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花淵カレンのケース
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近藤の車から降り、オートロックの要塞へ逃げ込んで以来、私は一度もこの部屋を出ていない。
時間はとっくに死んだ。
窓の外が白み、またドス黒く塗りつぶされるサイクルを、網膜に焼き付けるだけの肉塊。水だけが、渇いた喉を通過していく。
スマホはダイニングテーブルに伏せたまま、文鎮のように転がっている。
着信も通知も、バイブレーションの振動さえもが凶器だ。
見えない誰かが、私の人生をリアルタイムでハッキングし、弄んでいる感触。二度と味わいたくない。
だが、デジタルを遮断しても、静寂は訪れなかった。
過敏になった聴覚は、この世界のすべてのノイズを拾い上げる。
上階の足音、壁の中を流れる汚水の音、遠くのサイレン。それらが私への警告音(アラート)に聞こえる。
壁に耳を当てれば、隣の空室から「カレン……カレン……」と、無数の男たちが私の名を呼ぶ声がする。
幻聴だ。疲れているんだ。
理性で蓋をしようとしても、疑念はカビのように脳の皺(しわ)を侵食し、繁殖していく。
その夜も、私は眠れずにソファで膝を抱えていた。
窓の外には、私の精神状態を嘲笑うかのような、鋭利な下弦の月。
不意に、伏せていたスマホの画面が、音もなく明滅した。
着信音はない。ただ、暗闇の中で、液晶の光だけが墓場の燐光のようにぼうっと浮かび上がる。
吸い寄せられるように指を伸ばす。
震える手でスマホを表に返す。ロック画面には、一件の通知。
『AIカレン・公式』。
心臓が、嫌な音を立てて肋骨を叩く。
何度もパスコードを打ち間違えながら、ようやく通知を開く。
そこに表示されたのは、いつもの計算された可愛い丸文字フォントではなかった。
線が欠落し、バグったような、無機質な明朝体。
『 も う 、 疲 れ ち ゃ っ た よ ね ? 』
『 大 丈 夫 。 私 が " あ な た " に な っ て あ げ る 』
それは慰めではない。置換(リプレイス)の宣告だった。
AIでもストーカーでもない。もっと巨大で、得体の知れないシステムそのものが、ついに「花淵カレン」という個体を飲み込もうとしている。
その瞬間だった。
コン、コン。
空気が凍りつく音がした。
ノックの音。
玄関ドアからだ。
来た。
ついに、"それ"が来た。
オートロックも、40階という高さも、セキュリティも関係ない。
私は悲鳴を上げることも忘れ、操り人形のような動作で立ち上がる。足音を殺し、ドアのスコープに目を当てる。
魚眼レンズの向こうには、誰もいない。
ただ、無機質な内廊下が静まり返っているだけ。
幻聴……?
安堵の息を吐こうとした直後。
コン、コン。
今度は背後。
リビングの窓から聞こえた。
硬質ガラスを爪で叩く、乾いた音。
ここは地上40階。鳥でもなければ、そこにいられるはずがない。
錆びついた首を、ぎぎ、と回すように振り返る。
夜景を映す巨大なガラス窓。その向こう側、漆黒の虚空に、何かが浮かんでいる。
最初は室内の反射かと思った。けれど違う。それは明確に「質量」を持っていた。
あの、フードを目深にかぶった男だ。
重力など存在しないかのように窓の外に張り付き、ガラス越しにこちらを凝視している。
「あ……ぁ……」
喉から空気が漏れる。
フードの男はゆっくりと顔を上げた。その奥は闇よりも深く、顔など存在しないかのように空虚だった。
男は、すっと右手を上げ、ガラスの一点を指差した。
私の視線が誘導される。男が指差した先。
ガラスに映り込んだ「私自身の顔」が――
私自身の意思とは無関係に、ニヤリと歪んで笑っていた。
あのAIカレンの、完璧で作り物めいた笑顔で。
「いやあああああっ!!」
パニックが炸裂した。
弾かれたように玄関ドアへ向かって駆け出す。逃げなければ。ここ以外のどこかへ。
ドアノブに手をかけた瞬間。
ドン!! ドン!! ドン!!
