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第六章 互いの傷痕
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彼女の異変に、フィルロードが訝しげに離れていく。
「……リリー?」
「ご、ごめんなさい……! ちょっと、緊張、してしまって……」
明らかに動揺して上ずった声が、リリーシャから飛び出す。
「ち、ちがいます、これは、あの……!」
今にも崩れそうな顔立ちで、彼女は懸命に瞳を揺らす。そこから一筋――、こらえきれなかったものが流れ落ちていった。
「あ……」
完全に、リリーシャの表情が固まる。
フィルロードの手が、彼女の目元をゆっくりとぬぐっていく。
「すまない、無理強いをしてしまったようだ」
「そんなこと……、ありません、から。私も、望んで……たのに……ど、して……っ」
混乱するリリーシャを落ち着かせようと、フィルロードが大きく頷いた。
「もういい。もう、大丈夫だから」
「フィ、ル……」
制止するように強く抱きしめてくるフィルロードの胸元に頬を寄せながら、リリーシャはそっと瞳を閉じる。その端から再度、月光を受けたきらめきが幾筋もこぼれ落ちていった。
どこからか差しこんでくる淡い光が、寝台で眠るリリーシャを照らしていく。寄せられた両の眉、薄く開かれた唇、その表情はどこか苦悶に満ちていて。
あの後、意識を失うように眠ってしまった彼女を部屋まで運んだフィルロードは、そのまま部屋に残っていた。
「っ」
苦しげな吐息に、寝台の端に座って様子をうかがっていた紅の目が細められ、フィルロードはそっと彼女の前髪を撫でる。
彼女の睫毛が小刻みに震えて、淡黄色の輝きがわずかに姿を見せた。
「……フィル、ロード?」
「はい、ここに」
「よかっ、た……」
緩々と伸ばされてきたリリーシャの手を、フィルロードが掴む。
安心したようにまどろんでいく彼女を見届けてから、フィルロードは彼女の手を握ったまま、寝台に座りなおした。
『あなたが思っている以上に傷は深いと思うから』
脳裏に、フィオナの言葉が蘇ってくる。
フィルロードは唇を噛みしめると、やり場のない感情を深い嘆息と一緒に吐き出していった。
***
次の日の晩。
フィルロードは、リリーシャの部屋を訪れていた。
とりとめのない話をいくつかした後に、彼はためらう彼女を寝台にうながし、その端に腰を落ち着けると懐から横笛を取り出した。
「ここで、笛を聞かせてくれるのですか?」
「はい。よろしければ、日課の練習におつき合い頂けないかと」
「私はもちろん構いませんが、良いのですか?」
「……わたしが笛を嗜んでいる大元の理由は、あなたですから」
「フィルロード……、ありがとうございます」
リリーシャは胸元で両手を重ね合わせると、華やかな笑みを作った。
フィルロードが膝を組み、意味のなさそうな音の羅列を出していたかと思うと、息を深く吸いこむ。
次にその場に響き渡ったのは、澄んだ音の群れだった。
「……きれいな音色、ですね」
うっとりと、リリーシャの瞳が細められる。
「この城にいる間……、私を慰めてくれていた笛の音を思い出します……」
つぶやきながら、リリーシャはどこか遠くに視線を向けた。
ここではないが狭い牢獄のような部屋で過ごした日が嫌でも思い出されて、彼女は憂いに満ちた表情でうつむく。
今にも壊れそうだったあの日々を、少なからず支えてくれていた美しい音色。それと同じような調べに、リリーシャはしばらくの間無言で聞き入っていた。
胸の内が温かくなるのを感じながら、それに引き寄せられるようにやってきたものに、リリーシャはゆっくりと侵食されていく。
ふ、と思いついて。
「あれも、もしかして……、あなた、が……」
リリーシャの声が、徐々に小さくなる。
トサ、と背中に軽い衝撃が走り、フィルロードは笛を操っていた手を止めた。
「――姫?」
リリーシャの反応がなくなり、フィルロードは左手に笛を持つと背中越しに彼女を覗きこんだ。
表情はよく確認できないものの、彼女はどうやら眠ってしまったようだった。安らかな寝息と息継ぎが、すぐそばで聞こえる。
背中に密着している熱を心地よく感じながら、フィルロードは彼女を起こさないようにゆっくりと身体の向きを変えると、手を伸ばした。
彼女の頭から首の後ろに沿って、そっと撫でていく。「ん」と漏らされた吐息に、かすかに驚いた紅の瞳がすぐさま和らぐ。小さく笑って、今度はまとわりついている紫の髪を優しく払いのけると、うなじの白い肌が露出した。
「…………」
やわらかな感触に赤い目が細められ、徐々にその色を変え始めて――すぐに閉じられた。
深々とした呼吸を繰り返してから、身体の向きを元に戻す。
