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第1章:霧の町へ
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2005年11月。岩手県の霧崎町は、冷たい霧に閉ざされていた。ローカル線の終着駅に降り立った佐藤悠真は、濡れたデニムのジャケットの襟を立て、鼻にまとわりつく海の匂いを感じた。ホームの端では、錆びた看板が風に揺れ、軋む音を立てる。遠くで波が岩を叩き、まるで町全体が深い眠りについているようだった。
悠真は28歳。東京の新聞社を辞め、半年前に「北東日報」の記者としてこの田舎町に赴任した。都会の喧騒を逃れるため――それが表向きの理由だった。だが、真実は手に握りしめた古いノートにある。姉・美咲の日記。10年前、彼女はこの町で忽然と姿を消した。悠真が15歳 の夏、姉が最後に見せた笑顔は、今も胸に焼きついている。
「霧崎邸の取材? やめとけ。ろくなことにならん。」
東京の先輩記者の言葉が耳に蘇る。20年前、霧崎町の岬に立つ古い洋館で、女子大生・藤田彩花が失踪した。事件は未解決のまま、町の記憶に蓋をされた。だが、悠真にとって霧崎邸は特別だった。美咲の日記に、こう書かれていたからだ。
「霧崎町へ。彩花さんに会う。彼女、なんか知ってるみたい。」
その一文が、悠真をこの町へ引き寄せた。
駅を出ると、目の前に寂れた商店街が広がる。シャッターが下りた店、色褪せたポスター、時折響く漁船のエンジン音。2005年の日本は、都会ではガラケーが流行り、インターネットが家庭に浸透しつつあったが、霧崎町はまるで時間が止まったようだ。商店街を抜け、岬へ向かう坂道を登る。霧が濃くなり、視界は10メートル先までしか届かない。
坂の頂上、霧崎邸が見えた。ゴシック調の洋館は、黒ずんだ石壁と割れた窓ガラスで、まるで廃墟のようだ。町民は「呪われた家」と呼び、近づかない。悠真はガラケーのカメラを手に、シャッターを切った。カシャリという音が、霧に吸い込まれる。
「そこ、危ないよ。」
背後で声がした。振り向くと、黒いコートの女性が立っていた。20代半ばだろうか。長い黒髪が風に揺れ、手には絵の具のついたキャンバスを抱えている。灰色の瞳は、霧の向こうを見透かすように深く、どこか悲しげだった。
「君は?」悠真が尋ねると、彼女は一瞬目を伏せた。
「霧島怜奈。この町のことは、知らない方がいいよ。忘れられないから。」
その言葉は、まるで悠真の胸に突き刺さった。美咲の笑顔が、霧の向こうで揺らめく。
「佐藤悠真、北東日報の記者だ。霧崎邸のことを調べに来た。」
怜奈の表情が一瞬固まったが、すぐに微笑みに変わった。
「記者さんか。なら、なおさら近づかない方がいい。あの家には、誰も寄りつかないよ。」
「どうして?」
彼女は答えず、キャンバスを胸に抱き直した。「海が荒れる前に、帰った方がいいよ。霧が濃くなると、道に迷うから。」
怜奈はそう言うと、背を向けて坂を下り始めた。彼女の後ろ姿は、霧に溶けるように消えた。
---
悠真は霧崎邸の門前に立ち、錆びた鉄柵を押した。キィ、と不快な音が響く。中庭は雑草に覆われ、かつての庭園の面影はない。洋館の玄関は、朽ちた木の扉が半開きにな っていた。内部は薄暗く、カビと湿気の匂いが漂う。悠真は懐中電灯を手に、慎重に足を踏み入れた。
1階のホールには、埃をかぶったシャンデリアが傾いている。壁には古い肖像画――おそらく霧崎家の先祖だろう。だが、妙な違和感があった。肖像画の目は、まるで悠真を追うように動いている気がした。
「気のせいだろ。」
自分に言い聞かせ、2階へ続く階段を登る。階段の途中で、床に落ちた一枚の紙を見つけた。古い写真だった。20代の女性と、幼い女の子が写っている。女性は笑顔だが、どこか怯えた目をしている。裏に走り書きされた文字。
「彩花、1985年夏。」
悠真の心臓が跳ねた。藤田彩花――20年前に失踪した女子大生だ。では、この女の子は? 怜奈の顔が脳裏に浮かんだ。
