18 / 21
過去話
再会-14-
しおりを挟む
日が落ちると、客間は静寂に包まれた。
夕食の後、祖父から「店の方も気になるし、今日は家で寝る」という伝言が届いたのだ。
広いベッドの上、アルノシトは枕元で丸くなったジークの背中を撫でながら、ぼんやりと豪奢なシャンデリアを見上げていた。
夢のような、けれど現実の光景。
控えめなノックの音に身体を起こす。
音もなく扉が開く。現れたのはエトガルだった。
「堪忍なぁ、見舞いおそなってもて」
相変わらずの軽い口調。ジークがベッドの上から飛び降りて、エトガルの足元へと。彼はその場でしゃがむと、尻尾を振っているジークの喉を静かに撫でる。
「まずは……無事でよかった。ほんまに」
ジークの背中をポンポン、と軽くたたいてから立ち上がる。祖父が座っていた椅子へと腰を下ろす。
「助けてくれて、ありがとうございます」
「ええて。それが俺の仕事やし……どっちかいうたら、俺の方が助けられとるからなぁ」
肩をすくめて困った顔。少しの沈黙。天井を見上げていたかと思うと不意に真顔でアルノシトを見た。
「今回、自分がおらんかったらどないなってたかわからん。ほんまおおきにな」
深々と頭を下げられてアルノシトは慌てた。
「頭あげてくださいって。そんな……」
大したことはしてない、とは言えなかった。生々しい記憶に言葉が途切れるのを見て、顔を上げたエトガルが小さく笑う。
「大したことしとるから、胸張ってええよ。でも──」
ジークがベッドの上に戻って来る。丸くなる背中を撫でながら、アルノシトは眉を下げた。
「今回の件は、他で言わんようにしときな。その方が絶対にええから」
低くなった声の響き。穏やかだが、有無を言わせない目の光。どういう意味かを問い返そうとしたところで、エトガルは腰を上げる。
「ほな、行くわ。身体戻るまでは、ここ好きにつこてくれてかまわんから。何かあったら、呼んだって──と」
歩きかけて動きを止めた。ポケットから取り出した懐中時計をベッドの上に置く。
「渡しといてって頼まれた」
シーツの上で光っているのは、あの時託された懐中時計だ。泥は綺麗に拭われて、ベーレンドルフの紋章が輝いている。
「あの、これ……ルートヴィヒさんの」
アルノシトの戸惑いにエトガルは笑みを浮かべる。
「本人が持っといて、って言うてから。今は預かっといてくれへんかな?」
それ以上言い返せず、アルノシトは口を閉じた。エトガルは軽く手を振った。
「おやすみ。ゆっくり寝ぇや」
扉が閉まる。
静けさの中で、懐中時計の重みだけが残った。
アルノシトは指先で蓋を撫でて、小さく息を吐く。蓋の裏に刻まれた文字を思い出すと、時計を握る指に力が入った。
「……なんで、俺に」
答えは出ないまま、一人、ベッドの上で時計を見つめていた。
◇◇◇◇◇◇◇
翌朝。祖父は戻って来なかった。
アルノシトの目が覚めたなら、店を開ける、と。祖父らしいと思うと同時、自分だけこんなところでのんびりしているのが申し訳なくなって、戻りたいと告げたのだが。
「医師が、まだ安静にしているようにと」
そう言われて、屋敷にとどまっていた。
暖かいベッドに食事。ジークを庭で自由にしていいとまで言ってくれている。おかげでジークは毎日楽しそうだし、自分も、身体だけは確かに楽になっている。
「どうかしたのか?」
庭で昼寝しているジークの腹を撫でていると、後ろから声がかかった。
「あ、ルートヴィヒさん」
忙しいはずなのに。エトガルもルートヴィヒも、こうして時々様子を見に来てくれている。腹を見せて寝ているジークは申し訳程度に尻尾を振って挨拶。
こら、と小声でしかるが、気にするな、とルートヴィヒは手で制してから、ジークとは反対側へ。アルノシトの隣へと腰を下ろす。
「身体の具合はどうだ?」
気遣う声と表情。ゆっくりと首を左右に振る。
