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第四章
滲み
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翠がいなくなって数日。
確かに傍にいる気配はあるのに、姿は見えない。学食でも見かけることはなくなった。
三春には「急に実家に戻らなければならなくなった」とだけ伝えておいた。残念がってはいたが、それだけのこと。
大学の講義も。アルバイト先も。何一つ変わらない。いつも通りの日常。
そのはずなのに、世界から自分だけが切り離されてしまったようで。喧騒も雑踏も、すりガラスの向こう側のように遠い。
翠がいないだけで、これほどまでに日常が色褪せて見えるとは思いもしなかった。
人込みを流れる黒い頭部の中に、ふと混じる白髪に心臓が跳ねる。自宅のマンションを見上げたとき、そこに長身の影がないことに、何度がっかりすれば慣れるのだろう。
和服の男性とすれ違うたび、知らず追ってしまう視線がもどかしかった。
今の遠夜と翠をつなぐものは、残された輝石と──毎日届く葉書。
宛名の下には、翠の目がとらえた世界だけが淡々と記されている。少しずつボールペンで書くことに慣れてきたのか、綺麗になっていく文字を眺めることが、遠夜の日課になっていた。
もし、葉書がなかったら──いや、届いているはずだ。
そんな不安と期待がないまぜになった気持ちで、今日も郵便受けをのぞく。チラシやダイレクトメールの中にある一枚の絵葉書を見つけると、緊張で強張っていた手から力が抜けた。
丁寧に葉書を取り出し、部屋に戻る。電気ケトルを仕掛けてから文字を追った。
“少し雨が降った”“猫が子供を産んでいた”“花が咲いた”――
『黒い影』や『主様』のことには触れない、本当に、ただ、その日あったことを書き連ねただけのもの。時折入る、翠の感想や思いなどにほんの少し表情が緩む。
ぱちん、と軽やかな音がして、思考がふっとほどける。いつのまにかケトルの湯は沸き、夕陽が部屋を赤く染め上げていた。
植物園の帰り道。電車の中から見た夕焼けを思い出して、じわりと滲むものに目を閉じて息を吐き出す。
「……声が聴きたいよ。文字じゃなくて……翠さんの声で聴きたい」
呟く声は小さく、誰に届くこともない。
一度、返事を書いてみたものの、届け方が分からず。試しに封筒に「翠さんへ」とだけ書いてみたが、『あて先不明』で送り返されてきてしまった。
それでも。未練がましいと思いながらも、返事を書くことはやめられずにいる。
葉書をそっとテーブルに置き、キッチンへ向かう。豆を挽く香ばしい匂いが、少しだけささくれた心を慰めてくれる。湯が落ちる音に耳を澄ませながら、窓の外が藍色に沈んでいくのを眺めた。
淹れたての珈琲のマグカップを運び、部屋の明かりをつける。柔らかな光の中に、テーブルに用意した便箋とガラスペンが浮かび上がった。
翠に返事を書こうと思った時に買ったもの。
彼の目を思い出すような鮮やかな青から白へとグラデーションのかかった軸。
一緒に買った、翡翠《かわせみ》色と名のついたインク。
押し花の絵柄の封筒と便せん。
全部、翠と彼の思い出に絡んだ品。
買った直後は、自分でも「重すぎるだろうか」と顔が熱くなった。けれど今は『一方的にいなくなった翠が悪い』と心の中で呟きながら使い続けている。
──翠さんへ。
静かに文字を書き始める。大学でのこと、アルバイト先のこと。今日の天気のこと。
自分も、『黒い影』への不安や、翠がいないことの泣き言などは書かないように努める。何を書こうかと迷ううちに、便箋一枚分の文字が埋まっていた。
最初はとりとめもなく、何枚も書いてしまっていたが、いまは一枚だけと決めている。
そして最後に必ず入れること。
──また、珈琲を飲みに行こうね。
クリームソーダだったり、ハンバーグだったり。新しく出来た店の名前や、博物館の展示のこともある。
とにかく、またどこかにいこう、と。
その言葉で毎回しめくくるようにしていた。
