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第四章
残るもの
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届いた絵葉書を枕元に置いて眠った翌朝。
いつもよりも早い時間に目覚めたが、不思議と眠気はない。大きく伸びをしてからベッドを降りて窓を開ける。空が明るくなるのをぼんやりと眺めていれば、かたん、と小さな音が玄関の方から聞こえた。
「……?」
無意識に首から下げている輝石を握る。おそるおそる玄関へと向かうが、そこには一枚の絵葉書が落ちているだけだった。
飛びつくように拾い上げる。
『明日、帰る』
書き出しのその言葉が目に飛び込むと同時、ドアの向こうに気配を感じる。ゆっくりと扉を開くと、そこには翠が立っていた。
淡い光を背に、白い髪がかすかに風に揺れている。いつもと変わらない穏やかな目の色。
飛び出しかけて、早朝だという事を思い出す。そろりと周囲を見回した後、静かに声をかけた。
「おかえりなさい」
遠夜の声に翠は眼を瞬かせた。
「……ただいま」
その声が、遠夜の中の静けさを一気に塗り替えた。
ああ、本当に帰ってきたんだ――そう思った途端、胸の奥が熱くなる。
「中、入って。朝ごはん用意するから……」
大きく扉を開くが、翠は動かない。
「翠さん?」
僅かに目を伏せた後、大きく息を吐き出す。
「……遠夜。話がある」
低く、慎重に選ばれた声音だった。
再会を喜ぶ声ではない。熱くなった胸が静かに冷えていく。どく、と大きくなる心臓の音。
「俺は──これ以上、君の傍にはいられない」
言葉の意味は分かるのに、脳がそれを事実として受け入れることを拒絶する。視界の端で、自分の指が小刻みに震え、大切に握りしめていた葉書の角をくしゃりと歪ませた。
「……」
なんで。どうして。
頭の中でぐるぐると回る言葉を押し込める。深呼吸した後、努めて穏やかに話しかけた。
「理由、聞きたい、から。入って。ここで話してたら、近所迷惑になっちゃう」
表情だけは笑顔を作るが、どうしても声が震えてしまう。頷いた翠が部屋の中に入るのを待って、扉を閉めた。部屋へ上がることを促しても、翠は玄関から奥へ行こうとはしない。
僅かに差し込む朝日が明るくなっていくのに、二人の間にはひんやりとした空気が漂い、重苦しい沈黙だけが満ちていた。先に口を開いたのは、翠だった。
「君の中にある残滓は。本来なら、もう消えているはずだった」
翠は一度言葉を切り、まるで己に言い聞かせるように唇を噛んだ。その目の色が、今まで見たことのないほど暗く濁っていくのを、遠夜は息を詰めて見つめた。
「だが……俺が傍にいたせいで、変化が起きている。消えるどころか、君の中で根を張り始めた」
絞り出すような声だった。
「根……?」
声が掠れる。どういうことだろう。震える指で輝石を握る。
「残滓ではなく。俺と主様を繋ぐものとして、別のかたちを持ちつつある」
理解が追い付かない。
あの『黒い影』に支配されて、自分でなくなることは嫌だ。でも──それは、主様が相手でも同じ事。
自分は自分でいたい。
輝石を握る指に力が籠る。
「今ならまだ間に合う。俺の影響がなくなれば……残滓に戻り、消えていくものに戻るはずだ。だから──」
翠の目の色も声音も重い。
「……すまない。俺が未熟だったせいで。もっと早くに気づいていれば」
深々と頭を下げられて遠夜の理解が追い付かない。
なんで、どうして。
その言葉だけが浮かんでは消えていく。
「そんなこと、いわないで」
思わず翠の方へ足を踏み出した。詰められた分、下がろうとして翠は扉に背を付ける。そうやって距離を取られてしまうことに視界が薄くにじむ。
「翠さんは……俺の……ううん、主様のために。こんな遠くまできて、一生懸命頑張ってたのに」
植物園の出来事が胸をよぎる。あの時も。彼の誠意は理解されることがなかった。
今も。
頑張ったことすべてが良い結果になるとは限らない。だが、それでも。一つくらい、良い事であってほしいと願うのは、おこがましいことなのだろうか。
「結果として。君を危険にさらすことになってしまった。それは事実だ」
淡々と、事実をそれとだけ伝える言葉で思考が途切れた。
「でも、翠さんがいなかったら、あの『黒い影』は……?」
「君を守ると約束した……それに変わりはない。君の中の残滓が消えるまでは」
傍にはいなくても。守り抜くと。
本当に。愚直な程に真っ直ぐな彼のありように遠夜は言葉を失った。
守らなくてもいい──とは言えない弱さに顔が歪む。怖いものは怖い。主様のものにも、黒い影のものにもなりたくはない。
「泣くな。君が安心して眠れるように務めるから」
涙を拭おうとした指が動きを止める。触れることをためらったそれは、少しの逡巡の後、そっと頬へと。ひやりとした指が肌を撫でる感触。
静かに離れていくのを見送って、一度目を瞬かせた。
「……残滓が消えたら。今度は動物園にいこうよ」
部屋を出ようとした背中に声を絞り出した。
「動物もね、色々あるんだよ。面白いと、思うから」
最後の方は言葉にならなかった。嗚咽で聞き取りづらいだろうが、それでも、翠は静かに頷き返す。
「楽しみにしておく」
ばたん。扉が閉まる音を聞きながら、遠夜はその場に座り込んでしまう。持ったままの絵葉書。強く握り過ぎて少し折れてしまったことに気づいて、袖で涙を拭った後、改めて書かれた文字を追った。
『明日、帰る』の続き。
他愛のない日常を書き連ねた後。迷ったようなボールペンの掠れの後に、
