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22、ランヴェール公爵が変わったという噂は本当らしい
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皇都は、大陸で一番大きな都市だ。
建物は立派だし、広くて清潔だし、人も物も多い。
初めて訪れる者は皆、「すごい、すごい」とはしゃいでしまう。そして、都市に住む者ははしゃいでいる者を見て「田舎者」とか「おのぼりさん」と呼ぶのだ。
一度目の人生でおおはしゃぎしてイゼキウスに呆れられていたのは、ディリートの中では黒歴史である。
「ディリート、こちらが有名な時計塔なのです」
「まあ、素敵ですわね」
「気に入ったならこの塔は買って帰りましょうか。……ええ、そうです。本日は妻とデートなのです」
「ディリート、こちらが円形劇場……本日の演目は『葡萄畑でつかまえて』ですね」
「どんなお話かしら。気になりますわね」
「台本は私が書きました。……こちらは私の妻なのです」
「こちらが……」
「知りませんでしたわ!」
「美しいでしょう。私の妻です」
(本当に初めてだったらよかったのに)
時計塔も、劇も、イゼキウスとの思い出があるのだ。
(……本当の「初めて」の思い出をつくれたら、もっとよかったのに)
降り注ぐ明るい陽射しが、川面をキラキラと輝かせている。
水面にプカプカと浮かぶカラフルな花びらが華やかだ。
「事情を話したところ、我らが第一皇子殿下は、『珍しく良いことをしたんだな』と褒めてくださいましたよ」
「珍しいのですか……私もお見舞いしたいのですが」
「殿下は『最近、やる気が出ない。人はなぜ働くのだろうか。私はアリとキリギリスでいうとキリギリスになりたい。もうなんか呼吸するのもめんどい』などと仰って引き篭もっておられるようで……」
船が橋の下を通過するとき、橋の上の人々が花びらを撒いてくれる。
ひらり、はらりと降り注ぐ花びらは、綺麗だった。
「聖女です! わたしが、聖女です! お姉様ではなく、わたしが神の声をきいたのですっ!」
橋の上から、フレイヤの声がきこえた気がする。
(えっ……気のせいよね?)
ディリートはゾクッとした。隣にいるランヴェール公爵は軽く首をかしげて「聖女を騙る者は珍しくありません。騙されやすい善人はよく信心を利用されています」と呟いている。
「おい、いい加減にしろよ。恥ずかしい。お前はもう帰れ。ちなみに神はなんて言った?」
(あっ、イゼキウスの声……)
「神は言いました! フレイヤはヒロインだと……あっ、待ってください殿下ぁっ」
「殿下って呼ぶな! お忍びなんだぞ!」
二人揃って、呆れるほど堂々とした大声である。お忍びどころか、注目が集まりまくっている。
「空腹殿下ではないか」
「マザコン殿下!?」
「幼女を誘拐して人質にしたという噂も」
「ランヴェール公爵と幼女を奪い合っているという噂が……」
「あの冷酷な公爵が?」
「公爵は夫人を溺愛して人が変わったようだという噂も聞いたが?」
噂を楽しむヒソヒソ声が橋の上と船に満ちる中、ランヴェール公爵は無言で妻の背に手を回して抱きしめた。
「こ……公爵様」
妻のストロベリーブロンドを慈しむように夫の手が髪に触れる。
「そなたの夫は今、妻に自分だけを見てほしい気分です」
橋の上ではイゼキウスが怒鳴り散らしていた。
「おいっ、俺を愚弄した奴、出てこい! 無礼者め!」
「フレイヤの殿下をいじめるなんて、ひどい。殿下、悪口を言われて可哀想。よちよち」
「お、お前は黙っていろ……!? 俺を憐れむな!?」
橋の上のイゼキウスとフレイヤが少しずつ遠くなる。ディリートは、彼らが船上の自分たちに気づかなかったことに安心した。
船での遊覧タイムを終えると、ランヴェール公爵はディリートの手を引いて、厳重な警備に守られた王冠地区を案内した。
「公爵様。さきほども申しましたが、私、エミュール皇子殿下に献上したいものもございますの。お見舞いにお伺いすることはできますか?」
「第一皇子殿下は寝室から出ていらっしゃらないので……」
ディリートが「では手紙と見舞いの品を届けて頂くだけでも」と言いかけた時、ふと小声が耳に届く。男の声だ。
「ユーディト……」
「え?」
母の名だ。
視線を向けると、黒衣の男性貴族がこちらを見ていた。浅黒い肌に黒髪の男は、見るからに高貴な気配。気になるのが、少し前のランヴェール公爵のように仮面をつけている点だ。仮面が真っ白なので、全身黒の中で浮いていて不気味だ。
「あ……いや。親戚に似ていたのです。失礼」
男はそう言い、背を向けて去っていった。
(母の知人? ゼクセン派の貴族の方かしら?)
