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第六章 ブルーラグーンの資格
日垣貴仁の過去(1)
しおりを挟む日垣貴仁が己の妻となる女性と出会ったのは、実家にほど近い九州北部に所在する航空自衛隊某基地に配属されていた時のことだった。
地元自治体との付き合いが多い上官を通じて、基地所在地の市役所で助役を務める名士の一人娘を紹介された。九州では相当に名の知れた大学の文学部を卒業し地方大手の銀行で働いていた彼女は、「良家の才女」という経歴が抱かせる華やかなイメージとは、やや違っていた。
素朴で物静かな雰囲気が、かえって印象的だった。互いの実家が近いということもあり、懐かしさにも似た親近感がわいた。
数回も会って話せば、日垣より四歳年下の彼女は、無言の気配りに長けた女性であることが感じられた。ごく自然に、結婚を意識するようになった。その旨を伝えると、それまではにかむような微笑しか見せることのなかった彼女から、溢れんばかりの笑顔が返ってきた。
上官から将来有望と太鼓判を押された男と、家柄も人柄も申し分のない女との結婚を、双方の親は「最高の良縁」と喜んだ。出会って半年ほどで結婚し、翌年の夏に長男が生まれた。
「すっかり浮かれていたら、義父にクギを刺されてしまって」
日垣は軽く前髪をかき上げると、照れくさそうに笑った。柔らかな優しい顔を、美紗は眩しそうに見つめた。初めて我が子を抱いた当時の彼も、同じように嬉しさと気恥ずかしさをないまぜにしたような笑みを浮かべていたのかもしれない、と思った。
「奥様のお父様は、厳しい方だったんですか?」
「そういうわけじゃないんだ。ただ……」
その当時、三一歳だった日垣は、指揮幕僚課程の選抜試験を目指す時期を迎えていた。将官クラスの高級幹部育成を目的とするこの課程に入校すれば、よほどのことがない限り、ある程度の出世は確約される。しかし、倍率は八倍とも十倍ともいわれ、相当の準備をしなければ選抜試験を通過することは不可能だった。
「義父は自衛隊にはなかなか詳しい人で、CS(空自の指揮幕僚課程)のこともよく知っていた。家族一丸で支援するから本腰を入れて受験勉強してはどうかと言われて」
「でも、元々、受験されるおつもりだったんですよね」
「なんとなくそう思ってはいたが、義父に言われるまで、具体的なことはろくに何もしていなかったんだ。情報職に変わって仕事がようやく面白くなってきたところだったし、私事でも忙しかったから、正直、CSのことはすっかり忘却の彼方だった。当時の私に比べたら、片桐のほうがずっとしっかりしているよ」
美紗は、前年の片桐の様子を思い出して、思わず顔を緩ませた。
選抜試験の受験勉強に身が入らない1等空尉は職場でしばしば愚痴をこぼしていたが、彼と同じ階級章を付けていた当時の日垣も、似たような状況だったのだろうか。愚痴をこぼす日垣貴仁の姿は、どうも想像できなかった。
「妻と子供を義父母に頼んで、受験勉強に専念させてもらった。それで一次落ちでは合わせる顔がなくなるから、必死だったよ」
防衛大学校を主席で卒業していた日垣は、果たして選抜試験を一回で突破した。結婚して三年目の春、指揮幕僚課程に入校するため、東京にある幹部学校に着校した。日垣の妻は、初めて生まれ育った街を離れることになった。
新生活は順調にスタートした。名士の家庭に育った彼女は、両親が親族や仕事関係の人間と手広く付き合う姿を見て育ち、そのノウハウを修得していた。おかげで、夫の職場の上下関係が微妙に影響する官舎内での付き合いも、ソツなくこなした。
しかし、東京暮らしが三年半ほど経過した頃、日垣家は困難な状況に直面した。
「私が、海外派遣で半年ほど家を空けたんだ。LO(連絡員)として多国軍の合同司令部に勤務していたから、私自身が身の安全を脅かされるようなことはなかったんだが、派遣部隊が展開していた現地の治安は相当悪くてね」
「大変だったんですね」
「いや、私よりは、日本に残った妻のほうが……」
当時を思い出すのか、日垣はそこでしばし言葉を途切れさせた。穏やかな目にわずかに滲む苦悶の色が、美紗の心を締め付けた。
日垣が海外に派遣された時には、すでに二人目の子供がいた。彼の妻は、幼子二人を抱えて家を守っていたが、状況悪化の著しい現地情勢が連日報道されるのをテレビで平然と見ているほど、気丈な人間ではなかった。官舎の付き合いを通して断片的に入る不穏な噂話が、不安に拍車をかけた。
日垣の派遣期間は半年と決まっていたが、彼の妻にとって、それは耐えがたい長さだった。
