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 まさかと思った時には、身体が動いていた。
 海に飛び込み、半身が人魚になるのも待たずがむしゃらに泳ぎ、ひたすらにその光を追いかけた。
 光は戦いのまっただ中へと向かっている。流星のように眩い軌跡は、水面下からもよく見えた。
 燃え上がる船は、戦場を真昼のように明るく照らし出していたから、海中の様子もよく見えた。海水は、まるで嵐のあとのように濁った緑色をしていた。キャトルが操る大烏賊の脚が、伝説の巨大樹の幹のように海中を埋め尽くし、船の残骸や死者たちがその間を漂っている。時折起こる爆発に海面が瞬き、どこか遠くで、あるいはすぐ近くで、新たな残骸と犠牲者が波間に叩き込まれる。くぐもった爆発音と悲鳴、それから船を食らい尽くす炎の轟音。フーヴァルはその間を縫って、無我夢中で光を追った。
 光が行き着いた先にあったのは、一隻の船だった。舵を握る者もなく、戦のただ中に捨て置かれている。
「嘘だろ……」
 あの船。
 これは、あの船だ。
 喜びと悲しみに胸を締め付けられながら、フーヴァルは船側せんそくを上った。敵味方入り交じった悲鳴と怒号の渦中にいるというのに、焦りも、怒りも、恐れも感じなかった。
 段索ラットラインに掴まり、身体を引き上げて、一歩ずつ上ってゆく。あの日、遠ざかるこの船を必死で追い、ようやく追いついたときと同じだ。海面から顔を出し、船尾に描かれた黒豹の紋章と船名を見上げたとき、幼いフーヴァルの心は、期待と不安ではち切れんばかりになった。
 胸郭の中でめちゃくちゃに打ちまくる鼓動に耐えながら、舷を乗り越え、甲板に降り立つ。
 腰に巻いていた脚衣をぎゅっと絞ってから、両脚をねじ込んで穿く。それから裸の足で、甲板の上を恐る恐る歩き回った。
「間違いねえ……」
 船体は別の色に塗り替えられていたけれど、細かなところはほとんど変わっていない。
 頼もしい主檣メインマスト。両手の豆が破けるほど必死に回した捲上機キャプスタン。孤独に慰めを求めてよじ登った檣楼トップ。高さへの恐怖を克服したあとは、その場所がフーヴァルの気に入りの場所になった。そして、あの舵柄ホイップスタッフ。それを握った瞬間、彼は初めて、自分で自分の価値を確信することができたのだった。
「ホライゾン」フーヴァルは言った。「これは、ホライゾンだ」
 キャトルは、拿捕した船を改造して横流ししていた。この戦場に集まったキャトルの軍勢が乗る船は、ほとんどがそうして集められたもののはずだ。
 だが、ホライゾンはフェリジアによって撃沈された──そうじゃなかったか?
 もしそれが嘘だったのだとしたら……ホライゾン号がこの戦場にいることの意味は、一つしかない。
 その時、いくつもの光が目の前を飛び交った。
「こいつは……」
 ついさっきまで追っていた光だ。光はフーヴァルを揶揄うように彼の周りをくるくると回り、飛び去った。追いかけて振り向くと……フーヴァルは息を呑んだ。
 そこに、彼がいた。
 彼がいたのだ。
「オ……」フーヴァルは震える声で言った。「オチエン……?」
 彼はにっこりと笑い、頷いた。
 十七年ぶりに見る彼は、記憶よりも小さかった。彼を見上げていた頃の記憶ばかり繰り返し思い出していたせいで、自分が成長していることさえ忘れていた。
 そこにいたのはオチエンだけではなかった。ホライゾン号の仲間が、あの時のまま、ホライゾン号の船上に還ってきていた。あるものは段索ラットラインに捕まり、あるものは捲上機キャプスタンのレバーを押し、またあるものは帆桁ヤードにしがみつき、括帆索ガスケットを解いて純白の帆を広げている。
「みんな……」
 膝を屈しそうになるフーヴァルの肩に、オチエンが手を置く。
 何も感じはしなかった。温もりも、重さも。
 理解はしていたつもりだった。だが、心の奥底ではずっと納得できていなかったのだ。悲しみが胸の中に溢れて、息が苦しい。
 彼は、彼らは死んでしまった。自分の手の届かないところで。
「すまない、オチエン。みんな……」フーヴァルの目から、涙が溢れた。「俺が……俺はあんたの一番になりたくて……せっかく皆がくれた居場所を捨てて、自分勝手に逃げた。俺がいれば、俺の力があれば皆を助けられたのに──」
 オチエンは、なぜだか驚いたような顔をした。彼は困ったように眉をひそめ、仲間たちを見回した──フーヴァルにもそうしろと促すように。
 オチエンの顔から目を離して、改めて周りを見渡す。
 誰もが笑っていた。
 幼い頃、失敗しては這い上がるフーヴァルのことを、皆が見守っていた。段索ラットラインから落ちたときや、見張りの当直を寝過ごしたとき。港で喧嘩をして牢にぶち込まれてしまったときも、彼らはフーヴァルを叱り、そして笑った。あのときの笑顔だった。
 どこからともなく警鐘が鳴り、戦闘配備を告げる太鼓の音が響く。
 あたりを見回すと、ホライゾン号と同じようなことが他の船でも起こっていた。青白い光を放つ幽霊たちが船に立ち、燃え上がり、あるいは沈み掛けた船で、戦に加わろうとしている。
 彼らの、最後の戦に。
 あれは皆、〈嵐の民ドイン・ステョルム〉に囚われていた魂たちなのだと、フーヴァルは気付いた。マタルが彼らを解放したことで、戻ってきたのだ──愛する船に。
 オチエンが、実体のない手で、フーヴァルの頬に触れる。
 フーヴァルは、その顔を見上げた。
 彼の師、そして、もう一人の父。
 他者への憎悪と呪詛にまみれた人生から、俺を救ってくれたひと。
「俺を、赦してくれるのか……?」
 彼は言葉を発しなかった。だが、触れられた瞬間に、彼の想いは直接伝わってきた。
 ──舵柄かじを取れ、アール。お前は、いい船乗りだ。
「ああ……」
 その言葉を信じさせてくれたから、俺は今、ここにいるんだ。
 フーヴァルは涙を拭いて立ち上がった。
 そして、ホライゾン号の舵柄かじへと走った。
「俺は、もう逃げない」
 そう言って、隣に立つオチエンを見る。
 彼は微笑み、頷いた。穏やかな光が身のうちから溢れ、彼を包み込んだ。彼は光そのものとなって宙に浮かぶと、再び船の上空を旋回した。その動きに仲間たちが合流し、まるで、大きな魚群のようになる。
 そして──。
「風が……」
 風向きが、変わった。
 いま風は、フーヴァルの背後から吹いている。背中を押すような真艫おいかぜが向かう先には、ひときわ派手な炎が燃えていた。
 風は追風おいて。行く手には、目標がある。
 俺は、もう逃げない。
「船出だ、ホライゾン号!」フーヴァルは声を張り上げた。「目標は、トロンデラーグ!」
 
