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2章
40、だいすきな、おかあちゃま
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桃の花が夜風に揺れて、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
月明かりに照らされる妖狐は、美しかった。
対峙する水鏡老師も、仙人のように常世離れした雰囲気。
向かい合う二人の間で二歳の杏杏公主が泣いている。
……助けなきゃ!
紺紺の目の前で、両者は術を放った。
「妖狐よ、おぬしの復讐は邪魔させてもらうぞ。破ッ」
「穢れた禁術使いめ。わたくしの邪魔をしないで!」
水鏡老師は水の龍を、妖狐は炎波を、同時に相手に向けて迸らせる。衝突した瞬間に、ゴウッと衝撃波が生まれた。
待って。危ない!
「見惚れてる場合じゃない……っ、杏杏公主!」
幸い、紺紺は彰鈴妃に『贈り物』を貰っている。
贈り物のおかげで増強していた霊力と身体能力は、杏杏公主を助ける力になった。
「杏杏公主!」
紺紺は泣いている杏杏公主に疾風のように駆け寄って、その小さな体を抱きあげた。衝撃波から逃れるためにそのまま地を蹴り、高く跳ぶ。
「ふわあ!」
「杏杏公主、私にしがみついてください」
跳躍した足の下を、衝撃波が過ぎていった。
桃の木をなぎ倒す破壊音を聞きながら、紺紺は冷や汗を流した。
あとちょっと遅ければ、杏杏公主の命はなかっただろう。あぶない、あぶない。
近くにあった木の幹を蹴り、滞空時間を稼ぎながら、紺紺は狐火を放った。
「介入させていただきます、水鏡老師!」
水鏡老師は、人生の長い年月を修行に費やして徳を積み、ついに仙人になった人物だ、と言われている。
今の皇帝が生まれる前から老人姿で、実年齢は不明だ。
何度か会話したことがあるが、本人は自分のことは語りたがらず、質問しても「わしは語るほどの者ではない。わしのことは空気のようなものだと思って気にせんでくれ」と言う。
会話が弾んだことはないが、紺紺は「頼りになる味方だ」と思っている人物だ。
「炎よ、結界を成せ」
紺紺が命じながら放つ狐火は、揺らめきながら形を変えて、妖狐と老師を囲むように八卦を描く。
「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤……!」
克斯国 の侵攻を止めた時にも使用した結界だ。
前回は内側の人間や船に外側の炎の害が及ばぬようにしていたが、今回は内側の二人が争いぶつけあう術で周囲に被害が出ないように張ってみた。
結界術は――成功だ。
「むっ! わしの側には火の卦を描き、妖狐の側に水の卦を描くとは。これは……なんとも器用な術。そして、規格外の霊力――羨ましいことじゃ」
老師は唸り、妖狐は――女性の声を発した。
「当晋国の術師の新手? 禁忌の術に手を出しでもしない限り、ただの人間にこんなに霊力があるはずがない。これは……この娘は……?」
紺紺の介入に気づいた妖狐は、地を蹴って逃げていく。それを見ながら、紺紺は無事に着地した。
「杏杏公主、もう大丈夫ですよ」
「……うわぁぁん!」
「怖かったでしょう……」
紺紺は杏杏公主を落ち着かせるために笑顔を向けた。
「あの妖狐は胡月妃なのかな? ……追いかけたいけど、後始末しなきゃ」
そこへ、水鏡老師が声をかけてくる。
「今の術……おぬし、傾城じゃな。助力に感謝するぞ。わしは我が主君の命にて、妃の護衛任務にあたっておるところでの」
穏やかでゆったりとした声だった。
「ついでに妖狐狩りをするところであったが、逃げられてしもうた。そっちの公主様には、気持ちを落ち着かせる丸薬をやろう。ほれ」
水鏡老師は優しいおじいさんっぽい笑顔で丸薬をくれた。「わしは味方じゃぞー」って雰囲気だ。でも、杏杏公主の口に丸薬を突っ込む手付きは強引さも感じられる。
「……ふやぁ」
丸薬は効き目が良いらしい。三秒ですやすやだ。
「私と先見の公子様以外にも、主上は任務を命じていたんですね。それはそうですよね……安心しました」
「そちらも極秘任務じゃな? こちらもじゃ。わしのことは先見の公子にも話さないでくれ。秘密じゃ!」
「かしこまりました!」
「傾城はいい子じゃのう」
後宮には、自分と先見の公子以外にも頼りになる仲間がいたんだ!
