Bar Night

彼方

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1.Full moon

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 カランカラン
 店の入口に取り付けられた古めかしいベルが鳴る。店内に入ってきたのは若い女性。このような店に慣れていないのか、不安そうに辺りを見回している。
「こんばんは」
「え……あ、こんばんは」

 女性に声をかけたのは、中性的な整った顔立ちをした若い男だった。すらりと伸びた細い手足によく似合う、白のワイシャツに黒のスラックス、ベスト、サロン。灯りに照らされた足下には黒の革靴。ふわりと笑うその姿に、女性は思わず 綺麗 と呟き、慌ててその口元を両手で覆う。
「どうぞ、こちらへ」
 案内されたのはカウンター席。女性が席に座ると、若い男……この店のバーテンダーは斜め前に立ち、チョコレートやナッツが乗った小さな白い皿を女性の目の前に静かに置いた。

「本日はどのようなものがよろしいでしょうか」
「あ……メニューはないんですか」
「えぇ、お客様のご要望にお応えしておりますので」
 女性は少し考え込み、しばらくしてから口を開く。
「甘いの……ベリー系で、そんなに強くないモノを」
「かしこまりました、美月ミツキ様」
 バーテンダーはにこりと微笑み、手元に並ぶ銀色のシェーカーに手を伸ばした。

 女性客は店内をゆっくりと見回す。少し薄暗い、ランプの灯りのみで照らされた店内。壁にはステンドグラスが散りばめられ、光に反射し、床に模様を写し出す。流れる音楽はゆったりとしたピアノ曲。聴いていると、何だか眠気が襲ってきそうな、優しいメロディ。
 女性は一つ、息を吐いた。

「このような場所は初めてでいらっしゃいますか」
 コトン、と目の前のコースターに置かれる白のコースター。バーテンダーは銀のシェーカーを上下に振る。クラシックのピアノ曲に合わせるかのように、液体と氷が混ざり合う音が店内に響く。やがてバーテンダーは振るのを止め、薄ピンクのグラスにシェーカーの中身を注いだ。

「やっぱり……わかりますか」
 白のコースターに置かれた薄ピンクのグラスに手を伸ばし、女性……美月は困ったように笑う。
 この春、社会人になったばかりだ。毎日が初めての連続で、心に余裕がなくなり、いっぱいいっぱいだった。憧れて入社した、雑誌の編集社。希望のファッション関連の署に配属されたのに、毎日忙しすぎて、自分がやりたいことがよくわからなくなってきていた。それに加え、大学時代から付き合ってきた彼氏と最近上手くいっていない。
 しばらく自分の考えにひたり、美月ははっと我に返る。

「すみません……何か色々考え事していたら、つい此処に。バーなんか入ったことないんですけどね」
「そうでしたか。どうぞ緊張なさらず、お過ごしください」
 優しい雰囲気のバーテンダーに促され、美月は出されたカクテルを口に含む。
「あ、美味しい」
 思わず口にしてしまう。バーのカクテルはもっとお酒の度数が高く、飲みにくいものだと美月は思っていた。けれど今出されたカクテルは甘く、お酒にあまり強くない美月にとっては丁度良かった。
「これ、苺ですか」
「えぇ、ベースはベリー系とピーチ、そこに工夫を少々」
 それ以上は企業秘密らしい。バーテンダーは軽くウィンクをしてみせる。
「ふふっ……何かこれ飲むと思い出します」
「大切な方のこと、ですか」
 バーテンダーの返答に、美月は自然と頷いた。

「大学2年の頃から付き合ってる彼がいるんです。お互い初めての恋人で……色々緊張して、何処に行こうかとか、何食べようかとか譲り合っちゃって」
「微笑ましいですね」
 相槌をうつバーテンダーに美月は頷く。
 そう、初々しかった。手を繋ぐのも、キスをするのも、それ以降のことも。
 全てが初めてで、時間はかかったけれど、一緒にゆっくり進んできた。
 一年、二年と経過していくうちにつれ、慣れが生じてきて。それでもお互い喧嘩したり、プチサプライズし合ったり。それなりに上手くやってきた。

