カクテルの紡ぐ恋歌(うた)

弦巻耀

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第三章 ハンターの眼差し

嘘と偽りの世界(2)

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 美紗は顔を上げると、目をしばたたかせて日垣を見た。

「組織を害する者がいないと分かれば十分だ。これ以上コトを面倒にする必要はない」

 端正な顔立ちが、じわりと笑う。美紗を見返す目には、狡猾そうな光といたずらっぽい色が混じり合っていた。

「隠すんですか? そんなこと、大丈夫なんですか……」

 美紗の声が震えた。偽ることをためらわない上官は、またひとつ、嘘を重ねるつもりなのか。
 前日の階段踊り場での出来事が、脳裏に浮かんでは、消える。

「まだ油断はできないが、今のところ、今回の件は君と私しか知らないと思う。対テロ連絡準備室の連中は、昨日の時点では、何も言っていなかった。比留川が高峰の欠席をロジ担当に連絡し忘れてくれたおかげで、会議場付近に待機していた事業企画課の連中も、君の行動については承知していなかったようだし……。米国の『お客』が気付いたかどうかだけが、気がかりなところだが」

 日垣は、テーブルに両肘を付き、美紗のほうに顔を寄せた。

「正直言って、この件が公になったら、私も困るんだ。まだクリアランスが下りていない君を海外機関との会合に参加させたという時点で、間違いなく物議を醸す。こちらとしては、三か月もかかる照会作業が終わるまで、当人を遊ばせておくわけにもいかないのにな」

 妙に耳に心地よい低い声でささやく日垣の顔には、動揺する様子など微塵もなかった。彼にとっては、保身のために事案を一つもみ消すことなど、造作もないことなのかもしれない。
 しかし、社会人になってわずか三年目の美紗には、それがひどく危ういことのように感じられた。

「隠したら、かえって後から大変なことになるんじゃ……」
「そうだな。君の処遇はともかく、私は間違いなく依願退職だ。何しろ、統合情報局の保全課を管理する人間が、保全問題を起こして、それを隠匿するわけだから」

 涼やかな顔が他人事のように笑った。美紗は思わず立ちあがった。

「そんなの、ダメです! 私の不注意で、日垣1佐がお辞めになるなんて」

 大きな声に、日垣が驚いた顔で人差し指を口に当てるジェスチャーをした。美紗もはっと口をつぐんだ。二人そろって身を固くし、周囲の気配をじっと窺う。

 衝立の向こうからは、店に入った時と何も変わらず、静かな音楽と、アルコールを楽しむ人々の歓談のざわめきだけが、聞こえてきた。

 美紗は小さく息を吐いて、席に座りなおした。すみません、と縮こまると、日垣はわずかに顔を緩めた。

「話を伏せる理由は他にもある。問題の第六セッションに入っていた対テロ連絡準備室のことは、今の時点では、うちの保全課にも、情報保全隊にも知られたくないんだ。なぜだか分かるか?」
「情報局が警察の領域に介入する話を進めていると、公にできないからですか?」
「そうだ」

 美紗は、ごくりと生唾を飲んだ。テーブルの端に置かれたキャンドルが、不安げに揺らめく。その光に照らされた美紗の瞳も、当惑の色に揺れた。
 日垣は一層声を低め、美紗が知るところとなってしまった極秘部署のことを説明した。


 従来、国家の対外的安全保障を担う自衛隊と国内治安の任に当たる警察の活動範囲は、明確に線引きされてきた。それが、国内外で昨今頻発するテロ事件を受けて、国内事案から国際情勢までをカバーする一元化した対テロ情報ネットワークを作る構想が、政府中枢と関係機関の間で内々に動き出した。
 しかし、現行の法律では、防衛省と自衛隊は、いかなる形であっても、国内治安の問題には介入できない。情報ネットワークを構築するためには、先に、立法機関による法的承認が必要だった。

 法案の作成から法律施行までには、概して、長い時間がかかる。特に、自衛隊に関わる問題では、軍事組織の権限拡大を嫌う勢力の反発が大きい。関連法案の審議は相当難航することが予想された。
 一方、世界中で暗躍する国際テロ組織は、日本の政治事情などお構いなしに、一般社会の内部へとその勢力を浸透させていく。法的環境が整うのをただ待っていては、刻々と変わる国際情勢には対応できない。少なくとも、関連法案が施行された時には、直ちに当該の情報ネットワークを稼働できる状態にしておく必要がある。
 防衛省と警察庁は、やむにやまれず、関連法案の成立を見越した調整活動を極秘裏に始めざるをえなかった。


「対テロ連絡準備室は、そういった調整機関の一部なんだ。しかし、何しろ法的根拠がない状態で動いている。万が一にも表沙汰になれば大問題だ。そういう意味で、非常に秘匿性の高い話になる」
「その……、直轄チームの人たちは、全く何も知らないんですか?」

