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第20話 それらはまだ、始まったばかり

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『お前は裏切り者だ!』

 ―――やめて。やめて。どうして縛るの。一体私が何をしたの?

『カリン、ごめんなさい。わたくしのせいで、ごめんなさい。お願い、もっと広い所に飛んでって――』

 ―――お母さま。お母さまが言っていたのは、お母さまが裏切り者、だったからですか?それとも――私が呪い子で裏切り者だからですか?それとも、お母さまが天使―――。

 ごめんなさい。お母さま。その呟きそれはだれの耳にも届かず、音声になっていたかも怪しかった。



「フィオレンツァ伯爵が裏切り者というのはご説明願えるかな?ところで、シュティール侯爵、卿は知っているか?」

 男の返事にいち早く反応したのはお兄様である。
 眉間にシワを寄せながら口元にわずかに微笑みを浮かべ、それでいていつもより冷たい声で言い放った兄様の目には、まさに冷血宰相ことお父様の政務官の冷たく鋭い光が浮かび上がっていた。
 いつの間にか扉のそばに立っていた兄様は、お父様の執務机に寄りかかって腕を組み、男を眺めている。野蛮で恐ろしいこれからの事を考えているだろうと思われる顔で。

 こちらもいつの間にかユリアの兄ことリオネルが男の前に立ちふさがっていた。相変わらず言動は置いておいて、気配を消すことへの能力と抽象的なその顔は変わっていない。

 そして、シュティール侯爵―――ユリアの父はこちらもいつの間にかお父様の後ろに立っていた。何故か、悲しそうなそれでいて哀れむような、正直言って微妙ーな表情を浮かべている。

「存じ上げていました、カテール政務官。閣下、どうにも報告が滞っていたようです。しかしながら、その者の言っていることに間違いは無いと存じます。―――強いて言うなら、王女様は裏切り者ではありませんでしたよ。我が国にとってはですが。いつまでもあの方には我が国の姫君プリンシアでいてくださってほしかったですよ」

「うむ、そうか。ところで侯爵、口が過ぎるぞ。久しく報告に来なかった間に妻への口の聞き方でも極めたのか?」
 
 微笑しようとしてあと一歩で冷笑に届きそうなその何か――苛立ちだろうその感情を口元に浮かべて、自分の執務机に両手で頬杖をしながら、畳み掛けるようにお父様は言い放った。決して冗談には取れないだろう一言と一緒に。
 皮肉なことにか、誰もお父様に冗談とユーモアセンスに期待していなかった。そのへんに置いて、お父様のそれが最低であることは一目瞭然であったからだ。

「妻への口の聞き方ですか。そうですね、今日も蹴られてきたばっかりでして。妻のほうが何枚も上手でしたよ」

 これでのろけ話になるところがシュティール侯爵なんだろうな、そう思ってしまうほど恒例の見慣れた会話だ。
 一つ言うのであればシュティール侯爵。貴女ことを睨んでいる方が私の後ろにいますけど、大丈夫なんでしょうかね?だろうか。

「閣下。それからシュティール侯爵。先程の事についてご説明願いたいのでよろしいでしょうか」

 冷血宰相。その宰相を凌駕するほどの冷血な声で言い放た。いつもの兄は怒った!とは何処か違う―――いや一目瞭然で違いがわかるような、まさに氷の笑みだった。
 もたれかかっていた机から冷笑を浮かべてゆっくりと体を起こし、お父様とシュティール侯爵の方は振り返ることなく、真っ直ぐに男を見据えた。

 その兄様に見据えられ、目の前でのろけ話をされて唖然としていた男はビクリと肩を揺らした。
 その時、私は直感的に思った。ここで兄様に渡すのはあり。でも、真実はその後、兄様の口からは聞くことは無いだろう、と。

「待って、兄様。私―――わたくしがこの人と話していたの。良いかしら?」

 ニッコリと笑って首を傾げる動作とともに、兄様を見た。
 正直、この時に良いと言われる確率は低かっただろうな、と思う。つまり、良く兄様が了解と言ったものだ。
 家にいるときみたいに兄の顔でもなく、冷血漢の政務官の顔でいて、しかも最大限に機嫌が悪かったのだから。
 一瞬にして無表情になった兄様はしばらく黙り込んだ。
 その後、そのきれいな口から発せられたのは一言簡潔を極めた。

「了解(ダー)」

「ふふっ、兄様。わたくしの願いを快く聞き入れてくださって、心より嬉しく思いますわ」

「そうか。良かったな」

 ごめんなさい。兄様。とっても怒っていましたね。どちらにせよ、無表情の兄様のほうが怖いかも。

 それは良いとしても、今のこのセリフがみんなが可愛げがない完璧令嬢と言うところであろう、そう自覚している。誰も文句が言えないような、非の打ち所が無い言動こそが実は人を醜い心にさせる。でも、反対の意味で言われるよりはましか、そう決心したからには考えを変えようとは思えない。
 