「身体は大丈夫です。ただ、お店が心配で」
「……気持ちはわかる。だが、ここできちんと治しておいた方がいい」
遠慮がちに伸びた指先が、頬をなぞった。触れる理由を探すみたいに。
医師が触れるそれとも違う。けれど、意味を訊いていいのか分からなくて、アルノシトは首を傾げた。
ルートヴィヒは時折、こういう表情をする。何かを言いかけて、飲み込む。そういう間が増えた。理由が分からないのが、妙にもどかしい。
数秒の沈黙。
「……部屋が落ち着かない、ということはないか?何か足りていない、とか」
予想外の言葉に目を見開く。
「と、とんでもないです。シーツも服も食事も、十分すぎるくらいです。ジークにまで丁寧で……むしろ、俺よりジークが帰りたがらなくなりそうなくらいで」
あたふたと大袈裟に身振り手振りで伝えようとするアルノシトを見て、ルートヴィヒは笑みを浮かべた。
「なら良かった」
離れていく指を見送る。部屋に戻ろうと立ち上がったルートヴィヒが自分の着ていた上着を脱いで肩にかけてくれた。
「後でメイドに返してくれればいい」
歩き去っていく背中を見送りながら、襟を合わせる。暖かいそれは、あの時に着せてもらったコートを思い出した。ふわりと漂う残り香。
確かめるようにアルノシトは上着へと顔を埋めた。胸の奥で、何かが跳ねる。
昼寝から起きたジークが鼻を寄せてくる。ふす、と上着の匂いを確かめる愛犬。
「ルートヴィヒさんの匂い……ジークも好き?」
首を傾げる愛犬を見て、顔が熱くなる。慌てて立ち上がると、わざと寒そうに上着の前を手で合わせる。
「……冷えてきたし、部屋に戻ろ」
部屋に戻った後も、メイドが食事の時間を告げに来るまで、アルノシトはその上着を手放せずにいた。
◇◇◇◇◇◇◇
そうして三日が過ぎた頃。ようやく医師の許可が下りた。
この贅沢なベッドともお別れになると思うと、少し寂しい気もするが、それ以上に家に戻れることが嬉しい。
荷物をまとめていると、ルートヴィヒが訪れた。
「忘れ物はないか?」
「はい……あ」
思い出して、あの夜エトガルに渡された懐中時計を取り出し、ルートヴィヒへ差し出す。
「これ。エトガルさんに渡されたんですけど……俺、受け取れないです」
細やかな細工だけでも高級品だと分かるが、それ以上に蓋部分に輝くベーレンドルフの紋章。誰が見ても「財閥に縁のある者」しか持てない代物。
何より──蓋の裏に刻まれていた言葉。
自分が持っていていいものではない。
ルートヴィヒは眼を細め、両手をそっと重ねて、静かに時計を握らせる。
「……ただの、お守りだと思ってくれればいい」
柔らかく握られた手の温度に、言い返す言葉が溶けた。
そうしているうちに、時計を握らせた指が離れていく。
「……改めて、礼を言いに行きたい。店で、茶を出してもらってもいいだろうか」
「え?」
「あの時……きちんと飲めなかった」
初めて店に来た時のことだろう。あの時は命令だ何だと言っていたけれど──
「勿論です。今度はゆっくり飲んで下さいね」
アルノシトの返事を聞いてルートヴィヒは穏やかに眼を細めた。ジークも足元でワン、と一声。
馬車に乗り込み、遠ざかっていく屋敷を見上げながら、アルノシトは小さく手を振った。
夢のような時間は終わり、現実が戻ってくる。
けれど、胸に残る温かさは、消えることはなかった。
◇◇◇◇◇◇◇
数日後。
アルノシトは自分の店で、カウンターに頬杖をついていた。
自分が数日いなかった理由は──蒸気熱にあてられて体調を崩したから。
そう祖父が説明したと、あとで聞いた。
嘘をつくことに少しばかりのうしろめたさはあるが、旧水道で追い回された──なんて言うよりは、ずっといい。
足元にはジークが寝そべっている。ルートヴィヒが約束通りボイラーを新調してくれたおかげで、蒸気口から溢れる蒸気も機嫌がいい。床から伝わる温もりは柔らかく、いつもの耳障りな配管の唸り声も嘘のように消えていた。
