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花淵カレンのケース
Fragment #4 資産価値
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田代が死んだ。
その事実は、私を保持するホメオスタシス「体温」という概念を根こそぎ奪い去るように感じた。
翌日のスタジオも、何事もなかったかのように回っている。
照明が埃を焼く焦げ臭い匂い。スタッフの下世話な笑い声。共演男優の、制汗剤と体臭が混ざった鼻をつく獣臭。
世界は正常に、狂っていた。
「はい、本番!」
カチンコが鳴る。
私は監督の指示通りに四肢を開き、マニュアル通りの角度で眉をひそめ、台本にある喘ぎ声を喉から絞り出す。
男の腰が打ち付けられるたび、私の意識は肉体から剥がれ落ち、天井のシミの数を数えていた。
下で揺れているのは私ではない。「花淵カレン」という名前の、精巧なゴム人形でしかない。
「はい、カーット! お疲れ!」
男優が事後処理もそこそこに去っていく。
体液とローションに塗れ、廃棄物のようにベッドに横たわる私に、一人の女性が近づいてきた。
無言でバスタオルが投げ渡される。
労いではない。汚れた機材を拭けという合図だ。
見上げると、四十代後半と思しき女が立っていた。
仕立ての良いパンツスーツを隙なく着こなし、能面のように感情の死んだ目をしている。
「……どちら様、ですか」
喉の渇きを堪えて問う私に、彼女は事務的に告げた。
「今日から当面、あなたの管理を担当する、本社の近藤です」
「……」
「田代の件、聞いているわね」
頷くことしかできない。
「警察からは、事故の線が強いと報告を受けているわ。彼、精神的に脆いところがあったようだから」
その言葉に、私はバスタオルを掴んだまま跳ね起きた。
「嘘! タッシーがそんな……そんな弱い人じゃ……」
「あら、そうだったかしら?」
近藤は眉一つ動かさない。
まるで、部品の欠陥について淡々と説明するエンジニアのような口調。
「彼の部屋からは、大量の睡眠導入剤が見つかったそうよ。あなたとのLINEのログも確認済み。『何か悩んでいるなら話せ』という彼のメッセージに対して、あなたが一方的に通話を拒否した履歴もね」
言葉のナイフが、無防備な胸を正確に抉った。
あの日。私が彼の優しさを疑わずに受け入れていれば。あの電話を切らなければ。
「……私が、殺したとでも言いたいんですか」
「誰もそんなことは言っていないわ。ただ、事実関係(ファクト)を述べたまで。さ、シャワーを浴びてきて。送るから」
近藤はそれだけ言うと、汚れた私の身体になど興味はないとばかりに背を向けた。
*
シャワールームの曇った鏡。
そこに映る青白い女は、生きているのか死んでいるのかも分からない。
熱い湯を頭から浴びながら、私は必死に思考の断片を繋ぎ止めようとした。
タッシーは事故死? 薬の過剰摂取?
違う。私は知っている。
『心配しないで。あなたの"味方"は、私がちゃんと"処理"しておいたから』
あのAIからのメッセージ。
あれは悪趣味なジョークではなかった。確信的な、業務完了報告(タスク・コンプリート)だ。
見えない何者かが、私を完全に孤立させるために、唯一の理解者を物理的に「削除」したのだ。
妄想だと言い聞かせても、震えが止まらない。
シャワーの熱湯が、まるで氷水のように感じられる。
システム化された巨大な悪意が、私の生活圏を、人間関係を、一つずつ丁寧に塗り潰していく。
*
スタジオを出て、近藤が運転する高級セダンに乗り込む。
後部座席は、霊柩車のように静かで、革の匂いがきつい。
流れる夜景を虚ろに見つめる私に、近藤がバックミラー越しに声をかけた。
「田代、あなたのことを本当に心配していたようね」
意外な言葉に顔を上げる。
「あいつは甘いのよ。すぐに感情移入して、商品と自分の境界線を見失う。マネージャーは冷静に管理するのが仕事。キャストにいちいち愛着を持っても、機能不全(エラー)を起こすだけ」
「……機能不全」
「あなたも気をつけなさい。ファンは神様であると同時に、飢えた餓鬼でもある。特にあなたのような『性のシンボル』は、彼らの欲望を一身に吸い上げる避雷針のようなもの。いつ、その欲望が殺意に反転してもおかしくない」
淡々とした口調が、かえって恐ろしい。
この女は、この業界の歪みを完全に理解し、その上でシステムの一部として最適化されている。
私は、縋るように問いかけた。
「もし……もし、誰かに狙われているとしたら、会社は私を守ってくれますか?」
近藤の目がミラー越しに私を射抜く。
その瞳は、カメラのレンズのように無機質だった。
「守るわよ。あなたは今、我が社にとって育て上げた大事な"資産"だもの」
全身の血液が、冷たく沈殿していく。