その時、背後でガタッと音がした。振り返ると、誰もいない。だが、床に新しい足跡が残っていた。悠真は息を呑み、懐中電灯を握り直した。
「誰だ?」
声は霧崎邸の暗闇に吸い込まれ、答えはなかった。だが、遠くで、かすかな足音が聞こえた。誰かが――いや、何かが――この家にいる。
---
翌朝、悠真は町の図書館で1985年の事件を調べ始めた。古い新聞のマイクロフィルムには、彩花失踪の記事が残っている。「女子大生、霧崎邸で消息不明」「警察、捜査難航」。だが、記事はどれも表面的で、核心に触れていない。町民のコメントも、「よそ者が勝手に消えただけ」「霧崎邸には近づくな」と、冷ややかだ。
図書館の窓から、漁港が見えた。漁船が霧の中を行き交い、町民の視線が悠真に突き刺さる。まるで、町全体が彼を監視しているようだった。
「佐藤さん、ですよね?」
背後から声がした。振り返ると、40代半ばの男が立っていた。スーツはよれよれで、目には疲れが滲んでいる。
「高木、警察の者です。霧崎邸の取材で来たって聞いたんで、ちょっと話がしたい。」
悠真は警戒しながら頷いた。高木は笑顔を浮かべたが、その目はどこか冷たかった。
「20年前の事件、興味があるみたいですね。けど、忠告しときます。あの事件は、掘り返さない方がいい。」
「どうして?」
高木は一瞬言葉に詰まり、目を逸らした。「この町には、触れちゃいけないものがあるんですよ。」
---
その夜、悠真は宿の狭い部屋で美咲の日記を読み返した。ページの端には、彼女の癖だった小さな星の落書き。
「彩花さんに会った。霧崎邸のことを話してたけど、なんか怖そうだった。明日、もう一度会う約束。」
だが、その「明日」のページは空白だった。美咲は二度と日記を書かなかった。
窓の外で、霧が濃くなっていた。ふと、ガラスに映る影が動いた気がした。悠真は飛び起き、窓を開けた。誰もいない。だが、窓枠に小さな紙が挟まっていた。
「やめろ。でないと、お前も消える。」
走り書きされた文字に、悠真の背筋が凍った。霧の向こうで、誰かが――いや、何かが――彼を見ている。
悠真は28歳。東京の新聞社を辞め、半年前に「北東日報」の記者としてこの田舎町に赴任した。都会の喧騒を逃れるため――それが表向きの理由だった。だが、真実は手に握りしめた古いノートにある。姉・美咲の日記。10年前、彼女はこの町で忽然と姿を消した。悠真が15歳 の夏、姉が最後に見せた笑顔は、今も胸に焼きついている。
「霧崎邸の取材? やめとけ。ろくなことにならん。」
東京の先輩記者の言葉が耳に蘇る。20年前、霧崎町の岬に立つ古い洋館で、女子大生・藤田彩花が失踪した。事件は未解決のまま、町の記憶に蓋をされた。だが、悠真にとって霧崎邸は特別だった。美咲の日記に、こう書かれていたからだ。
「霧崎町へ。彩花さんに会う。彼女、なんか知ってるみたい。」
その一文が、悠真をこの町へ引き寄せた。
駅を出ると、目の前に寂れた商店街が広がる。シャッターが下りた店、色褪せたポスター、時折響く漁船のエンジン音。2005年の日本は、都会ではガラケーが流行り、インターネットが家庭に浸透しつつあったが、霧崎町はまるで時間が止まったようだ。商店街を抜け、岬へ向かう坂道を登る。霧が濃くなり、視界は10メートル先までしか届かない。
坂の頂上、霧崎邸が見えた。ゴシック調の洋館は、黒ずんだ石壁と割れた窓ガラスで、まるで廃墟のようだ。町民は「呪われた家」と呼び、近づかない。悠真はガラケーのカメラを手に、シャッターを切った。カシャリという音が、霧に吸い込まれる。
「そこ、危ないよ。」
背後で声がした。振り向くと、黒いコートの女性が立っていた。20代半ばだろうか。長い黒髪が風に揺れ、手には絵の具のついたキャンバスを抱えている。灰色の瞳は、霧の向こうを見透かすように深く、どこか悲しげだった。
「君は?」悠真が尋ねると、彼女は一瞬目を伏せた。
「霧島怜奈。この町のことは、知らない方がいいよ。忘れられないから。」