 一口、二口をカクテルを口にする。冷たく凍ったフルーツが口の中でシャリシャリと音を立てる。
「大学卒業して社会人になって……やっぱりお互い忙しくて」
 そんなことは始めからわかっていた。過ごす環境がガラリと変わり、慣れない通勤、仕事、上司や同期との付き合い。疲れて帰宅して、気付いたら朝。よくある話だし、先輩や姉からも聞いている。
 疲れているからこそ、甘えたい。声が聞きたい、話がしたい。そう思って、眠たい気持ちを必死に我慢してメールを送った。返信を楽しみにして、携帯を握りしめて眠るのも連日の日課になっていた。
「メールも電話も減っちゃって……すごく寂しくて」
 メールを送っても返信が来るのは三、四日経ってから。それも、美月が送ったメールの半分にも満たない量。
「いつも私から送って、遅れて向こうが返信して……その繰り返しで」
 段々と腹が立ってきた。自分だって仕事をしていて疲れている。眠たいのに、必死に我慢して時間を作ってメールしているのに。
 よく、男の人で釣った獲物に餌はやらない、と聞くことがある。
「あの、男の人って……そういうの、やっぱり面倒ですか」
 同じ "男" という枠に当てはめてしまうのは良くないとわかっているけれど、つい聞いてしまう。 "男の人" だから仕方が無いと諦めるか、もしくは
"気持ちが薄れてきている" のか。後者だったらどうしよう。自分は彼しか知らないし、彼しか考えられないのに。

「そうですね……それは人によって違うと思いますけれど」
 そう言ってバーテンダーは微笑む。
「きっとお互い社会人になったばかりで余裕がないんでしょう。自分が尽くしたモノと同じモノだけ見返りを求めてはいませんか」

 バーテンダーの言葉に美月ははっとする。
 自分が送信したメールに対して早く返信をくれて、同じ量の文章で返す。それが当たり前だと錯覚していた。

「だから……」
 一昨日のことを美月は思い出す。
 いい加減しびれを切らし、夜の十一時過ぎに電話をした。四度目のコールで出た彼は、随分と眠たそうな声をしていた。


  『もしもし……』
  「もう寝てたの」
  『あぁ……疲れてて』
 メールを送信して四日、返信が無かった。美月はずっと待っていたのだ。今日は返信があるかもしれない、そう信じて携帯を握って、気付けば真夜中。おかげで少し寝不足だったのに。平気で眠ってしまう彼に、カチンと来た。
  「メール読んだよね」
  『あぁ、返信してなくてごめん』
 相変わらず眠たそうな声。電話越しに欠伸をする音が聞こえる。
  「返信待ってたのに」
  『疲れてて』
 ふわぁ、と再び電話越しに聞こえてくる欠伸。
 限界、だった。

  「私は疲れてないからメールしてるってこと」
  『……何でそうなるんだよ』
 不機嫌そうな彼の声。でも、もう止められなかった。
  「だって疲れてるからメールの返信も出来なかったんでしょ。ってことは、メールしてる私は疲れてないって事じゃない」
 はぁ、と聞こえてくるため息。どうして彼がため息を吐くの。
  「何よ、何か間違った事言ってる」
  『そんなこと一言も言ってねぇよ』
  「私だって疲れてるけどメールしたのに……一通返信するくらいいいじゃない」
  『だから……あぁ、もういいわ。俺、明日も早いんだ』
 いかにも面倒くさいというような口調。
 何でそんな突き放すような言い方するの、そう言いかけて美月は思いとどまる。代わりに、口から出た言葉は。
  「っ……もういい、知らない!」
 ピッという無機質な音。美月は一方的に電話を切った。



 そうか、と美月は一人納得する。
 自分がしたことと同じ分だけしてもらって当たり前。いつのまにかそんな考えが頭に会ったことに気付く。
 ただの八つ当たりで、自分の気持ちを一方的に押しつけてただけだということに、今更気付く。
「私……馬鹿ですね」
 考え出したら止まらなくなり、美月の目尻にはどんどん涙が溜まり、頬を伝って流れていく。そのまま、半分以上残っているカクテルを手に持ち、ぐいっと喉に流し込む。天井を見上げると、飛び込んでくるのは色とりどりのステンドグラス。思わずその眩しさに目がくらんだ、気がした。それとも、お酒の一気飲みで酔いが回ったのか、双方なのか。

