Bar Night

彼方

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8.Kamikaze

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「いつも帰り遅くてごめんな」
「気にしてないから大丈夫だって」
 いつもの会話。毎朝作ってくれる弁当は、5分から10分程度で腹に詰め込む、そんな日々の繰り返し。
「夕飯どうする」
「あー……食べる」
「じゃぁ温めて来るね。着替えてきて」
 空になった弁当袋を手渡すと、笑った妻が台所に消えていった。

 大学を卒業し、働き始めて四年目。研修の二年を終え、一年働き、今年から常勤医になった。元々希望していた内科に配属され、忙しい日々を送っている。
 ワイシャツとズボンを脱ぎ、ハンガーにかけてからTシャツとハーフパンツに着替える。ふと枕元を見ると、既に明日の分の着替えが用意されている。ふぅ、と一つ息を吐く。自分のことを気にかけ、忙しく一緒にいてやれる時間も無いのに、文句一つ言わない二つ年下の妻。大学時代にサークルで出会い、六年間付き合い、昨年入籍、挙式した。まだまだ駆け出しのくせに、と自分で思いはしたけれど、常に自分を思ってくれる彼女を失いたくは無かった。これからますます忙しくなるであろう日々を想像して、愛想を付かされるのが怖くて……半ば急いで籍を入れた。

 そうして、予想どおり、今年に入ってからは連日帰宅は二十二時を廻るようになっていった。土曜日も出勤、日曜日だけが唯一の休み。一週間分の疲れが貯まってか、ほとんど寝てばかりの一日。そうしてまた月曜日から仕事が始まる。

 妻は学部は違えど、職場が同じだ。科が違うから普段は会うことはないが、話には時々出てくる。気が利いて、周りからも認められて人気もあると。師長から『あんなにいい子いないんだから先生、絶対手放しちゃ駄目よ』なんて言われて、もちろんです、と返事はしたものの……あまり自信はない。


「お疲れ様。お酒は何か呑む」
 リビングに行くと、湯気の立つご飯に味噌汁、魚の煮物、それからサラダが用意されていた。
「あーじゃぁ……ビール」
「はいはい」
 冷蔵庫から缶ビールを取り出し、グラスに注いでくれる。
 「あれ、由希ユキは」
「私はこれで」
 そこにはノンアルコールビール。普段はお酌に付き合ってくれるが……体調でも悪いのだろうか。
「はい、かんぱーい」
「ん、あ、あぁ」
 笑う妻に言われ、ビールを口に流し込む。

「内科、忙しいねぇ。うちの医者達が言ってたよ、今月は大変だって」
「あぁ……そっちも今月入院数多いって聞いたけど」
「まぁねぇ。時期があるから仕方ないね」
 くすくすと笑う妻。普通の新婚であれば、休みは一緒に過ごし、何処かに出かけていくのだと思う。けれど、日曜日は寝ているか勉強しているか……このままではいけないと頭ではわかっているものの、上手くいかない。
 隣で笑う妻を横目に、ばれないようにそっと息を吐いた。



 珍しく、仕事が早く終わった。十八時、今日妻は夜勤だ。夕食はおそらく用意されているだろうけれど……何となくすぐには帰りたくなくて、いつもよりゆっくり帰路を歩く。帰れば笑顔の妻がいる家が好きだ。居心地がいい。けれど、自分は何も返せていない。そんな自分が歯がゆい。

 ふと顔を上げる。目に入ってきたのは、小さな看板。どうやらBarのようだが……これまで此処に店なんかあっただろうか。新しく出来たのか……辺りを見回すが、人通りは少ない。何となく足がそこに進んでいた。


 カランカラン

 入口の扉に取り付けられた古めかしいベルが鳴る。狭い店内には、数えられるほどのカウンター席しかない。


「いらっしゃいませ、どうぞ」
 声をかけたのは、バーテンダー。白のワイシャツに黒のスラックス、ベスト。黒のサロンを腰に巻いている。
 案内されたのはカウンターの丁度真ん中の席。斜め左前に立つバーテンダーは、チョコレートやナッツが乗った小皿を出してくれる。