     †
 
「俺たちゃ、いったい何を見てるんだ……」
 オーウィンの言葉に、全員が同意していた。
 救援のため、マリシュナ号は炎燃えさかる海域に慎重に接近した。そこで目にしたものを歌にしようとしても、一曲には到底おさまらないだろう。
 次々と爆発を繰り返す船。天をつくほど伸び上がる大烏賊の足。響き渡る悲鳴と警鐘。助けを求める人の声。そんな凄惨な光景のただ中に、焔も烏賊も物ともせずに船を駆るものたちの姿を見ることになるとは──誰も予想だにしていなかった。
「ありゃ、幽霊だぜ」ワトソンが言う。
「あの魔女が追っ払ってくれたんじゃなかったのか?」
 恐慌が甲板上に広まりそうになるのを感じて、ゲラードは声を上げた。
「彼らは、僕らの敵じゃない」
 ワトソンが不安そうにゲラードを見る。「なんでわかる?」
「僕には、わかるんだ」
 ゲラードが銀の瞳で彼を見ると、ワトソンはそれ以上の反論を飲み込んだ。ゲラードの不思議な力については、すでに船の皆が知っている。
「彼らは、マタル君の呪文で解放された魂だ」ゲラードは言った。「もう何ものにも縛られていない」
「見ろよ! あの船、敵に突っ込むぞ!」
 誰かが声を上げた次の瞬間、燃えさかる船が、キャトル船団の船に激突した。為す術なく傾いた船に、青白い人影が殺到する。
「どうやら、ガルの言葉はほんとらしい」オーウィンが言った。
 皆が見ている間にも、半壊した船が、次々とキャトルの軍勢に突っ込んでいった。爆発が至るところで起こり、その度に空気が揺れ、さらなる熱気が押し寄せてくる。
「父さんが」
 甲板で滅多に耳にしない声を聞いて、ゲラードはハッと振り向いた。
 そこにはオグウェノが立っていた。呆然とした表情で、遠くの海を見つめている。
「大丈夫かい?」
 背中に触れると、彼は夢から覚めたように、ゲラードを見た。そして、言った。
「父さんが、診療室に来たんだ」
 彼の父といえば、ホライゾン号の船長だったオチエンだ。
 オグウェノは、目に涙を浮かべていた。
「どうして、彼が──?」
 オグウェノは首を横に振った。「わからない。だけど、俺を見て笑っていた。まるで、遠くに行く前に会いに来たみたいな──そんな顔だった」
「もしかしたら、彼も囚われていたのかもしれない──あの〈嵐の民ドイン・ステョルム〉に」
「ああ」オグウェノは頷いた。「それなら、説明がつく」
「きっと、解放されたんだ」
「父さんは……嬉しそうだった」彼は震える唇で、小さな笑みを浮かべてみせた。「俺を見て、笑ってた」
「よかった」ゲラードは、彼の背中をそっと撫でた。「本当に、よかった」
 ふたりの後ろで、掌帆長が声を張り上げた。
「何をぼんやりしてるんだ! もっと風上に移動しないと燃え移るぞ!」
 その号令に、船上が息を吹き返したように慌ただしくなった。
左舷開きポートタック詰め開きクロースホールドだ! さっさと転桁索ブレースにつけ!」
 