『これからも手紙を書こうと思う──』
その一文にまた涙が溢れた。
いつもよりも早い時間に目覚めたが、不思議と眠気はない。大きく伸びをしてからベッドを降りて窓を開ける。空が明るくなるのをぼんやりと眺めていれば、かたん、と小さな音が玄関の方から聞こえた。
「……?」
無意識に首から下げている輝石を握る。おそるおそる玄関へと向かうが、そこには一枚の絵葉書が落ちているだけだった。
飛びつくように拾い上げる。
『明日、帰る』
書き出しのその言葉が目に飛び込むと同時、ドアの向こうに気配を感じる。ゆっくりと扉を開くと、そこには翠が立っていた。
淡い光を背に、白い髪がかすかに風に揺れている。いつもと変わらない穏やかな目の色。
飛び出しかけて、早朝だという事を思い出す。そろりと周囲を見回した後、静かに声をかけた。
「おかえりなさい」
遠夜の声に翠は眼を瞬かせた。
「……ただいま」
その声が、遠夜の中の静けさを一気に塗り替えた。
ああ、本当に帰ってきたんだ――そう思った途端、胸の奥が熱くなる。
「中、入って。朝ごはん用意するから……」
大きく扉を開くが、翠は動かない。
「翠さん?」
僅かに目を伏せた後、大きく息を吐き出す。
「……遠夜。話がある」
低く、慎重に選ばれた声音だった。
再会を喜ぶ声ではない。熱くなった胸が静かに冷えていく。どく、と大きくなる心臓の音。
「俺は──これ以上、君の傍にはいられない」
言葉の意味は分かるのに、脳がそれを事実として受け入れることを拒絶する。視界の端で、自分の指が小刻みに震え、大切に握りしめていた葉書の角をくしゃりと歪ませた。
「……」
なんで。どうして。
頭の中でぐるぐると回る言葉を押し込める。深呼吸した後、努めて穏やかに話しかけた。
「理由、聞きたい、から。入って。ここで話してたら、近所迷惑になっちゃう」
表情だけは笑顔を作るが、どうしても声が震えてしまう。頷いた翠が部屋の中に入るのを待って、扉を閉めた。部屋へ上がることを促しても、翠は玄関から奥へ行こうとはしない。
僅かに差し込む朝日が明るくなっていくのに、二人の間にはひんやりとした空気が漂い、重苦しい沈黙だけが満ちていた。先に口を開いたのは、翠だった。
「君の中にある残滓は。本来なら、もう消えているはずだった」
翠は一度言葉を切り、まるで己に言い聞かせるように唇を噛んだ。その目の色が、今まで見たことのないほど暗く濁っていくのを、遠夜は息を詰めて見つめた。
「だが……俺が傍にいたせいで、変化が起きている。消えるどころか、君の中で根を張り始めた」
絞り出すような声だった。
「根……?」
声が掠れる。どういうことだろう。震える指で輝石を握る。
「残滓ではなく。俺と主様を繋ぐものとして、別のかたちを持ちつつある」
理解が追い付かない。
あの『黒い影』に支配されて、自分でなくなることは嫌だ。でも──それは、主様が相手でも同じ事。
自分は自分でいたい。
輝石を握る指に力が籠る。
「今ならまだ間に合う。俺の影響がなくなれば……残滓に戻り、消えていくものに戻るはずだ。だから──」
翠の目の色も声音も重い。
「……すまない。俺が未熟だったせいで。もっと早くに気づいていれば」
深々と頭を下げられて遠夜の理解が追い付かない。
なんで、どうして。
その言葉だけが浮かんでは消えていく。
「そんなこと、いわないで」
思わず翠の方へ足を踏み出した。詰められた分、下がろうとして翠は扉に背を付ける。そうやって距離を取られてしまうことに視界が薄くにじむ。
「翠さんは……俺の……ううん、主様のために。こんな遠くまできて、一生懸命頑張ってたのに」
植物園の出来事が胸をよぎる。あの時も。彼の誠意は理解されることがなかった。
今も。
頑張ったことすべてが良い結果になるとは限らない。だが、それでも。一つくらい、良い事であってほしいと願うのは、おこがましいことなのだろうか。
「結果として。君を危険にさらすことになってしまった。それは事実だ」
淡々と、事実をそれとだけ伝える言葉で思考が途切れた。
「でも、翠さんがいなかったら、あの『黒い影』は……?」
「君を守ると約束した……それに変わりはない。君の中の残滓が消えるまでは」
傍にはいなくても。守り抜くと。
本当に。愚直な程に真っ直ぐな彼のありように遠夜は言葉を失った。
守らなくてもいい──とは言えない弱さに顔が歪む。怖いものは怖い。主様のものにも、黒い影のものにもなりたくはない。
「泣くな。君が安心して眠れるように務めるから」
涙を拭おうとした指が動きを止める。触れることをためらったそれは、少しの逡巡の後、そっと頬へと。ひやりとした指が肌を撫でる感触。
静かに離れていくのを見送って、一度目を瞬かせた。
「……残滓が消えたら。今度は動物園にいこうよ」
部屋を出ようとした背中に声を絞り出した。
「動物もね、色々あるんだよ。面白いと、思うから」
最後の方は言葉にならなかった。嗚咽で聞き取りづらいだろうが、それでも、翠は静かに頷き返す。
「楽しみにしておく」
ばたん。扉が閉まる音を聞きながら、遠夜はその場に座り込んでしまう。持ったままの絵葉書。強く握り過ぎて少し折れてしまったことに気づいて、袖で涙を拭った後、改めて書かれた文字を追った。
『明日、帰る』の続き。
他愛のない日常を書き連ねた後。迷ったようなボールペンの掠れの後に、
『これからも手紙を書こうと思う──』
その一文にまた涙が溢れた。
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