 男は店内を見回す。店内は薄暗く、ランプの灯りのみでカウンターは照らされ、壁に散りばめられたステンドグラスが木の床に色を映し出している。

「あの……メニューありますか」
「申し訳ありません、当店にメニューはございません。お客様のご希望の物を何でもお創りします」
 普通、居酒屋やBarにあるはずのメニューが無い。尋ねてみるが、バーテンダーはいつものことなのか、静かに返答する。
 どうしよう、と悩む。普段ならばビールを注文するが、Barでビールなんて……そう悩んでいると。
康行ヤスユキさんは普段ビール派ですか」
「あ……そうですね。日本酒や焼酎なんかも呑みますけど……」
 どちらもBarには似つかわしくない。
「あの、お任せします」
「かしこまりました」

 小さく一礼すると、バーテンダーは背を向けて上の棚を開けて酒の瓶を手に取った。

 ポケット内の携帯が鳴る。送り主は……妻。
 "仕事お疲れ様。明日、お休みだよね?帰ったら話したいことがあるので、出かけずに待っててくれると嬉しいです"

 嫌な予感が頭をよぎる。年下の妻で、付き合いだした当初は敬語を使っていたけれど……最近はタメ語だった。それなのに、メールの文面が敬語だ。そんな些細なことでいちいち反応するのもどうかとは思うけれど、近頃まともに話も出来ていない。改まって話があると言われると……
 自然と表情が強ばるのがわかる。もしも、別れ話でも持ち出されたら……

 そんなことが脳裏をよぎる中、シャカシャカという心地よい音。バーテンダーが銀色のシェイカーを手に持ち、振っているのが視界に入る。
 あぁ、そういえば近頃は妻と外食もしていない。文句一つ言わない妻に甘えてすぎていたのか……今更遅いのか、そんな後悔ばかりが浮かんでくる。


「お待たせいたしました」
 コトン、と目の前に置かれるカクテル。グラスに注がれた白いカクテル内にはライムのスライスが浮かんでいる。

「これは……」
「kamikaze、といいます」
「かみかぜ」
 そっと口に運ぶ。ピリッとした苦みが口腔内を走る。
「これって中身は」
「ウォッカとホワイトキュラソー、ライムジュースです」
 なるほど、と納得する。この苦みはウォッカから来ているのか。
「どうやら、太平洋戦争時代の海軍の特攻隊神風を連想させるからこの名前が付いたそうです」
「あぁ……確かに。苦いって言うか、その、切れ味っていうんですかね」
 バーテンダーの説明に納得する。
 グラスを軽く揺すると、氷がカラカラと音を立てて回る。

 白は職場で最も目にする色だ。自分や同僚の格好、風景の色。全てが白で統一されている。


「……何かお困りな事でも」
「え」
 バーテンダーの声に顔を上げる。斜め前に立つバーテンダーは、白い布でグラスを拭いている。
「店に来たときから、何か思い詰めた顔をされていたので」
「あぁ……」
 たいしたことじゃない。と思いつつ、バーテンダーの顔色を伺う。目が合うと、ふわり、と笑われる。

「あの、ご結婚……されてますか」
「あぁ……これから、です」
 微笑を浮かべるバーテンダーに、何処か親近感を覚える。
「僕、大学時代から六年付き合って、昨年結婚したんですけど」
「それは……おめでとうございます」
「ありがとうございます。でも仕事ばかりで……あぁ、一応新婚旅行は行ったんですけど……それ以外、あまり一緒に出かけていなくて」

 話しながら思い出す。クリスマスプレゼントや誕生日プレゼントは毎年欠かしていない。けれど、休みを取ったり、連休を彼女のために裂くということはほとんど出来ていない。
「何か……新婚ぽいこと、何も出来て無くて。でも何も文句言わないんですよ」
 妻の由希は二つ年下で、サークルで出会った。いつも笑顔を絶やさず、喧嘩もほとんどない。常に自分のことを気遣ってくれるから、ついつい甘えてしまう。もしかしたら言いたいことを我慢しているかもしれないのに。

