1 / 14
1.Full moon
しおりを挟む
カランカラン
店の入口に取り付けられた古めかしいベルが鳴る。店内に入ってきたのは若い女性。このような店に慣れていないのか、不安そうに辺りを見回している。
「こんばんは」
「え……あ、こんばんは」
女性に声をかけたのは、中性的な整った顔立ちをした若い男だった。すらりと伸びた細い手足によく似合う、白のワイシャツに黒のスラックス、ベスト、サロン。灯りに照らされた足下には黒の革靴。ふわりと笑うその姿に、女性は思わず 綺麗 と呟き、慌ててその口元を両手で覆う。
「どうぞ、こちらへ」
案内されたのはカウンター席。女性が席に座ると、若い男……この店のバーテンダーは斜め前に立ち、チョコレートやナッツが乗った小さな白い皿を女性の目の前に静かに置いた。
「本日はどのようなものがよろしいでしょうか」
「あ……メニューはないんですか」
「えぇ、お客様のご要望にお応えしておりますので」
女性は少し考え込み、しばらくしてから口を開く。
「甘いの……ベリー系で、そんなに強くないモノを」
「かしこまりました、美月様」
バーテンダーはにこりと微笑み、手元に並ぶ銀色のシェーカーに手を伸ばした。
女性客は店内をゆっくりと見回す。少し薄暗い、ランプの灯りのみで照らされた店内。壁にはステンドグラスが散りばめられ、光に反射し、床に模様を写し出す。流れる音楽はゆったりとしたピアノ曲。聴いていると、何だか眠気が襲ってきそうな、優しいメロディ。
女性は一つ、息を吐いた。
「このような場所は初めてでいらっしゃいますか」
コトン、と目の前のコースターに置かれる白のコースター。バーテンダーは銀のシェーカーを上下に振る。クラシックのピアノ曲に合わせるかのように、液体と氷が混ざり合う音が店内に響く。やがてバーテンダーは振るのを止め、薄ピンクのグラスにシェーカーの中身を注いだ。
「やっぱり……わかりますか」
白のコースターに置かれた薄ピンクのグラスに手を伸ばし、女性……美月は困ったように笑う。
この春、社会人になったばかりだ。毎日が初めての連続で、心に余裕がなくなり、いっぱいいっぱいだった。憧れて入社した、雑誌の編集社。希望のファッション関連の署に配属されたのに、毎日忙しすぎて、自分がやりたいことがよくわからなくなってきていた。それに加え、大学時代から付き合ってきた彼氏と最近上手くいっていない。
しばらく自分の考えにひたり、美月ははっと我に返る。
「すみません……何か色々考え事していたら、つい此処に。バーなんか入ったことないんですけどね」
「そうでしたか。どうぞ緊張なさらず、お過ごしください」
優しい雰囲気のバーテンダーに促され、美月は出されたカクテルを口に含む。
「あ、美味しい」
思わず口にしてしまう。バーのカクテルはもっとお酒の度数が高く、飲みにくいものだと美月は思っていた。けれど今出されたカクテルは甘く、お酒にあまり強くない美月にとっては丁度良かった。
「これ、苺ですか」
「えぇ、ベースはベリー系とピーチ、そこに工夫を少々」
それ以上は企業秘密らしい。バーテンダーは軽くウィンクをしてみせる。
「ふふっ……何かこれ飲むと思い出します」
「大切な方のこと、ですか」
バーテンダーの返答に、美月は自然と頷いた。
「大学2年の頃から付き合ってる彼がいるんです。お互い初めての恋人で……色々緊張して、何処に行こうかとか、何食べようかとか譲り合っちゃって」
「微笑ましいですね」
相槌をうつバーテンダーに美月は頷く。
そう、初々しかった。手を繋ぐのも、キスをするのも、それ以降のことも。
全てが初めてで、時間はかかったけれど、一緒にゆっくり進んできた。
一年、二年と経過していくうちにつれ、慣れが生じてきて。それでもお互い喧嘩したり、プチサプライズし合ったり。それなりに上手くやってきた。