     †
 
 その船に近づけば近づくほど、大烏賊の脚は増えていった。一本が樫の巨木ほどの太さを持つ脚は、虎挟みのような歯をもつ吸盤に埋め尽くされている。のたうつ脚は巨大な帆船に絡みつき、ボロ雑巾のように締め付ける。主檣メインマストは小枝のように折れ、船体はちっぽけな木箱のようにひしゃげて、バラバラになる。竜骨キールと肋骨だけになった無残な残骸が、大烏賊の周りに散らばっていた。まるで、食い散らかされた魚の骨の山だ。
 無数の足の付け根には、ジャクィス・キャトルのトロンデラーグ号が悠然と浮かんでいる。
 それが、貴様の玉座ってわけか、ジャクィス。
 順風を満帆に受けて突き進むホライゾン号を止める術はなかった。たとえ、クソッタレの烏賊の足を十本全て使ったところで無理だっただろう。波を砕き、跳ねるように進むホライゾン号は、九つの海で最も速い船だったのだから。
 トロンデラーグ号の横腹が近づく。あと百ナート、五十ナート、二十ナート。
「ジャクィス!!」
 フーヴァルは舵を固定し、船首おもてへ向かって駆け出した。船首斜檣バウスプリットの下に突き出す衝角ビークヘッドに立ち、カットラスを抜いて、前方を見据える。トロンデラーグ号の左舷が迫り、肉眼でも、船の様子がはっきりと見える。そこに乗組員の姿はなかった。ただ一人、ジャクィス・キャトルが船尾楼甲板プープデッキに立って、ホライゾン号ごと突っ込もうとしているフーヴァルを見ていた。
 顔中に笑みを湛えて。
 船首斜檣バウスプリットが、船側に突き刺さる。
 衝撃が来る前に、フーヴァルは飛び上がった。空中で身を翻しながら、船体と主檣メインマストとを繋ぐ静索シュラウドを掴む。船は衝突の衝撃に大きく揺れたが、フーヴァルはキャトルから目を離さなかった。
「アール!」彼は歓迎するように両手を拡げた。「遅かったじゃないか。いつ来るのかと思ってたよ!」
「乗組員はどうした、ジャクィス!」フーヴァルは嘲った。「相変わらず人望のねえ野郎だな!」
「乗組員など、必要だと思うか?」ジャクィスは笑った。
 途端に、大烏賊の足が海中から姿を現す。水を滴らせながら伸び上がる烏賊の脚──その吸盤を見て、ゾッとする。そこには吸盤の歯に引っかかったままの死体がまだぶら下がっていた。見なければ良かったと思ったのも束の間──フーヴァルはその吸盤から目が離せなくなった。
 吸盤だと思っていたものの半分は、大小様々の大きさをした、目だった。
 歪な形をした黒い瞳孔が、一斉にぎょろりと蠢き、真円に形を変える。夜の穴のような真っ黒の瞳孔──その全てが、フーヴァルを凝視した。
 なぜ、手を放したのかわからない。気付くとフーヴァルは、掴まえていたはずの静索シュラウドから手を放して、空中を落下していた。
 過ちに気付いた時には、もう遅かった。フーヴァルの身体は大烏賊の脚に絡め取られ、逆さ吊りになった。
「無策で突っ込んできたのか? アール……まったく。救いようがないな」
 ジャクィスは首を振りながら、ゆっくりとフーヴァルのところまで歩いてきた。フェリジア風の仕立ての装束は華美で、戦場で身に纏うには派手すぎるが、彼にはよく似合っていた。血を思わせる深紅の色を、彼は昔から好んで着ていた。
「ホライゾンの皆の最期を、教えろ」フーヴァルは言った。「本当のことを!」
 するとジャクィスは、トロンデラーグ号の横腹に突き刺さったままのホライゾン号を見た。
「ああ」得心したように、大きく頷く。「それじゃ、気付いちまったのか」
 その白々しい笑みを見て、いっそう頭に血がのぼる。
「ホライゾンはフェリジアの軍船に沈められたんじゃない。お前が皆を殺して、船を乗っ取ったんだ。そうなんだろ!」フーヴァルは言った。
「やっと真実にたどり着いたか! 偉いぞ、アール」
 ジャクィスはフーヴァルのすぐ下までやってくると、頬を撫でた。フーヴァルがその手を噛もうとすると素早く引っ込め、窘めるように舌を鳴らした。
「躾がなってないのは相変わらずだな」
 そう言いながらも、ジャクィスは楽しそうだった。
「お前こそ、仲間はどうした? 大切なマリシュナ号のお仲間は?」彼は笑った。「まさか、また逃げてきたのか?」
「違う!」
 ジャクィスはフーヴァルの返事など意に介さずに続けた。
「いや、いや。俺にとってはそっちの方が都合が良いんだ。アール……なぜこの期に及んで、お前を殺さないのか、そろそろわからないか?」
 ジャクィスが、フーヴァルの顔を覗き込む。そして、言った。
「一緒にやろう!」
「はぁ?」
「また一緒に組んで、俺と一緒にこの海を荒らし回ろう」ジャクィスはフーヴァルの頬を両手で包んだ。「誰の指図も受けずに、好き勝手やるんだよ、アール! あの吸血鬼の犬になるのも、そろそろもううんざりしてきただろう!」
 フーヴァルは即答した。
「いいや」
 そのちっぽけな単語は、平手打ちと同じくらい効いた。ジャクィスは目をしばたき、ぽかんとしてフーヴァルを見た。
「いいや?」彼は言った。「あの仕事で、そんなに儲かるのか?」
「そんなことはねえな」
 海軍卿の肩書きを持っていたときでさえ、報酬はホライゾン号で見習いをしていたときとさほど変わらない。
「なら、それ以上にいい思いができる?」
「いい思いってのが、酒や、誰彼かまわず寝床に連れ込むとかって話なら、それもねえな」
 ジャクィスの顔が、失望に歪む。その顔に向かって、フーヴァルはたたきつけるように言った。
「あのな、ジャクィス。キャラック船に住んでたガキの時分と同じくらいどん底の生活をしてたって、お前と手を組むよりはマシだ」
 不意に拘束が解かれ、フーヴァルは甲板に落とされた。すぐさまジャクィスから遠ざかって武器を探すが、カットラスも、短剣も、いつの間にか奪われてしまっていた。
 ジャクィスは、いまやはっきりと怒りを露わにしていた。
「お前もか?」彼は言った。「俺は遅すぎたのか? アール。間に合わなかったのか?」
 フーヴァルは眉をひそめた。
「何を言ってやがる──」
「共存だの、救済だの!」
 まるで、腐ったものを咀嚼しているかのような口ぶりで、彼はその単語を口にした。
「ホライゾンに乗り込んだばかりの頃のお前は良かった。この世界を本当によく理解していたよ。汚泥の中で生きてきたお前は、変に強がることもなければ、惨めな弱者を装うこともなかった。まるで素っ気ない、剥き出しの短剣みたいだった。俺はお前のそういうところを気に入ってたんだ」
 フーヴァルは肩をすくめた。
「そいつはどうも。他人に褒められて、こんなに気分が悪くなったのは初めてだ」
 ジャクィスは聞いていなかった。
「それを、あの男が変えちまった」
 彼の感情に合わせて、大烏賊の脚が色を変える。さっきまで薄気味悪い白色だったものが、ジャクィスが怒りを露わにする度、赤く染まった。
「あの、男……? オチエンのことを言ってんのか」
「あの腑抜け野郎!」ジャクィスは叫んだ。「お前があいつに骨抜きにされていくのを見て、俺がどんな気持ちだったかわからないだろう! 錆びていく黄金を、腐っていく肉を、虫に食われる果実を、指を咥えて見ているしかない……そんな気持ちだ」
 薄気味の悪さは、いまやはっきりとした悪寒に変わっていた。
「だから、オチエンを殺したんだ。ホライゾンを、この世から消してやった!」ジャクィスは言った。「そうすりゃ、あれ以上お前の価値が失われずにすむと思ったからだ!」
 フーヴァルの胸の中に、灼熱の怒りが燃え上がる。
「そんなくだらねえことで、お前は……!」
 ジャクィスは、フーヴァルを見た。
「あのコナルって男、覚えてるだろ? 俺たちをアラニに勧誘しに来た男だ」妙に感情のない声で、ジャクィスは言った。
「ああ」
「あいつはな、最初から俺を探してたんだ。俺を勧誘しに来た。なぜだかわかるか?」
「お前の母親が、マルヴィナ・ムーンヴェイルだからだろ」
 すると、ジャクィスは虚を突かれたような顔をした。だがすぐにまた、表情を取り繕う。
「しっかり勉強してきたんだな、アール。偉いぞ」彼は続けた。「折り入って話があると言われてな。真相を聞いて、どれだけ驚いたかわかるだろ? 自分の母親はどこぞの娼婦だと思い込んで生きてきたんだからな」
 ジャクィスはクククと笑った。
「アラニに加わらないかって話を持ちかけられて──まあ、最初は断ったさ。だって、お前を置いてどこか別の場所に行くなんて考えられなかったからな。それなのにお前ときたら、あんな方法で俺を出し抜こうとするなんて、本当にどうしようもないガキだ。お前がアラニに加わるなんて! まったく。思ってもみなかった」
 こいつは昔から、こんな風に上から人を押さえつける話し方をする男だっただろうか。気付いていなかっただけかもしれない。
 かつては……かつては、彼のことを尊敬していたのだ。
「そんなときに、たまたま停泊してた港で、すぐ近くに〈嵐の民ドイン・ステョルム〉が出るって噂を聞いたんだ。俺は思ったよ──こいつは導きだとね」芝居がかった様子で手を振り回す度に、彼を取り囲む大烏賊の脚と、そこに並んだ吸盤が揺れた。「それで俺は、あの……なんて名だったか、操舵手の禿げ頭の──」
「ブラウンだ」
「そう! ブラウンを幻惑してみることにした。やったことはなかったが、なんたって俺は幻術を操る女の息子だ。何度か失敗はしたが、コツを掴んだら簡単だった。ほんの少し舵を狂わせたら、あとは……」ジャクィスは両手を広げて、クスクスと笑った。「まさに狙った通りだったよ! 大成功だ!」
 楽しげに手を叩くジャクィスの顔を見つめながら、フーヴァルは、なぜこの男に一瞬でも好意を抱いたことがあったのだろうと思っていた。
「角笛が聞こえると同時に、俺だけ海に飛び込んで逃げた。その時閃いたんだ……もっと上手くやれば、大金を稼げるってな。今はもちろん、あの時よりも洗練されたやり方をしてる」
「洗練が聞いて呆れるぜ」フーヴァルは言った。「お前、それを誰かに聞いてもらいたくて仕方なかったんだろ」
 ジャクィスは、何か引っかかるというような顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。「ああ。とりわけ、お前にな」
 それから、気を取り直したかのように、不機嫌そうな表情をつくってみせた。
「これでようやく、お前には俺しか無くなると──そう思った」彼は言った。「そう、思ったのに」
 また、あの悪寒が強くなる。それは、突きつけられた妄執の冷たさだった。
「あんな腑抜けの魔法使いでも、王族崩れの役立たずでもなく、お前は俺の言うことを聞くべきなんだ。俺なら、お前を世界一の海賊にしてやれた。惨めな国王の、惨めな犬になんかさせない!」
 大烏賊の膚が赤く点滅する。
「俺はこの十七年! 十七年ずっとお前のことを探し続けて、お前を育て直してやろうと思ってたんだ!」彼はフーヴァルに歩み寄り、肩を掴んだ。「この戦が終われば、トロンデラーグ号のジャクィス・キャトルを恐れない者はこの世にはいなくなる! 一緒に来いよ、アール! お前をトロンデラーグの一等航海士にしてやるぞ!」
 ああ、そうか。
 ジャクィス・キャトルの整った顔に、縋るような表情を見る。彼はフーヴァルに、全ての望みをかけているのだ。己の自尊心の全てを懸けて、アーヴィン・ライエルという存在を組み敷き、制圧し、圧倒しようとしている。
 凪いだ心で、フーヴァルは思う。
 俺はいつの間にか、こいつを追い越してしまっていたのだ、と。
「お前は、海に落ちた仲間を助けるために、手の皮がめくれるのもかまわずロープを掴めるか?」
 ジャクィスは、短剣を突きつけられたみたいに仰け反った。「何だと?」
「ナドカと人間が仲良く暮らす国を作るだなんて子供じみた夢のために命を懸けられるか? 苦しみしか待ってないとわかってるのに、楽園を捨てられるか?」
「誰のことを話しているのか、想像はつく」ジャクィスのこめかみが、苛立ちに痙攣している。「あのな、アール。そんなのは気の迷いだ! お前はまだ若くて、何もわかってない。一過性の熱病だよ!」
 フーヴァルは、ジャクィスを見た。
「ああいう手合いは珍しい。確かにそうだ。おまけに王族ときてる。のぼせ上がるのも無理はないさ。だがな──」
 言葉を尽くして、なんとか心変わりさせようとしている。だが、彼の言葉はどれも、フーヴァルの耳を素通りしていくばかりだった。
 あいつの言葉とは、まるで違う。
「ジャクィス」フーヴァルは、ジャクィスの言葉を遮った。「俺とお前は、違う」
 彼は喋るのをやめた。無言でいると、彼の魅力は途端に濁った。目は落ちくぼみ、髪は乱れ、唇は力なく弛緩している。
 だが、彼はすぐに力を取り戻した。
「お前と、あの王子だって違うだろう。天と地ほどに違う」
「そうなんだよ、ジャクィス」フーヴァルは、自分でも驚いたことに、笑った。「俺に言わせりゃ、空と海だな。だが、あいつは……」
 君は戦い続けてくれ。僕は手を差し伸べ続ける。
 その言葉を思い出して、また笑みが零れる。
「あいつは、俺のことを変えようとしないんだ」フーヴァルは言った。
 なんて不器用で、無様な人間だろうと思っていた。王族のくせに威厳ってもんがまるでない。困ってる奴には誰彼かまわず手を差し伸べて、結果、自分の首を絞められてもヘラヘラしていやがる。
 最初は、いいカモだった。
 いいカモだと思っていたのだ。
 それなのに、いつの間にか心を奪われていた。海賊として名を馳せたこの俺が。お人好しの王子様なんかに。
 だが、この世にそれ以上の幸運があるだろうか。
 フーヴァルは笑った。
 そう──幸運の女神マリシュナは最初からずっと、俺の味方だったんだ。
「あいつほど馬鹿で、気高い奴を、俺は知らねえ」
 フーヴァルは、剣呑な目つきで自分を見ているジャクィスに向かって怒鳴った。
「お前なんぞが、見下していい奴じゃねえんだよ!」
 拳を握り、思いきりジャクィスを殴った。
 その瞬間、目の奥に火花が散り、頭の後ろまで、小さな爆発が連鎖していった。目に滲んだ涙を拭って再び目を開ける。纏わり付く目眩を振り払うと──世界は、一変していた。
 