水鏡老師が去っていくのを見送り、紺紺は周囲を改めて確認した。
結界を張る前の戦いの余波で、木が倒れている。
せっかく綺麗な庭園だったのに、土が抉れたり花が踏まれて潰れたりしていて、悲惨だ。
この被害については、先見の公子や水鏡老師が他者を納得させる理由を考えてくれるだろうか?
考えながら、紺紺は倒木の根元に視線を落とした。
人間には嗅ぎ取れない微かな匂いだが、あやしい匂いがしたからだ。
「……?」
根本の土を掘ってみると、堅いものが出てきた。
墨の文字を表面に書かれた土器だ。
「これ……呪いの土器だ! 多病薄命って書いてる……!」
『東宮が健康を損ねて虚弱になるように』という意味の呪いの言葉が書いてある。
紺紺は迷わず土器を割り、呪いを無効化しておいた。
こんな風に文字を書いた土器を、墨書土器という。井戸に沈めたり土に埋めることが多い。
「いつものお札と同じ術師っぽい。お札だけじゃなかったんだ……犯人って、やっぱり妖狐かな? 後宮って、色々潜んでてびっくりだなぁ」
紺紺は、杏杏公主を抱っこして延禧宮に帰った。
* * *
延禧宮に戻ると、髪を振り乱し、裸足の桃瑚妃が必死の形相で走ってきた。
「杏杏! 杏杏! ……ぎゃあ!」
途中でつまずいて転び、侍女が「きゃああああ!」と悲鳴をあげている。大混乱だ。
立ち上がるのを手伝おうと差し伸べられる侍女の手を無視して、桃瑚妃は這いずるようにして紺紺の足元に縋った。
「し、杏杏公主を見つけました。無事です……今は眠っておられます」
抱っこしていた公主を渡すと、桃瑚妃は必死に腕を伸ばして受け取った。
「杏杏、お、お、お母ちゃんやで……」
泥を頬につけた母の呼びかけに、二歳の娘が目を開ける。
「おかあちゃま」
愛らしい声で言って、娘の手は自分の帯を探る。
そこには、拾った簪が大事に隠されていた。
「あのね、あのね」
娘は、まだお喋りがたくさんできない。
たどたどしく、舌足らずで、でも一生懸命に、想いを伝えた。
お母ちゃまと御花園をお散歩したとき、落としたのを見ていたんだ。
落としたよと言ったけど、わかってもらえなかったんだ。
落とした場所知ってるよと言ったけど、相手をしてもらえなかったんだ。
だから、だから、「拾ってきてあげよう」と思ったんだ。
……怖いおじいちゃんや、幽霊がいたけど、宝物の簪を守ろうと思って帯に隠したんだ。
そう頑張って伝えて、大切な簪を母の手に置いた。
「おかあちゃま、かんじゃし」
「……!」
その簪は、緑柱石が使われていて、蝶々を象っていた。
侍女たちが掲げるオレンジ色の灯りを反射して、きらきらしていた。
その簪を震える手で受け取って、母は涙をあふれさせた。
「お母ちゃんがおとした簪、見つけてくれたんか」
母は、娘の心を理解した。
頬を汚していた泥が、涙に濡れる。
「ありがとう……そうか、ずっと教えようとしてたんか……」
やっと、気づけた。
ずっと、気づけてあげられなかった。
そのせいで、娘は自分の足で簪を拾いにいったのだ。
「ごめん」
母は、娘をぎゅうっと抱きしめ、泣いた。
「お母ちゃんが悪かった。わかってあげられなくて、……ごめんねえ。お母ちゃん、わかんなくて、気づけなくて……ごめん……っ」
「おかあちゃま、泣かないで」
娘は母の涙に心配そうに手をぱたぱたさせて、自分の袖で拭ってあげようとした。
でも、袖が泥だらけだと気付いて、困り顔になる。
「こ、公主様。こちらをどうぞ」
察した紺紺が清潔な布を渡すと、娘はにっこりとした。
だいすきな、おかあちゃま。
おかあちゃまは、しんしんのいちばん大切な、たからもの。
だから、汚れていないきれいな布で、やさしくそぉっと、拭いてあげるんだ。
娘はそんな風に言いながら「よいしょ、よいしょ」と母の頬を綺麗にした。
その様子が愛しくて、母はまた大粒の涙をあふれさせてしまい、しばらく涙が止まらなくなってしまったのだった。
月明かりに照らされる妖狐は、美しかった。
対峙する水鏡老師も、仙人のように常世離れした雰囲気。
向かい合う二人の間で二歳の杏杏公主が泣いている。
……助けなきゃ!
