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再会-01-
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朝の通り。霧の残る冷気を追い払うように、壁を這うパイプから蒸気が流れていた。動き出した街に、新聞配達の足音が角を曲がって近づき、店先で止まった。
掠れた看板に『クベツ雑貨店』。その下で扉が開き、店番の青年が顔を出した。
「おはよう。配達、頑張ってね」
新聞を受け取った指先に、ガスランプの光が滑る。白髪は灰でも銀でもない。朝の霧だけを束ねたみたいな色で、緑の目が不思議な柔らかさを添えていた。
少年と軽く世間話を交わしてから、青年は店内へ戻る。新聞を広げ、見出しに目を落とした。
薄暗い店には生活雑貨の棚が並び、古びてはいるが隅々まで手入れが行き届いている。ガスランプが暖かな光を投げかける中で、歯車とオイル缶だけが妙に新しい顔をしていた。
「じいちゃん、また工事あるんだって」
居住空間へつながる扉から出てきた祖父が渋い顔をして、言った。
「アルノシト、先にジークを歩かせてやれ」
「それもそっか。ジーク、散歩いくよ」
アルノシトと呼ばれた青年が下を向けば、わん、と足元で尻尾を振っている愛犬と目が合う。ジークが咥えている散歩用のリードを受け取り、外に出ようとしたところで。
ぼふん。
蒸気の噴出口が不自然な音を立て、二人と一匹は一斉にそちらを見た。壁のパイプの継ぎ目から薄い蒸気が漏れ、圧力ゲージの針が落ち着かない。
「ボイラー、調子悪いねぇ」
「まあ、かなり年代物だからな」
祖父は床を靴のかかとで、とん、と鳴らした。床下の気配が今日は鈍い。音が、いつもより重たい。
「……蒸気の回りも落ちとる。そろそろ替え時かもしれん」
やれやれ、と祖父が肩を落とす。整備をしてくれる快活な職人の顔が浮かぶ。腕はこの街でも指折りだ。けれど、技術だけでは延命にも限りがある。
「今度、みんなと相談してみるか」
祖父の言葉に頷き、アルノシトはジークと外に出た。
「あら、おはよう。今日は早いのね」
「うん。目が覚めちゃって」
すれ違う人と世間話をしながら歩く。時折、ジークも「ご褒美」をもらい、尻尾を忙しなく振っている。霧が晴れていく通りを眺め、アルノシトは大きく息を吐いた。白い息がふわりとほどけていくのをぼんやりと眺める。
「みんなで分割しても……結構、お金かかっちゃうよね」
くぅん、と愛犬の鳴き声に我に返る。
「大丈夫だよ。ジークのごはんはちゃんとあげるから」
明るく笑うと、ジークの尻尾が揺れた。そろそろ帰ろうとリードを引き、来た道を戻る。
「ただいま、じいちゃん」
カウンターを磨いていた祖父に声をかける。さっきよりはましだが、噴出口はまだ少し変な音を立てている。気にしても仕方ない、とアルノシトは店の看板を表に出した。
「いらっしゃい、マリアさん。今日のおすすめは──」
常連である中年女性はアルノシトの声に立ち止まる。あれこれ話しているうちに、戸口に新しい影。
アルノシトが顔を上げる。
「マーク!ちょうどよかった、頼まれていたオイル、届いたところ」
「お!ほんとか、助かる。見せてよ」
マリアと入れ替わるかたちでマークが目の前にきた。カウンターの中の予約商品の中から、マークに頼まれていたオイルを取り出したところで、店の中に走り込んでくる子ども。
マークがその襟首を掴み、勢いを止めた。
「店の中で走っちゃだめだぞ、ユーリ。ほら、ジークと遊んどいで」
いつも通り。顔なじみの街の住人たちとのやり取り。今日は何が欲しい、あれはあるか──そんなやり取りの隙間に、低い唸りが混ざった。
低い唸りは、工業用車両のそれじゃない。滑らかなエンジン音が、霧を割って近づいてくる。
マークが眉を上げ、手を止める。
「……車ぁ?こんな通りに?」
「迷い込みじゃない?……でも、この辺道が狭いから、下手したら擦っちゃうよね」
「こないだもあったよな」
そんな思い出というには新しすぎる話題。
いつもの会話の横を、音は通り過ぎていくはずだった。