     †
 
 マリシュナ号は風上に移動し、波間に漂う負傷者たちを片っ端から引き上げていった。戦いに加わらないこと、敵味方の区別なく救助することに、戸惑いの表情を浮かべる者もいた。けれど、ゲラードは彼らを説得した。
「幽霊たちが味方についてくれたおかげで、戦いは僕らの有利だ。僕らの加勢がなくても、状況は落ち着いてくる」ゲラードは言った。
「でもよ、あのキャトルの野郎はまだ生きてるんだぜ! 船長だっていねえし──」
「きっと奴に攫われちまったんだ」
「俺たちが助けに行かなきゃどうすんだよ!」
「その通りだ」ゲラードは言った。「しかし、この船にはエイルの王が乗っているんだ。王を危険に晒すことはできない」
 仲間たちは、それでようやく納得してくれた。
 戦いたい気持ちはわかる。一刻も早くフーヴァルを見つけ出して、一緒に敵を討ちたい気持ちも、痛いほどわかる。だが、それはあまりに危険な賭けだった。
 ゲラードはヴェルギルのことを引き合いに出しはしたが、彼がいま、力を解放した揺り戻しに苦しんでいることについては言わなかった。
 ヴェルギルは小舟から引き上げられると、ゲラードにだけそのことを告げたのだった。
「わたしを船艙に閉じ込め、誰にも近寄らせないで欲しい」と彼は言った。「この頃……力を解放すると、自我を保つのが難しくなるのだ。しばらく一人にしてくれれば、おさまる」
 それは、いい傾向とは思えなかった。
「クヴァルド殿は、ご存じなんですか?」
 尋ねると、彼は小さく微笑んだまま頷いた。
「彼は、わたしがここに来ることに最後まで反対していたよ。まあ、彼は度を超した過保護だからな」
 これだから人狼は、とヴェルギルは言った。わかるだろうと言いたげに。
 いつものようにさりげなさを装ってはいたが、彼が相当に無理をしているのはわかった。
 だから、いま戦のただ中に突っ込んで、ヴェルギルに揺さぶりをかけるわけにはいかないのだ。彼の力を目の当たりにしたあとでは、なおさらそう思う。
 
 ゲラードは自ら小舟を率いて、燃えさかる船の間をくぐり抜けつつ、まだ息のあるものたちに手を差し伸べた。
 その間にも、フーヴァルを探し続けた。焔の陰に、沈みゆく船の甲板に、火炎が照らす水底に。だが、彼はいなかった。水面に浮かぶ面影を見つけては心臓が引き絞られ、別人だと確かめては、また息をつく──その繰り返しだった。
 どこにいるにしても、きっと、彼は戦っているのだろう。
 だからフーヴァル、君は戦い続けてくれ。僕は手を差し伸べ続ける。
 ゲラードは心の中で、何度もその言葉を繰り返した。
 だからといって、逸る気持ちが落ち着くわけではない。
「クソ馬鹿野郎はどっちなんだ、アーヴィン」フーヴァルは、噛みしめた歯の間で小さく呟いた。「いったいどこにいる……?」
 そのときゲラードは、目の前を横切る何かを感じた。
 懐かしさと安堵。そして少しばかりの昂揚が胸の中に湧き上がる。こんな感覚をもたらすものを、ゲラードは一つしか知らない。
 こんな戦場に姿を現すはずがないと、最初は思った。けれど、気のせいではなかった。一つ瞬きをした隙に、燕の姿をした黒い影が、ゲラードの目の前で羽ばたいていた。
 ふと、子供の頃のことを思い出した。
 巡幸で滞在する屋敷で狩りが催される度、兄のあとについて森に入った。最初のうちは懸命に兄の背中を追うのだけれど、途中でどうしても別のものに気を取られて……いつの間にか、皆のいる場所から離れてしまうのだ。
 それは、どこからともなく現れる不思議な黒い影が、ゲラードを遊びに誘うせいだった。ちょうど、今のように。
 一度、乳母にその話をしたことがあった。
 彼女はアルバの出身で、昔話を沢山知っていた。ゲラードにしか見えない黒い影のことや、それと遊んでいるといつの間にか皆とはぐれて、大人たちを困らせてしまう話をした。すると彼女は言った。
「その影は、あなたのカレフなのですよ」と。
 カレフ。自分で考えていたよりもずっと前から、この黒い影はゲラードの友だったのだ。
「こんなところで、何をしてるんだい……?」
 驚きつつ、止まり木のつもりで差し出した手に、カレフが何かを落とした。
 金貨。
 それは、革紐の先にくくりつけられた金貨──フーヴァルが、ずっと身につけていたものだった。
 
