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ランファンの罠
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日が沈んで夜――
ランファン城の前、未舗装の土の広場の各所に赤々と篝火が焚かれ、広場の中央に豊饒の女神ファーラオの石像が置かれた。
それを囲んで、わざと艶やかな色使いにしたローヤン伝統の舞服や、落ち着いたハンウェイ伝統の舞服など、それそれに着飾った踊り子たちが舞の準備を整える。
やがて、整列した楽隊が、ローヤン民族の楽曲から演奏し始め、それに合わせて、踊り子たちが舞を始めた。
こうして、ファーラオ豊饒祭が始まった。
その祭の光景が一望できる城門の前に、リューシスらの席が設けられた。
長い木製のテーブルが置かれ、そこに次々と料理や酒が運ばれて来る。その様を見ながら、中央に座ったリューシスは、バーレンやイェダーに訊いていた。
「ここに来る途中、追手はどうした?」
すると、バーレンもイェダーも同じような返答をした。
「途中まではしつこく探して追って来ているようでしたが、三日目ぐらいからはもう見なくなりました」
それは、他の親衛隊の兵士らも、同じようであった。
何人かは運悪く捕まってしまったようだが、生きてこのランファンに辿り着いた者たちは皆、バーレンやイェダーと同様、途中から追手が来なくなった、と言っていた。
「ふうん、そうか……効率が悪いので一旦止めたのか……? だが、俺を捕縛する軍が先にここで待っていてもおかしくないとも思っていたが、それもないのも何か不思議だな。ジョサン。アンラードや、付近の県城から使者か何かは来ていないのか?」
リューシスはジョサンの方を見て訊いた。
「何も来ておりません。私は、アンラードでの事件のことを噂に聞いて、殿下がそのようなことをするはずがない、と驚きながらも、殿下の身を案じつつ情報を集め、また、アンラードの丞相から何か通達が来るに違いないと思い、その心の準備をしていたのですが、結局何も来ませんでしたな」
「そうか」
リューシスは眉根を寄せながら、テーブルの上に置かれて行く大皿の料理を見つめた。
羊肉の炙り串焼き、チーズの燻製、それとこの地方の名物である砂葱とじゃが芋の和え物、羊肉餅などが並べられて行く。
砂葱とは、ランファンの乾燥した大地にのみ育つ、ネギに似た不思議な食べ物で、独特の辛みと食感が特徴である。それを、細かく刻んだじゃが芋と共に、タレで和えて食べるのがこの地方の習慣であった。
羊肉餅は、羊肉を挽肉にし、それを小麦粉を練った生地で包んで、パイ状に焼いた料理である。これは、ランファンのみならず、北方地方で広く食べられている定番の料理である。
「まあ、とりあえず今日のところは、殿下がご無事にランファンに帰って来たのを祝うとしましょう」
ジョサンがそう言って、給仕の侍女に、皆に酒を注いで回るように命じた。
その瞬間であった。
リューシスはふと、殺気を感じて目の色を変えた。
席についた皆の夜光杯に、葡萄酒が満たされた時、リューシスが鋭く「待て」と言った。
「ジョサン、これらの料理と酒、毒見はさせたか?」
ジョサンは怪訝そうな顔をして、
「全て一応毒見はさせておりますが……それでもここは殿下の土地。毒など入れる者がいるはずありませぬ」
「そうだが……」
「問題はございません。何なら、私がまず食べて見せましょう。失礼仕ります」
ジョサンは言うと、リューシスの夜光杯から、別の小さな夜光杯に葡萄酒を少し注いでそれを飲み干し、またテーブルの上の料理を少しずつ食べて行った。
「如何でしょう。何ともございませんぞ」
「そうか……」
「何を心配されておいでですか。ここは殿下の封土です。ご安心ください」
ジョサンは、笑った。
そして、祭と宴が始まった。
――気のせいか?