書き終えるころには、珈琲も冷めて、すっかり暗くなってしまっていた。
冷えた珈琲を飲みながら、ゆっくりと目を伏せる。
翠の言葉通り。あれから『黒い影』の気配はどこにもない。アルバイトの帰り道、暗がりにはまだ足がすくんでしまうけれど。
以前のように視界の端に訪れることもなく、部屋が不穏な気配に包まれることもなかった。
――傍にいなくても、君を守る。
あの日の声が蘇る。彼は今も、この街のどこかで自分を守ってくれている。疑いようのない事実として、その温もりだけが胸に満ちた。
食事や睡眠は必要ないとは言っていたけれど。人間でいうところの、休息はとっているんだろうか。
ネガティブな方向へ思考が引っ張られてしまうのを振り払おうと頭を振った。飲み終えたカップを手に立ち上がると、さっと洗ってから、わざとらしく気合を入れなおした。
「明日のお昼は、ちょっと贅沢しよう」
夜に出歩くことはまだ怖い。それに、夜道は『黒い影』に関わらず事件が起きる可能性も高いだろう。
先日の酔っ払いに絡まれた事件を思い出して肩を落とした。もし、またあんな風に誰かに絡まれたら――翠は、来てくれるだろうか。その仄暗い期待を、吐き出す息と共に追い払おうとする。
駄目だ。そんなことを考えては。
もう一度深呼吸。窓の外で、何かが揺れた気がした。
風にしては静かすぎる。
カーテンの隙間からそっと覗くと、街灯の光に照らされた路面は濡れてもいないのに、ほんの一瞬、そこだけ黒く波打ったように見えた。
見間違いだ。そうに決まっている。
言い聞かせるように瞼を伏せ、ゆっくりと部屋の中へ視線を戻した。
机の上、インクが乾くのを待っていた便箋の文字。
確かに乾かしておいたはずのインクが、光を受けてわずかに滲んでいる。
翡翠色だったはずの文字が、まるで墨を一滴落としたかのように、黒く深く滲んでいた。
──息が、止まった。
それは、まるで誰かの指先が、遠夜の書いた想いをなぞった跡のようで。
無意識のうちに首から下げた輝石を握り締める。
静かな部屋の中、心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
確かに傍にいる気配はあるのに、姿は見えない。学食でも見かけることはなくなった。
三春には「急に実家に戻らなければならなくなった」とだけ伝えておいた。残念がってはいたが、それだけのこと。
大学の講義も。アルバイト先も。何一つ変わらない。いつも通りの日常。
そのはずなのに、世界から自分だけが切り離されてしまったようで。喧騒も雑踏も、すりガラスの向こう側のように遠い。
翠がいないだけで、これほどまでに日常が色褪せて見えるとは思いもしなかった。
人込みを流れる黒い頭部の中に、ふと混じる白髪に心臓が跳ねる。自宅のマンションを見上げたとき、そこに長身の影がないことに、何度がっかりすれば慣れるのだろう。
和服の男性とすれ違うたび、知らず追ってしまう視線がもどかしかった。
今の遠夜と翠をつなぐものは、残された輝石と──毎日届く葉書。
宛名の下には、翠の目がとらえた世界だけが淡々と記されている。少しずつボールペンで書くことに慣れてきたのか、綺麗になっていく文字を眺めることが、遠夜の日課になっていた。
もし、葉書がなかったら──いや、届いているはずだ。
そんな不安と期待がないまぜになった気持ちで、今日も郵便受けをのぞく。チラシやダイレクトメールの中にある一枚の絵葉書を見つけると、緊張で強張っていた手から力が抜けた。
丁寧に葉書を取り出し、部屋に戻る。電気ケトルを仕掛けてから文字を追った。
“少し雨が降った”“猫が子供を産んでいた”“花が咲いた”――
『黒い影』や『主様』のことには触れない、本当に、ただ、その日あったことを書き連ねただけのもの。時折入る、翠の感想や思いなどにほんの少し表情が緩む。
ぱちん、と軽やかな音がして、思考がふっとほどける。いつのまにかケトルの湯は沸き、夕陽が部屋を赤く染め上げていた。
植物園の帰り道。電車の中から見た夕焼けを思い出して、じわりと滲むものに目を閉じて息を吐き出す。
「……声が聴きたいよ。文字じゃなくて……翠さんの声で聴きたい」
