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第六章 ブルーラグーンの資格
日垣貴仁の過去(2)
しおりを挟む日垣が防衛駐在官として赴任した東欧某国は、治安が良いとは言い難かったが、社会情勢はそこそこに落ち着いていた。
日垣の妻は、控えめながらもソツのない社交性を発揮して、大使館要人や各国駐在武官の妻たちと円滑な人間関係を築いていった。一緒に連れて行った二人の子供は、現地の日本人学校に難なくなじんだ。
しかし、駐在して一年半余りが経った頃、妻の母親が病に倒れた。一報を受けた彼女は、居ても経ってもいられず、子供たちを連れて一時帰国した。
母親の容態はほどなくして安定したが、その後、妻は日本から出られなくなった。異国の地での生活に疲れを感じていた彼女は、郷里に戻ったことで緊張の糸が一気に切れてしまったようだった。
現地大使館に残る日垣は、今後の道を判断する必要に迫られた。子供たちの教育のことを考えれば、うつ病を再発した妻の回復を悠長に待つという選択肢はなかった。妻と子供たちの生活基盤を日本に戻すことを決め、以後の彼らのことは義父母にすべて委ねた。
己の身の振り方は、ギリギリまで迷った。三年の任期を果たさずに防衛駐在官の職を降板することは、キャリア上大きな汚点となってしまう。単身で現職に留まるべきか、幾度も逡巡した。
「妻が務めを果たせなくなったことをずっと隠しておくわけにもいかないから、空幕には私も降板する覚悟で報告を入れたんだが、その時ばかりは、……妻がもう少し強い人だったら、と正直思ったよ」
一瞬でも結婚を後悔したであろう日垣は、その時、彼の妻とほとんど年の変わらない吉谷綾子を思い浮かべたのだろうか。美紗は、ふとそんなことを思い、胸が苦しくなるのを感じた。どんなに願っても吉谷綾子には届かない自分と、顔も知らない日垣の妻が、重なるような気がした。
「……知りませんでした。てっきり、三年お勤めになったのかと……」
「いや、結果的には、そうなってしまった。『突然帰国したくなったから後任を用意してくれ』と言っても、空幕も急には対応できないからね」
後任の防衛駐在官を選定し、二か月程度の事前研修を受けさせた上で現地に送り出すまでには、最低でも半年はかかる。東欧情勢が流動的な様相を呈していたその当時、防衛省側は現地ポストに空白が生じるのを大いに懸念した。そして日垣に、後任者が派遣されるまで単身で職務を続けるよう求めてきた。
日本に戻った家族の生活が安定したことを承知していた日垣は、本国からの要請を受け入れた。
しかし不幸にして、後任者選びはひどく難航した。ようやく交代時期の目途がついた頃には、日垣自身の任期がすでに残り七カ月を切っていた。
「当時の人教部(航空幕僚監部人事教育部)の補任課長は、私が若い頃から世話になっていた人だったんだが、その課長から内々に『交代時期がほとんど変わらないなら、このまま任期満了まで現地にいたほうが経歴に大きな傷がつかなくていい』と言われて、結局、そのとおりにさせてもらった。それで、書類上は任期満了の格好になっているんだ」
「それなら、良かった……んですよね?」
「そうでもないさ。現場にかなり迷惑をかけたことは確かだ。妻と懇意にしてくれた大使夫人には何かと気を遣わせてしまったし、他国の駐在武官たちにもずいぶん助けられた。帰国後の任地も九州地区になるように調整してもらったからね。私の不始末で多様面に迷惑をかけてしまった」
「……ご帰国までは、ずっとお一人で?」
美紗の問いに、日垣は寂しそうに頷いた。
「一年と四カ月ほど、全く家族の顔を見ずに過ごしてしまった。妻はそれを自分のせいだと思い込んでずいぶん気落ちしていたと、後になって義父母から聞いた。家族に心の傷を負わせてまで、なぜ防駐官に執着していたのだろうと、……今でも、後悔している」
大きな手が、再び水割りのグラスを手に取る。美紗もブルーラグーンのグラスに口を付けた。理由もなく覚えた喉の渇きを、青と紺色の合間のような色のカクテルが、少しだけ癒してくれた。
「……仕方がないと、思います。夢を諦めるのは、辛いですから」
「夢?」
「空幕長(航空幕僚長)になる、夢……ですよね?」
日垣は、あからさまに驚いた顔をして、それから、声を上げて笑った。
「そんな厚かましい夢を見たことはないよ」
「でも、みんな言ってます。日垣さんは、未来の空幕長だって」
「片桐あたりが変な冗談を言ってるだけだろう。あいつは本当にお調子者だから。ただ……」
真顔に戻った日垣の切れ長の目が、真っすぐに美紗を見つめた。
「今いる世界でどこまでやれるか、全力で試してみたい、という気持ちがあったのは、確かかもしれない」
「日垣さん……」
胸の奥に微かな痛みのようなものを感じて、美紗は唇を噛んだ。
前の年の冬、この馴染みのバーの席が空くのを屋上で待ちながら、二人で夜の街を眺めていたことを思い出す。
青年だった日垣貴仁が抱いた夢は、手を伸ばすことさえ許されぬ遠いところにあった。それを知らずに長い時を費やして得たものは、夢を諦める虚しさと、同じ夢に向かって歩む他者を見送る悲しさだけだった。
年月を経て新しい夢に出会った彼が、今度こそそれを叶えたいと思うのは、至極当然のことだろう。
あの時、遠い昔話を語る日垣は、穏やかに笑っていた。それが切なくて、美紗は夜風に吹かれながら涙をこぼした……。
「……パイロットを目指していらしたこと、奥様はご存じなんですか?」
「そういえば、話したことは、なかったな」
あの時と同じ、静かな眼差しが、少し照れくさそうに笑う。
「今は、双方『お互いさま』で、気兼ねなくやっているよ。妻は長い間、子供たちのことをすべて一人で引き受けて、私の実家のことにまで世話を焼いてくれている。離れて暮らすことは多かったが、妻なりに出来る範囲のことを立派にやってきてくれたのだから、有難いと……」
日垣はふと言葉を途切れさせた。美紗の手の中で、深い青を湛えたカクテルグラスが、涙色に光っていた。
「……変な話を聞かせてしまったね」
「いえ、あの、すみません……」
「鈴置さんは、……優しいね。私の思いも、妻の気持ちも、分かってくれる……」
美紗は、日垣の言葉には答えず、静かに泣いた。
期待に応えられなかった者を慈しむ彼の言葉に安堵したせいなのか、日垣夫妻のように絆を深めることのなかった自分の両親を悲しく思い出したせいなのか。それとも、家族を想う日垣貴仁の姿を見るのが辛かったからなのか、自分でも分からなかった。
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