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第二章 ホーセズネックの導き
噂のカウンターパート(2)
しおりを挟む「お前ら、さっきからうるさいぞ!」
突然の怒鳴り声に、美紗と美紗の所属組織に対する不満を並べ立てていた制服幹部たちは、はっと口を閉じた。
直轄チームの「シマ」から四、五メートルほどしか離れていない所にある統合情報局第1部長室の入り口に、海上自衛隊の白い制服を着た縦横に大きな男が立っていた。肩に、黒地に金色の線が三本入った2等海佐の階級章を付けている。
「何を騒いでる。こっちは全然話ができないじゃないか!」
直轄チームの班長を務めるその男は、恰幅のいい体をますます膨らませるようにして、「直轄ジマ」にずかずかと歩み寄ってきた。そして、静まり返った面々をさも苛立たしげに睨み付けると、不機嫌そうな顔をしたイガグリ頭の隣に立っていた美紗を、鋭く一瞥した。
「やっぱりアンタが来てたのか。すぐ分かるよ。必ず何か揉めごとを持ってくるからな。今度は何だっ」
「明後日の統合幹部会同で使う予定だった参考資料、八割も出来てないそうなんですよ。どうします?」
松永が立ち上がり、直轄班長に耳打ちした。
「出来てないって、何でだ!」
荒々しい声が飛んで、美紗はますます小さくなった。白い制服が美紗に詰め寄ろうとすると、その後ろから声をかける者がいた。
航空自衛隊の制服を着た男だった。右胸に「統合情報局第1部長」の名札が付いている。水色の長袖シャツに濃紺のネクタイを締めていながら、その空自の男は不思議と涼しげに見えた。スラリと長身なシルエットがそう見せているのかもしれない。
「比留川2佐が言っていた噂のカウンターパートというのは君? ずいぶん若そうだね。入って何年目?」
「三年目です」
美紗は、第1部長に促されるように、自分が二年と数カ月前に新卒で防衛省に入ったことを話した。
その場にいた全員が、「そうかあ」とため息にも似た声をあげた。冷ややかな視線が、にわかに同情的になった。
「それじゃあ、滅茶苦茶な調整してくれるのも当然だな。だいたい何で三年目のあなたがこんなことやってる? 本来は佐官クラスの仕事だ」
先ほど美紗にひとしきり小言を言っていた松永の語調は、急に優しくなった。
「あなたまだ二四、五くらいだろ? そんな若いのが、隊に戻って、科長連中に『仕事もらったから人出せ』って言ったって、まずすんなりOKしないよ。誰なんだ、君の上官は」
美紗が所属科長の名を口にすると、松永は、ああ、と間延びした声を出し、穏やかそうな顔をした第1部長と班長の比留川2等海佐のほうを向いた。
「その科長、知っています。自分の同期が一緒に勤務したことあるそうなんですが、かなり問題ありの人物だと言っていました。CGSは出たそうですが……」
そこまで話して、松永は少し声を落とした。指揮幕僚課程、略して陸自では「CGS」、海自と空自では「CS」と呼ばれるそれは、自衛隊の教育課程の一つで、上級指揮官養成を目的とした、いわば出世の登竜門のようなものである。選抜試験を経てこの課程を修了した人間は、通常は、将官を目指すエリート幹部として、出世の階段を上がることになっている。
「……その後、部下の不祥事だか事故だかで、結局、その科長はさほど昇進できなかったらしいんですよ。それをひがんでるんだか、若手を育てることに全く興味を示さなかったと、同期は嘆いていました」
「いわゆる『定年ポスト』にいる奴だな」
比留川は、その丸い顔に露骨に不快そうな表情を浮かべると、美紗のほうをちらりと見ながら、部下の話を引き継いだ。
「どうせ後もないし、上から文句言われても、もう関係ないってことで、ますます好き勝手やりやがる」
比留川の言う「定年ポスト」とは、幹部自衛官を養成するための専門教育機関である防衛大学校を卒業しながらさほど出世せずに退官する予定の人間が慣例的に配置される、「現役最後のポスト」を意味する。そこに就く者の中には、管理者としての素質に著しく欠ける人間も少なくなかった。
陸と海の二人の幹部のドロ臭い話に相槌を打った第1部長は、和やかな表情のまま、美紗のほうに歩み寄った。水色の長袖シャツの肩に1等空佐の階級が付いていた。
彼は美紗の名札を確認すると、
「鈴置さん、か。時々、部内資料に翻訳情報を載せているね?」
と、静かな声で尋ねた。
美紗の所属する業務支援隊は、定期的に翻訳資料を作成し、防衛省内の所定の部署に配布していた。各資料には、配布先からの問い合わせを容易にするため、常に作成者名が明記されていた。
「なかなか綺麗な翻訳文を書くものだと感心していたんだ」
四十代半ばらしい第1部長はにこやかに笑った。てっきり非難がましいことを言われるのだろうと身構えていた美紗は、驚いて返事をするのも忘れてしまった。
「少し時間ある? ちょっとうちの連中と話していったらどうかな。くだらない雑談でもして人間関係を作るのも、調整業務のひとつだよ」
彼は美紗に優しげに話しかけると、「直轄ジマ」で末席に座るチーム最年少らしい航空自衛官に目配せをした。
同じ空自でも半袖シャツのラフな夏服を着る若い彼は、素早く席を立つと、近くの窓際に無造作に置いてあった折りたたみ式のパイプ椅子を一つ持って戻ってきた。
場にいる面々に促され、美紗はシマの端に広げられた椅子に恐る恐る腰かけた。それを見届けた第1部長は、太めの直轄班長とイガグリ頭の先任を連れて、部長室に戻っていってしまった。
******
「いっとうくうさ? それが日垣さんの役職?」
征は、その言葉を初めて聞いたと言って、藍色の目をくるりと動かした。
「階級のひとつです。あまり一般的な言葉じゃないかもしれないですね。大佐に相当するんですけど……」
「大佐? へえ。日垣さん、なんかすごいんだ! アフリカのどっかで、なんたら大佐って人の国がありましたよね。あ、でもその人、殺されちゃったんでしたっけ?」
征は、そこそこ国際情勢を承知しているようだった。しかし、肝心の部分の認識が全く的外れだ。
「その『大佐』とはちょっと違いますけど……」
美紗は、少し困った顔で、自衛隊独特の階級について説明した。米軍など海外の軍隊では、佐官は下から「少佐」「中佐」「大佐」と称されるが、自衛隊の場合は、それぞれ「3佐」「2佐」「1佐」と呼称される。尉官なら、同様に、少尉は3尉、中尉は2尉、大尉が1尉に相当する。
正式には、陸海空それぞれの所属を合わせて明示し「1等空佐」などと四文字で表記されるが、日常の会話で階級を持つ個人に言及する時は、より短い「1佐」などを敬称代わりに使うのが通例となっていた。
「じゃあ、日垣さんは、職場では『ひがきいっさ』って呼ばれてるんですか?」
美紗が頷くと、征は、ますます興味津々といった顔で、目をくるくるとさせた。
「なんか面白いなあ。じゃあ、『1佐』という階級の人で、苗字が小林さんだったらどうなるんです?」
「小林1佐になりますね」
「あは、俳句でも詠んでそうな感じ」
征は「古池や~」と口走り、
「あ、これ、小林一茶じゃなかったですね」
と、一人で声を立てて笑った。
その屈託のない朗らかな顔に、美紗もクスリと笑みをこぼした。
直轄チームも、いつも、こんな冗談ばかりが飛び交うところだった。そこに配属されるきっかけをくれたのが、1等空佐の日垣貴仁だった。
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