一口、二口をカクテルを口にする。冷たく凍ったフルーツが口の中でシャリシャリと音を立てる。
「大学卒業して社会人になって……やっぱりお互い忙しくて」
そんなことは始めからわかっていた。過ごす環境がガラリと変わり、慣れない通勤、仕事、上司や同期との付き合い。疲れて帰宅して、気付いたら朝。よくある話だし、先輩や姉からも聞いている。
疲れているからこそ、甘えたい。声が聞きたい、話がしたい。そう思って、眠たい気持ちを必死に我慢してメールを送った。返信を楽しみにして、携帯を握りしめて眠るのも連日の日課になっていた。
「メールも電話も減っちゃって……すごく寂しくて」
メールを送っても返信が来るのは三、四日経ってから。それも、美月が送ったメールの半分にも満たない量。
「いつも私から送って、遅れて向こうが返信して……その繰り返しで」
段々と腹が立ってきた。自分だって仕事をしていて疲れている。眠たいのに、必死に我慢して時間を作ってメールしているのに。
よく、男の人で釣った獲物に餌はやらない、と聞くことがある。
「あの、男の人って……そういうの、やっぱり面倒ですか」
同じ "男" という枠に当てはめてしまうのは良くないとわかっているけれど、つい聞いてしまう。 "男の人" だから仕方が無いと諦めるか、もしくは
"気持ちが薄れてきている" のか。後者だったらどうしよう。自分は彼しか知らないし、彼しか考えられないのに。
「そうですね……それは人によって違うと思いますけれど」
そう言ってバーテンダーは微笑む。
「きっとお互い社会人になったばかりで余裕がないんでしょう。自分が尽くしたモノと同じモノだけ見返りを求めてはいませんか」
バーテンダーの言葉に美月ははっとする。
自分が送信したメールに対して早く返信をくれて、同じ量の文章で返す。それが当たり前だと錯覚していた。
「だから……」
一昨日のことを美月は思い出す。
いい加減しびれを切らし、夜の十一時過ぎに電話をした。四度目のコールで出た彼は、随分と眠たそうな声をしていた。
『もしもし……』
「もう寝てたの」
『あぁ……疲れてて』
メールを送信して四日、返信が無かった。美月はずっと待っていたのだ。今日は返信があるかもしれない、そう信じて携帯を握って、気付けば真夜中。おかげで少し寝不足だったのに。平気で眠ってしまう彼に、カチンと来た。
「メール読んだよね」
『あぁ、返信してなくてごめん』
相変わらず眠たそうな声。電話越しに欠伸をする音が聞こえる。
「返信待ってたのに」
『疲れてて』
ふわぁ、と再び電話越しに聞こえてくる欠伸。
限界、だった。
「私は疲れてないからメールしてるってこと」
『……何でそうなるんだよ』
不機嫌そうな彼の声。でも、もう止められなかった。
「だって疲れてるからメールの返信も出来なかったんでしょ。ってことは、メールしてる私は疲れてないって事じゃない」
はぁ、と聞こえてくるため息。どうして彼がため息を吐くの。
「何よ、何か間違った事言ってる」
『そんなこと一言も言ってねぇよ』
「私だって疲れてるけどメールしたのに……一通返信するくらいいいじゃない」
『だから……あぁ、もういいわ。俺、明日も早いんだ』
いかにも面倒くさいというような口調。
何でそんな突き放すような言い方するの、そう言いかけて美月は思いとどまる。代わりに、口から出た言葉は。
「っ……もういい、知らない!」
ピッという無機質な音。美月は一方的に電話を切った。
そうか、と美月は一人納得する。
自分がしたことと同じ分だけしてもらって当たり前。いつのまにかそんな考えが頭に会ったことに気付く。
ただの八つ当たりで、自分の気持ちを一方的に押しつけてただけだということに、今更気付く。
「私……馬鹿ですね」