リューシスは夜光杯の中で揺れる葡萄酒を見つめた後、一口飲んだ。
毒味は感じない。何も変わらぬ、普通の葡萄酒の味である。ただ、この地方の酒は総じて強い傾向にあるので、少し酒精が強めに感じた。
――それにしても……。
リューシスは、背後を振り返り、夜闇の中にぼうっと浮かび上がるランファン城を見つめた。
実に簡素で小さな城である。
――こんな城では、三千、五千の軍を相手にでも持ち堪えられないだろう。
リューシスは向き直り、今度は人々が舞い踊る広場の先、民家の向こうの闇を見つめた。
――城壁も無いどころか、ろくな防衛施設も無い。
――それどころかだ。この貧しいランファンでは、剣や槍、弓矢の予備を揃えられないし、兵糧もすぐに尽きてしまう。
そもそも、このランファンと言う土地は、敵軍を迎え撃つと言うことに絶望的に向いていないのであった。
ネイマンやイェダーはすでに顔を赤くし、豪放な笑い声を上げながら何杯も飲み干している。
エレーナも、最初は戸惑っていたが、徐々に慣れて来たようで、ヴァレリーと会話をしながら、二杯目の葡萄酒を少しずつ飲み始めていた。
だが、リューシスの顔は曇っていた。
その日の深夜、アンラードの宮城内にある宰相宮――
壁面の灯火を一つだけ灯した薄暗いマクシムの居室に、男女の二色の嬌声が抑え目に響いていた。
だが、女の方は段々と抑えられなくなって来たようであり、徐々に嬌声が大きくなって行ったのだが、やがて静かに止んだ。
やや冷んやりとした空気の中に、熱くなった二つの乱れた息遣いが入り交じる。
だがそれもやがて止まると、薄闇の中に柔らかなな曲線を描く女の肢体が起き上がった。
女性は衣服を探して手早く着ると、ベッドから下りて、少し離れたところにある椅子にゆったりと腰かけた。
脇には木製の小さな円卓があり、その上に葡萄酒の入った白い陶器の壺がある。
女性はその壺を取り上げて杯に注ぎ、一杯飲み干した。
遅れてベッドから下りた男、丞相マクシムは、緑の絹のガウンを羽織ると、枕元に置いていた燭台に火を灯した。
燭台の火が、座って杯を持ったまま何か考え込んでいる女性の顔を薄く照らした。
女性は、皇后ナターシアであった。
火が照らすその横顔には、禁断の蜜を舐めた秘密の情事の後だと言うのに、物憂げな色が浮いていた。
「如何されました。どこか、心ここにあらず、と言った様子」
マクシムは言った。
ナターシアは、無表情にちらりとマクシムを見ると、すぐに杯に目を落とし、言った。
「気になるのよ」
「何が、でございますか?」
「クージンに軍を派遣したでしょう?」
「ええ」
「大丈夫かしら?」
「と、言うと? クージン奪還のことでしょうか? あるいはリューシス殿下のことでしょうか? それとも……」
マクシムは一拍置いて、薄笑いで言った。
「ダルコの無事ですか?」
ナターシアは、じろりとマクシムを見た。
「どういうことかしら?」
「いえ、何も」
「……ダルコは私たちカザンキナ部の中でも、同じカザンキナの姓を持つ同族。心配して当然でしょう」
「ふむ」
「だけど、気になるのはリューシスよ。うまく捕らえられるかしら」
すると、マクシムは低く笑った。
「まあ、無理でしょうな……と言うより、すでに失敗しております」
マクシムは言いながらナターシアの側に寄り、葡萄酒の壺を持ち上げた。
「どういうこと?」
ナターシアは驚いた顔で見上げた。
「実は、ナターシアさまが来られる少し前に、早馬が私のところに来ましてな」
と言って、マクシムはその報告の内容を話し始めた。
ダルコ率いる一万人の軍団がクージンに到着した時は、すでにリューシスらは皆と共にクージンから離れ、ランファンへ急行していた。
しかし、それどころか、ここで起きた事情を一切知らないダルコは、残ったマーサー・ムーロンら約二千人の軍が、クージン城外に野営しているのを見て驚いた。
「一体どういうことだ? 」
何が何だかわからない。
それから、出迎えたマーサー・ムーロンに、全ての事情を聞いて、ダルコは更に驚いた。
「何だと? リューシス殿下が反乱軍を率いて?」
「ええ。しかし、シーザーの撤退の決断も素早く、守りも固い為、城を落とすことまではできませんでした」