「現地にいた私には『少しの間だけ里帰りする』というような連絡を寄越してきたが、本当のところは、妻はうつ病気味で日常生活を送れない状態になっていたらしい。様子を見に来た義母の判断で、妻と子供は九州に戻ることになって……。その時はあくまで一時的なつもりだったんだろうが……」
「日垣さんが帰国されてからは……?」
美紗の問いに、日垣は静かに頭を振った。
「それ以来、家族は基本的に九州にいる。妻が『東京はどうしても嫌だ』と言ってね」
「それで、こちらにはずっとご単身で……」
「そうなってしまったね」
「それが、後悔なさっていること……?」
「まあ、そんなことを吉谷女史に言った記憶はあるな。子供の成長を見られない、と愚痴ったりもしたよ」
「でも奥様も、きっと、ずっとお寂しかったと思います」
遠慮がちに言葉を返す美紗を、日垣は意外そうに見た。そして、伏し目がちに頷いた。
「未婚の君でも分かることを、当時の私は全く分かっていなかった。妻のほうが、よほど私と結婚したことを後悔しているだろうな」
「そんなことは……」
「その後の勤務地を九州地区に限定してもらうことも、できなくはなかった。昇進は望めなくなるが、そうすれば家族とは一緒にいられる。私は、……その選択をしなかったばかりに、後で手痛い目に遭ってね……」
海外派遣から戻った後、日垣は短期間の空幕(航空幕僚監部)勤務と米国留学を経て、ようやく家族と一緒に住めるようになった。しかし、僅か一年の後、防衛駐在官として東欧へ赴任する話を打診された。
防衛駐在官を命じられた自衛官は、いったん防衛省を退職し、外務省職員の身分で海外の日本大使館に赴く。軍事分野の業務に携わるものの、身分はあくまで「外交官」である。
外交の場では夫妻単位での交流が前提となっていることが多く、外交官の配偶者のみを対象とした交流活動も「半公式的なもの」として位置付けられている。主要各国から現地に派遣される駐在武官は「武官団」というコミュニティーを形成するが、この中においても、夫妻単位もしくは家族ぐるみでの交流を通じて、人脈作りが図られる。
このような事情を踏まえ、防衛駐在官の選定にあたっては、当人の能力のみならず、配偶者の適性までもが考慮されるのが常だった。さらには、配偶者の同意がなければ、たとえ適任と評価される人物であっても、防衛駐在官のポストに就くことはできなかった。
「妻は、四大の英文科を出ているから日常の英会話には困らないし、人付き合いも苦手な方ではなかった。ただ、これまでの経緯を考えると、少々の不安はあったんだ」
「奥様は海外のお暮しに反対なさったんですか」
「はっきりそうとは言わなかったが、あまり乗り気ではなかった。今思えば、否定的な判断材料はそれなりにあったのに、私はいつも肝心なところで状況判断が甘いんだ」
返答に困る美紗を前に、日垣は自嘲的なため息を漏らした。
海外派遣での功績が評価された日垣は、通例より半年から一年ほど早く2等空佐へと昇進し、同期の先陣を切ってエリートコースの階段を上り始めていた。
防衛駐在官に選ばれることは、さらに出世のスピードが早まることを意味した。防衛駐在官の大半は1佐が務めているが、様々な事情により任期の浅い2佐がこのポストに選出された場合は、対外的な体裁を整えるために、赴任時に無理矢理に一階級引き上げる措置が取られるからだ。日垣にとっては、通常であれば最短七年はかかる3佐から1佐までの昇任期間を、わずか五年で通過できるという、絶好のチャンスだった。
この機会を活かすべきか迷っていた日垣を後押ししたのは、妻の父親だった。彼は、知り合いの空自幹部を通じ、己の婿が、防衛大学校、幹部候補生学校、さらには指揮幕僚課程のすべてを主席で卒業していたことを承知していた。幕僚長も夢ではない逸材が不甲斐ない娘のためにトップへ上り詰める好機を放棄するのは、義父としてどうにも見過ごせなかったようだった。
「防衛駐在官に就く者が単身で海外派遣のような任務を負うことは絶対にない」と父親に諭された日垣の妻は、ついに、一家で東欧某国へ赴くことに同意した。
「そういう経緯を話したら、吉谷女史はずいぶんと心配してくれた。彼女は大使館事情に詳しかったからね。『防駐官の妻は、それ自体が仕事のようなものだから、日本で何があっても生半可なことでは帰国できない』と忠告されたよ。出国が迫る頃には、私のほうが吉谷女史にいろいろ相談していたくらいだ」
夜の街を一望できる大きな窓に映る日垣の横顔を見ながら、美紗は、彼の話が不運な結末に終わるであろうことを予感した。
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