考え出したら止まらなくなり、美月の目尻にはどんどん涙が溜まり、頬を伝って流れていく。そのまま、半分以上残っているカクテルを手に持ち、ぐいっと喉に流し込む。天井を見上げると、飛び込んでくるのは色とりどりのステンドグラス。思わずその眩しさに目がくらんだ、気がした。それとも、お酒の一気飲みで酔いが回ったのか、双方なのか。
「っ……どうしよう……」
「簡単ですよ」
さらりと耳に入ってくる声。美月は視線を天井から、斜め前に立つバーテンダーへと移す。バーテンダーは真っ白な布でグラスを拭いている。
「仕事が終わって疲れて帰宅して、携帯に愛しい人からのメール。嬉しくない人なんていません。始めの一言がなんと書いてあれば嬉しいですか」
美月はゆっくりと目を閉じ、想像する。連日の忙しい勤務に追われ、ようやく帰宅して一息つこうと思ったら、彼からのメール。慌てて開いて、最初に目に飛び込んでくる言葉は……
「お疲れ様」
そう小さく呟き、そっと目を閉じる。バーテンダーは微笑を浮かべたまま、次のグラスに手を伸ばしていた。
帰ろう、そして謝ろう。勝手に一人で怒って八つ当たりしてしまったこと。許してもらえるかわからないけれど、ちゃんと言葉にしないと伝わらない。メールのタイトルには "仕事お疲れ様" って入れて。
「ごちそうさまでした、いくらですか」
「五百円です」
「え、そんなに安いんですか。テーブル料とか……」
バーと言えば、テーブル料に一杯七、八〇〇円すると思っていた美月は声を上げる。
「えぇ、当店はリーズナブルな値段でお酒を提供していますので」
バーテンダーは微笑んだまま頷く。
「じゃぁ、丁度で。また来てもいいですか」
美月は財布から五〇〇円玉を取り出し、カウンターに置く。
「えぇ、また何かあれば」
バーテンダーはふわりと笑う。美月もつられて思わず笑顔を見せる。
「そうやって笑っていた方が素敵ですよ」
さらりと歯の浮くような台詞を言えるのはおそらく職業柄。けれど、それがまったく嫌らしく聞こえない。
「ありがとうございました」
「お気を付けて」
扉に取り付けられた古めかしいベルがカランカラン、と音を立てる。
やがて店内は静けさに包まれた。
美月は帰宅してすぐにメールを打ち始めた。タイトルは "仕事お疲れ様" メールの文頭は、 "一昨日はごめんなさい" だ。
そこでふと思い出す。あのバーテンダーは、自分のことを 美月さん と呼んでいた。いつ、自分は名前を言ったのだろう。思い返そうとしても記憶があやふやで、首をかしげる。
「まぁ……次行ったときに聞けばいいか」
彼と仲直りをして、その報告をしに行こう。そう思ったのに、あのバーは探しても探しても見つからなかった。確か駅を出てすぐ近くのはずだったのに、あの日の記憶が曖昧で、道も、店の名前すらも思い出せなかった。
「何だったんだろう」
けれど、不思議と怖くなかった。夢かと思ったけれど、あの日飲んだカクテルの味は今も鮮明に覚えている。
「まぁ……いっか」
「お待たせ、美月」
小さく呟いたところで、聞き慣れた声。今日は久しぶりのデートだ。
「ん、久しぶり。昨日も遅くまで仕事だったみたいだけど、ちゃんと寝れた」
「あぁ、大丈夫。行こうか」
差し出された彼の手に、自分の手を重ねる。
付き合いだした当初と変わらない、優しい笑顔。美月も笑みを浮かべた。
薄暗い店内。カウンターに置かれたランプに照らされる、年季の入った一冊の本。紙は白から生成り色へと変色し、背表紙の茶色もやや色あせている。
カウンターの椅子に腰掛けるバーテンダーは、胸ポケットから万年筆を取り出し、白紙のページに、美月に出したカクテルのレシピを書き込む。
「名前は……」
少し間を置いて、バーテンダーは万年筆を滑らせる。
「Full Moon」
おそらく、今頃は仲直りをして、愛を育んでいるだろう。
「素直に、大切に」
そう呟き、本を閉じる。
静かに立ち上がり、腰に巻いていたサロンを取り、椅子の背もたれにかける。
バーテンダーはそのまま店の奥へと姿を消した。