     †
 
 フーヴァルは、目眩から逃れるために頭を振った。そして、改めて周囲を見回した。脚の下にあるのは、さっきまで立っていた甲板ではなく……ごわごわとした皮膚だ。周囲を取り囲む鰭が激しくはためき、次々に色を変えている。
 それは烏賊の頭だった。
 船体ほどもある巨大な烏賊の頭部に、フーヴァルは立っていた。いつの間にか、あたりの景色は一変していた。
 そこは紺碧の世界──海の底だった。
 それに気付いた瞬間、下半身が人魚のものに変わる。
 大烏賊の頭の先には海底火山があった。どす黒い煙と気泡とをもうもうと吐き出している。周りを取り囲むのは溶岩の川。それは海底でも冷えて固まることなく、海水をぐらぐらと沸き立たせていた。
「また、幻覚か……」
「残念だったなあ、アール!」ジャクィスの声には優越感がにじみ出ていた。「そう簡単に、お前を逃がしてはやれないぞ!」
 人魚の血を顕した彼を見るのは初めてだった。その姿に、思わず目を瞠る。
 ジャクィスの身体は、胸の下まで烏賊の半身に侵食されていた。鎖骨から下がつるりとした青白い皮膚に覆われ、両腕は異様に長く、吸盤に埋め尽くされている。彼は、まるで海水を愛撫するかのように、十本の脚をバラバラにうねらせながらフーヴァルに近づいてきた。
 これは──どこまでが幻覚で、どこまでが真実だ?
 必死にあたりを見回すと、溶岩から立ち上る熱湯の靄の向こうに、ホライゾン号を見つけた。海底に沈んだ難破船のような姿になっているが、間違いない。
 それなら、まだ勝機はある。
 だが、水を蹴ろうとした尾びれには、すでに触手が巻き付いていた。
「どこに行くんだ、アール!」
「──ッ!」
 身動きができなくなったところで、巨大な烏賊の脚が目の前に現れる。それが鞭のようにしなりながら、容赦なくフーヴァルを打った。
 何かが折れるような、嫌な音がした。庇おうとして胸に引きつけた右腕が、力なく垂れ下がっている。
「畜生──」
 悪態さえ、最後まで言えなかった。触手が身体に巻き付き、折れた腕もろとも締め上げる。気を失うほどの激痛にも、叫ぶことができない。肺を押しつぶされて、空気を吸うことさえできなかった。
「お前は弱いなあ。アール。昔から、一度だって俺に勝てたことがない!」
 ジャクィスの嘲笑が、頭の中に響いた。
「まるきり無策で突っ込んできたわけじゃないんだろう、アール? 切り札はなんだ?」
 答えようにも、息ができない。
 大烏賊は触手をくねらせ、巨大な二つの眼球にフーヴァルを映した。
 視線に直接脳内をまさぐられているような、ひどい不快感が身体中を這い回る。
 ややあって、ジャクィスが言った。
「ああ、愛しのホライゾン号よ」
 漆黒の瞳孔が、再び細長く歪む。
 大烏賊は触手を伸ばして、ホライゾン号を、いとも容易く持ち上げた。
「やめ、ろ……!」フーヴァルは、声を振り絞った。
「やめなければ、どうする?」ジャクィスはにんまりと微笑んだ。「そんなザマで、何ができるんだよ、アール!」
 大烏賊は八本の腕でホライゾン号を中空に掲げ……布でも絞るように無頓着に、それを捻った。
 瞬間、船が爆発した。
 怖ろしい数の破片と、火の粉が降り注ぐ。まるでスコールのように。
「ほおら、やっぱりだ!」ジャクィスは嗤った。「お前は派手好きだもんなあ、アール! いつもそうやって力圧しで押し通そうとして失敗するんだ!」
 ジャクィスのうわずった声が、頭の中に反響している。
「そのまま眠れよ、アール」彼は言った。「眠って目覚めたときには、お前はもう、俺の操り人形だ」
 抵抗したくて、唯一自由に動かせる指で、巻き付く触手を引っ掻く。だが、ぬらつく表皮をわずかに擦っただけだった。
「お前には、幻惑なんかかけたくなかったんだよ。その方がずっと楽しい」何度も耳にしたあの声で、彼は言った。「お前のせいだ。アール。何もかもお前のせいでこうなった。お前が俺の言うことを聞かないせいだ。仲間を失い、船も失い、大事な師匠も失った。でも、全部お前がしたことの結果だ」
 触手の締め付けが、さらに強くなる。
 まずい。
「信頼していた仲間にも、頼みの人魚にも、愛しい王子様にも見捨てられちまって、可哀想になあ。俺ならお前をそんな目にはあわせないぞ」触手が胸元に伸び、金貨に通した革紐を引きちぎる。「お前には、オルノアも、仲間も必要ない。俺がいればいいんだ。俺が面倒を見てやる。俺がいなけりゃ、お前は何にもできないんだ」
 毒のようなその言葉が、頭の中をぐるぐると回る。否定したいのに、そんな気力も無くなっていた。
 息ができない。
 これは幻影じゃないのか? 俺は本当に、海の底にいるのか?
 俺は……こいつには勝てないのか?
 フーヴァルが見ている前で、ジャクィスは、オルノアの金貨を溶岩の海に捨てた。
「いつか、お前にもわかる時が来る。その時まで、いまは眠るがいい」
 ジャクィスはしみじみと言った。
「なあ、お前の意思を奪っちまう前に教えてやるよ。オチエンが〈嵐の民ドイン・ステョルム〉と出くわしたとき、本当はなんて言ったか」
 息が……できない。
 空気を求めて身体が悲鳴を上げている。肉体全てが心臓になったみたいに、頭の中までどくどくと脈打っている。今すぐ呼吸をしなければ死んでしまう。幻影に囚われたまま。あいつと、言葉も交わさず別れてきたままで。
「オチエンはこう言ったんだ──アールがここにいなくて良かった、ってな」
 目尻から、涙があふれる。
「俺の方が、お前より優秀だった。俺の方がいい船乗りだったのに、あいつは! あいつの一番はお前だった! でも、そんなのは間違ってる! 間違ってるんだよ!」
 身体が空高く持ち上げられ──そして、怖ろしい勢いで、また下がった。衝撃に備える余裕などないまま、フーヴァルは硬い岩の上にたたきつけられた。肺から空気が逃げ出し、生温かい海水が胸の中に流れ込む。
「俺は、お前よりいい船乗りだ。わかるか!」
 ジャクィスが激昂するほどに、大烏賊の脚が怒りに震え、飛沫が顔にかかる。
「お前は、俺より、下だ!」
 再び、いや、三度みたびの衝撃。腹を突き破らんばかりに、触手が殴りつけてくる。
 なにかが、胸の中で折れる。激痛が走った。耐えがたいほど痛い。溶岩に熱された岩の上で、指一本動かすこともできない。四肢の先が冷たくなり、すべてが靄に沈んでゆく。
 フーヴァルは生まれて初めて、死というものの存在を、こんなに身近に感じた。
「お前を俺のものにしたら、何よりも先にあの船を沈めに行く!」ジャクィスは言った。「お前の王子様の身体を四つに裂いて、帆桁からぶら下げてやる! それから、マリシュナの全員にも同じことをするんだ! さぞかしいい眺めだろうな!」
 その瞬間、小さな黒い鳥が目の前を横切った。
 鳥だと? そんなものが、ここにいるはずがない。ここは海の底なのだから──けれど、確かにそこにいた。
 鳥はこの状況にまったく怯えることなく、フーヴァルの額のあたりで空中に停止した。
 燕。
 その燕は、何度か首をかしげたあと、か細い嘴で、額のど真ん中を突いた。
 瞬間、何かが起こった。
 額の上、研ぎ澄まされた意識の中でしか感知することができない部分が、不意に目覚めたのがわかった。まるで、いままで何度も読み返した本に、まだ知らない章が眠っていたかのような感じがした。
 なぜかもわからないのに「これだ」と強く思う。
 フーヴァルは、喉の奥を低く鳴らした。すると、期待したよりはややぎこちない、何かを引っ掻くようなギ、ギという音が迸る。放たれた音は目の前で、あるいは遠くで跳ね返り、フーヴァルの頭の中に戻ってきて、像を結んだ。
 靄が晴れ、不意に、これ以上ないほど意識が冴え渡る。
 大烏賊の脚の下敷きになって藻掻く自分の姿が遠ざかり、現実が、手に取るようにはっきりと、目の前に広がった。
 そうなのか。
 これが、現実。
 フーヴァルは、腹にのし掛かったを掴んだ。
「ふざけたことぬかしてんじゃねえぞ、クソ烏賊野郎!」
 掴んだ手応えを、思いきり引き寄せる。
 その瞬間、幻影を突き破って、本当のジャクィス・キャトルが現れた。
 