紺紺の目の前で、両者は術を放った。
「妖狐よ、おぬしの復讐は邪魔させてもらうぞ。破ッ」
「穢れた禁術使いめ。わたくしの邪魔をしないで!」
水鏡老師は水の龍を、妖狐は炎波を、同時に相手に向けて迸らせる。衝突した瞬間に、ゴウッと衝撃波が生まれた。
待って。危ない!
「見惚れてる場合じゃない……っ、杏杏公主!」
幸い、紺紺は彰鈴妃に『贈り物』を貰っている。
贈り物のおかげで増強していた霊力と身体能力は、杏杏公主を助ける力になった。
「杏杏公主!」
紺紺は泣いている杏杏公主に疾風のように駆け寄って、その小さな体を抱きあげた。衝撃波から逃れるためにそのまま地を蹴り、高く跳ぶ。
「ふわあ!」
「杏杏公主、私にしがみついてください」
跳躍した足の下を、衝撃波が過ぎていった。
桃の木をなぎ倒す破壊音を聞きながら、紺紺は冷や汗を流した。
あとちょっと遅ければ、杏杏公主の命はなかっただろう。あぶない、あぶない。
近くにあった木の幹を蹴り、滞空時間を稼ぎながら、紺紺は狐火を放った。
「介入させていただきます、水鏡老師!」
水鏡老師は、人生の長い年月を修行に費やして徳を積み、ついに仙人になった人物だ、と言われている。
今の皇帝が生まれる前から老人姿で、実年齢は不明だ。
何度か会話したことがあるが、本人は自分のことは語りたがらず、質問しても「わしは語るほどの者ではない。わしのことは空気のようなものだと思って気にせんでくれ」と言う。
会話が弾んだことはないが、紺紺は「頼りになる味方だ」と思っている人物だ。
「炎よ、結界を成せ」
紺紺が命じながら放つ狐火は、揺らめきながら形を変えて、妖狐と老師を囲むように八卦を描く。
「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤……!」
克斯国 の侵攻を止めた時にも使用した結界だ。
前回は内側の人間や船に外側の炎の害が及ばぬようにしていたが、今回は内側の二人が争いぶつけあう術で周囲に被害が出ないように張ってみた。
結界術は――成功だ。
「むっ! わしの側には火の卦を描き、妖狐の側に水の卦を描くとは。これは……なんとも器用な術。そして、規格外の霊力――羨ましいことじゃ」
老師は唸り、妖狐は――女性の声を発した。
「当晋国の術師の新手? 禁忌の術に手を出しでもしない限り、ただの人間にこんなに霊力があるはずがない。これは……この娘は……?」
紺紺の介入に気づいた妖狐は、地を蹴って逃げていく。それを見ながら、紺紺は無事に着地した。
「杏杏公主、もう大丈夫ですよ」
「……うわぁぁん!」
「怖かったでしょう……」
紺紺は杏杏公主を落ち着かせるために笑顔を向けた。
「あの妖狐は胡月妃なのかな? ……追いかけたいけど、後始末しなきゃ」
そこへ、水鏡老師が声をかけてくる。
「今の術……おぬし、傾城じゃな。助力に感謝するぞ。わしは我が主君の命にて、妃の護衛任務にあたっておるところでの」
穏やかでゆったりとした声だった。
「ついでに妖狐狩りをするところであったが、逃げられてしもうた。そっちの公主様には、気持ちを落ち着かせる丸薬をやろう。ほれ」
水鏡老師は優しいおじいさんっぽい笑顔で丸薬をくれた。「わしは味方じゃぞー」って雰囲気だ。でも、杏杏公主の口に丸薬を突っ込む手付きは強引さも感じられる。
「……ふやぁ」
丸薬は効き目が良いらしい。三秒ですやすやだ。
「私と先見の公子様以外にも、主上は任務を命じていたんですね。それはそうですよね……安心しました」
「そちらも極秘任務じゃな? こちらもじゃ。わしのことは先見の公子にも話さないでくれ。秘密じゃ!」
「かしこまりました!」
「傾城はいい子じゃのう」
後宮には、自分と先見の公子以外にも頼りになる仲間がいたんだ!