店の入口に取り付けられた古めかしいベルが鳴る。店内に入ってきたのは若い女性。このような店に慣れていないのか、不安そうに辺りを見回している。
「こんばんは」
「え……あ、こんばんは」
女性に声をかけたのは、中性的な整った顔立ちをした若い男だった。すらりと伸びた細い手足によく似合う、白のワイシャツに黒のスラックス、ベスト、サロン。灯りに照らされた足下には黒の革靴。ふわりと笑うその姿に、女性は思わず 綺麗 と呟き、慌ててその口元を両手で覆う。
「どうぞ、こちらへ」
案内されたのはカウンター席。女性が席に座ると、若い男……この店のバーテンダーは斜め前に立ち、チョコレートやナッツが乗った小さな白い皿を女性の目の前に静かに置いた。
「本日はどのようなものがよろしいでしょうか」
「あ……メニューはないんですか」
「えぇ、お客様のご要望にお応えしておりますので」
女性は少し考え込み、しばらくしてから口を開く。
「甘いの……ベリー系で、そんなに強くないモノを」
「かしこまりました、美月様」
バーテンダーはにこりと微笑み、手元に並ぶ銀色のシェーカーに手を伸ばした。
女性客は店内をゆっくりと見回す。少し薄暗い、ランプの灯りのみで照らされた店内。壁にはステンドグラスが散りばめられ、光に反射し、床に模様を写し出す。流れる音楽はゆったりとしたピアノ曲。聴いていると、何だか眠気が襲ってきそうな、優しいメロディ。
女性は一つ、息を吐いた。
「このような場所は初めてでいらっしゃいますか」
コトン、と目の前のコースターに置かれる白のコースター。バーテンダーは銀のシェーカーを上下に振る。クラシックのピアノ曲に合わせるかのように、液体と氷が混ざり合う音が店内に響く。やがてバーテンダーは振るのを止め、薄ピンクのグラスにシェーカーの中身を注いだ。
「やっぱり……わかりますか」
白のコースターに置かれた薄ピンクのグラスに手を伸ばし、女性……美月は困ったように笑う。
この春、社会人になったばかりだ。毎日が初めての連続で、心に余裕がなくなり、いっぱいいっぱいだった。憧れて入社した、雑誌の編集社。希望のファッション関連の署に配属されたのに、毎日忙しすぎて、自分がやりたいことがよくわからなくなってきていた。それに加え、大学時代から付き合ってきた彼氏と最近上手くいっていない。
しばらく自分の考えにひたり、美月ははっと我に返る。
「すみません……何か色々考え事していたら、つい此処に。バーなんか入ったことないんですけどね」
「そうでしたか。どうぞ緊張なさらず、お過ごしください」
優しい雰囲気のバーテンダーに促され、美月は出されたカクテルを口に含む。
「あ、美味しい」
思わず口にしてしまう。バーのカクテルはもっとお酒の度数が高く、飲みにくいものだと美月は思っていた。けれど今出されたカクテルは甘く、お酒にあまり強くない美月にとっては丁度良かった。
「これ、苺ですか」
「えぇ、ベースはベリー系とピーチ、そこに工夫を少々」
それ以上は企業秘密らしい。バーテンダーは軽くウィンクをしてみせる。
「ふふっ……何かこれ飲むと思い出します」
「大切な方のこと、ですか」
バーテンダーの返答に、美月は自然と頷いた。
「大学2年の頃から付き合ってる彼がいるんです。お互い初めての恋人で……色々緊張して、何処に行こうかとか、何食べようかとか譲り合っちゃって」
「微笑ましいですね」
相槌をうつバーテンダーに美月は頷く。
そう、初々しかった。手を繋ぐのも、キスをするのも、それ以降のことも。
全てが初めてで、時間はかかったけれど、一緒にゆっくり進んできた。
一年、二年と経過していくうちにつれ、慣れが生じてきて。それでもお互い喧嘩したり、プチサプライズし合ったり。それなりに上手くやってきた。
一口、二口をカクテルを口にする。冷たく凍ったフルーツが口の中でシャリシャリと音を立てる。