だが、ぶつり、と止まる。
店の前に、黒い影がぴたりと据わった。ガラス越しに見える車体は、艶だけで格が違う。
誰かが降りる気配。
「失礼」
扉が開く。呼び鈴の音と同時に、低くよく通る声が店内に落ちた。
「いらっしゃいま……」
「……ベーレンドルフ」
マークの呟きが、喉の奥で潰れる。
この街を支える大財閥。雑貨店で聞くには、重すぎる。
マリアの指が止まったのが見えた。オイルを握る男も、息を呑む気配を隠せていない。ユーリはジークの後ろから顔だけ覗かせ、祖父の新聞の紙擦れの音すら消えた気がした。
中へ入ってきたのは、黒髪に青い目の背の高い青年だった。寸分の隙もないフロックコートに、光を抑えた小物。近づくほど上等だと分かる襟元に、ラペルピンが静かに光っている。
ベーレンドルフの印なら、町で見ない日はない。だが──これは見たことがない。
「監督のでもないぞ、あれ」
「……どこの筋だ。現場の匂いがしねえ」
囁きが背後で交差する。アルノシトは喉が乾くのを感じながら、カウンターから動けなかった。
男は周囲の気配など気にも留めない様子で、まっすぐアルノシトへ歩み寄る。
「アルノシト=クベツは君か?」
その声に肩が跳ねる。慌てて小さく会釈し、頷いた。
「あ、はい。そうです」
青い瞳が射貫くようにこちらを捉える。鋭い。けれど、その奥に、何かを確かめるような躊躇が一瞬だけ混じった気がして、アルノシトは逆に目を逸らせなかった。
「私はルートヴィヒ=ベーレンドルフ」
そこで一度だけ息を整え、
「──総帥だ。用件だけ告げる」
静かに紡がれた声と青い目に、意識を奪われた。名乗りの重さが、遅れて胸に落ちる。
「……その、何のご用でしょう」
自ら総帥と名乗った男は一度まぶたを下ろした。深呼吸して、また目を上げる。
「君の力を借りたい」
一拍。続く言葉を探すように、彼の目がわずかに揺れた。
「──これは、依頼ではない。命令だ。ベーレンドルフのため、この街のために」
言い終わると、呼び鈴の余韻だけが遅れて消えた。
アルノシトの口が少しだけ開いたまま戻らない。
──この人は今何といった?街のため?財閥のために俺が必要?
そんな特別な力なんて何もない。思い当たることが何もなくて、眉が下がる。カウンターの上に置いた手を握り締め、静かに口を開く。
「…………えっと、」
声が掠れる。総帥の纏う空気が、店内の酸素を薄くしているようだった。
「……俺はただの店番です。……何をしろっていうんですか」
震えそうになる指先を、カウンターの下で強く握り込む。
身体は怯えている。なのに、心の奥底には不思議と恐怖がなかった。それどころか、どこか懐かしいような感覚すら覚えている。
どこかで会ったことがある気がする。──いや、財閥の総帥なんかと知り合う機会なんて……
「ちょっと待て」
思案を断ち切ったのは、それまで黙っていた祖父の一言。店の奥の椅子から立ち上がり、ルートヴィヒの傍までいくと彼をにらむようにして鋭い視線を向ける。
「さっきから聞いていれば好き勝手……お前さんが大財閥の総帥だろうが何だろうが、儂の孫に理不尽な命令なんぞ聞かせるわけにはいかんぞ」
祖父の指が、カウンターの縁を白くなるほど掴んでいる。語尾が震えていた。怒りだけじゃない。もっと古い痛みが、いま喉元までせり上がっているのが分かった。
そして、祖父は吐き捨てるように付け足す。
「街の者はあんたに世話になっとる。……だが、それとこれとは別じゃ」
アルノシトは祖父の背にそっと手を置く。
「待って、じいちゃん」
ぽん、ぽん、と落ち着かせるように背中を撫でながら、ルートヴィヒを見た。
「ごめんなさい。じいちゃんの息子……えっと、俺の両親。昔、事故で亡くなったんです。それで、ちょっと」
ルートヴィヒはわずかに目を伏せ、視線を彷徨わせてから、短く息を吸った。
「……配慮を欠いた。すまない」
傲岸不遜に見えた男が、深々と頭を下げる。
その瞬間、店内に満ちていた重圧がふっと霧散した。張り詰めていた空気が緩み、ボイラーの不機嫌な音が再び耳に戻ってくる。
アルノシトは、強張っていた肩から力を抜いた。