「だからここに陣を張っているわけか。しかし、急編成の反乱軍でシーザー・ラヴァン率いる三倍のガルシャワ軍を打ち破るとは……」
ダルコの言葉は、一聴するとローヤンにとっては非常に喜ばしいことなのであるが、ダルコの顔は唖然としていた。
「しかも、ヴァレリーと八百人の兵士らが殿下に着いて行っただと……? 殿下は今や、皇帝陛下と丞相閣下暗殺未遂の大罪人だぞ」
ダルコは呻いた。が、次の瞬間、はっとして恐い顔となり、いきなり長剣を抜いてマーサーを睨んだ。
「貴様、何故殿下を討とうとしたなかった? 何故ヴァレリーらを引き止め、戦わなかった? 殿下は確かにここでガルシャワ軍を撃破したが、大罪人だぞ? みすみす逃がしたその罪は重い」
マーサーはやや青い顔となりながらも、冷静な口ぶりで言った。
「確かに将軍の言われる通りです。ローヤン朝廷に忠誠を誓う私としては当然、これは見逃すことはできません。しかし、あの殿下に正面から戦いを挑んでは返り討ちにされてしまうことでしょう、そこで私は、夜半、殿下らが寝静まったのを待ち、その寝込みを一気に襲おうと策を立てました。しかし、いざ襲おうとしたら、すでに殿下らは全員姿を消し去っていたのです。私の策を見破られてしまっていました」
これは、ダルコらが来たら、マーサーはきっとリューシスらを見逃したことを詰問されるであろうと予想し、リューシスらが出立する前に皆で考えておいた返答であった。
ダルコは、青い瞳でじっとマーサーの顔を睨んでいたが、やがて長剣を下ろした。
「まあ、仕方あるまい。しかし、今ならまだ追いつけるだろう」
と、言ったところで、ダルコは舌打ちして横目でクージン城を見た。
「あのクージン城を前にしてそれもできないか……不幸中の幸いと言っていいものかわからんが、殿下がガルシャワ軍の戦力を削いでくれた今、クージンを奪還する絶好の機でもある」
「はっ。どうか指揮をお願いいたします。フォメンコ将軍もまもなく到着するとのことです」
マーサーは、ほっとしながら、手を組んで言った。
「キラか。ではキラと共に速攻でクージンを奪還し、その後にすぐに殿下を追うとしよう。だがまずは、この事を丞相に報告せねばならんな。アンラードに早馬を出せ」
「はっ。すぐに」
と、マーサーは手配に向おうとしたが、その背を、ダルコが「待て」と、呼び止めた。
「殿下がこのクージンに来た時は、確かにその仲間のネイマン・フォウコウと二人だけだったのだな?」
「ええ」
「そうか」
ダルコは頷いた後、彼方のクージン城の城壁を睨み、独り言を呟いた。
「あらかじめヴァレリーが反乱計画を立てていたとは言え、たった二人の状態からそのヴァレリーらを味方につけ、更に三千人にまで膨れ上がらせ、それでも約三倍になるガルシャワ軍を撃破……そしてその後、八百人もの兵士らだけでなく、ヴァレリーほどの武将までもが共に着いて行くとは……あの方には軍神でもついているのか?」
ダルコの顔には畏怖の色すら浮いていたが、すぐに毅然とした顔となった。
――いや、それ故に、何としてもあの方の首を取らねばならぬ。皇太子様、皇后様の為に。
マクシムの話を聞いたナターシアは、しばらく言葉が出なかった。
「なんてこと……」
「ダルコの気合いが尋常ではなかったので、クージン奪還の件もあって、思い切って大軍を預けて向かわせましたが、まあ、リューシス殿下を捕らえるのは難しいとは思っておりました。あの方は普通のやり方では難しいのです。まあ、今回は、リューシス殿下が裏切者のベン・ハーベンを始末してくれた上で、ガルシャワ軍の戦力も削ってくれましたので、このままダルコらにクージンを奪還してもらいましょう。この点ではリューシス殿下に感謝しなければ」
マクシムは冗談めかして笑った。
しかし、ナターシアの顔は笑っていない。
「何言っているの。あの子には逃げられたじゃない。散り散りになって逃げたあの子の仲間たちを追うのも途中で止めさせてしまったし、どうするつもりなの」
「まあ、これから殿下らが行くのはどうせランファンでしょう。心配は無用です」
「でもマクシム。あなた、この前もそう言っていたけど、ランファンには軍を向けていないじゃないの」
「ええ。それでいいのです」
「?」
マクシムは、ナターシアが持っていた杯を取り上げ、そこに葡萄酒を注ぎ、一杯飲み干した後、言った。
