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過去話
『友達』
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今日の仕事が終わった後で、約束した時間は午後八時。
指定された場所は、噴水広場から一本入った裏路地だった。街灯も少なく、夜になれば人通りはほとんどない。
アルノシトが小走りで向かうと、闇に溶け込むような黒塗りの馬車が停まっていた。近づくと、すぐに客席の扉が開く。
「お疲れさん。ごめんなぁ、呼びだして」
中から顔を出したのはエトガルだった。
「こんばんは、エトガルさん。……こっちこそ、遅くなってしまって」
「いや、こっちが勝手に早く着いただけや。……入り」
促され、アルノシトは車内へと足を踏み入れた。
中は外の寒気が嘘のように暖かい。分厚いビロードのカーテンが閉め切られ、カンテラの淡い光が灯っている。
向かい合わせの座席。エトガルの隣に、ルートヴィヒが座っていた。膝の上で手を組み、どこか硬い表情をしている。
「……すまない。仕事で疲れているところに」
「いえ、大丈夫です。……ルートヴィヒさんこそ、こんな所まで」
アルノシトは二人の向かい側に腰を下ろした。ふかふかの座席。上等な香水の匂いがほのかに漂う。凭れて座ることがはばかられ、妙に背筋を伸ばしたままで腰を落ち着けた。
御者台の方からは物音ひとつしない。外の気配が布に吸われて、この空間だけが切り取られたようだった。
「……あの」
「なんだ」
「……昨日の記者のことは、気にしないでくださいね。普通に考えたら、そりゃそうだよなって」
言いながらアルノシトは大きく息を吐き出した。
「ただの雑貨店の店員が、大財閥のお屋敷に出入りしたら目立つし……出てくるときに毎回、色々持ってたら勘ぐられちゃうよなって」
車内に沈黙が落ちる。
「……だから──」
しばらくは行かない方が。
そう言おうとしたのに口が重くなる。言いかけては目を伏せる、それを繰り返したとき。
ふ、と空気が緩んだ気がした。
「──ちょっとええ?」
からりとした問いかけにアルノシトは顔を上げた。頷くと、エトガルは「おおきに」といつもの笑みで、くい、と親指でルートヴィヒを指し示す。
「あんな。こいつ、友達おらへんねん」
「……へ?」
思いがけず裏返った声に、エトガルは足を組み替えながら大袈裟にため息をついた。
「想像してみ? ベーレンドルフの、って肩書がついたら、気軽に『飯いこ』とか言えんやん?」
な? とルートヴィヒに同意を求めるように顔を向けるが、返事はない。
エトガルは気にする様子なく、遠くを見るように視線を外した。
「せやから、アルが来てくれて嬉しかったんよ。それでちょいはしゃぎすぎてもうて……」
肘で小突かれても、ルートヴィヒは何も言わない。
ただ、ほんの僅かに視線を外しただけだ。頬が少し赤いようにも見える。
「……そう、なんですか?」
アルノシトが恐る恐る尋ねると、ルートヴィヒは窓を向いたまま、小さく咳払いをした。
「……自分の知らない世界の話を聞くのは、有意義だ。……君との時間は、得難い」
それは遠回しな肯定だった。
あまりに不器用すぎる理由に、アルノシトはぽかんとして──次の瞬間、全身の力が抜けてシートに沈み込んだ。
「……なんだ、そうだったんですかぁ……」
心底安心したような脱力した声。
ルートヴィヒが怪訝そうに視線を戻す。
「……どういう意味だ?」
「いや、だって……あんなに高いパンとかお菓子とか持たされるし、わざわざ呼び出されるし……てっきり俺」
アルノシトは二人を交互に見てから、視線を逸らした。
「あの事件のこと、他に話していないか確かめるためと……『口止め料』だと思ってました」
「──は?」
ルートヴィヒの顔が凍り付いた。
「だって、どう考えても釣り合わないし……絶対、俺に聞く話じゃないよな?ってこともあったし。断ろうとしたら、悲しい顔で俺を見るから、断ったら何かひどいことされるのかなって」
「……ひどいこと?」
ルートヴィヒの声が堅くなる。