店の静けさの意味がまた変わる。状況がめまぐるしく切り替わり、頭の整理が追いつかない。アルノシトは背中を撫でる手を止め、少し考えてから言った。
「お客さんもいるし、じいちゃんも落ち着く時間が必要だから。お茶、いれてもいいですか」
ルートヴィヒの背後へ視線をやる。店の外、車のそばに人影が立っている。多分、運転手だろう。
「運転手さんも一緒に。もし時間がないなら……ごめんなさい。明日、もう一度来てください」
その言葉に、店内の空気がわずかに緩んだ。マリアが小さく息を吐き、ユーリがジークの後ろから顔を覗かせる。
ルートヴィヒはゆっくりと頷き返す。
「……時間はある。構わない」
返事を聞いてアルノシトは表情を緩めた。
「よかった。じゃあ、少しだけ待ってくださいね」
まず祖父を椅子に座らせる。アルノシトは手際よく会計を済ませ、残っていた客に軽く頭を下げた。
「ごめんなさい、今日はここまでで」
マリアもいつもの調子で頷いてくれる。ユーリは名残惜しそうにジークを撫でてから、母親に引っ張られて出ていった。
人がはけたところで、アルノシトは外へ回り、看板を引っ込める。その時に、車のそばに立っていた背の高い青年へと声をかけた。
「あの、総帥さんの運転手さん……ですか?」
ルートヴィヒに負けず劣らず背の高い青年が眉を上げて頷く。銀髪に、琥珀色の目。整った顔立ちと、やはり衣服の上質さが目を引く。
「よかったら中へ。お茶、いれますから」
扉を開けて押さえていると、青年は小さく会釈して店内へ入った。アルノシトが扉から離れると、噴出口がまた小さくぼふ、と鳴る。
ルートヴィヒはカウンターから一歩引いた場所で、きちんと立ったまま待っていた。姿勢の良さが、狭い店の空気を変えてしまう。
アルノシトは簡易コンロにヤカンを乗せ、火をつける。カップを四つ、茶葉の缶、砂糖の壺。いつもの流れが手を落ち着かせる。
足元でジークが鼻先を擦り付けてくる。
「あとでね」
と小声で宥めると、わかった、というように一度だけ尻尾が揺れた。
しゅう、とヤカンが鳴り始める。
ルートヴィヒと運転手は、彫像のように待っていた。狭い雑貨店の中、最高級のフロックコートが小さくなっている。大人しく、黙ったまま。
──入ってきた時は怖そうだったけど、そうでもないのかな?
ふ、と口元が緩みそうになるのを、アルノシトは誤魔化すように茶葉の缶の蓋を開けた。
掠れた看板に『クベツ雑貨店』。その下で扉が開き、店番の青年が顔を出した。
「おはよう。配達、頑張ってね」
新聞を受け取った指先に、ガスランプの光が滑る。白髪は灰でも銀でもない。朝の霧だけを束ねたみたいな色で、緑の目が不思議な柔らかさを添えていた。
少年と軽く世間話を交わしてから、青年は店内へ戻る。新聞を広げ、見出しに目を落とした。
薄暗い店には生活雑貨の棚が並び、古びてはいるが隅々まで手入れが行き届いている。ガスランプが暖かな光を投げかける中で、歯車とオイル缶だけが妙に新しい顔をしていた。
「じいちゃん、また工事あるんだって」
居住空間へつながる扉から出てきた祖父が渋い顔をして、言った。
「アルノシト、先にジークを歩かせてやれ」
「それもそっか。ジーク、散歩いくよ」
アルノシトと呼ばれた青年が下を向けば、わん、と足元で尻尾を振っている愛犬と目が合う。ジークが咥えている散歩用のリードを受け取り、外に出ようとしたところで。
ぼふん。
蒸気の噴出口が不自然な音を立て、二人と一匹は一斉にそちらを見た。壁のパイプの継ぎ目から薄い蒸気が漏れ、圧力ゲージの針が落ち着かない。
「ボイラー、調子悪いねぇ」
「まあ、かなり年代物だからな」
祖父は床を靴のかかとで、とん、と鳴らした。床下の気配が今日は鈍い。音が、いつもより重たい。
「……蒸気の回りも落ちとる。そろそろ替え時かもしれん」
やれやれ、と祖父が肩を落とす。整備をしてくれる快活な職人の顔が浮かぶ。腕はこの街でも指折りだ。けれど、技術だけでは延命にも限りがある。
「今度、みんなと相談してみるか」
祖父の言葉に頷き、アルノシトはジークと外に出た。
「あら、おはよう。今日は早いのね」