店に戻ってから、アルノシトは祖父に訊いた。
「工事、いつから始まるの?」
「いつからも何も、もう終わっとる」
耳を疑った。
「ベーレンドルフの職人が来た。嵐みたいにな」
祖父はさらりと言う。
聞けば、自分が屋敷で世話になっている間に、財閥お抱えの職人たちが一斉に押し寄せ、ボイラーを据え替え、建物じゅうの配管を点検して──来た時と同じ勢いで引き上げていったらしい。
最新式のボイラーは、蒸気の立ち上がりも滑らかで、石炭の減りまで違うと家主が笑っていた。
屋敷にいる時に教えてくれても良かったのに。
──なんて思ったりもできる。
そんな平和な日常。
その静けさを破るように、ばたん! と勢いよく扉が開いた。
「おいアルノシト! 見たかよ、これ!」
「うわっ!? ……なんだ、マークか」
飛び込んできたのは作業着姿のマークだ。手には業界紙が握りしめられている。
「驚かさないでよ。また何かあったのかと……」
「あったも何も、載ってんだよ。俺らの仕事が! ほら、ここ!」
カウンターに広げられた紙面。指差された見出しに、アルノシトは目を丸くした。
『地下蒸気本管の弁破損 現場対応で二次災害を回避』
記事は「老朽化した弁破損」として淡々と書いていた。
それでも、現場の対応だけはやけに丁寧に称えられている。
封鎖。避難誘導。蒸気流路の切り替え。――「名もなき職人たちの連携」。
「すげぇだろ? ほら、“現場判断が迅速で、市民の混乱は最小”だってよ!」
マークは鼻高々だ。
「へへっ、現場の報告書をそのまま写したみてぇに正確でさ。俺らの苦労が分かってんだよ」
「……うん。すごいね、マーク」
アルノシトは微笑んで、紙面の隅々まで目を走らせた。
どこにもない。旧水道につながっていた廊下も、武装した連中の話も。
そしてもちろん、「アルノシト」の名も。
あの日の真実は、全部蒸気の彼方へ消え、綺麗な「美談」として処理されている。
──隠してくれた、のかもしれない。
アルノシトを日常へ戻すために。
そして、協力してくれたマークたちに、危険な真実ではなく「名誉」を与えるために。
「なんだよ、もっと喜べって! お前の店だって『被害を受けた近隣店舗』で補償が出るらしいぞ」
「え、そうなの?」
「おうよ! ベーレンドルフは太っ腹だなぁ!」
大きな声で笑うマークに、奥から出てきた祖父が言った。
「なら、その補償で珈琲でも奢ってやろうかね」
「よっしゃ! ご馳走になります!」
賑やかになる店内。
アルノシトは業界紙を丁寧に畳むと、ポケットの中の懐中時計にそっと触れた。
指先に伝わる、確かな重み。冷たいはずの金属が、なぜか少しだけ温い気がした。
「……ありがとう、ルートヴィヒさん」
誰にも聞こえない声で呟いて、エプロンの紐をきゅっと締め直す。
窓の外には、今日も変わらない蒸気の白煙と、人々の活気が満ちていた。
夕食の後、祖父から「店の方も気になるし、今日は家で寝る」という伝言が届いたのだ。
広いベッドの上、アルノシトは枕元で丸くなったジークの背中を撫でながら、ぼんやりと豪奢なシャンデリアを見上げていた。
夢のような、けれど現実の光景。
控えめなノックの音に身体を起こす。
音もなく扉が開く。現れたのはエトガルだった。
「堪忍なぁ、見舞いおそなってもて」
相変わらずの軽い口調。ジークがベッドの上から飛び降りて、エトガルの足元へと。彼はその場でしゃがむと、尻尾を振っているジークの喉を静かに撫でる。
「まずは……無事でよかった。ほんまに」
ジークの背中をポンポン、と軽くたたいてから立ち上がる。祖父が座っていた椅子へと腰を下ろす。
「助けてくれて、ありがとうございます」
「ええて。それが俺の仕事やし……どっちかいうたら、俺の方が助けられとるからなぁ」