「ぶっ……!」
隣でエトガルが噴き出し、膝を叩いて爆笑し始めた。
「あかん、ごめん。腹痛い……無理」
完全に横を向いて座席に突っ伏すように、くっくっと肩を揺らす。
ルートヴィヒは咳払いをした。
「……すまない。エトガルが失礼をした」
言い直そうとして、言い直せない。視線が落ちる。
「……今の呼び方は……」
「え?」
収まりかけていたエトガルの笑いがまたぶり返す。肩を揺らしたまま、エトガルはルートヴィヒを見る。
「いや、ほんま……わかったやろ、アル? こんな顔してるけど、こんな中身なんよ」
堪え切れない笑いにまた突っ伏してしまう。そんな様子につられて、アルノシトも自然と笑ってしまった。
「笑い過ぎですよ、エトガルさん。ルートヴィヒさんだって一生懸命なんだし……あ、えっと。なんていうか──」
慌てて口を閉じるアルノシトを見て、ルートヴィヒは大きく息を吐き出した。
「……君たちは、ずいぶんと仲がいいな」
拗ねたように視線を逸らす。その横顔は、雲の上の総帥などではなく、ただの不器用な青年そのものだった。
そのことが、アルノシトには何よりも嬉しい。
「……ふふ。すみません」
アルノシトは居住まいを正すと、まっすぐにルートヴィヒを見た。
「でも、『口止め料』じゃなくて良かったです。……友達なんて恐れ多いですけど」
そう言って、アルノシトは右手を差し出した。仕事終わりの、少し荒れた手。
「改めてよろしくお願いします。……『友達』として」
ルートヴィヒはその手をじっと見つめ──やがて、しっかりと握り返した。
「……ああ。よろしく頼む」
触れた手の温かさに、アルノシトは嬉しそうに目を細める。
一方で、ルートヴィヒの胸の内は嵐のように乱れていた。
──口止め料。断ったらひどいことをされる。
精一杯の好意が、相手に別の形で伝わっていたという事実。
握った手の感触を確かめながら、総帥は密かに、しかし固く決意する。
──挽回しなければ。
馬車がかすかに揺れる。
アルノシトの安堵の息と、エトガルの忍び笑いが、狭い車内に満ちていた。
──そして、その夜。
店の電話が、いつもより少しだけ長く鳴った。
指定された場所は、噴水広場から一本入った裏路地だった。街灯も少なく、夜になれば人通りはほとんどない。
アルノシトが小走りで向かうと、闇に溶け込むような黒塗りの馬車が停まっていた。近づくと、すぐに客席の扉が開く。
「お疲れさん。ごめんなぁ、呼びだして」
中から顔を出したのはエトガルだった。
「こんばんは、エトガルさん。……こっちこそ、遅くなってしまって」
「いや、こっちが勝手に早く着いただけや。……入り」
促され、アルノシトは車内へと足を踏み入れた。
中は外の寒気が嘘のように暖かい。分厚いビロードのカーテンが閉め切られ、カンテラの淡い光が灯っている。
向かい合わせの座席。エトガルの隣に、ルートヴィヒが座っていた。膝の上で手を組み、どこか硬い表情をしている。
「……すまない。仕事で疲れているところに」
「いえ、大丈夫です。……ルートヴィヒさんこそ、こんな所まで」
アルノシトは二人の向かい側に腰を下ろした。ふかふかの座席。上等な香水の匂いがほのかに漂う。凭れて座ることがはばかられ、妙に背筋を伸ばしたままで腰を落ち着けた。
御者台の方からは物音ひとつしない。外の気配が布に吸われて、この空間だけが切り取られたようだった。
「……あの」
「なんだ」
「……昨日の記者のことは、気にしないでくださいね。普通に考えたら、そりゃそうだよなって」
言いながらアルノシトは大きく息を吐き出した。
「ただの雑貨店の店員が、大財閥のお屋敷に出入りしたら目立つし……出てくるときに毎回、色々持ってたら勘ぐられちゃうよなって」
車内に沈黙が落ちる。
「……だから──」
しばらくは行かない方が。
そう言おうとしたのに口が重くなる。言いかけては目を伏せる、それを繰り返したとき。
ふ、と空気が緩んだ気がした。
「──ちょっとええ?」
からりとした問いかけにアルノシトは顔を上げた。頷くと、エトガルは「おおきに」といつもの笑みで、くい、と親指でルートヴィヒを指し示す。