「ええ、良かったです。ところで貴方、名前は?言わないとわたくしたち、主君に捨てられた重要参考人―――捨てられ者ハビッターと呼びますよ?」

 私がそういった瞬間、兄様とリオネルが吹き出した。それも、同時に。

捨てられ者ハビッターか。プーッ、面白いと言うかなんというか。―――ッ面白すぎる」

「待て、フェリ。その顔で捨てられ者ハビッターと言うとか、似合わない。―――ッ面白すぎるね。セロシアもマティアスもラファエルもいないことが悔やまれるが。それにしても面白い」

「兄様?わたくし本気で言っているんですが。ところで捨てられ者ハビッターもう一度質問いたします。貴方の名前は?」

 捨てられ者ハビッターと呼ぼうその男は一言も話さず、床に転がっている。悔しそうな表情を見せながらも唇を噛み、私のことを睨んでいた。

捨てられ者ハビッターでいいですよ。そのものにはね。公女様、ここからは我々にお任せください」

「面白いものを見たな。―――おや?醜いものも転がっているみたいだが。公爵、其方の部屋―――いや宰相の執務室にどうしてこんな者が転がっている?」

 どちらの方が先に言っただろうか。まだ肩を震わせて笑っているリオネルと今になって来たらしい王太子ことマティアスは時同じして口を開いた。

 その後ろで申し訳無さそうにするセロシア兄様とラファエル。しかしながら、心なしかその口元はわずかに上がっていた。

 乱入者め。私はマティアスたちのことを睨んだ。せっかく、せっかく会えた刺客だと言うのに、なんで今に限って来るのよ!
 カテール兄様いわく、王太子殿下は宰相室に来れることは少なく、いつも兄様の方から出向いていたって言っていたのに!

「醜いもの、ですか。殿下、そちらは大変美味しいものです。ほら、シュティール侯爵がここまで喜んでいるのですからね。ところで殿下。こちらにはいかにしていらっしゃたのでしょうか」

 うん。冷血宰相らしくその声には全く感情がこもっていなかった。強いて言うならば、長く接して来た者はお父様が"お前はどのようにしてこちらに来たのだ。連絡も先触れもなく来るとは無礼なことだな"という秘められた怒りに気づいたに違いない。

 その証拠に、兄様はお父様から見える冷寒に身を震わせていた。

「殿下。早く報告しないと宰相閣下に立入禁止にされますよ?先触れもアポもなしに突っ込んだのは貴方ですからね」

「なんだ?来たくなかったのか、セロシア。そうだと知っていれば連れてくることも無かったな。そうすればあれを見なくても済んだだろうにな」

「お言葉ですが殿下。良いです?王妃殿下から下された仕事を放り出し、宰相の執務室に突っ込み、邪魔者になっているのは事実ですよ」

 う~ん。どうなんだろう。今の所五分五分なような気もするね。
 しかし怒っている兄様も、売り言葉に買い言葉で反応しているマティアスも気づいていない。
 ―――部屋の空気が凍っていることに。

「―――おい。閣下が報告を待っている。用がないならあいにくですが、決済が必要な案件が幾つもありまして。お引取りいただけたら幸いです。さあ、殿下もあとはサインだけの書類の山が机で雪崩を起こすのではありませんか?」

 バッサリと切り捨てるように、不敬に当たることなんてちっとも考えずに言った兄様。そろそろ青筋が浮かび上がりそうなほどである。
 つまり、"早く帰って仕事をしろ。詳細は側近がやっているはずだろう?"というような趣旨のことをそのまま王太子殿下に言ってしまえる兄様が怖い。

 私はこっそりとラファエルに問いかけた。

「殿下―――マティアスは何故来たの?誰の許可をとって?」

「カリン、人には聞いて良いことと悪いことがあるんだ。いいか?あの人は王太子だ。黒を白と言ったらそうなるような方だぞ?」

「そうね。それを王妃様は許す?兄様が許すと思う?―――それとも、殿下に恩でもある訳?」

「人には知られたくないこともある。それくらいわかるだろう」

「否定しないのね。そう、姉さまの事とか?」

「……ベレーナの事に関して、俺は知らない」

「そう。でもね、私は知っているの。貴方――――――……」

 私がそういった瞬間、ラファエルはわかりやすく顔を青くした。その様子を見て、私は密かに微笑んだ。
 しかし、同時に胸がチクッと痛くなって、わたしはラファエルから顔をそむけた。

 ―――ごめんなさい。姉さま。協力するって言ったのに、何も出来てなくて。

『お前が誰かを幸せに出来ると思ったら大間違いだ。恥を知れ!裏切り者』

 ごめんなさい。でも、試してみる価値はあるでしょう?
 私は小さく悪魔に呟いた。

 じょじょに日は赤く染まっていった。

 マティアスのサイン書きも、セロシアやラファエルの誰かさんが放り出した仕事の片付けも、侯爵の事件処理も、刺客の暗殺計画も、宰相の仕事も、その政務官の仕事も、まだまだ始まったばかりである。
 もちろん、カトリーナやベレーナのもまた。


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