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再会-09-
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背後の蒸気の熱とは対照的に、扉の中は冷えていた。
湿った匂いと黴臭さ。先の見えない暗闇。あふれ出す蒸気に押し出されるよう数歩進んだが、足が止まる。扉が閉まってもなお聞こえる外の音が反響して、自分がどこにいるのか分からなくなる。
「いないぞ?!」
「この蒸気の中、どこへいった?」
壁越しに聞こえる怒号はエトガルのものでも、作業員達のものでもない。古びた扉が発見される前に早く逃げなければ。
「……壁」
掠れた声が震える。アルノシトはルートヴィヒの手をしっかりと握り直すと自分の左手を壁に当てる。
「左に、壁があるから……手を当ててついてきてください」
話す声が反響する。足を踏み出せば靴音が響く。湿った地面は土と石が混ざっていて歩きにくい。
それでも、足を進めなければ。
言葉に出来ない怖さがアルノシトの足を止めさせない。早足のまま壁伝いに歩いていく。
「……待て」
どれくらい歩いたか。ルートヴィヒが不意に声を出した。びくりとアルノシトの身体が跳ねた。
「少しだけ手を離しても大丈夫か?」
握ったままの手を静かに離した。衣擦れの音に続いて、かちかちと何かを操作する音。先程の弁の暴走を思い出して息を止めてしまう。
「……」
ほわり。
暗闇の中に光が生まれる。まず見えたのは、ルートヴィヒの指とその手の中にある道具。繊細な装飾の施された銀色のそれから零れている光の色に見覚えがある。
「それ……」
「……エトガルが君たちに渡した鉱山灯の試作品だ」
ルートヴィヒの声が、光と共に少しだけ柔らかく響く。
「光量はあれよりも弱いが、暗闇を歩くよりはましだろう」
「……はい」
ほっと息を吐き出す。
その淡い光に照らされて、周囲の景色が浮かび上がった。
アーチ状に組まれた古い煉瓦の天井。ところどころ崩れ、湿り、黒い苔みたいなものが縁を舐めている。足元は石と土と、濡れた泥。踏むたび、ぬる、と嫌な抵抗が靴裏に絡む。
「旧水道か」
街の地下に張り巡らされた古い道。その広さと複雑さは庁舎の比ではない。淡い光が手元に戻って来る。
「口を覆った方がいい」
マークが教えてくれたこと。頷きハンカチを取り出して自分の口を覆う。ルートヴィヒが口元を覆う間だけ、アルノシトが灯りを受け取った。
互いに布を整え、すぐ返そうとした、その時――
「あの白髪か。めんどうだな」
「最悪、総帥だけでも確保しろ」
「音を追え!」
何重にも反響するその声は味方のものではないとしかわからない。肩を竦めたアルノシトを見て、今度はルートヴィヒが手を引いた。
「行くぞ。ここから離れなければ」
どう歩けば外につながるのか。追手と鉢合わせずに進めるのか。そんなことは分からない。でも──進むしかない。
「……俺が、先に行きます。道を……見つけますから」
声が震えてしまう。多分、手も震えている。それを押し殺すかのように一度、ルートヴィヒの手を強く握った。
すぐに、握り返される。しっかりと握り返してくれる手の確かさに、少しだけ気持ちが楽になった。
「総帥は灯りを」
「ルートヴィヒでいい」
アルノシトは目を瞬かせた後、笑おうとした。表情が作れたかは自分では確かめられないけれど。
「……それじゃ、ルートヴィヒ、さん。お願いします」
頷きが返って来る。左手を壁に当てて、一度目を閉じた。
曲がった数、自分の歩幅。先程入った扉から歩いた距離だけ、頭の中に地図が組みあがっていく。自分が知っている地上の地図と照らし合わせて、今いる場所を探し出す。
──ここはもう庁舎の『外』だ。ここから一番近い出口は……
踏み出した足先を淡い光が照らす。ところどころ崩れた煉瓦や水たまりを避けながら、歩いていくうちに、自分たちと違う足音や声が反響してくる。
近くにいるような、遠くにいるような。恐怖に足がすくむが、その度にルートヴィヒが手を握り直してくれる。
大丈夫。
言葉にはしないが、そう言ってくれているようで。アルノシトはゆっくり、確実に足を進めていく。
「……あ」
一番近い出口へと向かう途中。経年劣化で崩落した煉瓦が道をふさいでしまっていた。
上の方には隙間があるように見えるが、向こう側に降りる手段があるか分からないし、ここを登ってさらに崩れる可能性も高い。何より、大きな音を立てると、追手に気づかれる可能性も上がってしまう。