     †
 
「ほんとうに、いいんだな!?」
 アーナヴがそれを尋ねるのは五回目だ。ゲラードは今度も請け合った。
「ああ!」
 船首おもてで見張りをしていたワトソンが、血相を変えてアーナヴのところまでやってきた。
「で、で、でやがったぞ! 目の前にいる!」
 アーナヴはもう一度念を押すようにゲラードを見た。ゲラードは頷くと、それ以上覚悟を尋ねられる前に舷縁ブルワークを乗り越え、海に飛び込んだ。
 心配そうに見ている仲間に向かって、大丈夫だと手を振ってから、曳航していた小舟に乗り込み、綱を解く。
 カレフは急かすようにゲラードの周りを飛び回っている。その姿は燕にそっくりだ。ただし、黒一色の身体に様々な色を点滅させたり、羽ばたくことさえせずに空中に浮かんでいられたりするところを除けば、だが。
「よし……行こう」
 ゲラードはそう言って、オールを握った。
 向かう先は──これ以上ないほどはっきりと見えている。
 戦闘は、すでに終結していた。キャトルの船団は散り散りになって逃げ、それができないものたちは捕らえられた。表面的には、勝利はエレノアのものだ。だが実情は、どちらが勝ったのかを判断するのは難しい。どちらの勢力にも甚大な被害が出た。ウッドロー艦長は戦死し、デイビス艦長も、片足を失った。マリシュナ号の救助活動を目にした多くの残存艦が救助に加わったけれど、どれだけ助けることができたのかは、まだわからない。
 救助活動はまだ続いているが、最も戦闘が激しかったこのあたりに、もはや助けるべき命は残されていなかった。
 いまは大砲の轟きも、ときの声も、悲鳴も、怒号も聞こえない。荒廃した夜の海に、ただただ戦の残滓が燃えていた。その中心にあるのが、巨大な烏賊に守られた一隻の船──トロンデラーグ号だ。
 橈を繰り、残骸や遺体の間を縫って、その場所に近づく。
 至る所に、白い幹のような烏賊の脚があった。吸盤があるはずの場所にずらりと並んだぎょろつく目が、周囲を睨めつけている。まるで、その場所に立ち入ろうとする者を威嚇しているようだ。
 ここは、ジャクィスの結界の中だ。そして目の前にあるのが、その中枢。
 ゲラードは結界の外から、大烏賊の脚が船を引きちぎるのを見た。巨大な脚で軍艦を真っ二つにたたき割るのも見た。まるで、紙でこしらえた船を弄ぶようだった。だがここに在る船はいずれも、爆発や火災、船同士の衝突によって破壊されている。
 この海域──ジャクィスの結界の中でもたらされた夥しい数の死と破壊は、大烏賊によるものではない。ジャクィス・キャトルの力に惑わされた人間が、自ら引き起こしたものなのだ。ゲラードたちもまた、それがまるで大烏賊によって成されたことであるかのように幻惑され、思いこまされていただけだった。
 橈を繰って突き進むゲラードを牽制するように、いくつもの脚が近寄って来る。だが、彼らはゲラードに手出ししてはこなかった。どれだけ多くの者を幻惑しても、ゲラードに対しては無力であることを知っているようだ。
 魔眼を何百並べてもゲラードを操ることはできないと見るや、大烏賊はその脚をつなぎ合わせて、トロンデラーグ号を包み込んだ。まるで、脈打つ白い肉でできた鳥かごのように。
 ゲラードは船を止め、手をこまねいた。
「さて、どうやって近づこうか」
 すると、いままで肩に憩っていたカレフが空高く飛び上がった。そして止める間もなく、トロンデラーグ号の上に消えた。
 ぽかんとしたまま待っていると、いくらも経たないうちに、カレフが再び戻ってきた。それと同時に、烏賊の脚がガクガクと震えはじめる。
 ゲラードは驚いて、カレフを見た。「いったい、なにをしたんだ?」
 カレフは得意げに、羽根を青く点滅させただけだった。
 ゲラードの目の前で、烏賊は震えながら、その触手を水面下に引っ込めた。まるで、急所に一撃を食らった烏賊が、岩場に逃げ込むように。
 何があったにせよ、いま、戦局が動いたのだ。
 ゲラードは意を決した。振り向かずに船側に飛びつき、よじ登り、一瞬の躊躇もなく、甲板に飛び乗った。
 