一度目の人生でも見覚えのない男は、母が生きていれば同じくらいの年頃に見えた。
遠ざかる背中を視線で追うディリートの目の前で観劇のリーフレットが振られる。視線を遮って自分に注意を引くのは、ランヴェール公爵だ。
「そなたは他の男ばかり気にするようですが、そなたの夫は嫉妬などしていません……」
笛の音が聞こえてくる。
いずれかの高位貴族が楽師に演奏させているらしい。
「……という嘘をついています」
ランヴェール公爵はそう言って、軽く眉を寄せた。
視界の隅では、精霊獣が笛の音に合わせて尻尾を振っている。笛が高く鳴ると、精霊獣はピョンっと飛んだ。笛が低くゆっくりとメロディを奏でると、精霊獣は地面に腹をつけて伏せをした。
公爵は頭痛をこらえるように自分のこめかみに手を置いて、公園の外へと進路を変えた。
普段は無表情な夫が顔をしかめている。
「し、……嫉妬、ですか」
微妙な言い回しだが、つまり嫉妬しているというのだ。
ディリートは、ちょっと嬉しいと思ってしまう自分を自覚した。
笛の音が遠くなる。そーっと顔色をうかがうディリートに、ランヴェール公爵は笑顔らしき表情をつくってみせた。
どことなく弱々しく、切なそうな、無理をしている感じの微笑は、綺麗だった。造形が整っていて、普段が無表情なだけに、ドキリとする。
「こ……公爵様?」
「散歩はこれくらいにして、第一皇子殿下のお見舞いに参りましょうか。本当は、殿下はそなたに会いたがっておられるのです」
吐息をついて語る声は、人間味にあふれた青年の声だった。
その手がディリートの髪を一束摘まんで、軽くかがむようにして。
頭を垂れて、宝物に触れるように、髪に優しくキスを落とす。
――そんなランヴェール公爵の姿に、周囲を行き交う貴族たちが足を止め、目をみはって驚いている。
「感情をむき出しにして余裕のないところを見せたり、嫉妬を露わにするような男は、みっともないでしょうか。もし私がそんな男だったら、そなたはどう思いますか」
オレンジ色に艶めく金髪が風にサラリと揺れる。
日差しに煌めく髪の下で、夫の頬から耳にかけての白皙の肌が赤くなっている。
――この青年はもしかして、表情筋が働かなくて無表情なのではなくて、表情筋を働かせて無表情をつくっているタイプなのかもしれない。
ディリートはそんな可能性に思い至って、恐る恐る手を伸ばした。
自分の指先を相手の指先に触れさせると、シトリン・クォーツの視線が手元に落ちる。そんなちょっとした仕草が妙に心をくすぐって、ディリートは彼の指に光る特別な指輪に自分のそれを寄り添わせ、微笑んだ。
「嬉しい、と思います」
ディリートは神聖な誓いをするような気分でささやいた。
「感情をさらけ出す人は、魅力的だと思います。嫉妬は……私は、嬉しいですわ。公爵様」
長いまつげが震えて、青年が嬉しそうにはにかむ。
ずっと一緒に過ごしてきたのに、初めて会った人のような新鮮な気配で。初々しく――青年は空気を震わせた。
「私たちは、とても親しくなったのではありませんか。ディリート?」
純朴な青年のような夫の声が澄んでまっすぐに響く。ディリートはそっと頷いた。
「ええ。私もそう思いますわ、……旦那様」
好奇心いっぱいにチラチラと様子をうかがっていた周囲からは、「ランヴェール公爵が変わったという噂は本当らしい」というささやきが零れるのだった。
建物は立派だし、広くて清潔だし、人も物も多い。
初めて訪れる者は皆、「すごい、すごい」とはしゃいでしまう。そして、都市に住む者ははしゃいでいる者を見て「田舎者」とか「おのぼりさん」と呼ぶのだ。
一度目の人生でおおはしゃぎしてイゼキウスに呆れられていたのは、ディリートの中では黒歴史である。
「ディリート、こちらが有名な時計塔なのです」
「まあ、素敵ですわね」
「気に入ったならこの塔は買って帰りましょうか。……ええ、そうです。本日は妻とデートなのです」