「うん。目が覚めちゃって」
すれ違う人と世間話をしながら歩く。時折、ジークも「ご褒美」をもらい、尻尾を忙しなく振っている。霧が晴れていく通りを眺め、アルノシトは大きく息を吐いた。白い息がふわりとほどけていくのをぼんやりと眺める。
「みんなで分割しても……結構、お金かかっちゃうよね」
くぅん、と愛犬の鳴き声に我に返る。
「大丈夫だよ。ジークのごはんはちゃんとあげるから」
明るく笑うと、ジークの尻尾が揺れた。そろそろ帰ろうとリードを引き、来た道を戻る。
「ただいま、じいちゃん」
カウンターを磨いていた祖父に声をかける。さっきよりはましだが、噴出口はまだ少し変な音を立てている。気にしても仕方ない、とアルノシトは店の看板を表に出した。
「いらっしゃい、マリアさん。今日のおすすめは──」
常連である中年女性はアルノシトの声に立ち止まる。あれこれ話しているうちに、戸口に新しい影。
アルノシトが顔を上げる。
「マーク!ちょうどよかった、頼まれていたオイル、届いたところ」
「お!ほんとか、助かる。見せてよ」
マリアと入れ替わるかたちでマークが目の前にきた。カウンターの中の予約商品の中から、マークに頼まれていたオイルを取り出したところで、店の中に走り込んでくる子ども。
マークがその襟首を掴み、勢いを止めた。
「店の中で走っちゃだめだぞ、ユーリ。ほら、ジークと遊んどいで」
いつも通り。顔なじみの街の住人たちとのやり取り。今日は何が欲しい、あれはあるか──そんなやり取りの隙間に、低い唸りが混ざった。
低い唸りは、工業用車両のそれじゃない。滑らかなエンジン音が、霧を割って近づいてくる。
マークが眉を上げ、手を止める。
「……車ぁ?こんな通りに?」
「迷い込みじゃない?……でも、この辺道が狭いから、下手したら擦っちゃうよね」
「こないだもあったよな」
そんな思い出というには新しすぎる話題。
いつもの会話の横を、音は通り過ぎていくはずだった。
だが、ぶつり、と止まる。
店の前に、黒い影がぴたりと据わった。ガラス越しに見える車体は、艶だけで格が違う。
誰かが降りる気配。
「失礼」
扉が開く。呼び鈴の音と同時に、低くよく通る声が店内に落ちた。
「いらっしゃいま……」
「……ベーレンドルフ」
マークの呟きが、喉の奥で潰れる。
この街を支える大財閥。雑貨店で聞くには、重すぎる。
マリアの指が止まったのが見えた。オイルを握る男も、息を呑む気配を隠せていない。ユーリはジークの後ろから顔だけ覗かせ、祖父の新聞の紙擦れの音すら消えた気がした。
中へ入ってきたのは、黒髪に青い目の背の高い青年だった。寸分の隙もないフロックコートに、光を抑えた小物。近づくほど上等だと分かる襟元に、ラペルピンが静かに光っている。
ベーレンドルフの印なら、町で見ない日はない。だが──これは見たことがない。
「監督のでもないぞ、あれ」
「……どこの筋だ。現場の匂いがしねえ」
囁きが背後で交差する。アルノシトは喉が乾くのを感じながら、カウンターから動けなかった。
男は周囲の気配など気にも留めない様子で、まっすぐアルノシトへ歩み寄る。
「アルノシト=クベツは君か?」
その声に肩が跳ねる。慌てて小さく会釈し、頷いた。
「あ、はい。そうです」
青い瞳が射貫くようにこちらを捉える。鋭い。けれど、その奥に、何かを確かめるような躊躇が一瞬だけ混じった気がして、アルノシトは逆に目を逸らせなかった。
「私はルートヴィヒ=ベーレンドルフ」
そこで一度だけ息を整え、
「──総帥だ。用件だけ告げる」
静かに紡がれた声と青い目に、意識を奪われた。名乗りの重さが、遅れて胸に落ちる。
「……その、何のご用でしょう」
自ら総帥と名乗った男は一度まぶたを下ろした。深呼吸して、また目を上げる。
「君の力を借りたい」
一拍。続く言葉を探すように、彼の目がわずかに揺れた。
「──これは、依頼ではない。命令だ。ベーレンドルフのため、この街のために」
言い終わると、呼び鈴の余韻だけが遅れて消えた。
アルノシトの口が少しだけ開いたまま戻らない。
──この人は今何といった?街のため?財閥のために俺が必要?