 美紗は、ひざの上で、両手を固く握りしめた。

「高峰3佐のことも秘密なんですか? みんな、毎日一緒にいるのに……」
「班長の比留川は、高峰が準備室の連絡員であることだけは承知している。だが、準備室のメンバーまでは知らない。他の者は一切何も知らないはずだ。勘のいい松永あたりは、知らないフリをしてくれているのかもしれないが」

 美紗は、前日の比留川の様子を思い出した。「家族の急病で欠勤した高峰の代わりがいない」と慌てていた彼は、直轄チームの面々が代役を申し出ても、歯切れ悪く断っていた。

「私が直接管理できる直轄チームは、高峰のような立場の者を置いておくには、最も好都合なんだ。ただ、準備室に関する情報は……、他のメンバーには共有させたくない」

 日垣の口調は、穏やかながら、ひどく物憂げだった。照明を落とした店の中で、伏し目がちに話す彼の周りだけが、一層暗いように見える。

「ひとつのシマの中ですら、隠し事がある。私には日常茶飯事のことだが、来たばかりの君には、私や高峰が不人情な嘘つきに見えるだろうな」
「いえっ、あの……」

 心の内をズバリと言い当てられ、美紗はびくっと体を揺らした。取りあえず否定の言葉をつないでごまかさなければ。そう思っても、口が動かない。
 日垣は、目を大きく見開いて狼狽する美紗を静かに見つめ、心なしか淋しげな笑みを浮かべた。

「直轄チームの佐官クラスは、調整業務で情報局外の人間とも頻繁に接触するし、上層部の連中と関わることも多い。実は、この上の連中がクセ者でね。詮索好きな奴が、意外とたくさんいるんだ。仕事上の関わりがないことでも、噂を嗅ぎつけてはいろいろ聞きまわってくれる」


 人間関係の濃密な自衛隊でやっかいな問題のひとつは、いわゆる「上下のしがらみ」だった。愚かな「昔の上官」が、「昔の部下」をつてに無意味に秘匿案件に関わり、己の権威主義的な欲求を満足させる。こういった人間は、えてして口も軽く、情報漏えいの元凶となることも少なくなかった。
 深刻な保全事案ともなれば、思慮の浅い「昔の上官」ばかりでなく、彼らからの非常識な要求を断り切れなかった「昔の部下」までもが、処罰されることになる。


「過去には、そういったことがきっかけで、国際的なスパイ事件にまで発展したケースもある。だから、直轄チームの面々には、対テロ連絡準備室に関わる問題に、極力接しないでいてもらいたいんだ。初めから知らなければ、バカな高官連中にいくら詮索されても、情報の漏らしようがないからね」
「それで、高峰3佐のセッションに、私が……?」

 日垣は、恐る恐る尋ねた美紗に、静かに頷いた。

「秘区分の低い前半のセッションにメモ取りを入れるかどうか、迷ったんだが……。同席していた地域担当部の人間にやらせるより、君にまとめてやってもらうのが一番スムーズだろうと思ったんだ。若い君なら、高峰の事情に勘づくこともないだろうし、部内に知り合いも少ない。高峰も、君から会議内容を一括で報告してもらうほうがやり易いだろうと……」

 未経験だからこそ、鈴置美紗が役に立つと思われた。しかし、二カ月ほど前に直轄チームに来た新入りは、かえって想定外の問題を引き起こした。

「私があの場でもう少し気を配るべきだった。ああいう仕事、君は初めてだったのにな」
「すみません。そんな事情があったなんて全然知らなくて……」
「知らせるわけにはいかなかったしね」

 すっかり意気消沈した美紗に、日垣はクスリと笑いかけ、そして、急に真顔になった。

「ちゃんと聞いてるじゃないか。あの状況で」

 切れ長の目が、すっと鋭くなる。

「君がテーブルの下に隠れている時に、『お客』と私たちが話していた内容だよ。統合情報局が国内治安の問題に関わる話」

 日垣は、また右手で髪をかき上げると、少し意地悪そうに口角を上げた。

「昼間は確か『話の中身はほとんど聞いていない』というようなことを言っていたように記憶しているが? これは完全に騙されたかな。君のほうが私より一枚上手らしいね。うっかり全部喋ってしまった」

 美紗は、はっと口元を押さえた。しばらく固まったあと、急にガクガクと震え出した。
 一方の日垣は、声を立てて笑った。言い訳の言葉を探すのも忘れている美紗を見る眼差しは、優しげな色に戻っていた。

「もし情報保全隊を相手にそういう発言をしたら、一巻の終わりだ。後で部内調査が入る可能性はまだ残っているんだから、気を付けてもらわないと」

 美紗は、顔面蒼白になって何度も謝った。これから、互いの進退に関わる秘密を、目の前に座る男と共有することになる。自分はその重圧を抱えきれるのか。新たな不安が足元から這い上る。

 両手で顔を覆う美紗を、日垣はしばし見つめた。低くくぐもった声が、震える黒髪を静かに撫でた。

「私のほうこそ……、君に謝らなければ」

 
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