諦めて別の道を探そうとした時、不意に足音が近くで響いた気がした。
「~~~っ!」
どうしよう。頭が真っ白になる。
「こっちに」
ルートヴィヒが固まってしまったアルノシトの手を引く。一見通れないように見えたが、よく見ると僅かに隙間がある。その奥には、かつての水道の管理人が使っていたであろう、崩れた寝台。
崩れた煉瓦が部屋の壁を崩していたが、残り半分の壁は崩れずに残った。そのおかげで、部屋を覆い隠すような形になっていた。
身体を横にして押し込むように。アルノシトの後でルートヴィヒも潜り込んでくる。彼は着ていた重厚なロングコートを脱ぐと、二人ごと頭から覆った。
「……ルートヴィヒ、さん?」
「静かに」
灯りが消える。内側に押し込まれた。外にいるのは、ルートヴィヒ。抗う隙もない。視界が彼のベストの布地に埋まる。息を呑む音すら、ここでは目印になるから。
守られているだけだと分かっているのに、心臓が勝手に跳ねた。
重い布の内側は暗く、外の気配だけが薄く滲む。
耳のすぐ上で、ルートヴィヒの声。
「声を出すな。……呼吸も、できるだけ浅く」
低い声は命令の響き。なのに、指先はやけに丁寧だった。後ろの壁にアルノシトの頭が当たらないように掌が留まる。
押し付けられた胸元から、体温が伝わってくる。外の冷気と混ざって、妙に熱い。
それから。
黴と湿り気の匂いの中に、微かな残り香──冷たい空気の中で際立つ、柔らかで深みのある香り。場違いなくらい上品で、喉の奥がひゅ、と鳴りそうになる。
慌てて唇を噛むと、背中を、落ち着けと言うみたいに一度だけ撫でられた。
外。煉瓦の向こうで、誰かの足が泥を踏む音がした。
「……いない。こっちじゃないのか」
「音がしたんだ。確かに──」
声が遠ざかるまで、ルートヴィヒの腕は緩まない。
そのせいで、鼓動のうるささだけが自分の中で増幅していく。聞こえるはずがないのに、聞かれたら終わりだと思ってしまう。
暴れ出してしまいそうな手のやり場に困り、おずおずとルートヴィヒの背中の布を掴む。掴んだ布越しに、彼の呼吸が動く。震える指先がとめられない。
「……」
ルートヴィヒは何も言わない。ただ、もう一度静かに背中を撫でてくれた。
外の会話と足音が遠ざかって暫く。アルノシトの耳に自分の鼓動しかなくなってから、ルートヴィヒはようやく腕を緩めた。
「……は、……」
思わず深く息を吸った。新鮮とは言えない空気だが、今はそれが必要だった。
「……大丈夫か?」
ゆっくりと吐き出しながら頷く。緩んだのは呼吸か表情か。コートに覆われた中では確かめることは出来なかったが、なんとなく雰囲気が柔らくなったように思える。
深呼吸を繰り返すうち、気持ちも体も楽になってきた。
「少しだけ……指を離してもらえるとありがたいのだが」
アルノシトが一息ついたのを見計らってからかけられた言葉にようやく気付く。
自分の指はまだルートヴィヒの背中を掴んだままだった。
「あ……ご、ごめんなさい」
思わず頭を下げそうになって慌てて動きを止める。布を鳴らさないように指をほどくと、ルートヴィヒの身体が前から横へと移った。
狭いテントの中で、二人は肩を寄せ合って座った。
「……」
足音が、また近づいた。
アルノシトが反射で身を縮めるより早く、ルートヴィヒの手が肩を抱き寄せる。布越しに伝わる体温に指の震えが止まる。
遠くなって、また近くなる。
その繰り返しにルートヴィヒは小さく息を吐き出した。
「……少し待とう。今動くと音が出る」
「でも」
ここは完全に行き止まり。逃げ場がない。不安げに更に身を縮めたアルノシトを見て、ルートヴィヒは肩を抱く手に力を込める。
「目を閉じろ。今は休め」
予想もしない言葉に思わず声を出しそうになって両手で口を押える。
「……こんな状況で」
「こんな状況だからだ。極度の緊張は体力を奪う。いざ脱出という時に足が動かなければ意味がない」
正論だった。言われてみれば、どっと疲れが押し寄せているのを感じる。爆発、逃走、そして隠伏。普段の生活ではありえないことの連続で、神経は限界に近かった。
「私が起きている。……君は休め」
そう言って、コートの端がわずかに動く。灯りも匂いも外へ漏らさないように整えられ、アルノシトの頭が、胸元へ静かに収まる位置に導かれた。
温度が近い。香りが近い。近すぎて、息の仕方を忘れる。
それでも、追手の足音が遠ざかるにつれて、身体の硬さがほどけていく。