その言葉は、まるで悠真の胸に突き刺さった。美咲の笑顔が、霧の向こうで揺らめく。
「佐藤悠真、北東日報の記者だ。霧崎邸のことを調べに来た。」
怜奈の表情が一瞬固まったが、すぐに微笑みに変わった。
「記者さんか。なら、なおさら近づかない方がいい。あの家には、誰も寄りつかないよ。」
「どうして?」
彼女は答えず、キャンバスを胸に抱き直した。「海が荒れる前に、帰った方がいいよ。霧が濃くなると、道に迷うから。」
怜奈はそう言うと、背を向けて坂を下り始めた。彼女の後ろ姿は、霧に溶けるように消えた。
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悠真は霧崎邸の門前に立ち、錆びた鉄柵を押した。キィ、と不快な音が響く。中庭は雑草に覆われ、かつての庭園の面影はない。洋館の玄関は、朽ちた木の扉が半開きにな っていた。内部は薄暗く、カビと湿気の匂いが漂う。悠真は懐中電灯を手に、慎重に足を踏み入れた。
1階のホールには、埃をかぶったシャンデリアが傾いている。壁には古い肖像画――おそらく霧崎家の先祖だろう。だが、妙な違和感があった。肖像画の目は、まるで悠真を追うように動いている気がした。
「気のせいだろ。」
自分に言い聞かせ、2階へ続く階段を登る。階段の途中で、床に落ちた一枚の紙を見つけた。古い写真だった。20代の女性と、幼い女の子が写っている。女性は笑顔だが、どこか怯えた目をしている。裏に走り書きされた文字。
「彩花、1985年夏。」
悠真の心臓が跳ねた。藤田彩花――20年前に失踪した女子大生だ。では、この女の子は? 怜奈の顔が脳裏に浮かんだ。
その時、背後でガタッと音がした。振り返ると、誰もいない。だが、床に新しい足跡が残っていた。悠真は息を呑み、懐中電灯を握り直した。
「誰だ?」
声は霧崎邸の暗闇に吸い込まれ、答えはなかった。だが、遠くで、かすかな足音が聞こえた。誰かが――いや、何かが――この家にいる。
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翌朝、悠真は町の図書館で1985年の事件を調べ始めた。古い新聞のマイクロフィルムには、彩花失踪の記事が残っている。「女子大生、霧崎邸で消息不明」「警察、捜査難航」。だが、記事はどれも表面的で、核心に触れていない。町民のコメントも、「よそ者が勝手に消えただけ」「霧崎邸には近づくな」と、冷ややかだ。
図書館の窓から、漁港が見えた。漁船が霧の中を行き交い、町民の視線が悠真に突き刺さる。まるで、町全体が彼を監視しているようだった。
「佐藤さん、ですよね?」
背後から声がした。振り返ると、40代半ばの男が立っていた。スーツはよれよれで、目には疲れが滲んでいる。
「高木、警察の者です。霧崎邸の取材で来たって聞いたんで、ちょっと話がしたい。」
悠真は警戒しながら頷いた。高木は笑顔を浮かべたが、その目はどこか冷たかった。
「20年前の事件、興味があるみたいですね。けど、忠告しときます。あの事件は、掘り返さない方がいい。」
「どうして?」
高木は一瞬言葉に詰まり、目を逸らした。「この町には、触れちゃいけないものがあるんですよ。」
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その夜、悠真は宿の狭い部屋で美咲の日記を読み返した。ページの端には、彼女の癖だった小さな星の落書き。
「彩花さんに会った。霧崎邸のことを話してたけど、なんか怖そうだった。明日、もう一度会う約束。」
だが、その「明日」のページは空白だった。美咲は二度と日記を書かなかった。
窓の外で、霧が濃くなっていた。ふと、ガラスに映る影が動いた気がした。悠真は飛び起き、窓を開けた。誰もいない。だが、窓枠に小さな紙が挟まっていた。
「やめろ。でないと、お前も消える。」
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