泣くなら隣にいて、君が笑うなら……その時も隣にいたい。気の置けない友人としてでもいい。気晴らしでも──まあ、それしか言い表す言葉がないのなら、それの相手としてでも、いいんだ」
 フーヴァルの目の中で、黄昏の光が揺れて、滲んだ。
「クソ馬鹿野郎」彼は、震える声で言った。「王子が海賊に向かって言う台詞じゃねえぞ」
 ゲラードは笑った。
「いいんだよ。ただのガルが、君に向かって話しているんだから」
 彼が俯くと、小さな雫が一粒零れた。それを涙とは言わずにおく。少なくとも、彼が自ら認めるまでは。
「君の全てを愛し尽くしても、僕はきっと、満足できない」ゲラードはしみじみと言った。「生きているうちに全ての海を知ることができないのと同じだ」
 フーヴァルが顔を上げた。
「ねえ、王子と海賊に愛し合う資格がないなんて、誰が決めたんだろう」なぜか可笑しくなって、笑った。「僕らが最初のふたりになればいいだけだ。そうだろう?」
 すると、フーヴァルもつられて笑った。少しひねた、彼らしい笑いだった。
「おとぎ話を楽しそうに語りやがって」
 フーヴァルはかぶりを振り、今まさに水平線の向こうに沈もうとしている太陽を見た。彼は吹き抜ける風を深く吸い込み、何かを手放すような、長いため息をついた。
「そういうところが、あの人にそっくりなんだ。お前は」フーヴァルは言った。「青空しか見えてないってツラで。この世界を良くするんだ、正しいことをしてるんだって」
 それは、いけないことではないはずだ。ゲラードは静かに、彼の言葉を聞いていた。
「海は……受け止めてくれる。たとえ沈んでも、行き着く先には底がある。でも空は?」小さく首を振る。「空は、どこまで行っても空だ。終わりがない」
 フーヴァルが、ゲラードを見た。
「いつかお前は俺に失望して、空の向こうに飛んでいっちまうだろう。それを見るのが」彼は小さく笑った。「怖かった。だから──」
「フーヴァル」ゲラードは、フーヴァルの頬に手を当てた。「僕は、どこにも行かない」
 ゲラードの手に頬を預けて、わずかに俯く彼の額に、額を合わせる。強ばりを捨てた彼の顔には穏やかな表情が浮かんでいた。
 フーヴァルは言った。
「アーヴィンだ。アーヴィン・ライエル」彼は言った。「何かを約束するなら、この名前を呼んでくれ」
 彼が、自分の名前を、明かした。
「アーヴィン?」痺れるような喜びを味わいながら、口にした。「アーヴィン・ライエル」
 目を閉じて、唇を合わせる。その名前の響きの余韻を閉じ込める。まるで重なり合った二つの心のように、柔らかく壊れやすい感触を口づけで確かめる。そうして、絶望と孤独にひび割れた魂までも温めようとした。
「アーヴィン」口づけの合間に、ゲラードは囁いた。「もう恐れないで」
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