「……おやすみ」
耳元で、笑ったような息が落ちた。今の声、どこかで──
それを思い出す前に、意識が途切れた。
湿った匂いと黴臭さ。先の見えない暗闇。あふれ出す蒸気に押し出されるよう数歩進んだが、足が止まる。扉が閉まってもなお聞こえる外の音が反響して、自分がどこにいるのか分からなくなる。
「いないぞ?!」
「この蒸気の中、どこへいった?」
壁越しに聞こえる怒号はエトガルのものでも、作業員達のものでもない。古びた扉が発見される前に早く逃げなければ。
「……壁」
掠れた声が震える。アルノシトはルートヴィヒの手をしっかりと握り直すと自分の左手を壁に当てる。
「左に、壁があるから……手を当ててついてきてください」
話す声が反響する。足を踏み出せば靴音が響く。湿った地面は土と石が混ざっていて歩きにくい。
それでも、足を進めなければ。
言葉に出来ない怖さがアルノシトの足を止めさせない。早足のまま壁伝いに歩いていく。
「……待て」
どれくらい歩いたか。ルートヴィヒが不意に声を出した。びくりとアルノシトの身体が跳ねた。
「少しだけ手を離しても大丈夫か?」
握ったままの手を静かに離した。衣擦れの音に続いて、かちかちと何かを操作する音。先程の弁の暴走を思い出して息を止めてしまう。
「……」
ほわり。
暗闇の中に光が生まれる。まず見えたのは、ルートヴィヒの指とその手の中にある道具。繊細な装飾の施された銀色のそれから零れている光の色に見覚えがある。
「それ……」
「……エトガルが君たちに渡した鉱山灯の試作品だ」
ルートヴィヒの声が、光と共に少しだけ柔らかく響く。
「光量はあれよりも弱いが、暗闇を歩くよりはましだろう」
「……はい」
ほっと息を吐き出す。
その淡い光に照らされて、周囲の景色が浮かび上がった。
アーチ状に組まれた古い煉瓦の天井。ところどころ崩れ、湿り、黒い苔みたいなものが縁を舐めている。足元は石と土と、濡れた泥。踏むたび、ぬる、と嫌な抵抗が靴裏に絡む。
「旧水道か」
街の地下に張り巡らされた古い道。その広さと複雑さは庁舎の比ではない。淡い光が手元に戻って来る。
「口を覆った方がいい」
マークが教えてくれたこと。頷きハンカチを取り出して自分の口を覆う。ルートヴィヒが口元を覆う間だけ、アルノシトが灯りを受け取った。
互いに布を整え、すぐ返そうとした、その時――
「あの白髪か。めんどうだな」
「最悪、総帥だけでも確保しろ」
「音を追え!」
何重にも反響するその声は味方のものではないとしかわからない。肩を竦めたアルノシトを見て、今度はルートヴィヒが手を引いた。
「行くぞ。ここから離れなければ」
どう歩けば外につながるのか。追手と鉢合わせずに進めるのか。そんなことは分からない。でも──進むしかない。
「……俺が、先に行きます。道を……見つけますから」
声が震えてしまう。多分、手も震えている。それを押し殺すかのように一度、ルートヴィヒの手を強く握った。
すぐに、握り返される。しっかりと握り返してくれる手の確かさに、少しだけ気持ちが楽になった。
「総帥は灯りを」
「ルートヴィヒでいい」
アルノシトは目を瞬かせた後、笑おうとした。表情が作れたかは自分では確かめられないけれど。
「……それじゃ、ルートヴィヒ、さん。お願いします」
頷きが返って来る。左手を壁に当てて、一度目を閉じた。
曲がった数、自分の歩幅。先程入った扉から歩いた距離だけ、頭の中に地図が組みあがっていく。自分が知っている地上の地図と照らし合わせて、今いる場所を探し出す。
──ここはもう庁舎の『外』だ。ここから一番近い出口は……
踏み出した足先を淡い光が照らす。ところどころ崩れた煉瓦や水たまりを避けながら、歩いていくうちに、自分たちと違う足音や声が反響してくる。
近くにいるような、遠くにいるような。恐怖に足がすくむが、その度にルートヴィヒが手を握り直してくれる。
大丈夫。
言葉にはしないが、そう言ってくれているようで。アルノシトはゆっくり、確実に足を進めていく。
「……あ」
一番近い出口へと向かう途中。経年劣化で崩落した煉瓦が道をふさいでしまっていた。
上の方には隙間があるように見えるが、向こう側に降りる手段があるか分からないし、ここを登ってさらに崩れる可能性も高い。何より、大きな音を立てると、追手に気づかれる可能性も上がってしまう。
諦めて別の道を探そうとした時、不意に足音が近くで響いた気がした。
「~~~っ!」
