霧に消えた約束

N.PROJECT

文字の大きさ
1 / 13

第1章:霧の町へ

しおりを挟む
2005年11月。岩手県の霧崎町は、冷たい霧に閉ざされていた。ローカル線の終着駅に降り立った佐藤悠真は、濡れたデニムのジャケットの襟を立て、鼻にまとわりつく海の匂いを感じた。ホームの端では、錆びた看板が風に揺れ、軋む音を立てる。遠くで波が岩を叩き、まるで町全体が深い眠りについているようだった。 

悠真は28歳。東京の新聞社を辞め、半年前に「北東日報」の記者としてこの田舎町に赴任した。都会の喧騒を逃れるため――それが表向きの理由だった。だが、真実は手に握りしめた古いノートにある。姉・美咲の日記。10年前、彼女はこの町で忽然と姿を消した。悠真が15歳 の夏、姉が最後に見せた笑顔は、今も胸に焼きついている。 

「霧崎邸の取材? やめとけ。ろくなことにならん。」 
東京の先輩記者の言葉が耳に蘇る。20年前、霧崎町の岬に立つ古い洋館で、女子大生・藤田彩花が失踪した。事件は未解決のまま、町の記憶に蓋をされた。だが、悠真にとって霧崎邸は特別だった。美咲の日記に、こう書かれていたからだ。 
「霧崎町へ。彩花さんに会う。彼女、なんか知ってるみたい。」 
その一文が、悠真をこの町へ引き寄せた。 

駅を出ると、目の前に寂れた商店街が広がる。シャッターが下りた店、色褪せたポスター、時折響く漁船のエンジン音。2005年の日本は、都会ではガラケーが流行り、インターネットが家庭に浸透しつつあったが、霧崎町はまるで時間が止まったようだ。商店街を抜け、岬へ向かう坂道を登る。霧が濃くなり、視界は10メートル先までしか届かない。 

坂の頂上、霧崎邸が見えた。ゴシック調の洋館は、黒ずんだ石壁と割れた窓ガラスで、まるで廃墟のようだ。町民は「呪われた家」と呼び、近づかない。悠真はガラケーのカメラを手に、シャッターを切った。カシャリという音が、霧に吸い込まれる。 

「そこ、危ないよ。」 

背後で声がした。振り向くと、黒いコートの女性が立っていた。20代半ばだろうか。長い黒髪が風に揺れ、手には絵の具のついたキャンバスを抱えている。灰色の瞳は、霧の向こうを見透かすように深く、どこか悲しげだった。 

「君は?」悠真が尋ねると、彼女は一瞬目を伏せた。 
「霧島怜奈。この町のことは、知らない方がいいよ。忘れられないから。」 
その言葉は、まるで悠真の胸に突き刺さった。美咲の笑顔が、霧の向こうで揺らめく。 

「佐藤悠真、北東日報の記者だ。霧崎邸のことを調べに来た。」 
怜奈の表情が一瞬固まったが、すぐに微笑みに変わった。 
「記者さんか。なら、なおさら近づかない方がいい。あの家には、誰も寄りつかないよ。」 
「どうして?」 
彼女は答えず、キャンバスを胸に抱き直した。「海が荒れる前に、帰った方がいいよ。霧が濃くなると、道に迷うから。」 
怜奈はそう言うと、背を向けて坂を下り始めた。彼女の後ろ姿は、霧に溶けるように消えた。 

---

悠真は霧崎邸の門前に立ち、錆びた鉄柵を押した。キィ、と不快な音が響く。中庭は雑草に覆われ、かつての庭園の面影はない。洋館の玄関は、朽ちた木の扉が半開きにな っていた。内部は薄暗く、カビと湿気の匂いが漂う。悠真は懐中電灯を手に、慎重に足を踏み入れた。 

1階のホールには、埃をかぶったシャンデリアが傾いている。壁には古い肖像画――おそらく霧崎家の先祖だろう。だが、妙な違和感があった。肖像画の目は、まるで悠真を追うように動いている気がした。 
「気のせいだろ。」 
自分に言い聞かせ、2階へ続く階段を登る。階段の途中で、床に落ちた一枚の紙を見つけた。古い写真だった。20代の女性と、幼い女の子が写っている。女性は笑顔だが、どこか怯えた目をしている。裏に走り書きされた文字。 
「彩花、1985年夏。」 
悠真の心臓が跳ねた。藤田彩花――20年前に失踪した女子大生だ。では、この女の子は? 怜奈の顔が脳裏に浮かんだ。 

その時、背後でガタッと音がした。振り返ると、誰もいない。だが、床に新しい足跡が残っていた。悠真は息を呑み、懐中電灯を握り直した。 
「誰だ?」 
声は霧崎邸の暗闇に吸い込まれ、答えはなかった。だが、遠くで、かすかな足音が聞こえた。誰かが――いや、何かが――この家にいる。 

---

翌朝、悠真は町の図書館で1985年の事件を調べ始めた。古い新聞のマイクロフィルムには、彩花失踪の記事が残っている。「女子大生、霧崎邸で消息不明」「警察、捜査難航」。だが、記事はどれも表面的で、核心に触れていない。町民のコメントも、「よそ者が勝手に消えただけ」「霧崎邸には近づくな」と、冷ややかだ。 

図書館の窓から、漁港が見えた。漁船が霧の中を行き交い、町民の視線が悠真に突き刺さる。まるで、町全体が彼を監視しているようだった。 
「佐藤さん、ですよね?」 
背後から声がした。振り返ると、40代半ばの男が立っていた。スーツはよれよれで、目には疲れが滲んでいる。 
「高木、警察の者です。霧崎邸の取材で来たって聞いたんで、ちょっと話がしたい。」 
悠真は警戒しながら頷いた。高木は笑顔を浮かべたが、その目はどこか冷たかった。 
「20年前の事件、興味があるみたいですね。けど、忠告しときます。あの事件は、掘り返さない方がいい。」 
「どうして?」 
高木は一瞬言葉に詰まり、目を逸らした。「この町には、触れちゃいけないものがあるんですよ。」 

---

その夜、悠真は宿の狭い部屋で美咲の日記を読み返した。ページの端には、彼女の癖だった小さな星の落書き。 
「彩花さんに会った。霧崎邸のことを話してたけど、なんか怖そうだった。明日、もう一度会う約束。」 
だが、その「明日」のページは空白だった。美咲は二度と日記を書かなかった。 
窓の外で、霧が濃くなっていた。ふと、ガラスに映る影が動いた気がした。悠真は飛び起き、窓を開けた。誰もいない。だが、窓枠に小さな紙が挟まっていた。 
「やめろ。でないと、お前も消える。」 
走り書きされた文字に、悠真の背筋が凍った。霧の向こうで、誰かが――いや、何かが――彼を見ている。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ
恋愛
「『好きな人がいる』——その一言で、私の世界は音を失った。」 公爵令嬢リリアーヌの初恋は、隣家の若き公爵アレクシスだった。 政務や領地行事で顔を合わせるたび、言葉少なな彼の沈黙さえ、彼女には優しさに聞こえた。——毎日会える。それだけで十分幸せだと信じていた。 しかしある日、回廊の陰で聞いてしまう。 「好きな人がいる。……片想いなんだ」 名前は出ない。だから、リリアーヌの胸は残酷に結論を作る。自分ではないのだ、と。

石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~

めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。  源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。  長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。  そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。  明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。 〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました

由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。 尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。 けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。 そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。 再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。 一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。 “尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。 静かに離婚しただけなのに、 なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。

処理中です...