     †
 
 足を思いきり引いて、幻影の中からジャクィスを引っ張り出す。彼は為す術もなく甲板に倒れた。その隙を突いて、フーヴァルは、甲板の隅に転がっていた自分のカットラスに飛びついた。
 海水も無し。海底火山も無し。巨大な烏賊も無し。まずまずの気分だ。
 堅い甲板を踏みしめながら、肺を空気で満たす。そして、カットラスを握る手応えを改めて確かめた。
 ふり返ると、ジャクィスはレイピアを手にしていた。その目は屈辱に燃えていた。フーヴァルへの怒りと、自己愛とが混ざり合った、どす黒い色の炎だ。
「剣で、俺に勝てると思うのか?」ジャクィスがせせら笑う。「舐められたもんだ」
「まあな」フーヴァルは言った。「実を言うとな、今のお前には何で勝負しても負ける気がしねえんだ」
「貴様!」
 鋭い突きが飛んできて、一瞬前までフーヴァルの左目があった場所を突き刺した。
 フーヴァルが左目を怪我したとき、こいつもその場にいた。あの時ホライゾン号の船医は、左は少しだけ見えづらくなるかも知れないと言った。こいつはそれを覚えていて、弱点を突こうとしたのだ。
「クソッタレ野郎──」
 フーヴァルはカットラスでレイピアの刀身を切り上げた。細身の剣は軽やかな音を立てて跳ね上がったものの、折れはしない。
「力任せに剣を振り回すなって、いつも言われていただろう、アール!」
 いま、ここでオチエンの言葉を持ち出すことで、俺を怒らせようって魂胆なんだろ、ジャクィス。
 フーヴァルは笑った。
「お前も、剣は指揮棒とは違うって言われてたよな!」
 鋼同士がぶつかり、擦れ、互いを弾く。一瞬でも気を抜けば、身体の一部が切り飛ばされる──そんな緊張感の中で、二人は何度も切り結び、また離れた。
「少しは上達しただろ!?」
「いいや! 相変わらずひどいもんだ!」
「ああ、そうかい」フーヴァルは笑った。「お前も、前より下手になったぜ!」
 フーヴァルは思い切り彼の間合いに踏み込んだ。甲板を踏みしめていた左足を踏みつけ、退路を封じて右手を掴む。
 そして、人魚の牙を剥き出しにして、右腕に噛みついた。
 ジャクィスは痛みに叫び、レイピアを取り落とした。
「握りが甘いんだよ、ジャクィス! 耄碌したか!」
 だが、彼が怯んだのはたった一瞬だった。
「この……野蛮人めが!」
 彼は歯をむき出して唸ると、左手でフーヴァルの顔を殴りつけた。衝撃に揺れる頭を振って、均衡を取り戻す。ジャクィスから目を離したのは、ほんの一瞬だった。そのはずだ。
「アーヴィン?」
 振り向いて、いつの間にか甲板に立っていた男の姿を見る。カットラスを握りしめたまま、フーヴァルは呆然と呟いた。
「嘘だろ──」
「アーヴィン!」
 その声で、その顔で名前を呼ばれて、ほんの一瞬、戦意が削がれる。
「ガル……!」
 ゲラードは顔をほころばせた。「やっと見つけた! ずっと探してたんだ──」
 幻影にしても、あまりにも鮮やかすぎる。ジャクィスの姿は、案の定消えていた。
 悪趣味な野郎だ。本当に歪んでやがる。
「俺に近寄るな!」フーヴァルは、ゲラードに向かってカットラスを突きつけた。
 訝しげにひそめられたゲラードの眉が、険しくなる。
「どうして──」
「喋るんじゃねえ!」
 フーヴァルが怒鳴ると、ゲラードはその場でとまった。「わかった」
 こだまで位置を探るやり方は、もう通用しない。習得したての能力では、相手の大まかな位置を知ることができるだけで、人相までは暴けない。
「死ぬ最後の瞬間まで、おふざけを続けるつもりか、ジャクィス?」
 ゲラードは目を見開いた。「ジャクィス? 違う! 僕はゲラードだ!」
 その言葉を、信じることができたらどれほどいいか。不安げに揺れる瞳、人を疑ったことなど一度もなさそうなお人好しのツラ。まさにゲラードそのものだ。
「君は幻惑されて──」
「喋るなと言っただろうが!」フーヴァルは吼えた。「あと一言でも口にしたら、こいつで撫で切りにしてやるからな……!」
 ふと、ろくでもない考えが頭をよぎる。
 ジャクィスが永遠に、この幻影の中に自分を閉じ込めたままでいてくれるなら、彼に付き従うのも、それほど苦痛じゃないのではないか、と。
「馬鹿馬鹿しい」フーヴァルは言った。「往生際が悪いぜ」
 フーヴァルは、ゲラードとの距離を一気に詰めた。そして、カットラスの切っ先を喉に当てた。
 目と目が合う。
 ゲラードは動かなかった。少しも怯むことなく、フーヴァルを見つめていた。
「落ち着け」彼は言った。「君は、操られているのか?」
「俺は正気だ」フーヴァルは低い声で囁いた。
 ゲラードの目がせわしなく動いて、フーヴァルの表情の中に何かを探している。
 正気の欠片でも探しているのか? それとも、つけいる隙を?
 だが、相手の目の中に捜し物をしているのはフーヴァルも同じだった。
 じきに、事態が動く。それはわかっていた。呼吸を一つ、もう一つと重ねるうちに、見つめ合ったふたりの息が重なる。
 ゲラードの瞳に、ゆっくりと、銀色が滲んだ。
 そして、彼は言った。
「後ろだ、アーヴィン」
 フーヴァルは一瞬たりとも迷わなかった。振り向きざま、高く掲げたカットラスの切っ先を、渾身の力で中空にたたきつけた。 
 絹を裂くような悲鳴。そして目の前に、混沌が噴き出した。
 袈裟斬りに開いた傷口だけが、何もない空間に浮かんでいた。そこから血が溢れ出すと共に、ジャクィスがかぶっていた擬態の皮が、べろりとめくれた。
「アー…ル……!」
 血まみれの手で傷口を押さえ、よろよろと後ずさる。そんな彼の周囲から、烏賊の脚や、死んだ魚、人間の骸、打ち上げられた鯨、濁った海水が次々と湧いて出る。身の毛のよだつ幻が零れ出るように溢れ、フーヴァルたちを取り囲んだ。
 肋骨と、腕の骨折に、身体がとうとう屈した。
「アーヴィン!」
 よろめくフーヴァルを支えたゲラードは、武器一つ持っていない。手にしていたカットラスを押しつけようとしたが、彼は首を振ってそれを拒んだ。
「僕には必要ない」と彼は言った。
 クソ馬鹿野郎。
 そうしている間にも、幻影は次々と、現れては消える。
 馬鹿でかいヤドカリが地面を揺らしながら大挙して押し寄せ、ふたりを踏みつけにする。かと思えば、虚ろな目をした鮫が空中を泳いできて、ゲラードの横腹に噛みついた。さらには矛を持った人魚たちがふたりを取り囲み、背中から腹から、次々に串刺しにした。
 悪夢は尚も続いた。
 巨大な鉤爪を持った竜が主檣メインマストの帆桁に取りつき、灼熱の焔を浴びせかける。膚が溶け落ち、肉が炭になり、骨まで剥き出しになる痛みを、確かに味わった。
 幻影とわかっていても、声を上げずにはいられない。
 だが、ゲラードは眉一つあげなかった。
 彼はしっかりとフーヴァルを抱きかかえたまま、落ち着き払った声で言った。
「大丈夫」そして、微笑んだ。「全て、幻だ」
 すると驚いたことに、悪夢のような光景が、全て掻き消えた。まるで蝋燭を吹き消したようにあっけなく──跡形もなく。
 あとに残ったのは、ボロボロになった船の上で傷つき蹲る、一人の男。
 ジャクィスが座り込んだ甲板に、大きな血の池ができていた。力なく拡げられた手の傍らには、短剣が転がっている。それで、後ろからフーヴァルを刺すつもりだったらしい。
 ゲラードは、フーヴァルをそっと肩から降ろすと、ジャクィスの方へ歩いて行った。
「ガル! 危ねえ──」
「大丈夫だ」
 彼は言い、彼の前にしゃがみこんだ。
 ジャクィスが首をかしげ、ゲラードを見上げる。
「その……銀の目」彼は、掠れた声で言った。「お前も……ナドカなのか?」
 ゲラードは首を振った。「いいや。人より良くものが見えるだけだ」
 ジャクィスは悔しさに顔を歪めた。「そんな力を持つ人間が……いるはずがない」
「なら、信じてもらうほかない」
 彼は言い、ジャクィスの傷口を見た。
「ジャクィス・キャトル」彼は感情を交えない声で言った。「命は助ける。けれど、君は力を失う」
「おい!」フーヴァルは思わず立ち上がりかけ、ぶり返した痛みに、またへたり込む。「冗談だろ! こいつが何をしたのか、お前にだってわかってるはずだ!」
 ゲラードがフーヴァルをふり返った。
 その時、ゲラードの背後に、巨大な鳥の影を見たような気がした。見たこともないほど大きなその鳥は、形を見た限りでは、燕に似ていた。それはゲラードに寄り添いつつ、興味深そうにジャクィスを見下ろしていた。
「彼が何をしたか、僕にもよくわかっているつもりだ」ゲラードは言った。「だからこそ、生かす」
「命と引き換えに、力を失うって……?」ジャクィスは、力なく笑った。「死んだ方が、マシだ」
「ああ」ゲラードは再びジャクィスを見下ろした。「それを許さない、と言っている」
 ゲラードは穏やかに言い、ジャクィスの腹に手を置いた。すると巨大な燕が、イルカ一頭をまるごと飲み込めそうなほど大きく開けた嘴を、ジャクィスの腹に突き立てた。
 思わず身をすくめたフーヴァルとは裏腹に、ジャクィスは何の反応も示さない。ただ訝しげに、ゲラードの顔を見つめているだけだ。
 ジャクィスには、あの鳥が見えていないのだ。
 そして燕は、ジャクィスの『怪我』を食った。
 それ以外に、どう言い表せばいいのかわからない。
 燕は、赤い傷口と、うっすら見えた赤黒い内臓とを喰らいながら、ジャクィスの中から、何かキラキラと光る銀色のものを引っ張り出して……まるで芋虫でも食うみたいに飲み込んだ。
 それは、ついさっき見た悪夢以上に目を疑う光景だった。
 巨鳥は満足げに喉を鳴らすと、その場で飛び上がり……普通の大きさに戻った。そしてゲラードの頭上を三度旋回したあと、宙に溶け込むように姿を消した。
 ジャクィスは呆然と、自分の腹を見下ろしていた。そこにあったはずの傷口が塞がり、あとにはただ、薄い傷跡が残っているばかりだった。
 ゲラードが立ち上がり、ジャクィスを見下ろす。
「気分は?」
 その瞬間、ジャクィスは幻影を呼び出そうとしたに違いない。
 だが、何も起こらなかった。そよ風一つ吹かなかった。
 彼の頬を、涙が伝った。ジャクィスは震える手で顔を覆い、か細く震える声で泣いた。
 
