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第六章 ブルーラグーンの資格
夏季休暇(2)
しおりを挟む翌日、美紗は松永に言われたとおり、貴重な平日の休みを、文字通り「休んで」過ごした。
世間が盆休みに入っているこの一週間、「直轄ジマ」でも大した仕事はなかったはずだが、太陽が真南に差しかかろうかという時間までベッドに横たわっていても、奇妙な疲労感は消えなかった。前の晩からエアコンをかけっぱなしにしているせいか、身体がひどく重く感じる。
予定通りなら、第1部長は朝から出勤しているはずだ。今頃、長袖の水色シャツを着た彼は、事務所内を涼しげに歩いているのだろうか。休暇の間に未決箱に山のように積まれた書類を見て、閉口しているだろうか。それとも、休み明け早々に諸々の会議に顔を出して、忙しくしているのだろうか。
そんな仕事の合間に、八嶋香織と顔を合わせることはあるのか……。
あまり考えたくないことに思いが至り、美紗は再び目をつぶった。
どうかしてる……
日垣貴仁を眺めるために職場に行くわけではない。八嶋香織よりも気にかけるべきことは山ほどある。直轄チームに来て一年余り、仕事にはそれなりに慣れたが、まだまだ手一杯の状態で対処しているのが現実だ。仕事以外のことに気を取られる余裕はないはずなのに……。
突然生じた三連休をどう過ごしていいか、分からない。週明けには仕事に戻らなければならないが、どうやって平常心を保てばいいのか、その方法は、もっと分からない。
美紗は、ベッドの隅に放り出すように置いてあった携帯端末に、物憂げに手を伸ばした。登録されている連絡先一覧の中から、幾人かの友人の名前を見つけては、それをぼんやりと眺めた。
十代を共に過ごした彼女らは、夢を叶え、あるいは、夢を叶えるために、それぞれのステージへと旅立って行った。海外に生活の場を移した者、若くして結婚した者もいる。
互いに、環境が変わり、住む場所が変われば、友情は徐々に思い出へと変わっていく。就職して四年目になると、頻繁に連絡を取り合う相手は、もう数人ほどしかいなかった。
そのうちの一人である高校時代からの旧友に、美紗はメッセージを書きかけて、止めた。
実家からそう遠くないところに住むその友人は、美紗が地元を離れて大学に進学した後も、就職して生活基盤が完全に東京に移ってからも、以前と変わらぬ友情を示してくれた。時には、「都会で遊びたい」などと言いながら、会いに来てくれた。
今思えば、気が利くタイプの彼女は、美紗が実家を疎んでいることを察し、東京まで足を運んでくれていたのかもしれない。
その親友とも、業務過多な統合情報局に異動してからは、なかなか会うのが難しくなり、いつしか、携帯端末を通してのやり取りばかりになってしまった。それでも、気心知れた間柄であることに、変わりはない。
彼女に話すべきか、迷い、結局言えないままになっていることが、三つだけある。母親が自分の誕生を待ち望んでいなかったと知ったこと、その母親が知らぬ間に家を出ていたこと、そして、日垣貴仁のこと。
ひとつ目はあまりにも悲しくて、二つ目はあまりにも情けなくて、口にしたくなかった。三つめは、今となってはもう、打ち明けられない。
日垣が独身だったなら、恋愛話の好きな旧友に、いくらでも相談しただろう。しかし、二十歳以上も年の離れた既婚の上司に、仕事も手につかないほど焦がれているとは、とても言えない……。
美紗は、携帯端末を枕元に落とすように置いた。何も食べる気になれず、コーヒーだけを飲んで、狭い部屋の片付けを少しすると、急に身体がだるくなった。テレビを見るのもおっくうで、またベッドに突っ伏すように横になる。
こんな無意味な休日を過ごすのは、就職して以来、初めてかもしれない。
本当に、どうかしてる……
いつの間にか、再び眠っていた。何かが低く唸っているような物音を感じて、目が覚めた。
携帯端末のバイブレーターが、耳障りな音を立てていた。
外はすっかり暗くなり、カーテンを開けたままの窓から、月明かりが差し込んでいた。美紗は驚いて身を起こした。闇の中で眩しく光る携帯端末の画面を見て、あ、と声をあげた。
「具合はどうですか」という件名で、日垣の私用携帯からメールが入っていた。
『夏バテだと聞きました。お大事に』
短い文と共に写真が添付されていた。いつもの店で美紗が飲んでいる、いつものマティーニが写っていた。透明な液体を湛えたカクテルグラスの後ろには、バーテンダーのものらしい黒い服の一部と、ずらりと並ぶ瓶類が見える。カウンター席で撮ったのだろう。
ということは、彼はおそらく今、一人であの店に来ている。
美紗は、携帯端末を左手に握りしめたまま、大きく深呼吸をした。息を吸うと胸が痛くなるほど、心臓が激しく波打っていた。返信しようと液晶画面に触れた人差し指が、震える。
『週明けには出られます。
ご迷惑をおかけしてすみません』
返事はほどなくして帰ってきた。
『無理せず、しっかり休んでください。
初めてマティーニを飲みました。
ずいぶん強いお酒が好きなんですね』
暗い部屋の中で、美紗は赤面した。酒豪ぶりに驚いた、と言われたような気がして、慌てて返信した。
『どんなカクテルがあるのか、
あまりよく知らないので、
いつも同じものを頼んでしまいます』
送信ボタンを押したあとで、少し言い訳がましかったかもしれないと、後悔した。美紗がわずかに知るメジャーなカクテルの中にも、アルコール度数の低いものは、いくつかある。
カンパリ・オレンジ
カルーア・ミルク
ソルティ・ドッグ
ファジー・ネーブル……。
皆、十度あるかないかという程度だ。マティーニの四二度に比べれば、まるでジュースのように飲みやすい。
初めてあの人にアルコールをすすめられた時、もう少し「控えめ」なものを選んでいればよかった……。美紗は、一年ほど前のことを思い出し、今更ながら気恥ずかしくなった。
あの時は、とてもそのような小細工を思いつく余裕などなかった。情報畑に長年身を置く上官の「裏の顔」を知り、ただひたすら恐ろしかった。彼の偽りに翻弄され、その冷徹さに驚愕し、突然向けられた誠実な眼差しに困惑するばかりだった。
その彼と、同じ店で逢瀬を重ねることになろうとは、思ってもみなかった。抑え難い彼への想いに心乱されることになろうとは、予想だにしていなかった。
また胸の内に痛みのようなものを感じ始めた時、再び日垣からのメッセージが来た。
『分からない時は、マスターに
遠慮なく聞いてみるといいですよ。
彼は、話好きなほうなので、
きっと喜びます』
美紗は、しばらく考え、ゆっくりと文字を打った。
『少し予習してからでないと、
マスターに怒られそうです』
『お酒関連の質問なら、マスターは
何でも大歓迎だと思います。
私もカクテルのことはさっぱりなので、
一緒にカクテル講義を聞きたいですね』
美紗は、携帯端末を胸に抱きしめ、ベッドの上で背を丸めた。もう一度、送られてきた文章を読んだ。
直に会っているわけではないのに、あの落ち着きのある低い声で話しかけられたような気がして、耳元が温かくなるのを感じた。優しい笑顔がすぐそばにあるような気がして、息が止まりそうだった。
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