「ディリート、こちらが円形劇場……本日の演目は『葡萄畑でつかまえて』ですね」
「どんなお話かしら。気になりますわね」
「台本は私が書きました。……こちらは私の妻なのです」
「こちらが……」
「知りませんでしたわ!」
「美しいでしょう。私の妻です」
(本当に初めてだったらよかったのに)
時計塔も、劇も、イゼキウスとの思い出があるのだ。
(……本当の「初めて」の思い出をつくれたら、もっとよかったのに)
降り注ぐ明るい陽射しが、川面をキラキラと輝かせている。
水面にプカプカと浮かぶカラフルな花びらが華やかだ。
「事情を話したところ、我らが第一皇子殿下は、『珍しく良いことをしたんだな』と褒めてくださいましたよ」
「珍しいのですか……私もお見舞いしたいのですが」
「殿下は『最近、やる気が出ない。人はなぜ働くのだろうか。私はアリとキリギリスでいうとキリギリスになりたい。もうなんか呼吸するのもめんどい』などと仰って引き篭もっておられるようで……」
船が橋の下を通過するとき、橋の上の人々が花びらを撒いてくれる。
ひらり、はらりと降り注ぐ花びらは、綺麗だった。
「聖女です! わたしが、聖女です! お姉様ではなく、わたしが神の声をきいたのですっ!」
橋の上から、フレイヤの声がきこえた気がする。
(えっ……気のせいよね?)
ディリートはゾクッとした。隣にいるランヴェール公爵は軽く首をかしげて「聖女を騙る者は珍しくありません。騙されやすい善人はよく信心を利用されています」と呟いている。
「おい、いい加減にしろよ。恥ずかしい。お前はもう帰れ。ちなみに神はなんて言った?」
(あっ、イゼキウスの声……)
「神は言いました! フレイヤはヒロインだと……あっ、待ってください殿下ぁっ」
「殿下って呼ぶな! お忍びなんだぞ!」
二人揃って、呆れるほど堂々とした大声である。お忍びどころか、注目が集まりまくっている。
「空腹殿下ではないか」
「マザコン殿下!?」
「幼女を誘拐して人質にしたという噂も」
「ランヴェール公爵と幼女を奪い合っているという噂が……」
「あの冷酷な公爵が?」
「公爵は夫人を溺愛して人が変わったようだという噂も聞いたが?」
噂を楽しむヒソヒソ声が橋の上と船に満ちる中、ランヴェール公爵は無言で妻の背に手を回して抱きしめた。
「こ……公爵様」
妻のストロベリーブロンドを慈しむように夫の手が髪に触れる。
「そなたの夫は今、妻に自分だけを見てほしい気分です」
橋の上ではイゼキウスが怒鳴り散らしていた。
「おいっ、俺を愚弄した奴、出てこい! 無礼者め!」
「フレイヤの殿下をいじめるなんて、ひどい。殿下、悪口を言われて可哀想。よちよち」
「お、お前は黙っていろ……!? 俺を憐れむな!?」
橋の上のイゼキウスとフレイヤが少しずつ遠くなる。ディリートは、彼らが船上の自分たちに気づかなかったことに安心した。
船での遊覧タイムを終えると、ランヴェール公爵はディリートの手を引いて、厳重な警備に守られた王冠地区を案内した。
「公爵様。さきほども申しましたが、私、エミュール皇子殿下に献上したいものもございますの。お見舞いにお伺いすることはできますか?」
「第一皇子殿下は寝室から出ていらっしゃらないので……」
ディリートが「では手紙と見舞いの品を届けて頂くだけでも」と言いかけた時、ふと小声が耳に届く。男の声だ。
「ユーディト……」
「え?」
母の名だ。
視線を向けると、黒衣の男性貴族がこちらを見ていた。浅黒い肌に黒髪の男は、見るからに高貴な気配。気になるのが、少し前のランヴェール公爵のように仮面をつけている点だ。仮面が真っ白なので、全身黒の中で浮いていて不気味だ。
「あ……いや。親戚に似ていたのです。失礼」
男はそう言い、背を向けて去っていった。
(母の知人? ゼクセン派の貴族の方かしら?)