「あの方は、天法術は得意ですが、武芸は大したことはない。一人であれば怖くはありません。しかし、今回の件でもわかったように、あの方にはたった十人、いや、一人の兵でも率いさせたら、それだけで大軍に囲まれようとも何とかしてしまうような、不思議な恐ろしい力があります。だが、生来の性格ゆえか、政争や謀略には疎い。それ故、ここはまず武力で戦うのは止めて、政治と謀略で戦います」
「そう言うからには、もうすでに仕掛けてあるのでしょうね?」
「ええ。もちろん」
マクシムは、燭の火に照らされた顔をにやりとさせた。
ランファン城の前、未舗装の土の広場の各所に赤々と篝火が焚かれ、広場の中央に豊饒の女神ファーラオの石像が置かれた。
それを囲んで、わざと艶やかな色使いにしたローヤン伝統の舞服や、落ち着いたハンウェイ伝統の舞服など、それそれに着飾った踊り子たちが舞の準備を整える。
やがて、整列した楽隊が、ローヤン民族の楽曲から演奏し始め、それに合わせて、踊り子たちが舞を始めた。
こうして、ファーラオ豊饒祭が始まった。
その祭の光景が一望できる城門の前に、リューシスらの席が設けられた。
長い木製のテーブルが置かれ、そこに次々と料理や酒が運ばれて来る。その様を見ながら、中央に座ったリューシスは、バーレンやイェダーに訊いていた。
「ここに来る途中、追手はどうした?」
すると、バーレンもイェダーも同じような返答をした。
「途中まではしつこく探して追って来ているようでしたが、三日目ぐらいからはもう見なくなりました」
それは、他の親衛隊の兵士らも、同じようであった。
何人かは運悪く捕まってしまったようだが、生きてこのランファンに辿り着いた者たちは皆、バーレンやイェダーと同様、途中から追手が来なくなった、と言っていた。
「ふうん、そうか……効率が悪いので一旦止めたのか……? だが、俺を捕縛する軍が先にここで待っていてもおかしくないとも思っていたが、それもないのも何か不思議だな。ジョサン。アンラードや、付近の県城から使者か何かは来ていないのか?」
リューシスはジョサンの方を見て訊いた。
「何も来ておりません。私は、アンラードでの事件のことを噂に聞いて、殿下がそのようなことをするはずがない、と驚きながらも、殿下の身を案じつつ情報を集め、また、アンラードの丞相から何か通達が来るに違いないと思い、その心の準備をしていたのですが、結局何も来ませんでしたな」
「そうか」
リューシスは眉根を寄せながら、テーブルの上に置かれて行く大皿の料理を見つめた。
羊肉の炙り串焼き、チーズの燻製、それとこの地方の名物である砂葱とじゃが芋の和え物、羊肉餅などが並べられて行く。
砂葱とは、ランファンの乾燥した大地にのみ育つ、ネギに似た不思議な食べ物で、独特の辛みと食感が特徴である。それを、細かく刻んだじゃが芋と共に、タレで和えて食べるのがこの地方の習慣であった。
羊肉餅は、羊肉を挽肉にし、それを小麦粉を練った生地で包んで、パイ状に焼いた料理である。これは、ランファンのみならず、北方地方で広く食べられている定番の料理である。
「まあ、とりあえず今日のところは、殿下がご無事にランファンに帰って来たのを祝うとしましょう」
ジョサンがそう言って、給仕の侍女に、皆に酒を注いで回るように命じた。
その瞬間であった。
リューシスはふと、殺気を感じて目の色を変えた。
席についた皆の夜光杯に、葡萄酒が満たされた時、リューシスが鋭く「待て」と言った。
「ジョサン、これらの料理と酒、毒見はさせたか?」
ジョサンは怪訝そうな顔をして、
「全て一応毒見はさせておりますが……それでもここは殿下の土地。毒など入れる者がいるはずありませぬ」
「そうだが……」
「問題はございません。何なら、私がまず食べて見せましょう。失礼仕ります」
ジョサンは言うと、リューシスの夜光杯から、別の小さな夜光杯に葡萄酒を少し注いでそれを飲み干し、またテーブルの上の料理を少しずつ食べて行った。
「如何でしょう。何ともございませんぞ」
「そうか……」
「何を心配されておいでですか。ここは殿下の封土です。ご安心ください」
ジョサンは、笑った。
そして、祭と宴が始まった。
――気のせいか?