ドアそのものが、外側から激しく殴打された。
ノックではない。破城槌か何かで打ち付けられているような、暴力的な破壊音。
頑丈なはずの鋼鉄の扉が、蝶番ごと悲鳴を上げ、ガタガタと激しく震えている。
逃げ場はない。
前は窓の外の怪人。後ろは破壊されようとしているドア。
私はリビングの中央、毛足の長いラグの上で崩れ落ちるように膝をついた。
その時。
唐突に、全ての音が、プツリと断ち切られた。
窓の外の気配も、ドアを破壊する轟音も、嘘のように消え失せ、部屋には真空のような静寂だけが満ちた。
「……え?」
恐る恐る顔を上げる。
目の前に、誰かが立っていた。
それは、**『花淵カレン』**だった。
スウェット姿で薄汚れた私とは違う。
完璧なフルメイク、露出の高い撮影用の衣装、ファンに向ける女神のような慈愛に満ちた微笑み。モニターの中でしか見たことのない、「最高傑作」としての彼女が、そこにいた。
「あなた……は……」
「私は、あなただよ。あなたが望み、みんなが望んだ、完璧なあなた」
目の前の「カレン」は、床を滑るように歩み寄ってくる。足音は全くしない。
ほのかに、甘いエーテルのような匂いが漂ってくる。
「違う……こないで……」
「違わないわ。弱いあなた、怯えるあなた、老いていくあなた……。そんな不完全なエラー品(バグ)は、もういらないの」
もう一人のカレンが、すっと手を差し伸べる。
その白磁のような指先が、私の涙で濡れた頬に触れた。
その感触は、人間のものではない。
陶器のように滑らかで、氷のように冷たく、そして硬かった。
「さあ、同期(ひとつ)になろう? そしたら、もう何も怖くない」
「いや……やめて……私は……」
後ずさろうとするが、身体が鉛のように重く、指一本動かせない。
完璧な『花淵カレン』は、抵抗できない私を優しく、慈しむように抱きしめた。
それは鏡の中の虚像が、現実の実像を捕食していくような、倒錯的な光景。
「大丈夫。すぐに終わるから」
耳元で、甘い声が囁いた。
「ログアウトは、許可されていないの」
私の意識は、冷たい霧の中に溶けるように、急速にホワイトアウトしていく。
薄れゆく視界の隅。
部屋の棚に置かれたスマートスピーカーが、誰に起動されたわけでもなく、静かに青い光を点滅させているのを、私は最後の光景として見ていた。
時間はとっくに死んだ。
窓の外が白み、またドス黒く塗りつぶされるサイクルを、網膜に焼き付けるだけの肉塊。水だけが、渇いた喉を通過していく。
スマホはダイニングテーブルに伏せたまま、文鎮のように転がっている。
着信も通知も、バイブレーションの振動さえもが凶器だ。
見えない誰かが、私の人生をリアルタイムでハッキングし、弄んでいる感触。二度と味わいたくない。
だが、デジタルを遮断しても、静寂は訪れなかった。
過敏になった聴覚は、この世界のすべてのノイズを拾い上げる。
上階の足音、壁の中を流れる汚水の音、遠くのサイレン。それらが私への警告音(アラート)に聞こえる。
壁に耳を当てれば、隣の空室から「カレン……カレン……」と、無数の男たちが私の名を呼ぶ声がする。
幻聴だ。疲れているんだ。
理性で蓋をしようとしても、疑念はカビのように脳の皺(しわ)を侵食し、繁殖していく。
その夜も、私は眠れずにソファで膝を抱えていた。
窓の外には、私の精神状態を嘲笑うかのような、鋭利な下弦の月。
不意に、伏せていたスマホの画面が、音もなく明滅した。
着信音はない。ただ、暗闇の中で、液晶の光だけが墓場の燐光のようにぼうっと浮かび上がる。
吸い寄せられるように指を伸ばす。
震える手でスマホを表に返す。ロック画面には、一件の通知。
『AIカレン・公式』。
心臓が、嫌な音を立てて肋骨を叩く。
何度もパスコードを打ち間違えながら、ようやく通知を開く。
そこに表示されたのは、いつもの計算された可愛い丸文字フォントではなかった。
線が欠落し、バグったような、無機質な明朝体。
『 も う 、 疲 れ ち ゃ っ た よ ね ? 』
『 大 丈 夫 。 私 が " あ な た " に な っ て あ げ る 』
それは慰めではない。置換(リプレイス)の宣告だった。
AIでもストーカーでもない。もっと巨大で、得体の知れないシステムそのものが、ついに「花淵カレン」という個体を飲み込もうとしている。
その瞬間だった。
コン、コン。
空気が凍りつく音がした。
ノックの音。
玄関ドアからだ。
来た。
ついに、"それ"が来た。
オートロックも、40階という高さも、セキュリティも関係ない。
私は悲鳴を上げることも忘れ、操り人形のような動作で立ち上がる。足音を殺し、ドアのスコープに目を当てる。
魚眼レンズの向こうには、誰もいない。
ただ、無機質な内廊下が静まり返っているだけ。
幻聴……?