「あんな。こいつ、友達おらへんねん」
「……へ?」
思いがけず裏返った声に、エトガルは足を組み替えながら大袈裟にため息をついた。
「想像してみ? ベーレンドルフの、って肩書がついたら、気軽に『飯いこ』とか言えんやん?」
な? とルートヴィヒに同意を求めるように顔を向けるが、返事はない。
エトガルは気にする様子なく、遠くを見るように視線を外した。
「せやから、アルが来てくれて嬉しかったんよ。それでちょいはしゃぎすぎてもうて……」
肘で小突かれても、ルートヴィヒは何も言わない。
ただ、ほんの僅かに視線を外しただけだ。頬が少し赤いようにも見える。
「……そう、なんですか?」
アルノシトが恐る恐る尋ねると、ルートヴィヒは窓を向いたまま、小さく咳払いをした。
「……自分の知らない世界の話を聞くのは、有意義だ。……君との時間は、得難い」
それは遠回しな肯定だった。
あまりに不器用すぎる理由に、アルノシトはぽかんとして──次の瞬間、全身の力が抜けてシートに沈み込んだ。
「……なんだ、そうだったんですかぁ……」
心底安心したような脱力した声。
ルートヴィヒが怪訝そうに視線を戻す。
「……どういう意味だ?」
「いや、だって……あんなに高いパンとかお菓子とか持たされるし、わざわざ呼び出されるし……てっきり俺」
アルノシトは二人を交互に見てから、視線を逸らした。
「あの事件のこと、他に話していないか確かめるためと……『口止め料』だと思ってました」
「──は?」
ルートヴィヒの顔が凍り付いた。
「だって、どう考えても釣り合わないし……絶対、俺に聞く話じゃないよな?ってこともあったし。断ろうとしたら、悲しい顔で俺を見るから、断ったら何かひどいことされるのかなって」
「……ひどいこと?」
ルートヴィヒの声が堅くなる。
「ぶっ……!」
隣でエトガルが噴き出し、膝を叩いて爆笑し始めた。
「あかん、ごめん。腹痛い……無理」
完全に横を向いて座席に突っ伏すように、くっくっと肩を揺らす。
ルートヴィヒは咳払いをした。
「……すまない。エトガルが失礼をした」
言い直そうとして、言い直せない。視線が落ちる。
「……今の呼び方は……」
「え?」
収まりかけていたエトガルの笑いがまたぶり返す。肩を揺らしたまま、エトガルはルートヴィヒを見る。
「いや、ほんま……わかったやろ、アル? こんな顔してるけど、こんな中身なんよ」
堪え切れない笑いにまた突っ伏してしまう。そんな様子につられて、アルノシトも自然と笑ってしまった。
「笑い過ぎですよ、エトガルさん。ルートヴィヒさんだって一生懸命なんだし……あ、えっと。なんていうか──」
慌てて口を閉じるアルノシトを見て、ルートヴィヒは大きく息を吐き出した。
「……君たちは、ずいぶんと仲がいいな」
拗ねたように視線を逸らす。その横顔は、雲の上の総帥などではなく、ただの不器用な青年そのものだった。
そのことが、アルノシトには何よりも嬉しい。
「……ふふ。すみません」
アルノシトは居住まいを正すと、まっすぐにルートヴィヒを見た。
「でも、『口止め料』じゃなくて良かったです。……友達なんて恐れ多いですけど」
そう言って、アルノシトは右手を差し出した。仕事終わりの、少し荒れた手。
「改めてよろしくお願いします。……『友達』として」
ルートヴィヒはその手をじっと見つめ──やがて、しっかりと握り返した。
「……ああ。よろしく頼む」
触れた手の温かさに、アルノシトは嬉しそうに目を細める。
一方で、ルートヴィヒの胸の内は嵐のように乱れていた。
──口止め料。断ったらひどいことをされる。
精一杯の好意が、相手に別の形で伝わっていたという事実。
握った手の感触を確かめながら、総帥は密かに、しかし固く決意する。
──挽回しなければ。
馬車がかすかに揺れる。
アルノシトの安堵の息と、エトガルの忍び笑いが、狭い車内に満ちていた。
──そして、その夜。
店の電話が、いつもより少しだけ長く鳴った。
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