そんな特別な力なんて何もない。思い当たることが何もなくて、眉が下がる。カウンターの上に置いた手を握り締め、静かに口を開く。
「…………えっと、」
声が掠れる。総帥の纏う空気が、店内の酸素を薄くしているようだった。
「……俺はただの店番です。……何をしろっていうんですか」
震えそうになる指先を、カウンターの下で強く握り込む。
身体は怯えている。なのに、心の奥底には不思議と恐怖がなかった。それどころか、どこか懐かしいような感覚すら覚えている。
どこかで会ったことがある気がする。──いや、財閥の総帥なんかと知り合う機会なんて……
「ちょっと待て」
思案を断ち切ったのは、それまで黙っていた祖父の一言。店の奥の椅子から立ち上がり、ルートヴィヒの傍までいくと彼をにらむようにして鋭い視線を向ける。
「さっきから聞いていれば好き勝手……お前さんが大財閥の総帥だろうが何だろうが、儂の孫に理不尽な命令なんぞ聞かせるわけにはいかんぞ」
祖父の指が、カウンターの縁を白くなるほど掴んでいる。語尾が震えていた。怒りだけじゃない。もっと古い痛みが、いま喉元までせり上がっているのが分かった。
そして、祖父は吐き捨てるように付け足す。
「街の者はあんたに世話になっとる。……だが、それとこれとは別じゃ」
アルノシトは祖父の背にそっと手を置く。
「待って、じいちゃん」
ぽん、ぽん、と落ち着かせるように背中を撫でながら、ルートヴィヒを見た。
「ごめんなさい。じいちゃんの息子……えっと、俺の両親。昔、事故で亡くなったんです。それで、ちょっと」
ルートヴィヒはわずかに目を伏せ、視線を彷徨わせてから、短く息を吸った。
「……配慮を欠いた。すまない」
傲岸不遜に見えた男が、深々と頭を下げる。
その瞬間、店内に満ちていた重圧がふっと霧散した。張り詰めていた空気が緩み、ボイラーの不機嫌な音が再び耳に戻ってくる。
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店の静けさの意味がまた変わる。状況がめまぐるしく切り替わり、頭の整理が追いつかない。アルノシトは背中を撫でる手を止め、少し考えてから言った。
「お客さんもいるし、じいちゃんも落ち着く時間が必要だから。お茶、いれてもいいですか」
ルートヴィヒの背後へ視線をやる。店の外、車のそばに人影が立っている。多分、運転手だろう。
「運転手さんも一緒に。もし時間がないなら……ごめんなさい。明日、もう一度来てください」
その言葉に、店内の空気がわずかに緩んだ。マリアが小さく息を吐き、ユーリがジークの後ろから顔を覗かせる。
ルートヴィヒはゆっくりと頷き返す。
「……時間はある。構わない」
返事を聞いてアルノシトは表情を緩めた。
「よかった。じゃあ、少しだけ待ってくださいね」
まず祖父を椅子に座らせる。アルノシトは手際よく会計を済ませ、残っていた客に軽く頭を下げた。
「ごめんなさい、今日はここまでで」
マリアもいつもの調子で頷いてくれる。ユーリは名残惜しそうにジークを撫でてから、母親に引っ張られて出ていった。
人がはけたところで、アルノシトは外へ回り、看板を引っ込める。その時に、車のそばに立っていた背の高い青年へと声をかけた。
「あの、総帥さんの運転手さん……ですか?」
ルートヴィヒに負けず劣らず背の高い青年が眉を上げて頷く。銀髪に、琥珀色の目。整った顔立ちと、やはり衣服の上質さが目を引く。
「よかったら中へ。お茶、いれますから」
扉を開けて押さえていると、青年は小さく会釈して店内へ入った。アルノシトが扉から離れると、噴出口がまた小さくぼふ、と鳴る。
ルートヴィヒはカウンターから一歩引いた場所で、きちんと立ったまま待っていた。姿勢の良さが、狭い店の空気を変えてしまう。
アルノシトは簡易コンロにヤカンを乗せ、火をつける。カップを四つ、茶葉の缶、砂糖の壺。いつもの流れが手を落ち着かせる。
足元でジークが鼻先を擦り付けてくる。
「あとでね」
と小声で宥めると、わかった、というように一度だけ尻尾が揺れた。
しゅう、とヤカンが鳴り始める。
ルートヴィヒと運転手は、彫像のように待っていた。狭い雑貨店の中、最高級のフロックコートが小さくなっている。大人しく、黙ったまま。
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弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
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