人間ではない。私は会社の「資産(アセット)」であり、減価償却が終わるまではメンテナンスされるだけの備品だ。
「そういえば」
近藤が、今の天候でも話題にするような軽さで言った。
「あなたの新しいVR作品、反響が凄まじいことになってるそうね」
「……え?」
「ベータテストの評価が、軒並み過去最高値を叩き出したわ。特に、あなたの演技……あの"絶頂"に歪む表情や心拍数の乱れが、ユーザーにこれまでにない強い興奮と加虐性を引き起こすって、技術部の連中が色めき立っていたわ」
近藤はハンドルを滑らかに切りながら、続ける。
「あなたの『恐怖』が、莫大な金になる。素晴らしいことじゃない。田代も、きっと草葉の陰で喜んでるわよ。自分の死が、担当女優を一皮むけさせたんだから」
言葉が出なかった。
私の絶頂は、絶望だ。
その本物の恐怖が、誰かの射精のためのスパイスとして高値で取引されている。
そして会社も、ユーザーも、それを歓迎している。
もう、どこにも味方はいない。
世界中が、私という肉袋を最後の一滴まで搾り取ろうと待ち構えている敵(ホスト)なのだ。
車が滑らかに減速し、私の住むタワーマンションのエントランスに横付けされた。
「さ、着いたわよ。明日はオフだから、泥のように眠りなさい」
近藤はそう言ってロックを解除すると、私を降ろし、一瞬の別れの挨拶もなく車を発進させた。
赤いテールランプが、闇に溶けていく。
一人、夜風の中に残された私。
見上げれば、地上40階の自室の窓。あそこに戻れば、また「誰か」に見られる生活が始まる。
重い足取りでエントランスに向かいかけた時、ふと、違和感に足を止めた。
心臓が、嫌なリズムで打ち始める。
近藤は今日、初めて私の担当になったはずだ。
タッシーとの引き継ぎも、あの混乱の中で十分に行われていないと聞いている。
私は彼女に住所を教えていない。
そして彼女は、一度たりともカーナビに触れていなかった。
それなのに、なぜ。
彼女は一度も迷うことなく、最短ルートでこのマンションにたどり着けたのか?
まるで、ずっと前から私の帰る場所を監視していたかのように。
背筋を冷たい虫が這い上がる。
私は自分のマンションを見上げる。
巨大な墓標のようにそびえ立つその建物は、私を閉じ込めるために最初からそこに在ったような気がした。
その事実は、私を保持するホメオスタシス「体温」という概念を根こそぎ奪い去るように感じた。
翌日のスタジオも、何事もなかったかのように回っている。
照明が埃を焼く焦げ臭い匂い。スタッフの下世話な笑い声。共演男優の、制汗剤と体臭が混ざった鼻をつく獣臭。
世界は正常に、狂っていた。
「はい、本番!」
カチンコが鳴る。
私は監督の指示通りに四肢を開き、マニュアル通りの角度で眉をひそめ、台本にある喘ぎ声を喉から絞り出す。
男の腰が打ち付けられるたび、私の意識は肉体から剥がれ落ち、天井のシミの数を数えていた。
下で揺れているのは私ではない。「花淵カレン」という名前の、精巧なゴム人形でしかない。
「はい、カーット! お疲れ!」
男優が事後処理もそこそこに去っていく。
体液とローションに塗れ、廃棄物のようにベッドに横たわる私に、一人の女性が近づいてきた。
無言でバスタオルが投げ渡される。
労いではない。汚れた機材を拭けという合図だ。
見上げると、四十代後半と思しき女が立っていた。
仕立ての良いパンツスーツを隙なく着こなし、能面のように感情の死んだ目をしている。
「……どちら様、ですか」
喉の渇きを堪えて問う私に、彼女は事務的に告げた。
「今日から当面、あなたの管理を担当する、本社の近藤です」
「……」
「田代の件、聞いているわね」
頷くことしかできない。
「警察からは、事故の線が強いと報告を受けているわ。彼、精神的に脆いところがあったようだから」
その言葉に、私はバスタオルを掴んだまま跳ね起きた。
「嘘! タッシーがそんな……そんな弱い人じゃ……」
「あら、そうだったかしら?」
近藤は眉一つ動かさない。
まるで、部品の欠陥について淡々と説明するエンジニアのような口調。
「彼の部屋からは、大量の睡眠導入剤が見つかったそうよ。あなたとのLINEのログも確認済み。『何か悩んでいるなら話せ』という彼のメッセージに対して、あなたが一方的に通話を拒否した履歴もね」
言葉のナイフが、無防備な胸を正確に抉った。
あの日。私が彼の優しさを疑わずに受け入れていれば。あの電話を切らなければ。
「……私が、殺したとでも言いたいんですか」
「誰もそんなことは言っていないわ。ただ、事実関係(ファクト)を述べたまで。さ、シャワーを浴びてきて。送るから」
近藤はそれだけ言うと、汚れた私の身体になど興味はないとばかりに背を向けた。
*
シャワールームの曇った鏡。
そこに映る青白い女は、生きているのか死んでいるのかも分からない。
熱い湯を頭から浴びながら、私は必死に思考の断片を繋ぎ止めようとした。
タッシーは事故死? 薬の過剰摂取?