 長い、長い夜が、ようやく明けた。
 ゆっくりと昇る朝日が水平線から顔を出し、すべてを夜明けの色で包んだ。
 ジャクィスを拘束してから、ゲラードはフーヴァルの傷を看た。とても手慣れているとは言えない手つきで、骨の折れた腕を固定してくれた。あの巨鳥に頼めばこんな怪我も治るのかもしれないが、あれに食われそうになるくらいなら、多少腕が歪むほうがまだマシだ。うっかり口に出さないように、フーヴァルは唇を噛んで痛みに耐えた。
 手当てを終えると、ゲラードが言った。「あの戦闘の全てが……幻影であったら良かった」
 ふたりの目の前に広がるのは、あまりにも痛々しい光景だった。
 戦場には、勝者も敗者も存在しない。そこには生と死があるばかりで──いまふたりの目に映るのは、死だった。あまりにも多すぎて、とても受け止めきれないほどの。
「そうだな」
 そのときフーヴァルは、賑やかな声がするのに気付いて、顔を向けた。こちらに近づいてくる見慣れた船影に、安堵が胸に溢れる。とたんに、それまで我慢できる程度だった痛みが身体中で爆発した。
「いててて──畜生……」
「マリシュナだ!」ゲラードが顔をほころばせる。「おーい! 僕らはここだ!」
 ゲラードはフーヴァルを担ぎ上げて舷縁ブルワークに駆け寄った。船上から湧き上がる割れんばかりの歓声に、フーヴァルは、なんとか手を振り返した。
 マリシュナ号から仲間たちが乗り込んできて、茫然自失の状態に陥ったジャクィスを運び出す。彼は確かに力を失い、生きている意味を見出せないほど打ちのめされて、自力で歩くこともできないほどだった。
 だが、それで何を償えるわけもない。
 何も、償うことなどできない。今となっては。
 それでも──
「お前は、手を差し伸べ続けるんだな」フーヴァルが言った。
 ゲラードは少し驚いたようにフーヴァルを見た。それから、小さく微笑んだ。
「そして、君は戦い続ける」
 ゲラードはそっと囁き、フーヴァルの頬に、頬を寄せた。
 朝焼けは瞬く間に薄れ、あとには、いつも通りの青空が広がる。
 ここで死んでいったものたちの記憶を、戦いの爪痕を、この海が留めることはないだろうと、フーヴァルは思った。記憶は、生き残ったものの中にだけ生き続ける。そして、いつかどこかで歌われるはずの、他愛ない歌の中に。
 誰かが歌いはじめた陽気な舟歌シャンティーが、抜けるような青空に吸い込まれていった。
 
  とある帆船 ダイラに船出
  オー・ホー いざゆかん!
  とある帆船 故郷に戻る
  見ろ! マリーが上部帆桁トプスル・ヤードに!
   
  船艙には何が入ってる?
  オー・ホーいざゆかん!
  ダイヤモンドに黄金も
  マリーが上部帆桁トプスル・ヤードに!
   
  食料庫には何がある?
  オー・ホー いざゆかん!
  干し豌豆えんどうに腐った牛肉
  マリーが上部帆桁トプスル・ヤードに!
   
  ああ 多くの船乗りが死んだとさ
  オー・ホー いざゆかん!
  多くの船乗りが死んだ
  だが 女神マリー上部帆桁トプスル・ヤードに!
 
 結局、アドリエンヌの勢力とエレノアの間に、それ以上の戦闘はなかった。
 この海戦が勃発した直後、フェリジアで叛乱が拡がり、フェリジアからアドリエンヌへの支援が断たれたからだ。
 叛乱を起こしたのは、フェリジアで活動していたナドカの集団だ。聞くところによれば、オールモンド──エレノアがかき集めた金の何割かが、フェリジアの叛乱勢力に流れていたらしい。叛乱勢力は、夜のうちにダイラに最も近い二つの港を襲い、そこに停泊していた軍船に火をつけた上で、係留索を全て切った。炎が誰の目にも明らかになる頃には、解き放たれた軍艦は遙か沖へと流されていたという。ダイラへの干渉を断念せざるを得なくなったフェリジア国王は、ダイラが申し出た条約に署名をした。
 一連の出来事は、後に『デンズ湾海戦』と呼ばれることになる。
 そして、この戦いから一ヶ月後、エレノア王女の戴冠が正式に決まった。
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