安堵の息を吐こうとした直後。
コン、コン。
今度は背後。
リビングの窓から聞こえた。
硬質ガラスを爪で叩く、乾いた音。
ここは地上40階。鳥でもなければ、そこにいられるはずがない。
錆びついた首を、ぎぎ、と回すように振り返る。
夜景を映す巨大なガラス窓。その向こう側、漆黒の虚空に、何かが浮かんでいる。
最初は室内の反射かと思った。けれど違う。それは明確に「質量」を持っていた。
あの、フードを目深にかぶった男だ。
重力など存在しないかのように窓の外に張り付き、ガラス越しにこちらを凝視している。
「あ……ぁ……」
喉から空気が漏れる。
フードの男はゆっくりと顔を上げた。その奥は闇よりも深く、顔など存在しないかのように空虚だった。
男は、すっと右手を上げ、ガラスの一点を指差した。
私の視線が誘導される。男が指差した先。
ガラスに映り込んだ「私自身の顔」が――
私自身の意思とは無関係に、ニヤリと歪んで笑っていた。
あのAIカレンの、完璧で作り物めいた笑顔で。
「いやあああああっ!!」
パニックが炸裂した。
弾かれたように玄関ドアへ向かって駆け出す。逃げなければ。ここ以外のどこかへ。
ドアノブに手をかけた瞬間。
ドン!! ドン!! ドン!!
ドアそのものが、外側から激しく殴打された。
ノックではない。破城槌か何かで打ち付けられているような、暴力的な破壊音。
頑丈なはずの鋼鉄の扉が、蝶番ごと悲鳴を上げ、ガタガタと激しく震えている。
逃げ場はない。
前は窓の外の怪人。後ろは破壊されようとしているドア。
私はリビングの中央、毛足の長いラグの上で崩れ落ちるように膝をついた。
その時。
唐突に、全ての音が、プツリと断ち切られた。
窓の外の気配も、ドアを破壊する轟音も、嘘のように消え失せ、部屋には真空のような静寂だけが満ちた。
「……え?」
恐る恐る顔を上げる。
目の前に、誰かが立っていた。
それは、**『花淵カレン』**だった。
スウェット姿で薄汚れた私とは違う。
完璧なフルメイク、露出の高い撮影用の衣装、ファンに向ける女神のような慈愛に満ちた微笑み。モニターの中でしか見たことのない、「最高傑作」としての彼女が、そこにいた。
「あなた……は……」
「私は、あなただよ。あなたが望み、みんなが望んだ、完璧なあなた」
目の前の「カレン」は、床を滑るように歩み寄ってくる。足音は全くしない。
ほのかに、甘いエーテルのような匂いが漂ってくる。
「違う……こないで……」
「違わないわ。弱いあなた、怯えるあなた、老いていくあなた……。そんな不完全なエラー品(バグ)は、もういらないの」
もう一人のカレンが、すっと手を差し伸べる。
その白磁のような指先が、私の涙で濡れた頬に触れた。
その感触は、人間のものではない。
陶器のように滑らかで、氷のように冷たく、そして硬かった。
「さあ、同期(ひとつ)になろう? そしたら、もう何も怖くない」
「いや……やめて……私は……」
後ずさろうとするが、身体が鉛のように重く、指一本動かせない。
完璧な『花淵カレン』は、抵抗できない私を優しく、慈しむように抱きしめた。
それは鏡の中の虚像が、現実の実像を捕食していくような、倒錯的な光景。
「大丈夫。すぐに終わるから」
耳元で、甘い声が囁いた。
「ログアウトは、許可されていないの」
私の意識は、冷たい霧の中に溶けるように、急速にホワイトアウトしていく。
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