リューシスは夜光杯の中で揺れる葡萄酒を見つめた後、一口飲んだ。
毒味は感じない。何も変わらぬ、普通の葡萄酒の味である。ただ、この地方の酒は総じて強い傾向にあるので、少し酒精が強めに感じた。
――それにしても……。
リューシスは、背後を振り返り、夜闇の中にぼうっと浮かび上がるランファン城を見つめた。
実に簡素で小さな城である。
――こんな城では、三千、五千の軍を相手にでも持ち堪えられないだろう。
リューシスは向き直り、今度は人々が舞い踊る広場の先、民家の向こうの闇を見つめた。
――城壁も無いどころか、ろくな防衛施設も無い。
――それどころかだ。この貧しいランファンでは、剣や槍、弓矢の予備を揃えられないし、兵糧もすぐに尽きてしまう。
そもそも、このランファンと言う土地は、敵軍を迎え撃つと言うことに絶望的に向いていないのであった。
ネイマンやイェダーはすでに顔を赤くし、豪放な笑い声を上げながら何杯も飲み干している。
エレーナも、最初は戸惑っていたが、徐々に慣れて来たようで、ヴァレリーと会話をしながら、二杯目の葡萄酒を少しずつ飲み始めていた。
だが、リューシスの顔は曇っていた。
その日の深夜、アンラードの宮城内にある宰相宮――
壁面の灯火を一つだけ灯した薄暗いマクシムの居室に、男女の二色の嬌声が抑え目に響いていた。
だが、女の方は段々と抑えられなくなって来たようであり、徐々に嬌声が大きくなって行ったのだが、やがて静かに止んだ。
やや冷んやりとした空気の中に、熱くなった二つの乱れた息遣いが入り交じる。
だがそれもやがて止まると、薄闇の中に柔らかなな曲線を描く女の肢体が起き上がった。
女性は衣服を探して手早く着ると、ベッドから下りて、少し離れたところにある椅子にゆったりと腰かけた。
脇には木製の小さな円卓があり、その上に葡萄酒の入った白い陶器の壺がある。
女性はその壺を取り上げて杯に注ぎ、一杯飲み干した。
遅れてベッドから下りた男、丞相マクシムは、緑の絹のガウンを羽織ると、枕元に置いていた燭台に火を灯した。
燭台の火が、座って杯を持ったまま何か考え込んでいる女性の顔を薄く照らした。
女性は、皇后ナターシアであった。
火が照らすその横顔には、禁断の蜜を舐めた秘密の情事の後だと言うのに、物憂げな色が浮いていた。
「如何されました。どこか、心ここにあらず、と言った様子」
マクシムは言った。
ナターシアは、無表情にちらりとマクシムを見ると、すぐに杯に目を落とし、言った。
「気になるのよ」
「何が、でございますか?」
「クージンに軍を派遣したでしょう?」
「ええ」
「大丈夫かしら?」
「と、言うと? クージン奪還のことでしょうか? あるいはリューシス殿下のことでしょうか? それとも……」
マクシムは一拍置いて、薄笑いで言った。
「ダルコの無事ですか?」
ナターシアは、じろりとマクシムを見た。
「どういうことかしら?」
「いえ、何も」
「……ダルコは私たちカザンキナ部の中でも、同じカザンキナの姓を持つ同族。心配して当然でしょう」
「ふむ」
「だけど、気になるのはリューシスよ。うまく捕らえられるかしら」
すると、マクシムは低く笑った。
「まあ、無理でしょうな……と言うより、すでに失敗しております」
マクシムは言いながらナターシアの側に寄り、葡萄酒の壺を持ち上げた。
「どういうこと?」
ナターシアは驚いた顔で見上げた。
「実は、ナターシアさまが来られる少し前に、早馬が私のところに来ましてな」
と言って、マクシムはその報告の内容を話し始めた。
ダルコ率いる一万人の軍団がクージンに到着した時は、すでにリューシスらは皆と共にクージンから離れ、ランファンへ急行していた。
しかし、それどころか、ここで起きた事情を一切知らないダルコは、残ったマーサー・ムーロンら約二千人の軍が、クージン城外に野営しているのを見て驚いた。
「一体どういうことだ? 」
何が何だかわからない。
それから、出迎えたマーサー・ムーロンに、全ての事情を聞いて、ダルコは更に驚いた。
「何だと? リューシス殿下が反乱軍を率いて?」
「ええ。しかし、シーザーの撤退の決断も素早く、守りも固い為、城を落とすことまではできませんでした」
「だからここに陣を張っているわけか。しかし、急編成の反乱軍でシーザー・ラヴァン率いる三倍のガルシャワ軍を打ち破るとは……」
ダルコの言葉は、一聴するとローヤンにとっては非常に喜ばしいことなのであるが、ダルコの顔は唖然としていた。