「っ……どうしよう……」
「簡単ですよ」
 さらりと耳に入ってくる声。美月は視線を天井から、斜め前に立つバーテンダーへと移す。バーテンダーは真っ白な布でグラスを拭いている。

「仕事が終わって疲れて帰宅して、携帯に愛しい人からのメール。嬉しくない人なんていません。始めの一言がなんと書いてあれば嬉しいですか」

 美月はゆっくりと目を閉じ、想像する。連日の忙しい勤務に追われ、ようやく帰宅して一息つこうと思ったら、彼からのメール。慌てて開いて、最初に目に飛び込んでくる言葉は……

「お疲れ様」
 そう小さく呟き、そっと目を閉じる。バーテンダーは微笑を浮かべたまま、次のグラスに手を伸ばしていた。

 帰ろう、そして謝ろう。勝手に一人で怒って八つ当たりしてしまったこと。許してもらえるかわからないけれど、ちゃんと言葉にしないと伝わらない。メールのタイトルには "仕事お疲れ様" って入れて。

「ごちそうさまでした、いくらですか」
「五百円です」
「え、そんなに安いんですか。テーブル料とか……」
 バーと言えば、テーブル料に一杯七、八〇〇円すると思っていた美月は声を上げる。
「えぇ、当店はリーズナブルな値段でお酒を提供していますので」
 バーテンダーは微笑んだまま頷く。
「じゃぁ、丁度で。また来てもいいですか」
 美月は財布から五〇〇円玉を取り出し、カウンターに置く。
「えぇ、また何かあれば」
 バーテンダーはふわりと笑う。美月もつられて思わず笑顔を見せる。
「そうやって笑っていた方が素敵ですよ」

 さらりと歯の浮くような台詞を言えるのはおそらく職業柄。けれど、それがまったく嫌らしく聞こえない。

「ありがとうございました」
「お気を付けて」
 扉に取り付けられた古めかしいベルがカランカラン、と音を立てる。
 やがて店内は静けさに包まれた。



 美月は帰宅してすぐにメールを打ち始めた。タイトルは "仕事お疲れ様" メールの文頭は、 "一昨日はごめんなさい" だ。
 そこでふと思い出す。あのバーテンダーは、自分のことを 美月さん と呼んでいた。いつ、自分は名前を言ったのだろう。思い返そうとしても記憶があやふやで、首をかしげる。
「まぁ……次行ったときに聞けばいいか」



 彼と仲直りをして、その報告をしに行こう。そう思ったのに、あのバーは探しても探しても見つからなかった。確か駅を出てすぐ近くのはずだったのに、あの日の記憶が曖昧で、道も、店の名前すらも思い出せなかった。
「何だったんだろう」
 けれど、不思議と怖くなかった。夢かと思ったけれど、あの日飲んだカクテルの味は今も鮮明に覚えている。

「まぁ……いっか」
「お待たせ、美月」
 小さく呟いたところで、聞き慣れた声。今日は久しぶりのデートだ。
「ん、久しぶり。昨日も遅くまで仕事だったみたいだけど、ちゃんと寝れた」
「あぁ、大丈夫。行こうか」
 差し出された彼の手に、自分の手を重ねる。
 付き合いだした当初と変わらない、優しい笑顔。美月も笑みを浮かべた。




 薄暗い店内。カウンターに置かれたランプに照らされる、年季の入った一冊の本。紙は白から生成り色へと変色し、背表紙の茶色もやや色あせている。
 カウンターの椅子に腰掛けるバーテンダーは、胸ポケットから万年筆を取り出し、白紙のページに、美月に出したカクテルのレシピを書き込む。

「名前は……」
 少し間を置いて、バーテンダーは万年筆を滑らせる。

「Full Moon」

 おそらく、今頃は仲直りをして、愛を育んでいるだろう。

「素直に、大切に」
 そう呟き、本を閉じる。
 静かに立ち上がり、腰に巻いていたサロンを取り、椅子の背もたれにかける。

 バーテンダーはそのまま店の奥へと姿を消した。
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