もう一度笛に唇を寄せて、もどかしい熱を背中に感じながら――、フィルロードはそれを抑えこむように物静かな旋律を奏で始めた。
「……リリー?」
「ご、ごめんなさい……! ちょっと、緊張、してしまって……」
明らかに動揺して上ずった声が、リリーシャから飛び出す。
「ち、ちがいます、これは、あの……!」
今にも崩れそうな顔立ちで、彼女は懸命に瞳を揺らす。そこから一筋――、こらえきれなかったものが流れ落ちていった。
「あ……」
完全に、リリーシャの表情が固まる。
フィルロードの手が、彼女の目元をゆっくりとぬぐっていく。
「すまない、無理強いをしてしまったようだ」
「そんなこと……、ありません、から。私も、望んで……たのに……ど、して……っ」
混乱するリリーシャを落ち着かせようと、フィルロードが大きく頷いた。
「もういい。もう、大丈夫だから」
「フィ、ル……」
制止するように強く抱きしめてくるフィルロードの胸元に頬を寄せながら、リリーシャはそっと瞳を閉じる。その端から再度、月光を受けたきらめきが幾筋もこぼれ落ちていった。
どこからか差しこんでくる淡い光が、寝台で眠るリリーシャを照らしていく。寄せられた両の眉、薄く開かれた唇、その表情はどこか苦悶に満ちていて。
あの後、意識を失うように眠ってしまった彼女を部屋まで運んだフィルロードは、そのまま部屋に残っていた。
「っ」
苦しげな吐息に、寝台の端に座って様子をうかがっていた紅の目が細められ、フィルロードはそっと彼女の前髪を撫でる。
彼女の睫毛が小刻みに震えて、淡黄色の輝きがわずかに姿を見せた。
「……フィル、ロード?」
「はい、ここに」
「よかっ、た……」
緩々と伸ばされてきたリリーシャの手を、フィルロードが掴む。
安心したようにまどろんでいく彼女を見届けてから、フィルロードは彼女の手を握ったまま、寝台に座りなおした。
『あなたが思っている以上に傷は深いと思うから』
脳裏に、フィオナの言葉が蘇ってくる。
フィルロードは唇を噛みしめると、やり場のない感情を深い嘆息と一緒に吐き出していった。
***
次の日の晩。
フィルロードは、リリーシャの部屋を訪れていた。
とりとめのない話をいくつかした後に、彼はためらう彼女を寝台にうながし、その端に腰を落ち着けると懐から横笛を取り出した。
「ここで、笛を聞かせてくれるのですか?」
「はい。よろしければ、日課の練習におつき合い頂けないかと」
「私はもちろん構いませんが、良いのですか?」
「……わたしが笛を嗜んでいる大元の理由は、あなたですから」
「フィルロード……、ありがとうございます」
リリーシャは胸元で両手を重ね合わせると、華やかな笑みを作った。
フィルロードが膝を組み、意味のなさそうな音の羅列を出していたかと思うと、息を深く吸いこむ。
次にその場に響き渡ったのは、澄んだ音の群れだった。
「……きれいな音色、ですね」
うっとりと、リリーシャの瞳が細められる。
「この城にいる間……、私を慰めてくれていた笛の音を思い出します……」
つぶやきながら、リリーシャはどこか遠くに視線を向けた。
ここではないが狭い牢獄のような部屋で過ごした日が嫌でも思い出されて、彼女は憂いに満ちた表情でうつむく。
今にも壊れそうだったあの日々を、少なからず支えてくれていた美しい音色。それと同じような調べに、リリーシャはしばらくの間無言で聞き入っていた。
胸の内が温かくなるのを感じながら、それに引き寄せられるようにやってきたものに、リリーシャはゆっくりと侵食されていく。
ふ、と思いついて。
「あれも、もしかして……、あなた、が……」
リリーシャの声が、徐々に小さくなる。
トサ、と背中に軽い衝撃が走り、フィルロードは笛を操っていた手を止めた。
「――姫?」
リリーシャの反応がなくなり、フィルロードは左手に笛を持つと背中越しに彼女を覗きこんだ。
表情はよく確認できないものの、彼女はどうやら眠ってしまったようだった。安らかな寝息と息継ぎが、すぐそばで聞こえる。
背中に密着している熱を心地よく感じながら、フィルロードは彼女を起こさないようにゆっくりと身体の向きを変えると、手を伸ばした。
彼女の頭から首の後ろに沿って、そっと撫でていく。「ん」と漏らされた吐息に、かすかに驚いた紅の瞳がすぐさま和らぐ。小さく笑って、今度はまとわりついている紫の髪を優しく払いのけると、うなじの白い肌が露出した。
「…………」
やわらかな感触に赤い目が細められ、徐々にその色を変え始めて――すぐに閉じられた。
深々とした呼吸を繰り返してから、身体の向きを元に戻す。
もう一度笛に唇を寄せて、もどかしい熱を背中に感じながら――、フィルロードはそれを抑えこむように物静かな旋律を奏で始めた。
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