「しかも、ヴァレリーと八百人の兵士らが殿下に着いて行っただと……? 殿下は今や、皇帝陛下と丞相閣下暗殺未遂の大罪人だぞ」
ダルコは呻いた。が、次の瞬間、はっとして恐い顔となり、いきなり長剣を抜いてマーサーを睨んだ。
「貴様、何故殿下を討とうとしたなかった? 何故ヴァレリーらを引き止め、戦わなかった? 殿下は確かにここでガルシャワ軍を撃破したが、大罪人だぞ? みすみす逃がしたその罪は重い」
マーサーはやや青い顔となりながらも、冷静な口ぶりで言った。
「確かに将軍の言われる通りです。ローヤン朝廷に忠誠を誓う私としては当然、これは見逃すことはできません。しかし、あの殿下に正面から戦いを挑んでは返り討ちにされてしまうことでしょう、そこで私は、夜半、殿下らが寝静まったのを待ち、その寝込みを一気に襲おうと策を立てました。しかし、いざ襲おうとしたら、すでに殿下らは全員姿を消し去っていたのです。私の策を見破られてしまっていました」
これは、ダルコらが来たら、マーサーはきっとリューシスらを見逃したことを詰問されるであろうと予想し、リューシスらが出立する前に皆で考えておいた返答であった。
ダルコは、青い瞳でじっとマーサーの顔を睨んでいたが、やがて長剣を下ろした。
「まあ、仕方あるまい。しかし、今ならまだ追いつけるだろう」
と、言ったところで、ダルコは舌打ちして横目でクージン城を見た。
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「はっ。すぐに」
と、マーサーは手配に向おうとしたが、その背を、ダルコが「待て」と、呼び止めた。
「殿下がこのクージンに来た時は、確かにその仲間のネイマン・フォウコウと二人だけだったのだな?」
「ええ」
「そうか」
ダルコは頷いた後、彼方のクージン城の城壁を睨み、独り言を呟いた。
「あらかじめヴァレリーが反乱計画を立てていたとは言え、たった二人の状態からそのヴァレリーらを味方につけ、更に三千人にまで膨れ上がらせ、それでも約三倍になるガルシャワ軍を撃破……そしてその後、八百人もの兵士らだけでなく、ヴァレリーほどの武将までもが共に着いて行くとは……あの方には軍神でもついているのか?」
ダルコの顔には畏怖の色すら浮いていたが、すぐに毅然とした顔となった。
――いや、それ故に、何としてもあの方の首を取らねばならぬ。皇太子様、皇后様の為に。
マクシムの話を聞いたナターシアは、しばらく言葉が出なかった。
「なんてこと……」
「ダルコの気合いが尋常ではなかったので、クージン奪還の件もあって、思い切って大軍を預けて向かわせましたが、まあ、リューシス殿下を捕らえるのは難しいとは思っておりました。あの方は普通のやり方では難しいのです。まあ、今回は、リューシス殿下が裏切者のベン・ハーベンを始末してくれた上で、ガルシャワ軍の戦力も削ってくれましたので、このままダルコらにクージンを奪還してもらいましょう。この点ではリューシス殿下に感謝しなければ」
マクシムは冗談めかして笑った。
しかし、ナターシアの顔は笑っていない。
「何言っているの。あの子には逃げられたじゃない。散り散りになって逃げたあの子の仲間たちを追うのも途中で止めさせてしまったし、どうするつもりなの」
「まあ、これから殿下らが行くのはどうせランファンでしょう。心配は無用です」
「でもマクシム。あなた、この前もそう言っていたけど、ランファンには軍を向けていないじゃないの」
「ええ。それでいいのです」
「?」
マクシムは、ナターシアが持っていた杯を取り上げ、そこに葡萄酒を注ぎ、一杯飲み干した後、言った。
「あの方は、天法術は得意ですが、武芸は大したことはない。一人であれば怖くはありません。しかし、今回の件でもわかったように、あの方にはたった十人、いや、一人の兵でも率いさせたら、それだけで大軍に囲まれようとも何とかしてしまうような、不思議な恐ろしい力があります。だが、生来の性格ゆえか、政争や謀略には疎い。それ故、ここはまず武力で戦うのは止めて、政治と謀略で戦います」
「そう言うからには、もうすでに仕掛けてあるのでしょうね?」
「ええ。もちろん」
マクシムは、燭の火に照らされた顔をにやりとさせた。
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