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第三章 ハンターの眼差し
極秘会議(2)
しおりを挟む前髪に何かが押し当てられる感触がした。
美紗がわずかに顔を上げると、目の前に小さな紙切れが差し出されていた。「終わるまでそこにいろ」と走り書きがしてあるのが目に入った。
空席だと思っていたところに、航空自衛隊の制服を着た人間が座っていた。テーブルの下から少しだけ顔を出して見上げると、第1部長の日垣が、険しい顔つきで美紗を見下ろしていた。
危うく上官の名を呼びそうになる。
美紗の口を塞ぐように手を広げてそれを制した日垣は、身をかがめて何か言おうとした。
「……以上が、現在確認できている状況です。ここまでで、何かご質問なりご指摘がありましたら、どうぞ」
対テロ連絡準備室長の話が終わると同時に、部屋の照明がつけられた。
日垣は、素早く身を起こしながら、美紗の頭をテーブルの下に押し戻した。髪に触れる大きな手から、強い緊張感が伝わってくる。
しかし、他の出席者たちの質疑応答の中に時折割って入る彼の声は、前のセッションでブリーフィングをしていた時と同じく、極めて平静だった。
やがて、二国間の議論は、軍と公安の協力関係と線引きのあり方について、さらには、謀略工作を念頭に置いたカウンターインテリジェンスの可能性へと移っていった。
そのどちらも、防衛省内で討議するには極めて異質な話題だった。自衛隊は、国内の警察権に関与することも、謀略工作を行うことも、法的に許されていないからだ。
美紗は、日垣の足元で小さな身をいっそう縮め、再び耳をふさいだ。秘匿性の高い討議内容よりも、自分の姿を認めながら何事もなかったかのように会議を進めていく上官の声が恐ろしかった。
この人は、きっと、こういうことに慣れている。
偽りを語り、人を欺くことに、慣れている……。
十名ほどの人間が一斉に席から立ち上がる気配がした。ようやく、セッションが終わったようだった。
美紗はゆっくりと両手を耳から離した。
絨毯敷きの床の上を歩く静かな足音が近づいてくる。
予定では確か、次のセッションとの間に二十分ほどの休憩が挟まれることになっていた。皆、部屋の外に出て一服するつもりなのだろう。
美紗は、床に置いていた書類ケースを再び抱えると、テーブルの天板と幕板が作る影の中に潜み、息を殺した。
椅子の脚の間から、人の足だけが見える。目の前にいる濃紺のスラックスが日垣であることだけは分かった。出入り口にほど近いテーブルの下に潜む美紗の姿を、他の人間の視線から隠すかのように、椅子のすぐ脇に立っている。
「カーネル・ヒガキ。少しいいですか」
米国海軍の白い制服が立ち止まった。
日垣が愛想よく応答すると、「お客」一行の筆頭とみられるその人物は、「先程の専用連絡チャンネルの件なのですが……」と声を落とした。
そこに深緑色の制服が近寄ってきた。声からすると、対テロ連絡準備室長の2等陸佐らしい。三人で、テロ関連情報を共有する方法について、ひそひそと話し合っている。
美紗は、テーブルの天板を通して途切れ途切れに聞こえる彼らのやり取りを耳にしながら、声を立てまいと、ぎゅっと唇を噛んだ。
美紗の焦りをよそに、日垣は、悠長に上級幹部同士の内緒話をした後、ようやく出席者達を促して部屋の戸口へと歩き出した。濃紺のスラックスがテーブルから離れると、部屋の照明光がテーブルの下まで差し込んできたような気がした。
他の出席者たちが絨毯敷きの床を踏みしめる柔らかな物音が聞こえる。主要メンバーの三人の後に続き、大勢の脚が会議場の出口へと向かっているのが見えた。
どうか振り向かないで
美紗は祈るような気持ちで、幕板に張り付いた。
彼らの足音は、ほどなくして、廊下を歩く硬い靴音に変わった。開いたままのドアの向こうで挨拶を交わすやり取りが聞こえる。
ドアの近くに日垣だけが立っているのが見えた。出入り口そばの壁に取り付けられた内線で、どこかに連絡を入れようとしている。他の人間たちはようやく部屋を出てくれたらしい。
美紗がほっと胸をなでおろし、テーブルの下から出ようと少し椅子をずらした時、対テロ連絡準備室長が不意に戸口に顔をのぞかせた。
「すみません、日垣1佐。今のセッションの最中……」
美紗はぎくりと体を震わせた。再びテーブルの奥に身を隠そうとしたが、手足が凍り付いたように動かない。
「……米側から出た話、どこまで警察庁のほうに入れますか? 明日、あちらの連絡室と定例会合があるのですが…」
「少し間引く必要はあるな」
日垣は、内線電話の受話器を手にしたまま、声を低めた。
「『お客』の中にCIAが入っていたことは口外無用だ。それから、連絡チャンネルの件も、うちが主導権を握る目途が付くまで、警察の連中には伏せておきたい。向こうにいるうちのLO(連絡官)にも知らせるな。今のセッションの内容については、取りあえず、向こう側が喜びそうなネタをピックアップしていてくれ。私も後でそっちに顔出すから。今日中に話を詰めよう」
相手は、「了解です」と短く返事をすると、会議場のテーブルの下に目をやることもなく、ドアの向こうへすっと姿を消した。
やがて、数名の人間が廊下を歩き去る足音が聞こえ、部屋の出入り口付近に溜まる人間の会話は英語だけになった。
日垣が内線で何か話すと、間髪を入れず、廊下を走る足音が近づいてきた。
会議のロジを担当する事業企画課の職員のようだった。次のセッションとの間に設けられた二十分ほどの休憩時間に、「お客」の面倒を見ることになっているらしい。
日垣がその担当者に手短に何かを指示すると、ややあって、再び複数の人間が廊下を歩く物音がした。
靴音は徐々に遠ざかり、やがて、辺りは完全に静かになった。
美紗は、ゆっくりと息を吐くと、頭を僅かに出して周囲の様子をうかがった。
人の気配はなかった。
日垣の姿も見当たらない。「お客」の一団と一緒にどこかへ行ったのだろうか。
とにかく、部屋を出るなら今しかない。日垣がいなければ建物の外には出られないが、エレベーターホールの前にでもいれば、おそらく彼に会えるだろう。
何と叱責されるか想像するのも恐ろしいが、先の会議中に他の出席者に見咎められるよりは、はるかにマシだ。
そろりとテーブルの下から身を出しかけた。途端に、美紗は誰かに右腕を掴まれ、勢いよく引っ張り出された。
悲鳴を上げる前に、骨ばった手が口をふさぐ。険のある低い声が、耳元でささやいた。
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