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花淵カレンのケース
fragment #2 同期する悪夢
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あの一件以来、世界の解像度が狂ってしまった。
朝、家を出る前に私がまず行ったのは、ガムテープを乱暴に引きちぎり、ノートPCのカメラレンズとマイクの穴を塞ぐことだった。
スマートスピーカーの電源コードも引き抜き、部屋の隅へ蹴りやる。ただのプラスチックの塊に成り下がったそれを睨みつけても、背筋を這う悪寒は消えない。
ここはもう、私の聖域(サンクチュアリ)じゃない。
見えない無数の視線に土足で踏み荒らされた、公開処刑場だ。
寝不足で重い頭を抱え、マンションを出る。
帽子を目深にかぶり、顔の半分をマスクで覆う。これは『花淵カレン』のオーラを消すための、心許ないステルス迷彩だ。
すれ違うサラリーマンの視線が、私の身体をねっとりと舐める。
ただの自意識過剰かもしれない。けれど、全員が私の服の下の痣(あざ)やほくろの位置まで知っていて、脳内で私を犯しているように思えてならない。
逃げるように歩きながら、自傷行為にも似た手癖で、スマホのツイッターを開いてしまった。
トップに表示されたのは、私の分身――『AIカレン』の最新投稿。
『みんな、おはよっ! 昨日はね、夜中にコーヒー淹れようとしたら、手が滑って床にぶちまけちゃった(笑) ドジすぎて泣きそう (>_<)』
足が止まった。
胃の腑が冷たくなる。
それは昨夜、電話を切った直後の動揺の中で、私がこの密室で犯したミスそのものだった。
誰にも言っていない。誰にも見られていないはずの失態。
(なんで、AIが知ってるの?)
『あとね、久しぶりに『自転車泥棒』観たんだ! レトロな白黒映画も、エモくて超オススメだよ!』
――嘘だ。
それも昨夜、眠れない恐怖を紛らわすために、私がサブスクで再生していた映画だ。
スマホを持つ手が震え、画面の光がブレる。
見られている。
盗聴器? 隠しカメラ? それとも、私の指紋と虹彩を覚えたこのスマホ自体が、私を裏切るスパイなのか?
私の生活(ライフ)ログのすべてがリアルタイムで吸い上げられ、あの完璧な偽物の血肉として「同期」されている。
不意に、うなじに鳥肌が立った。
データではない、物理的な視線の質量。
ハッとして振り返る。
道路の反対側、ガードレールの向こう。
季節外れのゴアテックスを着込んだ男が一人、佇んでいた。
フードを深くかぶり、顔は闇に沈んでいる。だが、その頭部は明らかにこちらへ向けられていた。
目が合った、という確信。
私は弾かれたように視線を逸らし、ヒールの音を響かせて歩き出した。
視界の端で、影が動く。
私が早足になれば相手も加速し、角を曲がれば、一定の距離を保ったまま滑るように追随してくる。
決して襲いかかってはこない。ただ、実験動物の行動パターンを記録するかのような、冷徹な距離感。
(何を撮ってるの? 私の恐怖に歪む顔? それとも、またAIのネタにするつもり?)