どうしよう。頭が真っ白になる。
「こっちに」
ルートヴィヒが固まってしまったアルノシトの手を引く。一見通れないように見えたが、よく見ると僅かに隙間がある。その奥には、かつての水道の管理人が使っていたであろう、崩れた寝台。
崩れた煉瓦が部屋の壁を崩していたが、残り半分の壁は崩れずに残った。そのおかげで、部屋を覆い隠すような形になっていた。
身体を横にして押し込むように。アルノシトの後でルートヴィヒも潜り込んでくる。彼は着ていた重厚なロングコートを脱ぐと、二人ごと頭から覆った。
「……ルートヴィヒ、さん?」
「静かに」
灯りが消える。内側に押し込まれた。外にいるのは、ルートヴィヒ。抗う隙もない。視界が彼のベストの布地に埋まる。息を呑む音すら、ここでは目印になるから。
守られているだけだと分かっているのに、心臓が勝手に跳ねた。
重い布の内側は暗く、外の気配だけが薄く滲む。
耳のすぐ上で、ルートヴィヒの声。
「声を出すな。……呼吸も、できるだけ浅く」
低い声は命令の響き。なのに、指先はやけに丁寧だった。後ろの壁にアルノシトの頭が当たらないように掌が留まる。
押し付けられた胸元から、体温が伝わってくる。外の冷気と混ざって、妙に熱い。
それから。
黴と湿り気の匂いの中に、微かな残り香──冷たい空気の中で際立つ、柔らかで深みのある香り。場違いなくらい上品で、喉の奥がひゅ、と鳴りそうになる。
慌てて唇を噛むと、背中を、落ち着けと言うみたいに一度だけ撫でられた。
外。煉瓦の向こうで、誰かの足が泥を踏む音がした。
「……いない。こっちじゃないのか」
「音がしたんだ。確かに──」
声が遠ざかるまで、ルートヴィヒの腕は緩まない。
そのせいで、鼓動のうるささだけが自分の中で増幅していく。聞こえるはずがないのに、聞かれたら終わりだと思ってしまう。
暴れ出してしまいそうな手のやり場に困り、おずおずとルートヴィヒの背中の布を掴む。掴んだ布越しに、彼の呼吸が動く。震える指先がとめられない。
「……」
ルートヴィヒは何も言わない。ただ、もう一度静かに背中を撫でてくれた。
外の会話と足音が遠ざかって暫く。アルノシトの耳に自分の鼓動しかなくなってから、ルートヴィヒはようやく腕を緩めた。
「……は、……」
思わず深く息を吸った。新鮮とは言えない空気だが、今はそれが必要だった。
「……大丈夫か?」
ゆっくりと吐き出しながら頷く。緩んだのは呼吸か表情か。コートに覆われた中では確かめることは出来なかったが、なんとなく雰囲気が柔らくなったように思える。
深呼吸を繰り返すうち、気持ちも体も楽になってきた。
「少しだけ……指を離してもらえるとありがたいのだが」
アルノシトが一息ついたのを見計らってからかけられた言葉にようやく気付く。
自分の指はまだルートヴィヒの背中を掴んだままだった。
「あ……ご、ごめんなさい」
思わず頭を下げそうになって慌てて動きを止める。布を鳴らさないように指をほどくと、ルートヴィヒの身体が前から横へと移った。
狭いテントの中で、二人は肩を寄せ合って座った。
「……」
足音が、また近づいた。
アルノシトが反射で身を縮めるより早く、ルートヴィヒの手が肩を抱き寄せる。布越しに伝わる体温に指の震えが止まる。
遠くなって、また近くなる。
その繰り返しにルートヴィヒは小さく息を吐き出した。
「……少し待とう。今動くと音が出る」
「でも」
ここは完全に行き止まり。逃げ場がない。不安げに更に身を縮めたアルノシトを見て、ルートヴィヒは肩を抱く手に力を込める。
「目を閉じろ。今は休め」
予想もしない言葉に思わず声を出しそうになって両手で口を押える。
「……こんな状況で」
「こんな状況だからだ。極度の緊張は体力を奪う。いざ脱出という時に足が動かなければ意味がない」
正論だった。言われてみれば、どっと疲れが押し寄せているのを感じる。爆発、逃走、そして隠伏。普段の生活ではありえないことの連続で、神経は限界に近かった。
「私が起きている。……君は休め」
そう言って、コートの端がわずかに動く。灯りも匂いも外へ漏らさないように整えられ、アルノシトの頭が、胸元へ静かに収まる位置に導かれた。
温度が近い。香りが近い。近すぎて、息の仕方を忘れる。
それでも、追手の足音が遠ざかるにつれて、身体の硬さがほどけていく。
「……おやすみ」
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