肩をすくめて困った顔。少しの沈黙。天井を見上げていたかと思うと不意に真顔でアルノシトを見た。
「今回、自分がおらんかったらどないなってたかわからん。ほんまおおきにな」
深々と頭を下げられてアルノシトは慌てた。
「頭あげてくださいって。そんな……」
大したことはしてない、とは言えなかった。生々しい記憶に言葉が途切れるのを見て、顔を上げたエトガルが小さく笑う。
「大したことしとるから、胸張ってええよ。でも──」
ジークがベッドの上に戻って来る。丸くなる背中を撫でながら、アルノシトは眉を下げた。
「今回の件は、他で言わんようにしときな。その方が絶対にええから」
低くなった声の響き。穏やかだが、有無を言わせない目の光。どういう意味かを問い返そうとしたところで、エトガルは腰を上げる。
「ほな、行くわ。身体戻るまでは、ここ好きにつこてくれてかまわんから。何かあったら、呼んだって──と」
歩きかけて動きを止めた。ポケットから取り出した懐中時計をベッドの上に置く。
「渡しといてって頼まれた」
シーツの上で光っているのは、あの時託された懐中時計だ。泥は綺麗に拭われて、ベーレンドルフの紋章が輝いている。
「あの、これ……ルートヴィヒさんの」
アルノシトの戸惑いにエトガルは笑みを浮かべる。
「本人が持っといて、って言うてから。今は預かっといてくれへんかな?」
それ以上言い返せず、アルノシトは口を閉じた。エトガルは軽く手を振った。
「おやすみ。ゆっくり寝ぇや」
扉が閉まる。
静けさの中で、懐中時計の重みだけが残った。
アルノシトは指先で蓋を撫でて、小さく息を吐く。蓋の裏に刻まれた文字を思い出すと、時計を握る指に力が入った。
「……なんで、俺に」
答えは出ないまま、一人、ベッドの上で時計を見つめていた。
◇◇◇◇◇◇◇
翌朝。祖父は戻って来なかった。
アルノシトの目が覚めたなら、店を開ける、と。祖父らしいと思うと同時、自分だけこんなところでのんびりしているのが申し訳なくなって、戻りたいと告げたのだが。
「医師が、まだ安静にしているようにと」
そう言われて、屋敷にとどまっていた。
暖かいベッドに食事。ジークを庭で自由にしていいとまで言ってくれている。おかげでジークは毎日楽しそうだし、自分も、身体だけは確かに楽になっている。
「どうかしたのか?」
庭で昼寝しているジークの腹を撫でていると、後ろから声がかかった。
「あ、ルートヴィヒさん」
忙しいはずなのに。エトガルもルートヴィヒも、こうして時々様子を見に来てくれている。腹を見せて寝ているジークは申し訳程度に尻尾を振って挨拶。
こら、と小声でしかるが、気にするな、とルートヴィヒは手で制してから、ジークとは反対側へ。アルノシトの隣へと腰を下ろす。
「身体の具合はどうだ?」
気遣う声と表情。ゆっくりと首を左右に振る。
「身体は大丈夫です。ただ、お店が心配で」
「……気持ちはわかる。だが、ここできちんと治しておいた方がいい」
遠慮がちに伸びた指先が、頬をなぞった。触れる理由を探すみたいに。
医師が触れるそれとも違う。けれど、意味を訊いていいのか分からなくて、アルノシトは首を傾げた。
ルートヴィヒは時折、こういう表情をする。何かを言いかけて、飲み込む。そういう間が増えた。理由が分からないのが、妙にもどかしい。
数秒の沈黙。
「……部屋が落ち着かない、ということはないか?何か足りていない、とか」
予想外の言葉に目を見開く。
「と、とんでもないです。シーツも服も食事も、十分すぎるくらいです。ジークにまで丁寧で……むしろ、俺よりジークが帰りたがらなくなりそうなくらいで」
あたふたと大袈裟に身振り手振りで伝えようとするアルノシトを見て、ルートヴィヒは笑みを浮かべた。
「なら良かった」
離れていく指を見送る。部屋に戻ろうと立ち上がったルートヴィヒが自分の着ていた上着を脱いで肩にかけてくれた。