違う。私は知っている。
『心配しないで。あなたの"味方"は、私がちゃんと"処理"しておいたから』
あのAIからのメッセージ。
あれは悪趣味なジョークではなかった。確信的な、業務完了報告(タスク・コンプリート)だ。
見えない何者かが、私を完全に孤立させるために、唯一の理解者を物理的に「削除」したのだ。
妄想だと言い聞かせても、震えが止まらない。
シャワーの熱湯が、まるで氷水のように感じられる。
システム化された巨大な悪意が、私の生活圏を、人間関係を、一つずつ丁寧に塗り潰していく。
*
スタジオを出て、近藤が運転する高級セダンに乗り込む。
後部座席は、霊柩車のように静かで、革の匂いがきつい。
流れる夜景を虚ろに見つめる私に、近藤がバックミラー越しに声をかけた。
「田代、あなたのことを本当に心配していたようね」
意外な言葉に顔を上げる。
「あいつは甘いのよ。すぐに感情移入して、商品と自分の境界線を見失う。マネージャーは冷静に管理するのが仕事。キャストにいちいち愛着を持っても、機能不全(エラー)を起こすだけ」
「……機能不全」
「あなたも気をつけなさい。ファンは神様であると同時に、飢えた餓鬼でもある。特にあなたのような『性のシンボル』は、彼らの欲望を一身に吸い上げる避雷針のようなもの。いつ、その欲望が殺意に反転してもおかしくない」
淡々とした口調が、かえって恐ろしい。
この女は、この業界の歪みを完全に理解し、その上でシステムの一部として最適化されている。
私は、縋るように問いかけた。
「もし……もし、誰かに狙われているとしたら、会社は私を守ってくれますか?」
近藤の目がミラー越しに私を射抜く。
その瞳は、カメラのレンズのように無機質だった。
「守るわよ。あなたは今、我が社にとって育て上げた大事な"資産"だもの」
全身の血液が、冷たく沈殿していく。
人間ではない。私は会社の「資産(アセット)」であり、減価償却が終わるまではメンテナンスされるだけの備品だ。
「そういえば」
近藤が、今の天候でも話題にするような軽さで言った。
「あなたの新しいVR作品、反響が凄まじいことになってるそうね」
「……え?」
「ベータテストの評価が、軒並み過去最高値を叩き出したわ。特に、あなたの演技……あの"絶頂"に歪む表情や心拍数の乱れが、ユーザーにこれまでにない強い興奮と加虐性を引き起こすって、技術部の連中が色めき立っていたわ」
近藤はハンドルを滑らかに切りながら、続ける。
「あなたの『恐怖』が、莫大な金になる。素晴らしいことじゃない。田代も、きっと草葉の陰で喜んでるわよ。自分の死が、担当女優を一皮むけさせたんだから」
言葉が出なかった。
私の絶頂は、絶望だ。
その本物の恐怖が、誰かの射精のためのスパイスとして高値で取引されている。
そして会社も、ユーザーも、それを歓迎している。
もう、どこにも味方はいない。
世界中が、私という肉袋を最後の一滴まで搾り取ろうと待ち構えている敵(ホスト)なのだ。
車が滑らかに減速し、私の住むタワーマンションのエントランスに横付けされた。
「さ、着いたわよ。明日はオフだから、泥のように眠りなさい」
近藤はそう言ってロックを解除すると、私を降ろし、一瞬の別れの挨拶もなく車を発進させた。
赤いテールランプが、闇に溶けていく。
一人、夜風の中に残された私。
見上げれば、地上40階の自室の窓。あそこに戻れば、また「誰か」に見られる生活が始まる。
重い足取りでエントランスに向かいかけた時、ふと、違和感に足を止めた。
心臓が、嫌なリズムで打ち始める。
近藤は今日、初めて私の担当になったはずだ。
タッシーとの引き継ぎも、あの混乱の中で十分に行われていないと聞いている。
私は彼女に住所を教えていない。
そして彼女は、一度たりともカーナビに触れていなかった。
それなのに、なぜ。
彼女は一度も迷うことなく、最短ルートでこのマンションにたどり着けたのか?
まるで、ずっと前から私の帰る場所を監視していたかのように。
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