カクテルの紡ぐ恋歌(うた)

弦巻耀

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第五章 ブルーラグーンの戸惑い

ランチでの噂話(1)

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 「いつもの店」を舞台に、美紗が日垣貴仁への想いをゆっくりと募らせていく間に、都会の街は、数回ほど雪化粧をし、やがて、足早にやってきた春を迎えた。


 桜の木もすっかり新緑に覆われた頃、美紗は、総務課の吉谷綾子と、新年度に入って初めての会食に出かけた。
 眩しいほどの青空が広がる好天の中、二人は、広い防衛省の敷地を出て春の陽気を満喫した。大通りから一本入り、都会の喧騒を遠くに聞きながら数分歩くと、こじんまりとした入口を可憐な花やハーブの寄せ植えで華やかに飾ったイタリア料理店に着いた。

 この店も吉谷の「御用達」のひとつだったが、席に座った彼女は、全く浮かない顔でため息をついた。

「ああ、もうちっともやる気出ない。『王子様』のお顔が見られないんじゃ」

 美紗は苦笑いしながら、「寂しくなりましたよね」と調子を合わせた。


 美紗の所属する直轄チームでは、年度の変わり目に少し入れ替わりがあった。
 班長の比留川2等海佐が栄転で海上自衛隊に戻り、繰り上がるように、先任の松永が2等陸佐に昇進して比留川のポストを継いだ。比留川が「期間限定」で第5部から引っ張ってきていた佐伯3等海佐は、直轄チームへ正式配置となり、先任の役を担うことになった。

 吉谷が「王子様」と呼ぶところの富澤3等陸佐は、比留川と同時期に、地方部隊で隊長職に着くべく、二年間在籍した直轄チームを離れた。
 富澤の後に来たのは、彼と同じく、指揮幕僚ばくりょう課程を出て数年の3等海佐だった。


「まあ、制服の人たちは、部隊長やってナンボだもん。富澤クンの出世を祝福しなきゃいけないんだけどね。しっかし、『王子様』の後釜、何なのあれ。小僧が二匹になった感じじゃない」

 吉谷は、来たばかりの後任者を手ひどくこき下ろした。

 美紗の右隣の席に座ることになった小坂という名の3等海佐は、年齢こそ富澤より少し上の三十代半ばだったが、精悍な顔つきをした寡黙な前任者とは全く正反対のタイプだった。愛嬌のある丸い顔をしていて、着任したその日のうちに直轄チームに溶け込み、せっせと「シマ」の笑いを取っている。
 全く気取らないその言動は、美紗には面白く映ったが、「王子様」の後任者に若干の期待を寄せていた吉谷はかなり失望したらしい。

「二人でくだらないことばっかり、ひっきりなしに喋って。空の小僧はますます絶好調じゃない? よっぽど試験の出来に自信があるのかしらね」

 吉谷は、刻み海苔がトッピングされたスパゲティにフォークを突っ込み、それを不愉快そうにぐるぐると回した。

 直轄チーム唯一の尉官である片桐は、三月上旬に、空自の指揮幕僚課程の選抜一次試験に臨んだ。しかし、難関と言われるその試験内容に完全に圧倒されたと言って、相当凹んで帰ってきた。
 すっかり大人しくなってしまった彼を元気づけたのは、新入り幹部の小坂だった。片桐より五、六歳ほど年上の彼は、優秀な前任者とは対照的に、三度目の受験でようやく指揮幕僚課程への入校を果たしたという経歴の持ち主だった。

 吉谷から疎まれるほどに明るい性格の小坂は、数多くの失敗談を、人目をはばからず気前よく披露する。1等空尉の「メンター役」を務めるにはかなり頼りなさそうだが、その身近な雰囲気が当の片桐には心地よいのだろう、と美紗は感じていた。


「小坂3佐は独身だそうですし、片桐1尉とは共通の話題も多いんだと思います」
「海の小僧、やっぱり独り者かあ。独身でも、あれはパス。『王子様』は物静かなイケメンでないとね」

 ふざけて口を尖らせた吉谷は、「うちの部で富澤クンの次にイケメンといったら……」と言いかけ、フォークに太く巻き付いたパスタをほおばった。それに合わせるように美紗がホワイトソースのたっぷりかかったドリアを食べようとしたとたん、吉谷はと思いついたように目を見開いた。

「ねえ、部長の日垣1佐どう?」
「熱っ」

 驚いた拍子に、スプーン山盛りにすくった出来たてを、冷まさず口の中に入れてしまった。両手で口を押える美紗に、吉谷は急いで水の入ったグラスを差し出した。

「そんなにびっくりするチョイスだった? 確かに、日垣1佐じゃ、ちょっと『王子様』って年じゃないか。美紗ちゃんから見たら、二十くらい上だもんね」

 美人顔を崩して大笑いする吉谷に、どう反応していいか分からない。美紗は、口の中の熱さがひかないフリをして、取りあえず黙っていた。

「まあ、あの人は個室にこもってて見えないから、つまんないわね。それに、富澤クンみたいに『見てカワイイ』タイプじゃないし、何か面白いこと言うわけでもないし……」

 吉谷は、所属部の長である1等空佐を好きなだけ茶化すと、急に真顔になった。

「それに、日垣1佐、何となく怖いよね」

 少し声を落としたその言葉に、ドキリとした。記憶の底に沈んでいた、半年以上も前の出来事が、急に蘇ってくる。

「8部にいた頃、日垣1佐とちょっとだけ一緒だったことがあって。その時もそれなりにやり手の人だなとは思ったけど、1部長として戻ってきてからは……、なんていうのかな、あの人、余裕で裏表を使い分けるタイプになったな、って感じ」
「そう……ですか?」