「後でメイドに返してくれればいい」
歩き去っていく背中を見送りながら、襟を合わせる。暖かいそれは、あの時に着せてもらったコートを思い出した。ふわりと漂う残り香。
確かめるようにアルノシトは上着へと顔を埋めた。胸の奥で、何かが跳ねる。
昼寝から起きたジークが鼻を寄せてくる。ふす、と上着の匂いを確かめる愛犬。
「ルートヴィヒさんの匂い……ジークも好き?」
首を傾げる愛犬を見て、顔が熱くなる。慌てて立ち上がると、わざと寒そうに上着の前を手で合わせる。
「……冷えてきたし、部屋に戻ろ」
部屋に戻った後も、メイドが食事の時間を告げに来るまで、アルノシトはその上着を手放せずにいた。
◇◇◇◇◇◇◇
そうして三日が過ぎた頃。ようやく医師の許可が下りた。
この贅沢なベッドともお別れになると思うと、少し寂しい気もするが、それ以上に家に戻れることが嬉しい。
荷物をまとめていると、ルートヴィヒが訪れた。
「忘れ物はないか?」
「はい……あ」
思い出して、あの夜エトガルに渡された懐中時計を取り出し、ルートヴィヒへ差し出す。
「これ。エトガルさんに渡されたんですけど……俺、受け取れないです」
細やかな細工だけでも高級品だと分かるが、それ以上に蓋部分に輝くベーレンドルフの紋章。誰が見ても「財閥に縁のある者」しか持てない代物。
何より──蓋の裏に刻まれていた言葉。
自分が持っていていいものではない。
ルートヴィヒは眼を細め、両手をそっと重ねて、静かに時計を握らせる。
「……ただの、お守りだと思ってくれればいい」
柔らかく握られた手の温度に、言い返す言葉が溶けた。
そうしているうちに、時計を握らせた指が離れていく。
「……改めて、礼を言いに行きたい。店で、茶を出してもらってもいいだろうか」
「え?」
「あの時……きちんと飲めなかった」
初めて店に来た時のことだろう。あの時は命令だ何だと言っていたけれど──
「勿論です。今度はゆっくり飲んで下さいね」
アルノシトの返事を聞いてルートヴィヒは穏やかに眼を細めた。ジークも足元でワン、と一声。
馬車に乗り込み、遠ざかっていく屋敷を見上げながら、アルノシトは小さく手を振った。
夢のような時間は終わり、現実が戻ってくる。
けれど、胸に残る温かさは、消えることはなかった。
◇◇◇◇◇◇◇
数日後。
アルノシトは自分の店で、カウンターに頬杖をついていた。
自分が数日いなかった理由は──蒸気熱にあてられて体調を崩したから。
そう祖父が説明したと、あとで聞いた。
嘘をつくことに少しばかりのうしろめたさはあるが、旧水道で追い回された──なんて言うよりは、ずっといい。
足元にはジークが寝そべっている。ルートヴィヒが約束通りボイラーを新調してくれたおかげで、蒸気口から溢れる蒸気も機嫌がいい。床から伝わる温もりは柔らかく、いつもの耳障りな配管の唸り声も嘘のように消えていた。
店に戻ってから、アルノシトは祖父に訊いた。
「工事、いつから始まるの?」
「いつからも何も、もう終わっとる」
耳を疑った。
「ベーレンドルフの職人が来た。嵐みたいにな」
祖父はさらりと言う。
聞けば、自分が屋敷で世話になっている間に、財閥お抱えの職人たちが一斉に押し寄せ、ボイラーを据え替え、建物じゅうの配管を点検して──来た時と同じ勢いで引き上げていったらしい。
最新式のボイラーは、蒸気の立ち上がりも滑らかで、石炭の減りまで違うと家主が笑っていた。
屋敷にいる時に教えてくれても良かったのに。
──なんて思ったりもできる。
そんな平和な日常。
その静けさを破るように、ばたん! と勢いよく扉が開いた。
「おいアルノシト! 見たかよ、これ!」
「うわっ!? ……なんだ、マークか」
飛び込んできたのは作業着姿のマークだ。手には業界紙が握りしめられている。
