Digital Proxy Disorder

木村 忠司

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花淵カレンのケース

Fragment #5 神の座、あるいは断頭台

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腐敗した潮の匂いと、鉄錆の臭気。
コンクリートの亀裂から染み出すそれらは、都市の排泄物のような悪臭を放っている。
ここは地図から抹消された、東京湾奥の埋立地。かつて物流の心臓部だった巨大倉庫は今、打ち捨てられた死体のように静まり返っている。

天井を這う配管は、硬化した動脈のように絡み合い、漏れ出したオイルが黒い水溜まりを作っていた。
その闇の中央に、一台のハイエースが鎮座している。
窓を完全に塗り潰されたマットブラックの車体は、巨大な棺桶を連想させた。

スライドドアから這い出す太いケーブルが、直結されたサーバーラックへと伸びている。
唸りを上げる排熱ファンの重低音だけが、この空間で唯一の生命活動だ。

青白いモニターの光が、男の顔を照らしている。
ロゴのない安物のパーカー。フードを目深にかぶり、猫背でキーボードを叩くその姿は、人間というより、システムの一部が肉体を纏っているような空虚さを漂わせていた。

カチャ、カチャ、ッターン。
乾いたタイプ音が、静寂を鋭利に切り刻む。

彼の眼前に並ぶ、三台の4Kモニター。
映し出されているのは、一人の女の「解剖図」だ。

ターゲット:『Asset-K(花淵カレン)』。

左のモニターには、タワーマンションの共用部。
エントランス、エレベーター、内廊下。管理会社のシステムにバックドアを仕掛け、掌握した「神の視点」。
深夜の廊下で、センサーライトが誤作動して明滅する様までもが鮮明に記録されている。

そして、中央のメインモニター。
彼女が最後の砦と信じている「聖域」は、電子の眼によって無慈悲に暴かれていた。

映像ソースは複数。
一つは、ハッキングされた彼女のノートPC。レンズはガムテープで塞がれているが、その貼り方は焦燥と恐怖で雑だった。わずかに浮き上がったテープの隙間。その数ミリのスリットから差し込む光が、檻の中の獣のように部屋を徘徊するカレンを捉えている。

もう一つは、火災報知器の隙間に仕込まれたピンホールカメラからの俯瞰映像。
ベッドで頭を抱え、痙攣するように震える女の肢体を、4Kの解像度が残酷なまでに美しく切り取る。

「……バイタル、レッドゾーン突入。コルチゾール値、許容限界を超過」

男が独りごちた。声に感情の色はない。

右のモニターには、無機質な数値の滝(ウォーターフォール)が流れている。
彼女が健康管理のために身につけているスマートウォッチ。それは今や、心拍数、血圧、発汗量、睡眠深度に至るまで、すべての生体データをリアルタイムで送信する「首輪」となっていた。

心拍数:142 bpm。

安静時とは思えない異常数値。
男は、水槽の熱帯魚を観察するような瞳で、恐怖に蝕まれていく彼女を眺めていた。
彼にとってカレンは、人間ではない。高品質な「恐怖データ」を生成するための、有機的なプロセッサに過ぎない。

キーを叩くと、スピーカーから増幅された音声が漏れ出した。

『……やっぱりおかしい。タッシーが死ぬなんて』

掠れた独り言。衣擦れの音。過呼吸気味の荒いノイズ。
それら全てがサーバーへ吸い上げられ、数億のパラメータを持つAIモデルの糧となる。

「状況は?」

いつの間にか、背後の闇に二つの人影が立っていた。
一人はオペレーターと同じパーカー姿。もう一人は、目と口だけを切り抜いたバラクラバ(目出し帽)で顔を覆い、彫像のように腕を組んでいる。
足元には、人間一人が優に収まるサイズの、業務用の黒いボストンバッグ。

オペレーターは振り返りもせず、淡々と答えた。

「準備万端(オールグリーン)。現在の彼女に、正常な判断能力はない。マネージャーの死というトリガーにより、精神的防壁は崩壊済みだ」
「抵抗の可能性は?」
「皆無。今の彼女なら、赤子の手をひねるより容易い」

その時。
中央モニターの右下に、真紅のポップアップウィンドウが表示された。
高度に暗号化された専用回線からのオーダー。

[ 通達:Project "MIMIC" 統括本部 ]
[ 対象:Asset-K ]
[ ステータス更新:データ収集フェーズ完了 ]
[ 指示:物理的回収(Physical Intervention)を開始せよ ]
[ ※商品価値維持のため、損傷は最小限に留めること ]

男は表情一つ変えず、『了解(Copy)』と打ち込み、エンターキーを強く叩いた。
カチャリ。
その乾いた音が、彼女の運命を決定づける断頭台の音のように響いた。

「……時間だ。回収(ピック)を行う」

その言葉が合図だった。
バラクラバの男が、倉庫の壁に立てかけられていたバールを手に取る。
鈍い銀色の光を放つ鉄塊。
解錠のためではない。マスターキーはある。これは、万が一「荷物」が暴れた際の、躾(しつけ)のための道具だ。

ガラン、と硬質な音を立ててバールが車内に放り込まれる。
もう一人の男がボストンバッグを肩に担ぎ、運転席へ。バラクラバの男も助手席へ滑り込む。
一切の無駄がない、機械的な連係。
これは犯罪ではない。彼らにとっては、単なる「配送業務」なのだ。

イグニッションが回る。
獣の咆哮のようなエンジン音が轟き、ヘッドライトが倉庫の闇を鋭利に切り裂いた。光の筋の中で、舞い上がった埃が無数の蟲のように蠢いている。

残ったオペレーターは、手早くキーを叩いた。
カレンの部屋の監視カメラ映像を、以前録画した「安らかに眠る映像」のループ素材に切り替える。
これで、誰かが異変に気づいて映像を確認しても、そこには平和な夜が映るだけだ。

証拠隠滅プロトコル完了。システム、スリープモードへ移行。

重苦しい音と共にシャッターが巻き上げられ、港湾地区特有の生ぬるい夜気が流れ込んでくる。
遠くで響く船の汽笛が、この世からの別れを告げる弔鐘のように聞こえた。

黒いハイエースは、滑らかに夜の闇へと溶けていく。
後には、再び澱んだ静寂と、モニターの微かな駆動音だけが残された。
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