 美紗は、顔の下半分を手で覆ったまま、あいまいに応答した。

 吉谷が知る由もない、極秘会議をめぐる保全事案。日垣貴仁は、顔色一つ変えず部下を欺き、一連の問題を握りつぶした。極秘会議に紛れた美紗を容赦なく取り調べた彼は、確かに、凄みのある冷酷な目をしていた。


「日垣1佐、優しそうに見えて、実は超シビアな人じゃないかな。そういうトコを、絶対私たちに見せないようにしてるのも、かえって怖くない? いざとなったら、信義も情も捨てられるドライな性格だと思うけど」

 何も目撃していないはずなのに、なぜ分かるのだろう。美紗にとっては、吉谷の鋭い洞察力のほうが恐ろしかった。
 しかし、吉谷もすべてを見通しているわけではない。あの人は、「裏」の顔のその下に、さらに別の姿を持っている。

 職場では決して見せることのない、柔らかな眼差し。
 何かを気恥ずかしく思う時の、髪をかき上げる仕草。

 あの店で、自分だけが見ることのできる素の日垣貴仁を、なぜか、吉谷には知られたくない。


 美紗は、奇妙な緊張感を覚えながら、取りあえず話題を変えることにした。

「地域担当部には、吉谷さんのお好みの『王子様』候補はいないんですか?」
「真面目に探せばいそうだけど、フロアも違うし、仕事上の繋がりも、今はほとんどないから……」

 予想に反して、吉谷の反応は今一つだった。

「それにね、地域担当部のほうは、なんか、特定の人を『王子様』とか呼んだらシャレになんない感じなのよ」
「堅苦しい雰囲気なんですか?」
「うーん、なんて言うか……。美紗ちゃん、今、メインでどこ担当してる?」
「5部所掌の内容を見ています」
「じゃあ、話してもいっか。あそこは今のとこ変な話は聞かないから。でも、内緒ってことで」

 普段は快活な美人顔が、物憂げな笑みを浮かべた。

「地域担当部は、どこもうちの部より女の人が多いせいもあるんだろうけど、こっそり『いいご関係』になってる人たちがそこそこいるから、油断なんないのよ」
「そうなんですか? 同じフロアにいる人同士で?」

 意外そうな顔をする美紗に、吉谷は「そう」と短く答え、またパスタを口に入れた。

 彼女が黙って口を動かしている間、美紗は素早く地域担当部の様子を思い巡らせた。
 担当する第5部以外にはあまり出入りすることはないが、見た感じでは、どこの部も、テレビドラマで描かれるような社内恋愛の雰囲気は皆無だ。調整業務の多い第1部に比べ、全体的に静かで、職員同士がろくに会話もせずに一日を過ごしているような印象を受ける。

「確かに、『王子様』がどなたかの相手だったりしたら、いろいろ揉めそうですね」
「まあね……」
「でも、部によってずいぶん違うんですね。5部は、うちと同じで、男の人は、四十代前後の結婚されてる方ばかりのようなんですけど、独身の人が多いところもあるんですね」
「独身男? どこもほとんどいないわよ」

 意外そうに目を丸くする吉谷の言葉に、美紗は口を半開きにしたまま固まった。

「2部から9部まで、男はほぼほぼアラフォーの既婚。女の側はほとんど独身だから、統合情報局うちはまさに『不毛』の職場ってやつ? まあ、中央はどこもそうだけど」

 幕僚監部をはじめとする中央組織は、主に、出世の登竜門となる指揮幕僚課程を出たエリート幹部で構成されるが、防衛大学校や一般大学を卒業して自衛官となった者が、その課程に入るための選抜試験の受験資格を得るのは、最も早いケースで二十九歳前後である。
 試験に合格した者は、陸は二年間、海と空は一年間の教育を受け、課程修了後、地方部隊で一定の勤務経験を積んでから、ようやく下級参謀として初の中央勤務に着く。この時点で三十代半ばに差し掛かかる年齢になっている彼らの多くは、すでに結婚して家族を持つに至っている。

 実際のところ、自衛隊の中枢機関である陸、海、空の各幕僚監部と三自衛隊の統合運用を司る統合幕僚監部では、主力となる層は四十代前半である。
 各幕より下位に位置する統合情報局は、それより多少は若い年齢構成になっていたが、男性自衛官に未婚者がほとんどいないという点では、状況は似たようなものだった。


「それじゃ、『ご関係』っていうのは……」

 戸惑いの色を見せる美紗に、吉谷はサバサバと答えた。

「そう。男は既婚、女は未婚。つまり、不倫。そういうの、結構あるのよね、地域担当部は。男連中も、全員が品行方正なわけじゃないしさ」


 つまり、不倫


 嫌な言葉が美紗の身体に刺さる。急に、日垣貴仁の背広姿が頭に浮かんだ。心臓が大きく波打ち始める。

 その音を、目の前に座る吉谷に聞かれそうな気がして、美紗は反射的に唇を噛んだ。吉谷の側も、話すのをやめ、静かに美紗を見つめた。

 昼時の込み合うレストランで、沈黙が、数秒間、流れた。

「美紗ちゃん」

 ためらいがちに何かを探るような声音に、美紗は縮み上がった。返事をする声が掠れた。

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