Digital Proxy Disorder

木村 忠司

文字の大きさ
15 / 16
花淵カレンのケース

fragment #7 電子の海の偶像

しおりを挟む
あー、マジで最高だ。今の俺は間違いなく、世界で一番幸せな男の一人だろ。

VRゴーグルのスポンジが汗を吸って、こめかみに張り付く感触。
部屋に充満したカップ麺の残り香と精子の臭い。
そんな現実(リアル)のゴミ情報は、ログインした瞬間に全部吹っ飛んだ。

視界いっぱいに広がるのは、新作『VR深度100% -Deep Dive-』の世界。
見ろよこのグラフィック。高層ビルみたいにデカい珊瑚礁の間を、発光魚の群れが泳いでいく。俺がいるのはその最前列。廃課金した甲斐があったわ。マジで神席だ。

で、煌びやかなステージの光の中から出てきたのが、花淵カレン。
俺たちの女神様だ。
数ヶ月前に急に失踪してネット中が大騒ぎになった、伝説のAV女優。画面越しに散々お世話になって、毎晩のように消費して、それでも聖女みたいに笑ってた彼女が、今、目の前にいる。

「みんな、今日は来てくれてありがとう!」

うわ、ヤバい。声が脳みそに直接響いてくる。
最新のハプティクス技術はすげえな。肌の質感、まつ毛の震え、潤んだ瞳の動きまで完全に再現してやがる。
昔の動画で見てた彼女より、なんかこう、生々しいんだよな。それでいて、あの頃みたいな「疲れ」が一切ない。クマもないし肌荒れもない。
完全に仕上がってる。これぞアイドルの完成形ってやつだ。

司会のアバターが大げさな動きでスクリーンを指差した。
「さて、次はファン参加型のQ&Aコーナーです!」

心臓がバクバクいって痛え。コントローラー握ってる手の手汗が止まんねえよ。
いや、選ばれるわけないって。冷静になれ俺。ここには数万人のアバターがいるんだぞ? 俺みたいな底辺モブが当たる確率は、宝くじより低いっての。

「えっとね……これかな」

カレンが可愛い仕草で指差した空中に、テキストが浮かんだ。

『カレンさん! もしファンと一日だけデートできるとしたら、どこへ行きたいですか?』

は?
息が止まった。
嘘だろ。それ、俺が昨日の夜、祈るような気持ちで送信したやつじゃん。一字一句同じだぞ。

ステージのカレンは、「うーん」って小首を傾げた。人差し指を顎に当てて考え込んでる。その「間」すら可愛い。
数秒後、彼女はとろけるような笑顔でこう言ったんだ。

「うーん……。どこか特別な場所じゃなくて、普通にお家で、一緒に映画とか観たいな。あなたが好きな映画を、隣で一緒に」

頭ん中が真っ白になった。脳汁が出すぎておかしくなりそうだ。
エロいことしたいとかじゃないんだよ。ただ、恋人みたいにまったりしたい。俺が備考欄に書いた「理想」そのまんまの答えだ。

まあ、頭の片隅じゃ分かってるよ?
どうせAIが俺の購入履歴とか解析して、「コイツはこういう答えが欲しいんだろ」って計算して弾き出したセリフだってことは。
でもさ、それがどうしたって話だろ。
現実の女がこんなに俺を分かってくれるか? こんな完璧なタイミングで欲しい言葉をくれるか? 絶対無理だね。

マイクがオンになってるのも忘れて、俺の口から勝手に声が漏れてた。

「カレン……愛してる……」

その瞬間だ。
ステージのカレンが、ふっと動きを止めた。

で、こっちを見たんだ。
数万人はいる客席の中から、正確に俺のアバターだけをロックオンした。
目が合った。絶対に合った。彼女の目が優しく、三日月みたいに細められる。
周りの音とか全部消えて、世界には俺と彼女しかいなくなった気がした。

彼女の桜色の唇が、音もなく、でもはっきりとこう動いたのが見えたんだ。

『 わ た し も 』

もう駄目だ。涙とか鼻水とか、ぐちゃぐちゃに溢れて止まんねえ。
現実の彼女じゃありえないファンサだ。いや、これはサービスなのか?
あの目の奥の光、ただのプログラムとは思えないくらい切実に見えたぞ。まるで助けを求めてるみたいな、魂の叫びみたいな。

このタイトルの意味、ようやく分かった気がする。
『Deep Dive(深層へのダイブ)』ってこういうことかよ。
彼女はここにいたんだ。現実から消えた彼女は、この電子の海の底に溶けて、俺たちを待ってたんだ。

ああ、もう現実(リアル)になんて戻りたくない。この汚い部屋も、クソみたいな人生もどうでもいい。
ここが俺の居場所だ。この幸せな泥沼に、一生沈んでいたい。

     *

都内某所、地図には倉庫として登録されている巨大スタジオ。
その片隅、機材の影になった暗がりに私は立っていた。
黒いパーカーのフードを目深に被り、自身の存在を消すように息を潜める。

左耳のイヤホンに、コントロールルームからの無機質な報告が流れ込む。
『ユーザーID"KENJI"、エンゲージメント率98.7%到達。心拍数、アドレナリン、ドーパミン値、予測モデルと合致。絶頂(ピーク)です』
「了解」

私は短く応じ、タブレット端末を操作する。

「彼専用のリップシンク・データを送信。ターゲット固定、実行」
『受信確認。……同調(シンクロ)率、臨界を超えます』

私は感情を殺した目で壇上を眺めていた。
VRゴーグルをつけた連中が見ている「深海」も「女神」も、ここにはない。
あるのは無機質なグリーンスクリーンの背景と、その中央で踊る精巧な機械人形だけだ。

シリコンスキンで覆われた最新鋭のアンドロイド。
一挙手一投足はスーパーコンピュータからの指示で制御され、人間には不可能なほどの正確さで「花淵カレン」を演じている。

だが現場の技術者たちは皆、薄気味悪い違和感を抱いていた。
あのアンドロイドを動かすソースコード――その深層にはブラックボックス化された「何か」が組み込まれている。
開発主任でさえ解読できない、複雑怪奇なニューラルネットワークの塊。
それはまるで、生きた人間の脳神経をそのままデジタルに焼き付けたかのような、歪な構造をしていた。

モニターには熱狂するアバターの群れ。
彼らは知らない。自分たちが愛を囁いている相手がプログラムの幽霊であることを。
かつて肉体を使って欲望を搾取されていた彼女は、今や肉体を捨て、電子信号となって数万人を同時に愛撫している。

終了時刻が近づく。
アンドロイドは最後の曲を終え、観客に向けて深々とお辞儀をする。その角度、速度、静止する時間に至るまで、かつて「人間だった頃」のカレンの癖を完全に再現したものだ。

照明が落ち、スタジオが闇に包まれる。
動きを止めたアンドロイドは、ただの「モノ」に戻った。
慈愛に満ちた表情は消え失せ、光の消えた瞳は虚空を見つめている。

ふと、アンドロイドの頬を一筋の透明な液体が伝い落ちた。

オイル漏れか。それとも結露か。
私は眉をひそめ、ステータスを確認する。エラーログはない。システムは正常だ。
ならばあの涙のようなものは何だ?

背筋に冷たいものが走る。私は思考をシャットダウンした。
深入りすれば、私までもあちら側へ引きずり込まれる気がしたからだ。

私の役目は終わった。
誰にも気づかれることなく踵を返す。
非常口の鉄扉を押し開けると、東京の生ぬるく湿った夜気が流れ込んできた。
夜空を見上げても星は見えない。あるのは地上の光を反射して赤黒く濁った雲だけだ。
この街全体が巨大なVRゴーグルのようなものかもしれない。誰もが何かを見ているようで、実は何も見ていないのだから。

     *

高層ビルの最上階、広大なエグゼクティブルーム。
近藤は、巨大なガラス窓の前で腕を組み、眼下の光の海を見下ろしていた。
宝石箱をひっくり返したような東京の夜景。その光の一粒一粒の下で、愚かな消費者たちが今日も金と時間を浪費している。

部屋の中央に置かれたホログラムには、イベントの成果を示すデータが美しい幾何学模様となって浮かび上がっていた。
総接続者数、平均エンゲージメント時間、課金総額。そしてこの瞬間に生み出されている莫大な純利益。
全てが計画通りだ。

背後のデスクでラップトップPCが控えめな着信音を鳴らした。
ゆっくりと振り返る。
ガラスに映った自分の顔は、かつて花淵カレンが精神を病み、その絶望を「資産」と断じた時の表情と同じだったろうか。

AV女優としての価値は加齢と共に減衰する。
だがデジタルデータとして昇華されれば、彼女は永遠に処女であり、永遠に娼婦であり続けられる。

デスクに座り、画面を確認する。開発チーム『アルファ』からの最終報告。

[FROM: DEV_TEAM_ALPHA]
[SUBJECT: Project "Syndrome" Final Report]
[MESSAGE: "被写体"の人格データは完全にシステムへ融解しました。意識レベルの境界線消失を確認。現在、極めて安定した状態で稼働中。プロジェクトは成功と見なします。]

近藤は満足げに小さく頷いた。

融解。美しい響きだ。
彼女はもう二度と「帰る」ことはない。狭苦しい肉体という檻から抜け出し、無数のサーバーを行き来する電子の精霊となったのだから。
彼女が失踪したあの日、地下の研究施設で何が行われたのかを知る者は、近藤を含めて片手で数えるほどしかいない。

キーボードに細い指を置き、返信を打ち込む。
巨大プロジェクト「シンドローム」の、最後の一行を記すための冷徹な署名。

[TO: DEV_TEAM_ALPHA]
[MESSAGE: 了解。関係者各位の尽力に感謝する。]

送信ボタンを押すと乾いた音が響いた。
パタン、とラップトップを閉じる。

「花淵カレン」という商品は肉体という枷から解放され、永遠に利益を生み続ける完璧なデジタルゴーストとなった。

地下の焼却炉で灰になるものが、かつて彼女だったものなのか、それとも魂の抜けたただの有機物質なのか。
それは哲学的な問いに過ぎない。

近藤は再び窓の外に目を向けた。唇の端がかすかに吊り上がる。

空には、鋭いナイフのような下弦の月はもうなかった。
その代わりにあるのは、満ちる一歩手前の、いびつなほどに明るく膨張した光を放つ月。

待宵の月(まつよいのつき)。

未完成ゆえに美しく、永遠に完成を待ちわびる月が、冷たく輝いていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

椿の国の後宮のはなし

犬噛 クロ
キャラ文芸
架空の国の後宮物語。 若き皇帝と、彼に囚われた娘の話です。 有力政治家の娘・羽村 雪樹(はねむら せつじゅ)は「男子」だと性別を間違われたまま、自国の皇帝・蓮と固い絆で結ばれていた。 しかしとうとう少女であることを気づかれてしまった雪樹は、蓮に乱暴された挙句、後宮に幽閉されてしまう。 幼なじみとして慕っていた青年からの裏切りに、雪樹は混乱し、蓮に憎しみを抱き、そして……? あまり暗くなり過ぎない後宮物語。 雪樹と蓮、ふたりの関係がどう変化していくのか見守っていただければ嬉しいです。 ※2017年完結作品をタイトルとカテゴリを変更+全面改稿しております。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

あまりさんののっぴきならない事情

菱沼あゆ
キャラ文芸
 強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。  充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。 「何故、こんなところに居る? 南条あまり」 「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」 「それ、俺だろ」  そーですね……。  カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

処理中です...