「大学卒業して社会人になって……やっぱりお互い忙しくて」
そんなことは始めからわかっていた。過ごす環境がガラリと変わり、慣れない通勤、仕事、上司や同期との付き合い。疲れて帰宅して、気付いたら朝。よくある話だし、先輩や姉からも聞いている。
疲れているからこそ、甘えたい。声が聞きたい、話がしたい。そう思って、眠たい気持ちを必死に我慢してメールを送った。返信を楽しみにして、携帯を握りしめて眠るのも連日の日課になっていた。
「メールも電話も減っちゃって……すごく寂しくて」
メールを送っても返信が来るのは三、四日経ってから。それも、美月が送ったメールの半分にも満たない量。
「いつも私から送って、遅れて向こうが返信して……その繰り返しで」
段々と腹が立ってきた。自分だって仕事をしていて疲れている。眠たいのに、必死に我慢して時間を作ってメールしているのに。
よく、男の人で釣った獲物に餌はやらない、と聞くことがある。
「あの、男の人って……そういうの、やっぱり面倒ですか」
同じ "男" という枠に当てはめてしまうのは良くないとわかっているけれど、つい聞いてしまう。 "男の人" だから仕方が無いと諦めるか、もしくは
"気持ちが薄れてきている" のか。後者だったらどうしよう。自分は彼しか知らないし、彼しか考えられないのに。
「そうですね……それは人によって違うと思いますけれど」
そう言ってバーテンダーは微笑む。
「きっとお互い社会人になったばかりで余裕がないんでしょう。自分が尽くしたモノと同じモノだけ見返りを求めてはいませんか」
バーテンダーの言葉に美月ははっとする。
自分が送信したメールに対して早く返信をくれて、同じ量の文章で返す。それが当たり前だと錯覚していた。
「だから……」
一昨日のことを美月は思い出す。
いい加減しびれを切らし、夜の十一時過ぎに電話をした。四度目のコールで出た彼は、随分と眠たそうな声をしていた。
『もしもし……』
「もう寝てたの」
『あぁ……疲れてて』
メールを送信して四日、返信が無かった。美月はずっと待っていたのだ。今日は返信があるかもしれない、そう信じて携帯を握って、気付けば真夜中。おかげで少し寝不足だったのに。平気で眠ってしまう彼に、カチンと来た。
「メール読んだよね」
『あぁ、返信してなくてごめん』
相変わらず眠たそうな声。電話越しに欠伸をする音が聞こえる。
「返信待ってたのに」
『疲れてて』
ふわぁ、と再び電話越しに聞こえてくる欠伸。
限界、だった。
「私は疲れてないからメールしてるってこと」
『……何でそうなるんだよ』
不機嫌そうな彼の声。でも、もう止められなかった。
「だって疲れてるからメールの返信も出来なかったんでしょ。ってことは、メールしてる私は疲れてないって事じゃない」
はぁ、と聞こえてくるため息。どうして彼がため息を吐くの。
「何よ、何か間違った事言ってる」
『そんなこと一言も言ってねぇよ』
「私だって疲れてるけどメールしたのに……一通返信するくらいいいじゃない」
『だから……あぁ、もういいわ。俺、明日も早いんだ』
いかにも面倒くさいというような口調。
何でそんな突き放すような言い方するの、そう言いかけて美月は思いとどまる。代わりに、口から出た言葉は。
「っ……もういい、知らない!」
ピッという無機質な音。美月は一方的に電話を切った。
そうか、と美月は一人納得する。
自分がしたことと同じ分だけしてもらって当たり前。いつのまにかそんな考えが頭に会ったことに気付く。
ただの八つ当たりで、自分の気持ちを一方的に押しつけてただけだということに、今更気付く。
「私……馬鹿ですね」
考え出したら止まらなくなり、美月の目尻にはどんどん涙が溜まり、頬を伝って流れていく。そのまま、半分以上残っているカクテルを手に持ち、ぐいっと喉に流し込む。天井を見上げると、飛び込んでくるのは色とりどりのステンドグラス。思わずその眩しさに目がくらんだ、気がした。それとも、お酒の一気飲みで酔いが回ったのか、双方なのか。