呟く声は小さく、誰に届くこともない。
一度、返事を書いてみたものの、届け方が分からず。試しに封筒に「翠さんへ」とだけ書いてみたが、『あて先不明』で送り返されてきてしまった。
それでも。未練がましいと思いながらも、返事を書くことはやめられずにいる。
葉書をそっとテーブルに置き、キッチンへ向かう。豆を挽く香ばしい匂いが、少しだけささくれた心を慰めてくれる。湯が落ちる音に耳を澄ませながら、窓の外が藍色に沈んでいくのを眺めた。
淹れたての珈琲のマグカップを運び、部屋の明かりをつける。柔らかな光の中に、テーブルに用意した便箋とガラスペンが浮かび上がった。
翠に返事を書こうと思った時に買ったもの。
彼の目を思い出すような鮮やかな青から白へとグラデーションのかかった軸。
一緒に買った、翡翠《かわせみ》色と名のついたインク。
押し花の絵柄の封筒と便せん。
全部、翠と彼の思い出に絡んだ品。
買った直後は、自分でも「重すぎるだろうか」と顔が熱くなった。けれど今は『一方的にいなくなった翠が悪い』と心の中で呟きながら使い続けている。
──翠さんへ。
静かに文字を書き始める。大学でのこと、アルバイト先のこと。今日の天気のこと。
自分も、『黒い影』への不安や、翠がいないことの泣き言などは書かないように努める。何を書こうかと迷ううちに、便箋一枚分の文字が埋まっていた。
最初はとりとめもなく、何枚も書いてしまっていたが、いまは一枚だけと決めている。
そして最後に必ず入れること。
──また、珈琲を飲みに行こうね。
クリームソーダだったり、ハンバーグだったり。新しく出来た店の名前や、博物館の展示のこともある。
とにかく、またどこかにいこう、と。
その言葉で毎回しめくくるようにしていた。
書き終えるころには、珈琲も冷めて、すっかり暗くなってしまっていた。
冷えた珈琲を飲みながら、ゆっくりと目を伏せる。
翠の言葉通り。あれから『黒い影』の気配はどこにもない。アルバイトの帰り道、暗がりにはまだ足がすくんでしまうけれど。
以前のように視界の端に訪れることもなく、部屋が不穏な気配に包まれることもなかった。
――傍にいなくても、君を守る。
あの日の声が蘇る。彼は今も、この街のどこかで自分を守ってくれている。疑いようのない事実として、その温もりだけが胸に満ちた。
食事や睡眠は必要ないとは言っていたけれど。人間でいうところの、休息はとっているんだろうか。
ネガティブな方向へ思考が引っ張られてしまうのを振り払おうと頭を振った。飲み終えたカップを手に立ち上がると、さっと洗ってから、わざとらしく気合を入れなおした。
「明日のお昼は、ちょっと贅沢しよう」
夜に出歩くことはまだ怖い。それに、夜道は『黒い影』に関わらず事件が起きる可能性も高いだろう。
先日の酔っ払いに絡まれた事件を思い出して肩を落とした。もし、またあんな風に誰かに絡まれたら――翠は、来てくれるだろうか。その仄暗い期待を、吐き出す息と共に追い払おうとする。
駄目だ。そんなことを考えては。
もう一度深呼吸。窓の外で、何かが揺れた気がした。
風にしては静かすぎる。
カーテンの隙間からそっと覗くと、街灯の光に照らされた路面は濡れてもいないのに、ほんの一瞬、そこだけ黒く波打ったように見えた。
見間違いだ。そうに決まっている。
言い聞かせるように瞼を伏せ、ゆっくりと部屋の中へ視線を戻した。
机の上、インクが乾くのを待っていた便箋の文字。
確かに乾かしておいたはずのインクが、光を受けてわずかに滲んでいる。
翡翠色だったはずの文字が、まるで墨を一滴落としたかのように、黒く深く滲んでいた。
──息が、止まった。
それは、まるで誰かの指先が、遠夜の書いた想いをなぞった跡のようで。
無意識のうちに首から下げた輝石を握り締める。
静かな部屋の中、心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
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