夜想兎

小作

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第9話 心の壁

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 薄暗くなった駐輪場の手前。
 少女から五メートルほど距離をおいて布夜は全身を弛緩させ、瑞陣ずいじんの態勢をとった。

 この世界では身体操作の概念としても憎裏による異常性能が存在する。
 振戦は主に憎裏による個人能力だが、全ての夜兎に共通する身体操作法として、精神的負荷による領域開拓を自己の身体に引き起こすことで身体能力を著しく跳ね上げる手段をごく稀に得る場合がある。
 慣れると源力を纏ったまま長時間その態勢を維持することも可能になる。それを瑞陣ずいじんと呼ぶ。

 少女の立ち姿にはそういった鋭さは感じない。おそらく瑞陣はとれないだろう。打撃が入ればそこで終わるはずだ。
 しかし容易に踏み込むことができない。あの陣の意味がまだわからないからだ。

 布夜はかばんを少し後ろに放り投げた。しかし引き寄せられる気配はなかった。おそらくこの陣は自動的なものではなく、本人の意思で操作するものなのだろう。でなければ買い物袋だけが引き寄せられる理由がわからない。そばには放置されている自転車だって何台もある。
 建物の陰にひっそりと設置された駐輪場は使われている形跡もほとんどなく静まり返っていた。
 ――その直後。

 ズズ……。

 布夜の体がまるで風に煽られるみたいに少女の方へと引き寄せられ始めた。
 能力の発動を許したようだ。落ちついて思考を巡らせる。

 まず攻撃の対象はおそらく一つだけであるということがわかった。その対象に全ての注意が向けられるようだ。
 気がついたら瑞陣が解かれていた。瑞陣に必要なこちらの精神的強度が解かれるのは、さらに強い威圧を受けたときだけだ。

 まるで少女の内的世界へ引きずられるかのように、何もできなくなった。蛇に睨まれた蛙のように、体に力が入るだけだった。
 広範囲に及ぶバリアだと思い込んでいたようだ。単体への深層介入のようだ。早く解かなくてはならない。

 もう一度、瑞陣を立て直すには相手の意気を下げる方が早い。


 長袖のセーラー服の裾から見える白い腕を掴もうとした。
 そのまま体を寄せて、腹部に一撃だけで終わるはずだ。

 少女との距離は一メートルほどに縮まっていた。


 そのとき――、無地のつむぎを着た男が視界の左隅に立っているのが見えた。
 気がつかなかった、一体いつからいた――。

 男は右手に木槌を持って佇んでいる。
 両目はこちらを見据えている。
 威圧の目だ。

 木槌は何かで熱せられているみたいに、暗がりにその赤みがぼんやりと浮かんでいた。

 この局面でもう一人、自由な状態で戦力が控えている。
 消極的な思考が闇から這い上がってくる。その直後――。


 ガキン


 憎裏へと変え、布夜の振戦がその熱源をとらえた。木槌を凍らせ、続けて紬の男の右手も凍らせようとした。
 男は構わずに憎裏をもう一度焚べた。しかし、敵の領に穴が空いた。


 ズシッ、
         ――ぐっ


 不安定な体勢のままの少女の右脇腹に殴打を入れた。少女の体は目の前まで来ていた。
 ミシッ、と鈍い音がして少女は体を歪めた。一瞬の動きが理解できなかったようだ。そのまま流れるように体を返し、右の拳で顔面を突こうとした。


 ――ブッ壊してやるよ。


 景色の隙間から、少女の目がこちらを見ていた。
 布夜もそれを見た。

 相手側に抵抗はなかった。


 がはっ――。


 気がつくと、いつの間にか背後に立っていた紬の男に腕を捕まれ、すぐ脇に伸びていた「消火栓」と書かれた標識を払うように木槌で打つ音が聞こえた。
 甲高い金属音が夜空に響いた後、そのまま布夜の腹部に衝撃が入っていた。

「っ……!」

 不意を突くように入れられた男の振戦に、布夜はその場で膝を付いた。


 紬の男が布夜を見下ろす。
 少女がゆっくりと立ち直り、起き上がる。



 暗い空には月が浮かんでいた。

 四月の夜のことだった。

 ――布夜は敗北した。


 買い物袋と鞄を、そのまま拾ってその場から離れた。
 去り際にもう一度、二人のことを見た。


 二人の前に見知らぬ男が立っている。
 銀色の髪と赤い目が、月の下に不気味に浮かんで見えた。


 ――三人。


 散々な夜だった。

 妹への言い訳は、何も思いつかなかった。
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