「今の現状はよくないと思っているんですけど……どうしたらいいのか」
 仕事で忙しい自分を理解してくれている。
 嬉しい反面、物わかりが良すぎて怖い。
 自分から少しずつ離れているのではないか、そんな不安が頭をよぎる。

「奥さんに、言いたいことは」
「そう、ですね……我慢せずに、もっと色々言ってくれればって思うんです」

 きっと我慢をしているはずだ。
 会いたい、寂しい、つまらない

 陰性感情でもかまわない。彼女の本音が知りたい、ただそれだけだ。

「康行さんはいかがですか」
「え」
 バーテンダーの声に顔を上げる。いつのまにかグラスを拭くのをやめたバーテンダーが、まっすぐ自分の顔を見ている。

「自分の本音は伝えず、奥様にだけ本音を話して貰おうなんて……虫が良すぎる話ではありませんか」
「あ」

 確かに、そうだ。自分の本心は伝えていない。
「もしかしたら……由希さんも同じかもしれませんよ」
「え」
「康行さんの本心が知りたい。けれど言ってもらえない。だから遠慮しているのかもしれません」

 言われてみればそうだ。自分も、言いたいことがあっても我慢をしている気がする。妻に気を遣って。

「自分の思っている事をきちんと言葉にして伝えてみてはいかがでしょうか」
「思っている事」
「えぇ。不安なこと、寂しい思いをさせているのではないかと心配なこと……由希さんは、そういうことを受け入れてくれる方ではありませんか」

 言葉に詰まる。自分の方が妻を知らないみたいで、胸が痛む。

「神風というは、戦時中に特攻隊に付けられた名前です。自らの危険を試みず攻撃するという意味だそうですが……私は少し違う解釈をしています」
「違う解釈」
「えぇ。元の意味は神の威力により強い風が吹くというもので、まぁ確かに……暴風だとか、あまり良い意味は使われないのですが、一説には思いがけない幸運に恵まれる事も言うのです。私はそちらを押します」
「幸運」
「はい。当たって砕けろという言葉がありますが……私は良い意味で捉えたらいいかと。だって奥様と貴方の仲は簡単に壊れてしまう物ではないでしょう。信頼し合って、けれど最近それが当たり前になって……自分の気持ちを伝えなくても何とかなると思っていませんか」
 言われた言葉に押し黙る。
 そうだ、心の何処かで思っていた。言わなくても、理解してくれるだろうと……何処かで期待している自分がいる。

「けれど、己の気持ちを言葉にすることで伝わる物は確かにあるはずです」

 バーテンダーの言葉が染み渡る。
 伝えたい事を言葉にする。当たり前のことなのに、忘れていた気がする。

 残ったカクテルを一気に飲み干す。
 明日、話がしたいと彼女はメールで伝えてくれた。自分も今の素直な気持ちを伝えよう。

 椅子から立ち上がる。
「いくらですか」
「五百円です」
「え、そんなに安いんですか」
「えぇ」
 微笑を浮かべたままのバーテンダーに五百円玉を手渡し、店を後にした。


 翌朝、帰宅した妻に自分の気持ちを伝えた。
 笑った妻は、自分の手を取り……妻の腹部に当てさせた。

 笑う妻を抱きしめ……大切にしよう、言葉にしようと誓った。


 あのBarにお礼を言いに行こうと思ったが、店はいつのまにか消えてなくなっていた。
 確かにそこにあったはずだが、既に空き地になっていた。


「どうしたの、康行」
 空き地の前で立ち止まった自分に、妻が不思議そうな顔で尋ねる。
「あぁ……この間、此処でな……」

 夢では無いと信じている。不思議な現象で、医学的には不可解な事かもしれないけれど、すんなり受け止められている。
 確かに自分はあのBarで助けられたのだから。




 薄暗い店内。カウンターに置かれた、一冊の古びた本。椅子に座るバーテンダーは胸ポケットから万年筆を取り出し、レシピを記す。

「……伝えたいことを伝える、か」

 言葉にしてバーテンダーは一人、苦笑する。

「そろそろ……動くかな」
 kamikaze そう記し、静かに本を閉じた。
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