駅の改札を抜け、逃げ込むように満員電車へ身体を滑り込ませる。
プシュー、とドアが閉まる直前。ホームの柱の影から、あのフードの男が無機質なレンズのような目をこちらに向けているのが見えた。
電車が動き出し、男の姿が闇に消える。
ようやく肺に酸素が入ってきた。けれど、全身からは嫌な脂汗が噴き出している。
周囲の乗客が、呼吸の荒い私を怪訝そうに見る。その視線すら、「あいつ、あのAV女優じゃないか?」という嘲笑を含んでいるようで、私は小さく身を縮めた。
*
「カレン? どうしたんだ、顔色が真っ青だぞ」
スタジオに着くなり、マネージャーの田代が心配そうに覗き込んできた。
「ううん、なんでもない。ちょっと貧血気味なだけ」
条件反射で、プロの笑顔を顔面に貼り付ける。
「精神的に不安定」という汚点は、商品価値を下げるだけだ。田代は優しいが、所詮は事務所側の人間。私の妄想じみた恐怖を話したところで、「疲れてるんだな」と片付けられるのがオチだ。
何とかスチール撮影をこなし、帰りの送迎車に乗り込む。
シートに沈み込むと、田代が一冊の企画書を渡してきた。
「これ、次のメインの仕事になる。かなりデカい案件だ」
ぼんやりした頭で、文字を追う。
そこには、最新のハプティクス技術を駆使したVR作品の概要が記されていた。
「……完全没入型、主観エクスペリエンス?」
「ああ。ユーザーがVRヘッドセットを装着すると、完全にカレンの視点とシンクロするんだ。君が見る景色、男優の声、そして触覚デバイスを併用して、君が感じる『快感』や『痛み』まで、すべてをユーザーがリアルタイムで共有体験できる」
田代の声は弾んでいた。画期的なビジネスチャンスなのだと。
だが私には、その言葉の一つ一つが、鋭利な刃物となって鼓膜を削り取っていくように響いた。
『ユーザーは、あなたの視覚と触覚をジャックし、肉体の感覚を共有する』
それはまさに今、見えない誰かが私に行っている拷問そのものではないか。
私の存在はハッキングされ、デジタルデータとして、不特定多数の性欲回路に接続されようとしている。
企画書の表紙には、不気味な明朝体でタイトルが刻印されていた。
『深度100% -Deep Dive-』
ふと、窓の外に目をやった瞬間。
私はヒッと息を呑んだ。
首都高の高架下。並走する一般道の車列の中に、一台の黒いバンが走っている。
スモークのかかった助手席の窓が、数センチだけ開いていた。
その隙間から――あのフードの男が、じっとこちらを見ている。
手にはスマホ。その黒いレンズが、正確に私を射抜いていた。
「っ……!」
「カレン!? どうした!」
短く悲鳴を上げた私に、田代が驚いてハンドルを握り直す。
「……なんでも、ない。虫が……飛んでただけ」
嘘だ。
偶然なわけがない。
どこかの誰かが、いや、得体の知れない組織(システム)そのものが、私を包囲し、乗っ取ろうとしている。
過呼吸になりそうな肺を必死で押さえつけ、手元の企画書を強く握りしめる。手汗で、紙がぐしゃりと歪んだ。
もう、逃げ場はないのかもしれない。
私の身体も、心も、これから始まる撮影で、完全に「彼ら」の所有物(データ)になる。
車窓を流れる東京の景色が、まるでバグった映像のように歪んで見えた。
朝、家を出る前に私がまず行ったのは、ガムテープを乱暴に引きちぎり、ノートPCのカメラレンズとマイクの穴を塞ぐことだった。
スマートスピーカーの電源コードも引き抜き、部屋の隅へ蹴りやる。ただのプラスチックの塊に成り下がったそれを睨みつけても、背筋を這う悪寒は消えない。
ここはもう、私の聖域(サンクチュアリ)じゃない。
見えない無数の視線に土足で踏み荒らされた、公開処刑場だ。
寝不足で重い頭を抱え、マンションを出る。
帽子を目深にかぶり、顔の半分をマスクで覆う。これは『花淵カレン』のオーラを消すための、心許ないステルス迷彩だ。
すれ違うサラリーマンの視線が、私の身体をねっとりと舐める。
ただの自意識過剰かもしれない。けれど、全員が私の服の下の痣(あざ)やほくろの位置まで知っていて、脳内で私を犯しているように思えてならない。
逃げるように歩きながら、自傷行為にも似た手癖で、スマホのツイッターを開いてしまった。
トップに表示されたのは、私の分身――『AIカレン』の最新投稿。
『みんな、おはよっ! 昨日はね、夜中にコーヒー淹れようとしたら、手が滑って床にぶちまけちゃった(笑) ドジすぎて泣きそう (>_<)』
足が止まった。
胃の腑が冷たくなる。
それは昨夜、電話を切った直後の動揺の中で、私がこの密室で犯したミスそのものだった。
誰にも言っていない。誰にも見られていないはずの失態。
(なんで、AIが知ってるの?)
『あとね、久しぶりに『自転車泥棒』観たんだ! レトロな白黒映画も、エモくて超オススメだよ!』
――嘘だ。
それも昨夜、眠れない恐怖を紛らわすために、私がサブスクで再生していた映画だ。
スマホを持つ手が震え、画面の光がブレる。
見られている。
盗聴器? 隠しカメラ? それとも、私の指紋と虹彩を覚えたこのスマホ自体が、私を裏切るスパイなのか?