「っ……どうしよう……」
「簡単ですよ」
さらりと耳に入ってくる声。美月は視線を天井から、斜め前に立つバーテンダーへと移す。バーテンダーは真っ白な布でグラスを拭いている。
「仕事が終わって疲れて帰宅して、携帯に愛しい人からのメール。嬉しくない人なんていません。始めの一言がなんと書いてあれば嬉しいですか」
美月はゆっくりと目を閉じ、想像する。連日の忙しい勤務に追われ、ようやく帰宅して一息つこうと思ったら、彼からのメール。慌てて開いて、最初に目に飛び込んでくる言葉は……
「お疲れ様」
そう小さく呟き、そっと目を閉じる。バーテンダーは微笑を浮かべたまま、次のグラスに手を伸ばしていた。
帰ろう、そして謝ろう。勝手に一人で怒って八つ当たりしてしまったこと。許してもらえるかわからないけれど、ちゃんと言葉にしないと伝わらない。メールのタイトルには "仕事お疲れ様" って入れて。
「ごちそうさまでした、いくらですか」
「五百円です」
「え、そんなに安いんですか。テーブル料とか……」
バーと言えば、テーブル料に一杯七、八〇〇円すると思っていた美月は声を上げる。
「えぇ、当店はリーズナブルな値段でお酒を提供していますので」
バーテンダーは微笑んだまま頷く。
「じゃぁ、丁度で。また来てもいいですか」
美月は財布から五〇〇円玉を取り出し、カウンターに置く。
「えぇ、また何かあれば」
バーテンダーはふわりと笑う。美月もつられて思わず笑顔を見せる。
「そうやって笑っていた方が素敵ですよ」
さらりと歯の浮くような台詞を言えるのはおそらく職業柄。けれど、それがまったく嫌らしく聞こえない。
「ありがとうございました」
「お気を付けて」
扉に取り付けられた古めかしいベルがカランカラン、と音を立てる。
やがて店内は静けさに包まれた。
美月は帰宅してすぐにメールを打ち始めた。タイトルは "仕事お疲れ様" メールの文頭は、 "一昨日はごめんなさい" だ。
そこでふと思い出す。あのバーテンダーは、自分のことを 美月さん と呼んでいた。いつ、自分は名前を言ったのだろう。思い返そうとしても記憶があやふやで、首をかしげる。
「まぁ……次行ったときに聞けばいいか」
彼と仲直りをして、その報告をしに行こう。そう思ったのに、あのバーは探しても探しても見つからなかった。確か駅を出てすぐ近くのはずだったのに、あの日の記憶が曖昧で、道も、店の名前すらも思い出せなかった。
「何だったんだろう」
けれど、不思議と怖くなかった。夢かと思ったけれど、あの日飲んだカクテルの味は今も鮮明に覚えている。
「まぁ……いっか」
「お待たせ、美月」
小さく呟いたところで、聞き慣れた声。今日は久しぶりのデートだ。
「ん、久しぶり。昨日も遅くまで仕事だったみたいだけど、ちゃんと寝れた」
「あぁ、大丈夫。行こうか」
差し出された彼の手に、自分の手を重ねる。
付き合いだした当初と変わらない、優しい笑顔。美月も笑みを浮かべた。
薄暗い店内。カウンターに置かれたランプに照らされる、年季の入った一冊の本。紙は白から生成り色へと変色し、背表紙の茶色もやや色あせている。
カウンターの椅子に腰掛けるバーテンダーは、胸ポケットから万年筆を取り出し、白紙のページに、美月に出したカクテルのレシピを書き込む。
「名前は……」
少し間を置いて、バーテンダーは万年筆を滑らせる。
「Full Moon」
おそらく、今頃は仲直りをして、愛を育んでいるだろう。
「素直に、大切に」
そう呟き、本を閉じる。
静かに立ち上がり、腰に巻いていたサロンを取り、椅子の背もたれにかける。
バーテンダーはそのまま店の奥へと姿を消した。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる