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花淵カレンのケース
fragment #8 月光の標本箱
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その部屋は、生きた人間の体温を拒絶するような、研ぎ澄まされた静寂に支配されていた。
磨き上げられた黒大理石の床が、夜の闇を吸い込んで鏡面のように輝いている。
私はイタリア製の革張りソファに深く身を沈め、ゆっくりとVRヘッドセットを外した。
上質なシルクのガウンが、衣擦れの音を立てる。
私は狂騒の宴から自室に戻った貴族のように、長く、満足げな息を吐き出した。
まだ微かに熱を帯びているヘッドセットを、サイドテーブルに置く。
あのスタジオの維持費など端金(はしたがね)に思えるほどの、莫大な開発費がつぎ込まれたデバイス。だが、安い買い物だった。
これで、世界は私の手の中に入ったのだから。
手元のリモコンで、壁一面を覆う巨大なガラス窓を開け放つ。
モーター音ひとつなくガラスがスライドし、空調で管理された無菌室のような室内へ、生ぬるい夜気が流れ込んでくる。
テラスの彼方には、宝石箱をぶちまけたような東京の夜景。
西新宿の摩天楼群が、まるで巨大な墓標の群れのように沈黙している。
私がテラスに出ると、その気配に呼応するように、世界が微かにノイズ走った。
脳内に埋め込んだBMI(ブレイン・マシン・インターフェース)チップが起動する。
網膜に直接、拡張現実(AR)のレイヤーが焼き付けられる。
闇というインクが水に滲むように、テラスの中央、何もない空間に「彼女」の輪郭がレンダリングされ始めた。
光の粒子が集まり、形を成す。
そこに現れたのは、かつて私が囲い、愛で、そして老いていくことに怯えていた――『花淵カレン』だ。
まとっているのは、影そのもので織られたような黒いシルクのランジェリー。
以前、私が彼女に買い与えたものだ。
だが、今の彼女の肌には、あの頃のような不眠によるくすみも、リストカットの痕も、精神安定剤による肌荒れもない。
そこにあるのは、私が夢想し、設計した通りの、完璧な美の化身。
彼女の足は床から数センチ浮き、重力という地上の理(ことわり)から解き放たれて揺らめいている。
彼女はテラスに佇む私に、ゆっくりと顔を向けた。
その瞳には、第一章の男に向けたような媚びも、慈愛もない。
あるのは共犯者だけが共有できる、静かで妖艶な光だ。
鼓膜は震えない。だが私の脳髄の奥底に、直接、甘い毒のような思念信号が響いてくる。
《……ねえ。わたしのこと、待ってた?》
その問いかけに、私はグラスを揺らしながら、脳内で思考のパケットを返す。
――ああ、待っていたとも。
君が汚らわしい肉体という檻から抜け出し、私のサーバーの中で純粋なイデアへと羽化するこの夜を。
私は手元のタブレット端末を操作し、画面をタップした。
カレンの幻影の足元から、デジタルの光でできた無数の蝶が生成され、彼女の周りを舞い始める。
青白い燐光を放つ蝶たちは、私の意思そのものだ。
彼女の完璧な身体に触れることなく、その輪郭を所有印のように優しくなぞっていく。
カレンはその光景をうっとりと見つめていた。
やがて彼女は、私の手にあるタブレットの画面に視線を移した。
そこには今まさに、メタバース空間で数万人の有象無象を熱狂させている「花淵カレン」のライブ映像が映し出されている。
彼女は画面の中の自分を見て、ふっと唇を緩めた。
それは鏡に映った自分の姿を愛おしむナルキッソスの眼差しであり、同時に、かつての自分(ぬけがら)を脱ぎ捨てた蝶の優越感でもあった。
《……きれい……》
脳内に響く声は、恍惚に震えていた。
彼女は理解したのだ。自分が「消費される消耗品」から「永遠の芸術品(コレクション)」へと昇華されたことを。
私が彼女に与えたかったのは、この永遠だ。
老いもせず、傷つきもせず、誰にも汚されない、真空パックされた永遠。
その言葉を合図に、彼女の周りを舞っていた光の蝶が一斉に輝きを増した。
眩い光の中で、彼女の姿が再び粒子となって崩壊を始める。
私の網膜への信号送信が終了しようとしていた。
輪郭がぼやけ、透明になり、最後には満足げな微笑みの残像だけを残して、彼女は夜の闇の中へ――いや、私の所有する巨大なサーバーの海へと帰っていった。
テラスには、再び私一人だけが残された。
タブレットの電源を落とし、サイドテーブルに置く。
第一章の愚かな男は今頃、狭い部屋でVRゴーグルを外し、現実の惨めさと孤独に打ちひしがれているだろう。
だが、私は違う。
ゴーグルを外したこの現実こそが私の王国だ。
そして彼女は、その王国で最も美しい剥製として、永遠に私の手の中にある。
傍らのワインセラーから、年代物の赤ワインを取り出す。
グラスに注がれる液体は血のように濃く、鉄と果実の香りが鼻腔をくすぐる。
再びテラスの手すりへと歩み出る。
眼下に広がる、現実世界の煌びやかで空虚な夜景。
そのどちらにも「花淵カレン」は遍在する。
大衆のためには、都合の良い女神として。
そして私の夜のためには、誰にも触れられない秘め事として。
私はグラスを掲げた。
その先。遠くに見える副都心の摩天楼群。
その頂きのさらに上空に、神がコンパスで描いたような完璧な円、白々とした光が浮かんでいた。
完全なる満月が、地上を静かに見つめている。
欠けた月の時間は終わった。
全てが完成し、全てが手遅れになった夜。
その冷徹な光は、私の罪も、彼女の永遠も、そしてこの愚かな世界さえも、平等に祝福するかのように照らしていた。
(完)
磨き上げられた黒大理石の床が、夜の闇を吸い込んで鏡面のように輝いている。
私はイタリア製の革張りソファに深く身を沈め、ゆっくりとVRヘッドセットを外した。
上質なシルクのガウンが、衣擦れの音を立てる。
私は狂騒の宴から自室に戻った貴族のように、長く、満足げな息を吐き出した。
まだ微かに熱を帯びているヘッドセットを、サイドテーブルに置く。
あのスタジオの維持費など端金(はしたがね)に思えるほどの、莫大な開発費がつぎ込まれたデバイス。だが、安い買い物だった。
これで、世界は私の手の中に入ったのだから。
手元のリモコンで、壁一面を覆う巨大なガラス窓を開け放つ。
モーター音ひとつなくガラスがスライドし、空調で管理された無菌室のような室内へ、生ぬるい夜気が流れ込んでくる。
テラスの彼方には、宝石箱をぶちまけたような東京の夜景。
西新宿の摩天楼群が、まるで巨大な墓標の群れのように沈黙している。
私がテラスに出ると、その気配に呼応するように、世界が微かにノイズ走った。
脳内に埋め込んだBMI(ブレイン・マシン・インターフェース)チップが起動する。
網膜に直接、拡張現実(AR)のレイヤーが焼き付けられる。
闇というインクが水に滲むように、テラスの中央、何もない空間に「彼女」の輪郭がレンダリングされ始めた。
光の粒子が集まり、形を成す。
そこに現れたのは、かつて私が囲い、愛で、そして老いていくことに怯えていた――『花淵カレン』だ。
まとっているのは、影そのもので織られたような黒いシルクのランジェリー。
以前、私が彼女に買い与えたものだ。
だが、今の彼女の肌には、あの頃のような不眠によるくすみも、リストカットの痕も、精神安定剤による肌荒れもない。
そこにあるのは、私が夢想し、設計した通りの、完璧な美の化身。
彼女の足は床から数センチ浮き、重力という地上の理(ことわり)から解き放たれて揺らめいている。
彼女はテラスに佇む私に、ゆっくりと顔を向けた。
その瞳には、第一章の男に向けたような媚びも、慈愛もない。
あるのは共犯者だけが共有できる、静かで妖艶な光だ。
鼓膜は震えない。だが私の脳髄の奥底に、直接、甘い毒のような思念信号が響いてくる。
《……ねえ。わたしのこと、待ってた?》
その問いかけに、私はグラスを揺らしながら、脳内で思考のパケットを返す。
――ああ、待っていたとも。
君が汚らわしい肉体という檻から抜け出し、私のサーバーの中で純粋なイデアへと羽化するこの夜を。
私は手元のタブレット端末を操作し、画面をタップした。
カレンの幻影の足元から、デジタルの光でできた無数の蝶が生成され、彼女の周りを舞い始める。
青白い燐光を放つ蝶たちは、私の意思そのものだ。
彼女の完璧な身体に触れることなく、その輪郭を所有印のように優しくなぞっていく。
カレンはその光景をうっとりと見つめていた。
やがて彼女は、私の手にあるタブレットの画面に視線を移した。
そこには今まさに、メタバース空間で数万人の有象無象を熱狂させている「花淵カレン」のライブ映像が映し出されている。
彼女は画面の中の自分を見て、ふっと唇を緩めた。
それは鏡に映った自分の姿を愛おしむナルキッソスの眼差しであり、同時に、かつての自分(ぬけがら)を脱ぎ捨てた蝶の優越感でもあった。
《……きれい……》
脳内に響く声は、恍惚に震えていた。
彼女は理解したのだ。自分が「消費される消耗品」から「永遠の芸術品(コレクション)」へと昇華されたことを。
私が彼女に与えたかったのは、この永遠だ。
老いもせず、傷つきもせず、誰にも汚されない、真空パックされた永遠。
その言葉を合図に、彼女の周りを舞っていた光の蝶が一斉に輝きを増した。
眩い光の中で、彼女の姿が再び粒子となって崩壊を始める。
私の網膜への信号送信が終了しようとしていた。
輪郭がぼやけ、透明になり、最後には満足げな微笑みの残像だけを残して、彼女は夜の闇の中へ――いや、私の所有する巨大なサーバーの海へと帰っていった。
テラスには、再び私一人だけが残された。
タブレットの電源を落とし、サイドテーブルに置く。
第一章の愚かな男は今頃、狭い部屋でVRゴーグルを外し、現実の惨めさと孤独に打ちひしがれているだろう。
だが、私は違う。
ゴーグルを外したこの現実こそが私の王国だ。
そして彼女は、その王国で最も美しい剥製として、永遠に私の手の中にある。
傍らのワインセラーから、年代物の赤ワインを取り出す。
グラスに注がれる液体は血のように濃く、鉄と果実の香りが鼻腔をくすぐる。
再びテラスの手すりへと歩み出る。
眼下に広がる、現実世界の煌びやかで空虚な夜景。
そのどちらにも「花淵カレン」は遍在する。
大衆のためには、都合の良い女神として。
そして私の夜のためには、誰にも触れられない秘め事として。
私はグラスを掲げた。
その先。遠くに見える副都心の摩天楼群。
その頂きのさらに上空に、神がコンパスで描いたような完璧な円、白々とした光が浮かんでいた。
完全なる満月が、地上を静かに見つめている。
欠けた月の時間は終わった。
全てが完成し、全てが手遅れになった夜。
その冷徹な光は、私の罪も、彼女の永遠も、そしてこの愚かな世界さえも、平等に祝福するかのように照らしていた。
(完)
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