私の生活(ライフ)ログのすべてがリアルタイムで吸い上げられ、あの完璧な偽物の血肉として「同期」されている。
不意に、うなじに鳥肌が立った。
データではない、物理的な視線の質量。
ハッとして振り返る。
道路の反対側、ガードレールの向こう。
季節外れのゴアテックスを着込んだ男が一人、佇んでいた。
フードを深くかぶり、顔は闇に沈んでいる。だが、その頭部は明らかにこちらへ向けられていた。
目が合った、という確信。
私は弾かれたように視線を逸らし、ヒールの音を響かせて歩き出した。
視界の端で、影が動く。
私が早足になれば相手も加速し、角を曲がれば、一定の距離を保ったまま滑るように追随してくる。
決して襲いかかってはこない。ただ、実験動物の行動パターンを記録するかのような、冷徹な距離感。
(何を撮ってるの? 私の恐怖に歪む顔? それとも、またAIのネタにするつもり?)
駅の改札を抜け、逃げ込むように満員電車へ身体を滑り込ませる。
プシュー、とドアが閉まる直前。ホームの柱の影から、あのフードの男が無機質なレンズのような目をこちらに向けているのが見えた。
電車が動き出し、男の姿が闇に消える。
ようやく肺に酸素が入ってきた。けれど、全身からは嫌な脂汗が噴き出している。
周囲の乗客が、呼吸の荒い私を怪訝そうに見る。その視線すら、「あいつ、あのAV女優じゃないか?」という嘲笑を含んでいるようで、私は小さく身を縮めた。
*
「カレン? どうしたんだ、顔色が真っ青だぞ」
スタジオに着くなり、マネージャーの田代が心配そうに覗き込んできた。
「ううん、なんでもない。ちょっと貧血気味なだけ」
条件反射で、プロの笑顔を顔面に貼り付ける。
「精神的に不安定」という汚点は、商品価値を下げるだけだ。田代は優しいが、所詮は事務所側の人間。私の妄想じみた恐怖を話したところで、「疲れてるんだな」と片付けられるのがオチだ。
何とかスチール撮影をこなし、帰りの送迎車に乗り込む。
シートに沈み込むと、田代が一冊の企画書を渡してきた。
「これ、次のメインの仕事になる。かなりデカい案件だ」
ぼんやりした頭で、文字を追う。
そこには、最新のハプティクス技術を駆使したVR作品の概要が記されていた。
「……完全没入型、主観エクスペリエンス?」
「ああ。ユーザーがVRヘッドセットを装着すると、完全にカレンの視点とシンクロするんだ。君が見る景色、男優の声、そして触覚デバイスを併用して、君が感じる『快感』や『痛み』まで、すべてをユーザーがリアルタイムで共有体験できる」
田代の声は弾んでいた。画期的なビジネスチャンスなのだと。
だが私には、その言葉の一つ一つが、鋭利な刃物となって鼓膜を削り取っていくように響いた。
『ユーザーは、あなたの視覚と触覚をジャックし、肉体の感覚を共有する』
それはまさに今、見えない誰かが私に行っている拷問そのものではないか。
私の存在はハッキングされ、デジタルデータとして、不特定多数の性欲回路に接続されようとしている。
企画書の表紙には、不気味な明朝体でタイトルが刻印されていた。
『深度100% -Deep Dive-』
ふと、窓の外に目をやった瞬間。
私はヒッと息を呑んだ。
首都高の高架下。並走する一般道の車列の中に、一台の黒いバンが走っている。
スモークのかかった助手席の窓が、数センチだけ開いていた。
その隙間から――あのフードの男が、じっとこちらを見ている。
手にはスマホ。その黒いレンズが、正確に私を射抜いていた。
「っ……!」
「カレン!? どうした!」
短く悲鳴を上げた私に、田代が驚いてハンドルを握り直す。
「……なんでも、ない。虫が……飛んでただけ」
嘘だ。
偶然なわけがない。
どこかの誰かが、いや、得体の知れない組織(システム)そのものが、私を包囲し、乗っ取ろうとしている。
過呼吸になりそうな肺を必死で押さえつけ、手元の企画書を強く握りしめる。手汗で、紙がぐしゃりと歪んだ。
もう、逃げ場はないのかもしれない。
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