一度目の人生でも見覚えのない男は、母が生きていれば同じくらいの年頃に見えた。
遠ざかる背中を視線で追うディリートの目の前で観劇のリーフレットが振られる。視線を遮って自分に注意を引くのは、ランヴェール公爵だ。
「そなたは他の男ばかり気にするようですが、そなたの夫は嫉妬などしていません……」
笛の音が聞こえてくる。
いずれかの高位貴族が楽師に演奏させているらしい。
「……という嘘をついています」
ランヴェール公爵はそう言って、軽く眉を寄せた。
視界の隅では、精霊獣が笛の音に合わせて尻尾を振っている。笛が高く鳴ると、精霊獣はピョンっと飛んだ。笛が低くゆっくりとメロディを奏でると、精霊獣は地面に腹をつけて伏せをした。
公爵は頭痛をこらえるように自分のこめかみに手を置いて、公園の外へと進路を変えた。
普段は無表情な夫が顔をしかめている。
「し、……嫉妬、ですか」
微妙な言い回しだが、つまり嫉妬しているというのだ。
ディリートは、ちょっと嬉しいと思ってしまう自分を自覚した。
笛の音が遠くなる。そーっと顔色をうかがうディリートに、ランヴェール公爵は笑顔らしき表情をつくってみせた。
どことなく弱々しく、切なそうな、無理をしている感じの微笑は、綺麗だった。造形が整っていて、普段が無表情なだけに、ドキリとする。
「こ……公爵様?」
「散歩はこれくらいにして、第一皇子殿下のお見舞いに参りましょうか。本当は、殿下はそなたに会いたがっておられるのです」
吐息をついて語る声は、人間味にあふれた青年の声だった。
その手がディリートの髪を一束摘まんで、軽くかがむようにして。
頭を垂れて、宝物に触れるように、髪に優しくキスを落とす。
――そんなランヴェール公爵の姿に、周囲を行き交う貴族たちが足を止め、目をみはって驚いている。
「感情をむき出しにして余裕のないところを見せたり、嫉妬を露わにするような男は、みっともないでしょうか。もし私がそんな男だったら、そなたはどう思いますか」
オレンジ色に艶めく金髪が風にサラリと揺れる。
日差しに煌めく髪の下で、夫の頬から耳にかけての白皙の肌が赤くなっている。
――この青年はもしかして、表情筋が働かなくて無表情なのではなくて、表情筋を働かせて無表情をつくっているタイプなのかもしれない。
ディリートはそんな可能性に思い至って、恐る恐る手を伸ばした。
自分の指先を相手の指先に触れさせると、シトリン・クォーツの視線が手元に落ちる。そんなちょっとした仕草が妙に心をくすぐって、ディリートは彼の指に光る特別な指輪に自分のそれを寄り添わせ、微笑んだ。
「嬉しい、と思います」
ディリートは神聖な誓いをするような気分でささやいた。
「感情をさらけ出す人は、魅力的だと思います。嫉妬は……私は、嬉しいですわ。公爵様」
長いまつげが震えて、青年が嬉しそうにはにかむ。
ずっと一緒に過ごしてきたのに、初めて会った人のような新鮮な気配で。初々しく――青年は空気を震わせた。
「私たちは、とても親しくなったのではありませんか。ディリート?」
純朴な青年のような夫の声が澄んでまっすぐに響く。ディリートはそっと頷いた。
「ええ。私もそう思いますわ、……旦那様」
好奇心いっぱいにチラチラと様子をうかがっていた周囲からは、「ランヴェール公爵が変わったという噂は本当らしい」というささやきが零れるのだった。
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