「驚かさないでよ。また何かあったのかと……」
「あったも何も、載ってんだよ。俺らの仕事が! ほら、ここ!」
カウンターに広げられた紙面。指差された見出しに、アルノシトは目を丸くした。
『地下蒸気本管の弁破損 現場対応で二次災害を回避』
記事は「老朽化した弁破損」として淡々と書いていた。
それでも、現場の対応だけはやけに丁寧に称えられている。
封鎖。避難誘導。蒸気流路の切り替え。――「名もなき職人たちの連携」。
「すげぇだろ? ほら、“現場判断が迅速で、市民の混乱は最小”だってよ!」
マークは鼻高々だ。
「へへっ、現場の報告書をそのまま写したみてぇに正確でさ。俺らの苦労が分かってんだよ」
「……うん。すごいね、マーク」
アルノシトは微笑んで、紙面の隅々まで目を走らせた。
どこにもない。旧水道につながっていた廊下も、武装した連中の話も。
そしてもちろん、「アルノシト」の名も。
あの日の真実は、全部蒸気の彼方へ消え、綺麗な「美談」として処理されている。
──隠してくれた、のかもしれない。
アルノシトを日常へ戻すために。
そして、協力してくれたマークたちに、危険な真実ではなく「名誉」を与えるために。
「なんだよ、もっと喜べって! お前の店だって『被害を受けた近隣店舗』で補償が出るらしいぞ」
「え、そうなの?」
「おうよ! ベーレンドルフは太っ腹だなぁ!」
大きな声で笑うマークに、奥から出てきた祖父が言った。
「なら、その補償で珈琲でも奢ってやろうかね」
「よっしゃ! ご馳走になります!」
賑やかになる店内。
アルノシトは業界紙を丁寧に畳むと、ポケットの中の懐中時計にそっと触れた。
指先に伝わる、確かな重み。冷たいはずの金属が、なぜか少しだけ温い気がした。
「……ありがとう、ルートヴィヒさん」
誰にも聞こえない声で呟いて、エプロンの紐をきゅっと締め直す。
窓の外には、今日も変わらない蒸気の白煙と、人々の活気が満ちていた。
0
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
BL 男達の性事情
蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。
漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。
漁師の仕事は多岐にわたる。
例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。
陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。
漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
タトゥーの甘い檻
マリ・シンジュ
BL
執着系わんこ攻(大学生)× 高潔な美形教授受(30代)
どのお話も単体でお楽しみいただけます。
「先生、ここ……僕の瞳を入れるから。ずっと、僕だけを見てて」
真面目な大学教授・新城が、大学生の・羽生にだけ許した、あまりにも淫らな「わがまま」。
それは、誰にも見えない内腿の奥深くに、消えないタトゥーを刻むこと。
「下書き」と称して肌を赤く染めるペン先の冷たさ。
アトリエの無機質なライトの下、四つん這いで晒される大人の矜持。
ずっと年下の青年の、必死で、残酷で、純粋な独占欲。
愚かだと知りながら、新城はその熱に絆され、ゆっくりと「聖域」を明け渡していく――。
「……お前のわがままには、最後まで付き合う」
針が通るその時、二人の関係は一生消えない「共犯」へと変わる。
執着攻め×年上受け、密やかに刻まれる秘め事のお話。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる