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第五章 ブルーラグーンの戸惑い
きらびやかな蝶(1)
しおりを挟むその週は、一日も晴れることなく過ぎていった。金曜日も、都会の街は、どんよりとした梅雨空に重苦しく包まれていた。
「あーっ、日垣1佐、もう出ちゃってる?」
聞きなれない声に話しかけられ、美紗は自分が少しぼんやりしていたことに気付いた。それを悟られないように、愛想笑いを浮かべて声のしたほうを見上げると、書類を手にした3等空佐が立っていた。
部長室に一番近い場所にある直轄チームの末席に座る美紗は、第1部長の指導を受けにくる佐官たちに、日垣の所在を尋ねられることが多かった。
美紗のほうもそれを承知で、在席中はなるべく第1部長の出入りに気を配るようにしていたのだが、この数日間は、意図してその姿を追わないようにしていた。
彼を見れば、余計な事を考えてしまう。
「大使館行き、五時半発だったっけ。今日中に入れたい話だったんだけどなあ」
四十手前と思しきその3等空佐は、顔をしかめて壁掛け時計のほうに目をやった。すでに、五時半をすこし回っている。
美紗は立ちあがると、第1部長室ではなく、総務課のほうを見た。珍しくフェミニンなデザインの明るい色のスーツを着た吉谷綾子が、すっかり帰り支度を整えて、総務課長と何か話していた。
「まだ、いらっしゃるとは思うんですけど……」
美紗の言葉が終わらないうちに、出入り口のドアを開錠する電子音が聞こえ、水色の長袖シャツにネクタイ姿の日垣が慌ただしく中に入ってきた。
彼は、美紗の横に立つ3等空佐にすぐに気付き、急ぎらしい書類に目を通しながら、
「鈴置さん、悪いけど、机の上に上着を置いてあるから、持ってきてくれる?」
と言った。
美紗は、胸の中を飛び回る何かを押さえつけながら、第1部長室へ走っていった。中に入ると、大きな執務机の上に、濃紺の制服の上着が無造作に置かれているのが目に入った。その横に、在京フランス大使館からの招待状が入った封筒もある。
美紗が、大きな上着と封筒を持って部屋を出ると、日垣が先ほどの書類にサインをしているところだった。
「これで取りあえず進めていい。添付資料のほうは後で読ませてもらうから、コピーを部屋に入れておいてくれ。八時頃には戻って来る」
3等空佐は「了解です」と答えると、バタバタと去っていった。彼と入れ替わりに、吉谷が近づいてきた。
「ああ、吉谷さん。すぐ出るから」
日垣の声はにわかに柔らかくなった。吉谷は、それを意識したのかしないのか、整った美人顔をわずかに微笑ませた。
「あら、制服のままですか?」
「今日は『ミリタリー・インフォーマル』だからね」
日垣は大きな肩をすくめて笑顔を返した。
「ミリタリー・インフォーマル」とは、ドレスコードの一種で、この指定がある場合、軍人や自衛官は、長袖ジャケットにネクタイの制服を着て当該行事に参加することを求められる。
「制服のほうが、重みが増して見えて、よろしいかと思いますよ」
吉谷は艶っぽい視線を第1部長に向けた。彼女の言葉に、満更でもなさそうな表情を浮かべた日垣は、部長室から戻ってきた美紗の方に腕を伸ばして、濃紺の上着だけを掴んだ。
「そう言う吉谷さんは、今日はずいぶんと華やかだね」
「古い友人も何人か来るようですので。しばらく見ないうちに老けたなんて言われたくないですから」
日垣の褒め言葉を、吉谷は動じることなく受け流す。調和するかのように流れる二人の会話を、美紗は、日垣のすぐ脇で、黙って聞いていた。
こんなに傍にいるのに、自分はその調和の中に入ってはいない。手を伸ばせばすぐ触れられるほど近くにいるのに、完全に別の空間に立っているような気がする。
胸の中に棲む蝶が、大きな羽を煩わしく震わせる。
日垣は、上着の内ポケットに官用携帯が入っているのを確認すると、素早くその上着を羽織った。上下濃紺の姿になると、確かに吉谷の言う通り、第1部長は一層上背があるように見え、急に凛々しく引き締まった佇まいになった。
一方の吉谷は、子持ちの既婚者ながら、日垣の隣で十二分に魅力的な輝きを放っていた。
快活でありながら気配りに長け、機転の利く気質。
情報機関に重宝される抜群の能力と経歴。
周囲からの注目と信望を容易く集めることのできる恵まれた容姿。
彼女は、美紗が手に入れたいと望むものを、すべて持っていた。
大きな蝶が、美しすぎる羽を、これ見よがしに広げていく。
「日垣1佐。車、下にスタンバイしてます」
人の良さそうな顔をした総務課長が、受話器を片手に、日垣に声をかけた。日垣は、官用車を手配した総務課長に礼を言うと、軽く手を挙げて、第1部の面々にも挨拶替わりのジェスチャーをした。
吉谷も、それに合わせるかのように、「お先に」と優雅な動きで会釈をする。
長身に端正な顔立ちの日垣と、やはりスラリと背の高い都会的な吉谷。あまりにも華やかに均衡する二人は、そうするのがさも当然という風情で、並んで歩きだした。
「今日は妙な『仕事』をしてもらうことになってしまって、申し訳ない」
「構いませんのよ。こちらこそ、黒塗りに同乗させていただけるなんて、光栄ですわ」
吉谷は、わざと気取った喋り方をして、日垣のほうに体を寄せた。日垣が小さく笑みをこぼし、少し声を落として吉谷に何か囁く。高めのヒールを履いて更に背丈の増した彼女が、ふわりと髪を揺らして日垣に顔を向けると、二人の距離は至極わずかになった。
女が少し背伸びすれば、互いの唇が触れ合ってしまいそうに、近い。
日垣さん
危うく声を出しそうになるのを、美紗は辛うじて堪えた。
吉谷さんを、そんなに見つめないで
心の中で、彼を呼んだ。しかし、飛び回り始めた大きな蝶が、煌びやかな鱗粉を振り撒いて、小さな美紗を容赦なく阻む。
日垣は、第1部のドアを開けると、エスコートするように、吉谷綾子を先に通した。そして、美紗のほうに振り返ることなく、ドアの向こう側へと去っていった。
自動ロックの音が、その場に取り残されたように響いた。
美紗は、手の中に残った大使館からの招待状を、何となしに見た。開封済みの封筒の中に入っていた金縁の分厚いカードには、「フランス革命記念日に際して」と銘打たれ、宛先には、「Colonel and Mrs. Takahito HIGAKI」と記してあった。
未来の航空幕僚長と噂される第1部長の「奥様代理」の任にふさわしいのは、吉谷綾子のような女性だ。彼女を前にして、鈴置美紗は、とても太刀打ちできない。
敗北感が満ち潮のように押し寄せ、周囲の光と音を奪う。
黒塗りの官用車の後部座席に乗る二人は、道中、どんな言葉を交わすのだろう。
政財界の関係者も大勢招かれるレセプションで、二人はどんな時を過ごすのだろう。
胸の中を、美しすぎる大きな蝶が、あたり構わずかき乱していく。
「残念だったね」
背後から忍び寄るような声に、美紗はびくっとして振り向いた。小坂3等海佐が、両手に腰を当てて、ニヤリと笑みを浮かべて立っていた。
「日垣1佐の奥さん役。最初に名前が出たのは鈴置さんだったのに」
「べ、別に、……いいんです!」
美紗の狼狽ぶりをからかうように、小坂は口を横に広げて白い歯を見せた。
「ただメシ食いそびれちゃったねえ。あ、ただ酒もか」
「レセプションだろ? どうせ立食だ。そんなに食えやしないって」
いつも勘のいい直轄班長の松永2等陸佐は、しかし、ちらりと美紗と小坂のほうを見やっただけで、再びパソコン上の自分の仕事に戻った。窓際の彼の席からは、美紗の表情がはっきりと見えなかったようだった。
「シマ」の一同が遠慮なく笑う中、美紗は真っ赤になって黙っていた。本心を知られるくらいなら、食い意地の張った女と思われているほうがいい。
「立食で全然OKですよ。『タダ飯』っすから。そういう話、うちには来ないんすか?」
一人暮らしの片桐1等空尉は、文字通り「オイシイ話」が羨ましくて仕方がないようだった。松永が「全くないね」と顔も上げずにあしらう。
代わりに、松永のすぐ脇の席に座る佐伯3等海佐が、第1部の大きな部屋の一角を指さした。
「取りあえずタダ飯が食いたいなら、事業企画課の渉外班がいいよ。在京大使館の武官室や在日米軍の連絡官室と付き合いがあるから、レセプション程度の行事なら、班員揃ってご招待にあずかれるんじゃないかな」
片桐につられて、美紗も指し示された方を見ると、会計課と人事課のさらに向こう側にある事業企画課の中のひとつの「シマ」が、無人になっていた。直轄チームと同じく、七、八人で構成される渉外班がある場所だ。彼らは日垣より一歩早く、防衛省が所有するマイクロバスにでも乗って現地に向かったのだろう。
その一行の中には、つい先日の昼休みに女子更衣室で吉谷や大須賀とにらみ合った八嶋香織も、いるはずだ。
どこの大使館の食事が美味いか、という話題で「直轄ジマ」が盛り上がる中、美紗は一人、八嶋のことを思った。
彼女が日垣貴仁に興味を持っているとは、にわかには信じ難かった。しかし、大須賀の言うように、もし八嶋が彼に何がしかの好意を抱いていたとしたら……。後から第1部長直轄チームに入ってきた美紗を、彼女は決して快くは思わないだろう。これまで一年余りの間、全く会話することすらなかったのも頷ける。
その八嶋はこの夜、フランス大使館で、日垣と吉谷が並ぶ姿を目にするのだろうか――。
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