水鏡老師が去っていくのを見送り、紺紺は周囲を改めて確認した。
結界を張る前の戦いの余波で、木が倒れている。
せっかく綺麗な庭園だったのに、土が抉れたり花が踏まれて潰れたりしていて、悲惨だ。
この被害については、先見の公子や水鏡老師が他者を納得させる理由を考えてくれるだろうか?
考えながら、紺紺は倒木の根元に視線を落とした。
人間には嗅ぎ取れない微かな匂いだが、あやしい匂いがしたからだ。
「……?」
根本の土を掘ってみると、堅いものが出てきた。
墨の文字を表面に書かれた土器だ。
「これ……呪いの土器だ! 多病薄命って書いてる……!」
『東宮が健康を損ねて虚弱になるように』という意味の呪いの言葉が書いてある。
紺紺は迷わず土器を割り、呪いを無効化しておいた。
こんな風に文字を書いた土器を、墨書土器という。井戸に沈めたり土に埋めることが多い。
「いつものお札と同じ術師っぽい。お札だけじゃなかったんだ……犯人って、やっぱり妖狐かな? 後宮って、色々潜んでてびっくりだなぁ」
紺紺は、杏杏公主を抱っこして延禧宮に帰った。
* * *
延禧宮に戻ると、髪を振り乱し、裸足の桃瑚妃が必死の形相で走ってきた。
「杏杏! 杏杏! ……ぎゃあ!」
途中でつまずいて転び、侍女が「きゃああああ!」と悲鳴をあげている。大混乱だ。
立ち上がるのを手伝おうと差し伸べられる侍女の手を無視して、桃瑚妃は這いずるようにして紺紺の足元に縋った。
「し、杏杏公主を見つけました。無事です……今は眠っておられます」
抱っこしていた公主を渡すと、桃瑚妃は必死に腕を伸ばして受け取った。
「杏杏、お、お、お母ちゃんやで……」
泥を頬につけた母の呼びかけに、二歳の娘が目を開ける。
「おかあちゃま」
愛らしい声で言って、娘の手は自分の帯を探る。
そこには、拾った簪が大事に隠されていた。
「あのね、あのね」
娘は、まだお喋りがたくさんできない。
たどたどしく、舌足らずで、でも一生懸命に、想いを伝えた。
お母ちゃまと御花園をお散歩したとき、落としたのを見ていたんだ。
落としたよと言ったけど、わかってもらえなかったんだ。
落とした場所知ってるよと言ったけど、相手をしてもらえなかったんだ。
だから、だから、「拾ってきてあげよう」と思ったんだ。
……怖いおじいちゃんや、幽霊がいたけど、宝物の簪を守ろうと思って帯に隠したんだ。
そう頑張って伝えて、大切な簪を母の手に置いた。
「おかあちゃま、かんじゃし」
「……!」
その簪は、緑柱石が使われていて、蝶々を象っていた。
侍女たちが掲げるオレンジ色の灯りを反射して、きらきらしていた。
その簪を震える手で受け取って、母は涙をあふれさせた。
「お母ちゃんがおとした簪、見つけてくれたんか」
母は、娘の心を理解した。
頬を汚していた泥が、涙に濡れる。
「ありがとう……そうか、ずっと教えようとしてたんか……」
やっと、気づけた。
ずっと、気づけてあげられなかった。
そのせいで、娘は自分の足で簪を拾いにいったのだ。
「ごめん」
母は、娘をぎゅうっと抱きしめ、泣いた。
「お母ちゃんが悪かった。わかってあげられなくて、……ごめんねえ。お母ちゃん、わかんなくて、気づけなくて……ごめん……っ」
「おかあちゃま、泣かないで」
娘は母の涙に心配そうに手をぱたぱたさせて、自分の袖で拭ってあげようとした。
でも、袖が泥だらけだと気付いて、困り顔になる。
「こ、公主様。こちらをどうぞ」
察した紺紺が清潔な布を渡すと、娘はにっこりとした。
だいすきな、おかあちゃま。
おかあちゃまは、しんしんのいちばん大切な、たからもの。
だから、汚れていないきれいな布で、やさしくそぉっと、拭いてあげるんだ。
娘はそんな風に言いながら「よいしょ、よいしょ」と母の頬を綺麗にした。
その様子が愛しくて、母はまた大粒の涙をあふれさせてしまい、しばらく涙が止まらなくなってしまったのだった。
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